<増補修正版 9>
道路舗装と牛の涎(よだれ)
暴れ馬疾走
暴れ馬 私の小学校入学前後の頃、家の前の広い舗装道路を荷物のない空の荷車*を牽いた馬が,ガラガラとでかい音を立てながら走り抜け,その後を印半てん(はっぴ)姿に鉢巻をした馬子があわてふためいて追いかけていく姿をよく見た。当時の車輪(写真)は木製で、ベアリングはあったのかどうか。タイヤはなく、鉄板を巻いたのや、巻いてないのがあったように思う。ともかく「ガラガラ」と馬鹿でかい音を発した。馬と荷車は道の真ん中を一目散に駆けていくから、通行人はあらかじめ避けることはできたはずだ。時には、荷車との接続具だけをつけたり、全く何もつけない場合もあったりした。最後の場合は「パッカ、パッカ」とひづめの音だけがしてあっという間に通り過ぎた。馬が何に驚くのか、いつも電車の停留場から走ってくるので、後に書く『電車の後押し』の“レールで感電”と思いたくなるのだが、南海平野線は、多分、当時も2本ポールだったとすると電流はポールからモーターへ入ってポールへ帰るので、あり得ない現象なのか、それでも微小電流は漏れるのか、後者としか考えられない。牛はひづめではなく、わらじを履いているので感電しないと考えるとあながち無責任な記事ではないように思う。ネットに出ているポール付電車の写真は外国のも含めていずれも1本ポールで、2本のは見つからない。南海電鉄のは余程珍しいと思える。
*トラックが利用される前の陸上での大量輸送手段。木材で組んだ4m×2m×0.2m位の頑丈な荷台に4個の木製車輪が付いていた。これを馬や牛に曳かせるので、これと、前に紹介したリヤカーが、船や汽車以外の輸送手段の全てだったと言えるのではなかろうか。その次の大量運搬法は、1反(たん)*2風呂敷に包んで背に負い、首から提げる、盗人の漫画などでおなじみの方法だ。脱線! しかし、行商人などは実際にこの姿で時々やって来た。富山の薬売りが年に1,2回きて、置かされている薬箱の中身を補充し、直径10㎝位の色鮮やかな紙風船を2~3個呉れて行ったのだった。当時、和服姿の商人も大勢いたが、この場合はどうであったか。
*2反は布地の長さの単位だが、布の種類によって長さが違うとか。高価な物ほど短いようである。
道草 脱線ついでにもう1つ。途中で、初めの目的以外のことに時間を費やすことをいう“道草を食う”とは、牛馬が道端の草を食いながら歩いてまっすぐ進まないことから出た言葉である。それを防ぐために顔の両側にそれぞれ20㎝四方位の厚紙か何かを当てがって、前方以外は見えなくされた馬も時々見た。当時は舗装道路の端でさえも草が生えている所はいくらでもあった。阪和線と股ヶ池との間、幅数十mで南北に広い土地は昭和12年位までは草原で、その南端の股ヶ池停留所に近い所に1つだけぽつんと古びた木造の小屋があった。屋根と3方の板塀だけの簡単なもので、そこには白馬が1頭つながれていた。前に木札が立てられていて、なんと3.5㎞も西の住吉大社*の神馬(しんめ)だと書いてあった。住吉大社の辺りには草原がないから連れて来ていたのだろうか。少年時代よく遊んだ場所だが、ただの1度も世話する人を見かけなかった。なによりも、奪われる心配をしなかったのが驚きだ。神馬だからできたことだったのか。
*西暦211年神功皇后が三韓征討後創建。日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲・隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず征討せよ」との神託を得た。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。このとき、住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り、荒魂は突風となり、神功皇后の船団を後押しするとともに、三韓の軍を大いに苦しめたとされている。平成23年に鎮座より1.800年を迎えた。(Wikipedia)
3つの注意 小学校入学の1年前、昭和8(1933)年位に、現在の東淀川区から現在の阿倍野区桃ヶ池町(当時住吉区山坂町)へ転居した。1年半後には台風で全壊することになる新築の長屋へである。父が1年ばかり前に開業した謄写印刷業発展のために、電車の沿線で停留場*にごく近い所を選んだのだ。そこの家では、遊びに出る時、必ず3つのことを注意された。家の前を走る電車線路を越えてはならないこと、電灯が点くまでに帰ること―当時は定額料金制で近所いっせいに点灯した。(⇒後述『昭和期の物品あれこれ-1』)そして、「暴れ馬に気ぃ付けや」との声であった。車に注意とは一言も言われなかった。人が走る程度の速さであったから。
*旧南海平野線、股(もも)ヶ池停留場。
円タク 戦後、トラックが普及するまでの通常の荷物運搬手段は次の5種だったか。荷馬車・荷牛車(各4輪)・肩引荷車(2輪)・リヤカー(2輪)(⇒「活動写真5態」)・舟*。牛馬や舟を使う以外の小規模運搬は全て人力頼みだったのだ。長い坂の下で待機していて、肩引き荷車やリヤカーの後押しをして駄賃をかせぐひとを見たことがある。家の前の道路は、当時,庚申街道と呼ばれていた、現阿倍野区の天下茶屋*2から南田辺の山坂神社へ至る幅10m位*3の道路である。1日数便、“青バス”と呼ばれていた私営バスも通っていたが、荷馬車・荷牛車の方が多かったか。時々は黒い小型で箱型の円タク*4が走った。私は、そのガソリンの匂いが好きで、車―当時は車と言わず、必ず自動車と言った―を見ると屋内から走り出て、その匂いにうっとりしていた。誰も、有害だとは教えてくれなかった。車を見たのは、4~5日に1度もあったかどうかという程度ではあったのだが。
*当時、大阪は“水の都”と言われて、運河が四通八達していた。車の時代になり、その殆どは暗渠として地下にもぐらせ、その上を道路に化けさせたと思う。
*2太閤秀吉が立ち寄ったことに因んでの命名という。
*3舗装されていたのは中央2車線分だけで、所によってはその両側に家が迫っている所も相当あった。地下鉄八尾線が敷設される戦後30年位まで同じ状態が続いたと思う。
*4東京や大阪で、市内どこでも料金1円のタクシーの一般名称。昭和初頭は米1kgが2円前後であった。
道路舗装 前の道路がコンクリート舗装されたのは小学校1年の時だったか。残念ながら、整地やコンクリート舗装の状況は全く覚えていない。その3年後の、別の道路での直径1m位の土管埋設後の整地状況はよく覚えている。掘り起こして積まれている土を2~3人がかりで、スコップで土管の周りの掘り穴へ埋め戻し、今なら鉄輪ローラで苦もなく整地する所を、何もかも人力の時代は大仕事だった。3m位あったか、頑丈な3本の丸太の上端を綱でしばり合わせ、下端を広げて三角錐状に組んだやぐらのしばり目内部に取り付けた滑車に大きな鉄鎚をつるして、滑車にからませた3本の綱を3方から人力で引っ張り、重い槌を引き上げてドスンと落とす。それを何回も何回も繰り返して地盤を突き固め整地する。その装置で杭も打ち込んだようだが筆者は見ていない。その合図の掛け声代わりに歌う歌がふるっている。「父ちゃんのためなーらエーンヤコーラ! 母ちゃんのためなーらエーンヤコーラ! も一つおまけーにエーンヤコーラ!」だ。そこまではよいのだが、女性が通りかかると途端に卑猥な歌に変わったものだった。その歌詞は全く覚えていない。他所(よそ)のことは知らないが、まだ日本が三流国だった証左か。新開地住まいだったから、至る処で土管埋設工事があり、その後の地固めでその声は連日耳にしたことだった。
道路の養生 そして、いよいよ、コンクリート張りだが、その状況は全く覚えていない。私はその頃病弱で学校へは全く通っていなかったので、その日は、首や胸に嫌なねばねばのエキホス湿布を当てられ、寝かされていたかも知れない。その後の道路の養生は、はっきりと覚えている。コンクリートを張った道路一面に莚(むしろ)を敷き並べて覆い、人の通路として、家並みの前だけにひと1人が通れる幅の長い板を、筵の上に連ねて並べてあった。その夜大雪が降り、3~4日間も筵は一面に雪で覆われて溶けないという大阪ではめったに見られない奇観だったのだから覚えていた訳だ。
乾燥時間 今は、コンクリートの固まるのも早くなった。ペンキもそうだ。昔は公園のベンチなど、何日も「ペンキ塗りたて」の張り紙がしてあった。それが取れていたのか、知らずに座って、ズボンの尻にうっすらとペンキを付けたままのひとを見た記憶がある。印刷インクもそうだ。子供の頃は、何十枚もの新聞紙の長辺の一端を閉じたものを母か私が1枚1まいめくりながら、父が1枚印刷する度にその中へ滑りこませて、インクが裏写りしないようにしたことだった。全ての印刷物をそうしたのではなかったと思う。多分は雑誌の表紙の絵の部分などだけだったと思う。インクがベタ塗りの部分が裏写りしたのだ。父は多色の絵も原稿通りに仕上げて客から喜ばれていたのだった。父の甥には松本市で画家になった者がいたから、その方面の才能には恵まれていたのだろう。晩年には画展に出品もしていた。
夜の泥道 昭和32年頃に見たトー・ダンス主体の米国映画で、どんな場末でも舗装されていたことに、奇異な感じと何か冷たい感じとを抱いたことを今でも覚えている。日本が車社会になって、初めてその理由が理解できたものだった。未舗装道路は―その方が多かった*のだが―雨の後には、荷車の轍(わだち)の跡などはくぼんで水を溜めていた。そんな時に夜道を歩くのは、月夜なら水面が光るからすぐ分かるが、月のない夜、家のない所には街灯などもなかったから、1歩、1歩下駄や靴底の感触を確かめながら歩かなければならないので厄だった。銭湯へは夜に行っていたから随分経験している訳である。
*日本の道路舗装率は戦後は1割だったが、昭和45(1970)年頃から急速に伸びて8割に達したとのこと(出典紛失)
後に、教員になって何年もしてから、遠足や修学旅行が、それまでの電車や汽車利用からバス利用に代わって、移動は楽になったがバスがまき上げるもうもうたる土ぼこりにはまいった。大阪から東京や九州へ幹線道路を走っても、未舗装の所があったように思うが、どうだろうか。先頭車はよいが10号車、15号車ともなると、前方が殆ど見えない位のこともあった。それが夏であると、冷房のない時代、窓を開けておかなければならないから、ほこりが窓から吹き込んで来て、大変だったものだ。
主要道路でも舗装しないでバラストをまいただけというのもよくあった。4cm前後の小石を厚さ数cmも敷きつめられると、その上を自転車で縦走することはとてもできない。新御堂筋線の予定道路など戦争で着工できず、何年もバラストを追加するだけの状態で放置され、横断するのにもずいぶん苦労したものだ。
長靴で授業 昭和30年位までのことか。当時は雨中の外出は長靴や高下駄を履いたものだ。当時は各家庭でも、学校や百貨店でさえ、入口には靴の泥を落とすためのマットだけでなく、ブラシや水を入れたバケツまで置いてあったものだ。私が新任教師だった頃、長靴で出勤し、泥を落とすとそのまま教壇へ上がって何とも思っていなかった。同類は何人かいた。工専校の学生時代は泥落としもなかった。1ヶ月ほどして、やはり新任の校長が正門や通用門内に下足箱を置かせて、教師も生徒も上履きに代えるよう指示された。私の小学校入学以来初めての体験であった。
今では長靴は都会では見かけなくなった。レインシューズさえ、私は30年位前に捨てたままだ。
【続く】