昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

<増補修正版 8>  道路舗装と牛の涎  暴れ馬疾走 (3-1)

2014-04-21 | 昭和初期

    <増補修正版 9>

             道路舗装牛の(よだれ) 

                          暴れ馬疾走

   暴れ馬 私の小学校入学前後の頃、家の前の広い舗装道路を荷物のない空の荷車を牽いた馬が,ガラガラとでかい音を立てながら走り抜け,その後を印半てん(はっぴ)姿に鉢巻をした馬子があわてふためいて追いかけていく姿をよく見た。当時の車輪(写真)は木製で、ベアリングはあったのかどうか。タイヤはなく、鉄板を巻いたのや、巻いてないのがあったように思う。ともかく「ガラガラ」と馬鹿でかい音を発した。馬と荷車は道の真ん中を一目散に駆けていくから、通行人はあらかじめ避けることはできたはずだ。時には、荷車との接続具だけをつけたり、全く何もつけない場合もあったりした。最後の場合は「パッカ、パッカ」とひづめの音だけがしてあっという間に通り過ぎた。馬が何に驚くのか、いつも電車の停留場から走ってくるので、後に書く『電車の後押し』の“レールで感電”と思いたくなるのだが、南海平野線は、多分、当時も2本ポールだったとすると電流はポールからモーターへ入ってポールへ帰るので、あり得ない現象なのか、それでも微小電流は漏れるのか、後者としか考えられない。牛はひづめではなく、わらじを履いているので感電しないと考えるとあながち無責任な記事ではないように思う。ネットに出ているポール付電車の写真は外国のも含めていずれも1本ポールで、2本のは見つからない。南海電鉄のは余程珍しいと思える。

 トラックが利用される前の陸上での大量輸送手段。木材で組んだ4m×2m×0.2m位の頑丈な荷台に4個の木製車輪が付いていた。これを馬や牛に曳かせるので、これと、前に紹介したリヤカーが、船や汽車以外の輸送手段の全てだったと言えるのではなかろうか。その次の大量運搬法は、1反(たん)*2風呂敷に包んで背に負い、首から提げる、盗人の漫画などでおなじみの方法だ。脱線! しかし、行商人などは実際にこの姿で時々やって来た。富山の薬売りが年に1,2回きて、置かされている薬箱の中身を補充し、直径10㎝位の色鮮やかな紙風船を2~3個呉れて行ったのだった。当時、和服姿の商人も大勢いたが、この場合はどうであったか。

  *2反は布地の長さの単位だが、布の種類によって長さが違うとか。高価な物ほど短いようである。

  道草 脱線ついでにもう1つ。途中で、初めの目的以外のことに時間を費やすことをいう“道草を食う”とは、牛馬が道端の草を食いながら歩いてまっすぐ進まないことから出た言葉である。それを防ぐために顔の両側にそれぞれ20㎝四方位の厚紙か何かを当てがって、前方以外は見えなくされた馬も時々見た。当時は舗装道路の端でさえも草が生えている所はいくらでもあった。阪和線と股ヶ池との間、幅数十mで南北に広い土地は昭和12年位までは草原で、その南端の股ヶ池停留所に近い所に1つだけぽつんと古びた木造の小屋があった。屋根と3方の板塀だけの簡単なもので、そこには白馬が1頭つながれていた。前に木札が立てられていて、なんと3.5㎞も西の住吉大社の神馬(しんめ)だと書いてあった。住吉大社の辺りには草原がないから連れて来ていたのだろうか。少年時代よく遊んだ場所だが、ただの1度も世話する人を見かけなかった。なによりも、奪われる心配をしなかったのが驚きだ。神馬だからできたことだったのか。

  西暦211年神功皇后が三韓征討後創建。日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず征討せよ」との神託を得た。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。このとき、住吉大神和魂が神功皇后の身辺を守り、荒魂は突風となり、神功皇后の船団を後押しするとともに、三韓の軍を大いに苦しめたとされている。平成23年に鎮座より1.800年を迎えた。(Wikipedia)

  3つの注意 小学校入学の1年前、昭和8(1933)年位に、現在の東淀川区から現在の阿倍野区桃ヶ池町(当時住吉区山坂町)へ転居した。1年半後には台風で全壊することになる新築の長屋へである。父が1年ばかり前に開業した謄写印刷業発展のために、電車の沿線で停留場にごく近い所を選んだのだ。そこの家では、遊びに出る時、必ず3つのことを注意された。家の前を走る電車線路を越えてはならないこと、電灯が点くまでに帰ること―当時は定額料金制で近所いっせいに点灯した。(⇒後述『昭和期の物品あれこれ-1』)そして、「暴れ馬に気ぃ付けや」との声であった。車に注意とは一言も言われなかった。人が走る程度の速さであったから。

旧南海平野線、股(もも)ヶ池停留場。

   円タク 戦後、トラックが普及するまでの通常の荷物運搬手段は次の5種だったか。荷馬車・荷牛車(各4輪)・肩引荷車(2輪)・リヤカー(2輪)(⇒「活動写真5態」)・舟。牛馬や舟を使う以外の小規模運搬は全て人力頼みだったのだ。長い坂の下で待機していて、肩引き荷車やリヤカーの後押しをして駄賃をかせぐひとを見たことがある。家の前の道路は、当時,庚申街道と呼ばれていた、現阿倍野区の天下茶屋*2から南田辺の山坂神社へ至る幅10m位*3の道路である。1日数便、“青バス”と呼ばれていた私営バスも通っていたが、荷馬車・荷牛車の方が多かったか。時々は黒い小型で箱型の円タク*4が走った。私は、そのガソリンの匂いが好きで、車―当時は車と言わず、必ず自動車と言った―を見ると屋内から走り出て、その匂いにうっとりしていた。誰も、有害だとは教えてくれなかった。車を見たのは、4~5日に1度もあったかどうかという程度ではあったのだが。

 *当時、大阪は“水の都”と言われて、運河が四通八達していた。車の時代になり、その殆どは暗渠として地下にもぐらせ、その上を道路に化けさせたと思う。

  *2太閤秀吉が立ち寄ったことに因んでの命名という。

 *舗装されていたのは中央2車線分だけで、所によってはその両側に家が迫っている所も相当あった。地下鉄八尾線が敷設される戦後30年位まで同じ状態が続いたと思う。

 *4東京や大阪で、市内どこでも料金1円のタクシーの一般名称。昭和初頭は米1kgが2円前後であった。

   道路舗装  前の道路がコンクリート舗装されたのは小学校1年の時だったか。残念ながら、整地やコンクリート舗装の状況は全く覚えていない。その3年後の、別の道路での直径1m位の土管埋設後の整地状況はよく覚えている。掘り起こして積まれている土を2~3人がかりで、スコップで土管の周りの掘り穴へ埋め戻し、今なら鉄輪ローラで苦もなく整地する所を、何もかも人力の時代は大仕事だった。3m位あったか、頑丈な3本の丸太の上端を綱でしばり合わせ、下端を広げて三角錐状に組んだやぐらのしばり目内部に取り付けた滑車に大きな鉄鎚をつるして、滑車にからませた3本の綱を3方から人力で引っ張り、重い槌を引き上げてドスンと落とす。それを何回も何回も繰り返して地盤を突き固め整地する。その装置で杭も打ち込んだようだが筆者は見ていない。その合図の掛け声代わりに歌う歌がふるっている。「父ちゃんのためなーらエーンヤコーラ! 母ちゃんのためなーらエーンヤコーラ! も一つおまけーにエーンヤコーラ!」だ。そこまではよいのだが、女性が通りかかると途端に卑猥な歌に変わったものだった。その歌詞は全く覚えていない。他所(よそ)のことは知らないが、まだ日本が三流国だった証左か。新開地住まいだったから、至る処で土管埋設工事があり、その後の地固めでその声は連日耳にしたことだった。

   道路の養生 そして、いよいよ、コンクリート張りだが、その状況は全く覚えていない。私はその頃病弱で学校へは全く通っていなかったので、その日は、首や胸に嫌なねばねばのエキホス湿布を当てられ、寝かされていたかも知れない。その後の道路の養生は、はっきりと覚えている。コンクリートを張った道路一面に莚(むしろ)を敷き並べて覆い、人の通路として、家並みの前だけにひと1人が通れる幅の長い板を、筵の上に連ねて並べてあった。その夜大雪が降り、3~4日間も筵は一面に雪で覆われて溶けないという大阪ではめったに見られない奇観だったのだから覚えていた訳だ。

   乾燥時間 今は、コンクリートの固まるのも早くなった。ペンキもそうだ。昔は公園のベンチなど、何日も「ペンキ塗りたて」の張り紙がしてあった。それが取れていたのか、知らずに座って、ズボンの尻にうっすらとペンキを付けたままのひとを見た記憶がある。印刷インクもそうだ。子供の頃は、何十枚もの新聞紙の長辺の一端を閉じたものを母か私が1枚1まいめくりながら、父が1枚印刷する度にその中へ滑りこませて、インクが裏写りしないようにしたことだった。全ての印刷物をそうしたのではなかったと思う。多分は雑誌の表紙の絵の部分などだけだったと思う。インクがベタ塗りの部分が裏写りしたのだ。父は多色の絵も原稿通りに仕上げて客から喜ばれていたのだった。父の甥には松本市で画家になった者がいたから、その方面の才能には恵まれていたのだろう。晩年には画展に出品もしていた。

  夜の泥道 昭和32年頃に見たトー・ダンス主体の米国映画で、どんな場末でも舗装されていたことに、奇異な感じと何か冷たい感じとを抱いたことを今でも覚えている。日本が車社会になって、初めてその理由が理解できたものだった。未舗装道路は―その方が多かったのだが―雨の後には、荷車の轍(わだち)の跡などはくぼんで水を溜めていた。そんな時に夜道を歩くのは、月夜なら水面が光るからすぐ分かるが、月のない夜、家のない所には街灯などもなかったから、1歩、1歩下駄や靴底の感触を確かめながら歩かなければならないので厄だった。銭湯へは夜に行っていたから随分経験している訳である。

 日本の道路舗装率は戦後は1割だったが、昭和45(1970)年頃から急速に伸びて8割に達したとのこと(出典紛失)

後に、教員になって何年もしてから、遠足や修学旅行が、それまでの電車や汽車利用からバス利用に代わって、移動は楽になったがバスがまき上げるもうもうたる土ぼこりにはまいった。大阪から東京や九州へ幹線道路を走っても、未舗装の所があったように思うが、どうだろうか。先頭車はよいが10号車、15号車ともなると、前方が殆ど見えない位のこともあった。それが夏であると、冷房のない時代、窓を開けておかなければならないから、ほこりが窓から吹き込んで来て、大変だったものだ。

主要道路でも舗装しないでバラストをまいただけというのもよくあった。4cm前後の小石を厚さ数cmも敷きつめられると、その上を自転車で縦走することはとてもできない。新御堂筋線の予定道路など戦争で着工できず、何年もバラストを追加するだけの状態で放置され、横断するのにもずいぶん苦労したものだ。

  長靴で授業 昭和30年位までのことか。当時は雨中の外出は長靴や高下駄を履いたものだ。当時は各家庭でも、学校や百貨店でさえ、入口には靴の泥を落とすためのマットだけでなく、ブラシや水を入れたバケツまで置いてあったものだ。私が新任教師だった頃、長靴で出勤し、泥を落とすとそのまま教壇へ上がって何とも思っていなかった。同類は何人かいた。工専校の学生時代は泥落としもなかった。1ヶ月ほどして、やはり新任の校長が正門や通用門内に下足箱を置かせて、教師も生徒も上履きに代えるよう指示された。私の小学校入学以来初めての体験であった。 

今では長靴は都会では見かけなくなった。レインシューズさえ、私は30年位前に捨てたままだ。

                          【続く】


<増補修正版 8> 活動写真5態  2-2

2014-04-16 | 昭和初期

 

  昭和6年の出来事

1月 1日 - 2代目市川猿之助らが松竹を脱退し春秋座を再建、旗揚げ公演(市村座

10日 - 冥王星において地球の日面通過が発生する。次回は2018年7月12日に発生する。

15日 - 台北放送局 (JFAK) 放送開始。

16日 - 霧社事件の引責により台湾総督石塚英蔵が退任。

22日 - 霞ヶ関離宮の払下げ決る。

27日 - 全日本学生庭球連盟発足・マックス・ホルクハイマーが、フランクフルト社会研究所所長に任命される。

2月1日 - 3等寝台車を新設(東海道線 東京-神戸間)・三菱重工設立(三菱造船より改名)

14日 - 三菱石油(現・JX日鉱日石エネルギー)設立

28日 - 婦人公民権案を衆議院で可決(3月24日に貴族院で否決)

3月 3日 - 米国で「星条旗 (The Star-Spangled Banner)」が国歌に採用

6日  三重県上空で日本空輸旅客機から乗客1人が初の飛降り自殺・パラシュートガール宮森美代子が千葉県津田沼で降下し大人気

7日 - 全農第4回大会で左右両派が激突し左派多数が検挙され右派が役員を独占する(全農分裂)。

10日 - 金杉惇郎長岡輝子テアトル・コメディ結成第1回公演

14日 - 全国産業博覧会開催(浜松市

19日 - 米国ネバダ州ギャンブルを合法化する

20日 - 政治結社「桜会」によるクーデターの計画が発覚(三月事件イネの画期的な交配種、 水稲農林1号の育成成功

4月1日 中央本線新宿 - 甲府間電化完成・重要産業統制法公布

6日 - NHKラジオ第2放送が開局。

14日 - 第2次若槻内閣成立

18日 - 直良信夫明石市化石人骨を発見(明石原人

25日 - 東京音楽学校に作曲科設置

5月1日  鉄道省、小型コンテナ試用開始・ニューヨークエンパイア・ステート・ビルディング完成・大阪帝国大学設置。

3日 - 北関東・東北に霜害。熊谷の最低気温零下4℃

7日 - 石川県山中温泉で大火。740戸焼失。

13日 - 新潟県白根町で大火。402戸焼失,死傷者50余人。

20日 - 国際ヘーゲル連盟日本支部「ヘーゲルとヘーゲル主義」。

6月 8日 - 御茶ノ水橋完成

17日 朝鮮総督宇垣一成を任命・親任式・関東で強震。横浜全市が停電、暗黒の街となる

22日 - 日本航空輸送旅客機が福岡県山中に墜落し3名死亡(初の旅客機事故)

27日 - 中村大尉事件。北満視察中の中村震太郎大尉が中国兵に殺害される

7月 2日 - 万宝山事件

3日 - 朝鮮排華事件

8月1日 - 八十二銀行設立(第十九銀行と六十三銀行が合併)

10日 - 鎌倉御用邸廃止

25日 - 羽田飛行場(後の東京国際空港)開港

31日 - 江蘇省で水害(30万人溺死)

9月 1日 - 清水トンネル開通により上越線全通(上野-新潟間が7時間10分に短縮)

18日 - 柳条湖事件満州事変勃発

21日 - 林銑十郎による独断越境進撃

10月 1日 - 国立公園法施行

17日 - 錦旗革命事件橋本欣五郎中佐(桜会)らによる軍部内閣樹立クーデター発覚・拘禁・宇野弘蔵山田盛太郎資本論体系」。

11月 1日 - 松屋浅草店開業

2日 - 東京科学博物館開館式

7日 - 大阪城天守閣再建(地上で現存する世界最古の鉄骨鉄筋コンクリート造建物)、大阪城公園開園

27日 - 中華ソビエト共和国臨時政府樹立

12月 6日 - 岡倉天心銅像除幕式(東京美術学校前庭)

11日 - 安達内相が辞任勧告を拒否。内閣不統一により第2次若槻内閣総辞職

13日  犬養毅内閣成立・金輸出再禁止令公布施行

15日 - 中島飛行機株式会社設立

16日 - 東京浅草オペラ館開場。エノケンが旗揚公演

 23日 - 第60議会召集。

25日 - 東京中央郵便局完成

31日 - ムーランルージュ新宿座開場


<増補修正版 8> 活動写真5態 2-1

2014-04-16 | 昭和初期

<増補修正版 8>

           活動写真5態 

映画のことを昔は活動写真と言った。初期の頃は無声映画であった。その頃の映画館や、その他の場所での上映も含めての思い出を記す。

  路上活動写真 私が最初に活動写真を見たのは満4歳(昭和6年)頃。大阪の道頓堀あたりだったろうか。賑やかに人びとが行き交う大通りの片隅に停めたリヤカーいっぱいにかぶせた直方体状の真っ黒な幌(ほろ)の後方に2つ(~3つ?)開けた覗き窓の1つの垂れ幕をはね上げて首を差し入れると正面いっぱい(縦1m強、横1.5m位?)のスクリーンが見られるのだった。もちろん無声で、業者自らが弁士役を務めて解説や声色を使うのだ。僅か数分のものだったと思う。今になって、料金はどれ位だったろうかと知りたく思うが知る由もない。

両親が外で見守る中、2歳下の弟(5歳で病死)と2人だけで並んで見始めたが、近藤勇(?)が太刀を大上段に振りかぶって迫ってくる場面で、弟が泣き出したことが思い出深い。

貨物自動車が普及するまでに常用された、自転車用の2輪の荷車。縦横1.5m*    位の正方形に近い台座の一端から伸びた梶(かじ)棒を自転車のサドル後方に取り付けた器具へつないで牽いた。(写真)

    活動写真館 次に活動写真を観たのは5歳位、本物の活動写真館でだった。やはり道頓堀でだったかと思う。題材は多分、ターザンものだったろう。映画そのものよりも印象深く覚えていることは、内部の左半分は男性席、右半分は女性席と分けられていて互いに見通すことは出来たこと。境目は多分通路だけでの仕切りだったと思う。そして、男女両席の前方、スクリーンの真下には10人位がゆったりと入れるボックス席が床をくりぬいたように一段低く設けられていて、多様な楽器を演奏する楽師が何人か詰めていた。観客も楽師も椅子席だった。弁士はスクリーンのすぐ前の舞台上、左端に立って、よく通る声で弁じていた。マイクはまだなかったかと思う。

  下足番 すぐ近くの芝居を演ずる劇場では、少し後年まで、客が入場する際に下足は脱がされていた。上履きに履き替えたのかどうかは知らない。ひょっとすると畳の座席だったのかなと修正版を書くに当たって初めて考えた。入口付近にずらっと並んだ下駄や雪駄(せった)が、それを管理する下足番のひととともにいつも道路から見えていた。ひょっとすると、預かり料かチップが要ったのだろうかと、今になって考えた。教えて頂ければ有難い。活動写真館では履物は替えなかった。

  家庭用映写機 祖父が私の小学校入学祝いに手回しの映写機と、私の音痴を心配して手回しポータブル蓄音機とを買ってくれた。童謡のレコード何枚かを付けてである。どちらも、ねだった訳ではない。そんな物が世の中にあることさえ知らなかったのだから。その2つと、私の誕生祝いにどこからか貰ったであろう、1周5m位のレール付きのやや重いゼンマイ式2両連結電車が、私の幼少年時代では最大の高額な玩具だったろう。

映写機は鉄製だが軽い簡単な構造の物だった。中空の鉄板製の胴体の中には確か普通の電球が1つだけ、それを胴体の全面の直径3cm位の孔から2枚のレンズを通して投光する仕組だ。胴体横のハンドルを無意識に回転させると、クランクに着いている爪が幅3cm位のフィルムの両端にぎっしり並んだ小さい孔を引っ掛けて、フィルムを巻き取っていく。しかし、ここまでの説明の構造では、フィルムは小刻みに送られて何を見ているか分からないはずだ。上記のクランクの簡単な仕組みで、フィルムの画面が1枚ずつ投光窓の前で瞬間静止して、僅かずつ位置を変えて行く多数の画像が1枚ずつ投影され動画に見える仕組になっている。その仕組みに感嘆したものだった。

同時に買ってもらったフィルムは3本。「忠臣蔵の討ち入り」・「観兵式」(昭和初頭、天皇が陸海軍それぞれの部隊での閲兵の実況、陸軍のでは、若い痩躯の天皇は白馬にまたがって挙手の答礼をされていた。海軍のは軍艦上である)・「ミッキーマウス」の漫画、各5分間位の物だったろうか。もちろん無声映画である。その後フィルムの買い増しはしなかった。

この映写機を、父は幻灯機として利用し、「千字(せんじもん)の小さい文字の中から「謄写印刷」の文字を1字ずつ30cm四方位に拡大し、それに合わせて切り抜いた金箔を、新しく開店した新築店舗の表ガラス窓2枚に1字ずつ間隔を開けて貼ったので、店が一挙に立派に見えたものだった。2回そうすることになったが、どちらの店も、台風や疎開後の空襲で長持ちはしなかった。(→被災体験記) 映写機も蓄音機も、終戦前には、農家で食料品に化け、大阪に踏み止まった祖父母の腹中に戻った。

  南朝 (502549) の武帝が、文章家として有名な文官周興嗣 (470521) に作らせた文章。それを能書家として有名な東晋王羲之の字を模写して作った書道の手本。

※祖父母・父母のこと。 本論から外れるようだし、恥をさらすのだが、本ブログの理解の足しになり、多少は時代背景の理解をも助けることにもなると思うので、勇を鼓してここで記しておくことにした。祖母は祖父より1歳上。その長女であり、結果的に1人っ子だった母は祖父の満18歳の時の子である。母の幼時に祖父はずっと軍籍にあり、我が子への愛情を知らなかったので、38歳しか違わない私を普通の孫以上に可愛がってくれたのだと父は分析していた。総体に小柄な我が家系の中で曾祖母と祖父だけは比較的に大きく、当時はむしろ好ましく思われていたやや肥満気味のひとであった。祖父は最初入営して砲兵になったが、その中では一番小さく、面会に行った祖母が一番端に並んでいる祖父を見て心配になったと語ってくれたものだ。その後、祖父は憲兵に代わり伍長に昇進し、帯剣して白馬にまたがった写真が残っている。祖父はずっと軍隊におるつもりだったが、夜間歩哨中に居眠りして、軽営倉入りをさせられたことで、出世を諦め区役所に定年(55歳?)まで勤めた。係長止まりだった。高等小学校は出ていた。文字がうまく、囲碁・麻雀・水泳はいずれも祖父から1~2回ずつ手ほどきを受けたが、後年の囲碁以外は続ける機会と時間がなかった。囲碁も祖父には2回教えてもらっただけで、父とは数回打ったが、その後は私が忙しくて商業学校5年生の勤労動員中の昼食後まで機会はなかった。このことは後に譲る。祖父は戦後3年して、軍人のも役所のも恩給(後の年金)が廃止状態の中で死んだ。父の仕事もまだ先の見えないインフレの続く最中の死だった。死後、父のいわく、祖父は遊び人だったと。祖母が日本橋で山村流の舞の師匠をしていて20人以上の弟子を取っていたから、祖父はいわゆる“髪結いの亭主”で結構な身分だったのだ。正月に祖父母宅へ行くと必ず、10本位の塩鮭が病身の曾祖母の寝ている2階へ上がる階段の天井から吊り下がっていた。舞のお弟子さんからのお歳暮だ。

  明治191886)年尋常小学校(修業年限4年)と高等小学校(修業年限4)が設置され、尋常小学校は義務教育期間とされた。 1907(明治40)年義務教育期間(=尋常小学校の修業年限)が4年から6年に延長され、全国的に尋常高等小学校(尋常小学校6年+高等小学校2年=計8年)が普及する。

   父は四国高松の紙箱製造業の6人兄弟の5番目で、やはり、高小卒業後しばらくは近隣の文具店の丁稚(でっち)となり、リヤカーで遠方への商品配達に従事していたようであるが、軍隊除隊後、当時大阪ではいくつもの支店を出していたマルキというパン屋の社長が遠縁であったので、長堀橋支店長となり、写真が高価な時代に羽振りの好さそうな大きな写真が何枚も残されている。父は文字も絵も至ってうまく(私はとても及ばない)、また、至って器用だったから、パン配達の車に大きくペンキでパンの絵を描いたそうで、その面での創始者だと言ったことを覚えているが真偽のほどは知らない。その支店長時代に、社長から娘の婿にと所望され、会社を辞めざるを得なくなり一転貧乏生活に陥ったのだった。というのは、その時、既に美貌のまだ17歳位の母と恋仲になっていたからとの理由は90歳で死んだ父の晩年に、直接父の口から聞いた。母が父を見初めたのか、祖母の代理で舞を教えに行く途次、毎日のようにパンを買いに寄ったという。私は母の20歳の時の子で、2歳上の姉は生後間もなく死んでいる。昔は一般に早婚だったようだ。母は出稽古が好きでなかったようで、結婚時に舞は止めて、その後ずっと9歳上の夫に仕え、家業も手伝い通した従順な妻だった。70歳の時に病院の不手際で死んだ。

 

昭和恐慌*の最中(さなか)に退社した父は、現東淀川区十三(じゅうそう)で半田*製造業を1人でやっていた。すぐ南に淀川の堤があり、水田や草原も近い場所だった。半田の材料になる金属製品を買い集めてきて、庭に置いた大鍋で材料を熔かし、幅1.5cm、長さ30cm、厚さ1㎝位の溝が10本位並んでいる型枠に流し込んで半田棒を造るのだ。材料を熔かす時に立ち昇る煙を通して差し込んでくる朝日が室内に彩なして揺れる、色とりどりの空気のヴェールの美しさと、出来上がって冷まして縁側へ置いた20本ほどの半田棒を、私は2本ずつ両手で捧げるようにして室内へ運んだのだが、2歳下の弟は1本を重そうに運んでいた姿が忘れられない。話が戻るが、父も軍隊では2年間でただ1人、伍長に昇進している。事務の才能を見込まれて隊長に便利がられ、部隊が上海へ出兵*3した時も内地残留で事務をとり、危い目に会わなかったとのこと。歩兵だった。

  *昭和恐慌は、昭和4(1929)年秋に米国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、昭和5年から翌6年にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌である。

  *はんだとはスズを主成分とした合金それを熱いコテで熔かした液体を金属同士の接合や、電子回路で、電子部品をプリント基板に固定するために使われる。最近では環境保全のため、鉛を含まない無鉛はんだが使われることが多いという。昔のラジオやテレビは部品の接合がどこかで不十分なものが多く、放送が途切れると、胴体を横から叩くと復活する物が多かった。

 *3調べたが回も事変があったようで、大正何年のことか分からなかった。

  ※出生 以上の理由で、私が生まれた頃は裕福だった。だから、私がまだ乳児の頃の、写真館で撮った10枚ほどの顔写真も残っている。痩せてひ弱い顔だ。私の妻子も孫もみなつわりがきつかったのに、母はつわり知らずだったという。それなのに、父母とも無知だったのだろう。そんな時代だったかどうかは知らない。パンは栄養豊富だと信じてパンばかり食べていたとか。2歳上の姉も生後2ヶ月で死んでいる。

 

  子盗り 私は毎日、年上の4~5人の友人と淀川堤に遊びに行った。行く前に必ず母親に「子取り(・・・)に気ぃ付けや」と言われていた。昭和恐慌の時代である。事実、子供をさらってサーカス団などに売るようなことがあったらしい。私には帰り路で皆が歌う『小鳥(・・)もいっしょに帰りましょう』の小鳥と混同していたようなあやふやな記憶がよみがえる。友人は皆、女だった。私にはなぜか小学校に入るまで、男の友達はいなかった。全員着物姿に下駄履きであったと思う。

私が5歳位の時に、高松から、父に一番齢が近い兄―これも器用―がやってきて、2~3日泊り込みで父に謄写印刷の技法を教えてくれた。最後の賞状作りは最高の見ものだった。周囲の飾り枠模様を白インクで印刷し、それが乾かぬ間に金粉を綿でこすり付けて仕上げる結果の見事さは、何もかも珍しい中でも最高のものだった。その頃に、伯父は父に初期のコダックカメラも呉れていた。それがあったから、その後の我が家は貧乏でありながらも、幼児折々の家族写真が残っている。伯父はその後も高松でずっと開業していたのだが、空襲で焼き払われて廃業した。相当骨董価値の出ていたカメラは伯父に返した。伯父は俳人でもあり、詳しくは知らぬが「ホトトギス」派とかの同人であったとか。

  猫とミミズの喧嘩 日中戦争が始まった昭和12年頃、住まい(大阪市、現阿倍野区)のすぐ近くの市設股(モモ)ケ池公園は既に完成していて、そこで気候のよい時期に野外映画会が開かれた。翌年もあった。多分トーキー(発声映画)だったと思うが定かではない。最初の年、まだ、3歳になったかどうかの妹を連れて行ったが、帰って父母に報告していわく、「猫とミミズが喧嘩していた」と。題目は、確か「ターザン」。豹と大蛇の格闘だったのだが、まだ動物園へ行ったことがなく、テレビなど、まだまだなかった時のことである。

  学校からの団体鑑賞 商業学校の2~4年時代は年2回位、文部省推薦の映画が出ると学校行事として全員で映画を観に行った。現地集合して南の繁華街、松竹座で観た。無声映画の時代はとっくに過ぎていた。商業学校に入学したのは、太平洋戦争開戦の前年、正に軍国主義酣(たけなわ)の頃。個人で映画を観に行くのは禁止、保護者同伴なら許されていたように思う。理由を聞かされたことはないが、国のために皆が働くことを要求されていた時代、また、幼時から「男女7歳にして席を同じうせず」と自然に躾けられていたので、映画で時間をつぶすことはよくないし、恋愛物などはもっての外と素直に受け止めていた。それでも、隠れて行く者はいて、教護連盟という各校共通の生活指導係の教員の巡視で見つけられて、在学校へ連絡され、油を絞られる者はいたようである。

 昭和15年(1年)鑑賞なし

  16年(2年)6月(ドイツ国の)「勝利の記録」

     〃 9月「偉人エーリッヒ」梅毒の治療剤発見

  172「大東亜戦争撃滅記」

       10月 (3年)〃「ハワイ・マレー沖海鮮」

  18年(4年)9月「愛機南へ飛ぶ」・ 12月 〃「海軍」

 (注)5年生時は終戦の前年、戦況が悪化し、勤労動員で授業もない時  代、映画どころではなかった。

映画館では、最初に必ずニュース映画が20分位流された。たいていは皇軍-日本の軍隊のことを当時そう呼んでいた-の進軍や砲撃、中国都市の城を攻め落として入城する光景であった。テレビのない時代、戦争を最も身近に感じる一時であった。入城する軍隊を、大勢の中国の人たちが、手にした日の丸の小旗を振って迎える光景が必ずあったように思うが、強制的にやらされていたのもあったということは戦後随分してから知ったことである。

  昔の映画の場面 今のテレビニュースは、話題が変わってもたいていとぎれることなく、次々に画面をつないで話を続けていく。前項のニュース映画の頃は、話題ごとに、始めに黒い画面いっぱいの中に縦書き2~3行の白抜きの大きな文字だけの標題を出してから記録映画の場面へ移っていた。現代人は、それだけ頭の切り替えが速くなったからとか聞いたことがあるが、ただ慣らされただけではなかろうかとも考えるが。

  昔の映画の画質 昔のフィルムの感度は今より随分低かったし、レンズの明るさもたりなかったので、画面の暗いものが多く、動きの速いものは映せなかった。新聞の写真でも、薄暗い場面のものは、墨で輪郭を書き加えてあることが丸分かりのものが多かった。そうしなければ、何が映っているのか分からないという代物だったからだ。欧米など遠方のニュース写真やちょっとしたニュースの場合、「共同」と付記してあるものが多かった。これは「共同通信社」の略で、今のように、報道各社が世界の各地に各自に記者を派遣していなくて、「共同通信社」のニュースを買ったということだ。また、遠方のニュースは何日か遅れて報道されることが多かった。大事なニュースは、文章だけは無線電信で即刻送れたが、ファックスのない時代、写真や絵は、郵便や伝書鳩で送るしかなかったからと聞いている。緊急性のないニュースもそうした手段に委ねられていたのだろう。付記するが、戦争中の報道写真は、写真の上に大きく「検閲」という太い字の版を押してあるのが多かった。残虐なものや戦意を粗相させるものの掲載は許可されなかった。

話が映画に戻るが、薄暗い画面全体に白い雨が降っているような感じがするものが非常に多かった。これは、同じフィルムが多くの映画館で順次上映されて来るので場末の映画館ほど、傷だらけになるのだった。              

  [完]  (平成20.1・24.1映写機後日談を追記、26.4修正


<増補修正版 4> 被災記録3 大阪大空襲 6-1

2014-04-05 | 被災体験記

   残念ながら、新聞からの写真は転載できませんでした。(技量面で)

昭和20(1945)年の敗戦の5ヶ月前(3月14日)、大阪市が初めて270機を超える米軍機(B29)の焼夷弾(しょういだん)攻撃を受け、西部から中部へかけて炎上した時の、大阪南部、昭和町の自宅での孤軍奮闘記などである。  

   大阪大空襲

   炎の海の真っただ中                  

           ただ1人でバケツ消火   

  空襲警報発令 3月13日、眠りに入って間もなくだった。階下から父の大声に起こされた。「降りて来い。今日は、敵機がたくさん来そうだ。」と。やむなく眠い目をこすりながらセーターか何かを着込み、服を着て、枕元に置いてあった防空頭巾を抱かえて降りる。下半身はというと、ズボンははいたまま、その上、ゲートル*2まで巻いたままだったはずだ。いつもそうしていたから。

  *座布団を2つ折りにし、その短辺の一方だけを綴じあわせ、他の短辺の両角にはそれぞれ短いひもを付けた物。縫い合わせた方を上にして頭にかぶり、顎の所でひもを結ぶ。後の稿に図を掲載する。

  *2ゲートル 巻脚絆(まききゃはん)ともいう。歩きやすくするためにズボンの上から巻き付ける布。幅10cm、長さ4m位(?)のものを、靴の上部も包み込むように踵(かかと)のすぐ上から巻きはじめて、半幅ずつ位重ねながら膝のすぐ下まで巻き付ける。当時の陸軍の兵士や学生は常用していた。昔から旅人も用いていたようである。陸軍士官や海軍(陸戦隊)は巻かなくてもよい筒状のものを穿いていた。 

その晩のラジオによる空襲警報の文言を小説から引用しておく。「中部軍管区、空襲警報発令。23時5分現在、敵機の第1目標は、紀州沖に侵入。6分後には、御坊上空を通過する予定であります。続いて洋上を北上する第2目標、尾鷲付近を北上中の第3目標、いずれも大阪へ向かうものと思われます。本日は大空襲になるかも知れません。只今、情報が入りました。さらに新しい目標が続々と北進中であります」。緊張の余り、アナウンサーの声も震えを帯びていたとも記されている。

   *産経新聞夕刊連載、邦光史郎著「望洋」による。なお、同じ日の同作に次の文言もある。「この夜、百機を超えるB29は、大阪の南、天王寺付近から北西部へ向かって焼夷弾の雨を降らせた。全員避難して無人となった家の屋根を貫いて焼夷弾が畳の上に転がったり、天井板に止まったりして発火すると、あっという間に炎が拡がった。」と。

   初期の敵機来襲 1、2機だけの敵機の上空進入なら、前年の12月中旬からしばしば体験していた。4~5回の局地的な爆撃はあったものの、たいていは偵察が目的であったのか、20~30分ほど京阪神の上空を旋回して、何事もなく引き上げて行ったものだ。敵機が来襲し始めた頃は高射砲の音を遠方で聞くこともあったが、弾の届かない高空を飛ぶためか、それとも、弾が乏しかったのか、じきに、高射砲の音は聞かれなくなったような気がする。当時すでに、迎え撃つ日本の飛行機はなかったのか、たいていは、実に静かな夜空に米軍機特有のビーーーン、ビーーーンという鈍い爆音だけが腸(はらわた)にしみ通るように響き渡ったものだった。

 この爆音は平成5年には時たま聞いたが、今はどうか。日本の戦闘機はブルブルブルと言うような音で音感の鈍い私にも明らかに区別できた。

  布団内退避  私は、この日までは、一応は身ごしらえをしていたものの、翌日の勤労動員もあることだし、いちいち、防空壕までは降りて行かずに、頭から布団(ふとん)をかぶって警報解除まで眠さをこらえて、敵機の一刻も早く去ることを念じながら、不気味な爆音に耳をすませていたものだった。

 防空壕 我が家のは、1~2本の樹を抜いてしまった狭い庭に、2m×3m、深さが1m位の、直方体の穴を掘り、掘った土を周りの3方へ“コ”の字状に盛り上げた上へ板を掛け渡し、またその上に、土を40cmほど積み上げたもの。巾の長い1辺には長椅子状に土を掘り残しておいて、そこへ家族4人が坐って焼夷弾の落下から身を守るようにしていたが、もし、周りの家が焼かれたら蒸し焼きになったことだろう。当時、各家々で屋外または屋内に造っていた。

  敵機来襲 「1時間から2時間も退避の後、飛行機の爆音がしばらく途絶えたので2階へ上がってみると、早や、西の方(大阪湾沿岸?)は南北にかけて一面の火の海だ。それから後も、単機あるいは2、3機をもって入れ代わり、立ち代り来襲し、その度に赤い尾を引いた焼夷弾を各所にばらまいては遁走した。高射砲は相当熾烈(しれつ)に射撃していたが命中したらしいのは1機も見かけなかった。来る奴(やつ)も来る奴も大阪の中央と思われる辺りへ焼夷弾を投下した。」父も上がってきて、上六の父の勤める会社*2は駄目だろうなと話し合って再び壕へ戻る。(実際はこの時は焼失を免れていたが、後に罹災する。)                             

 「 」内は日記から原文のまま(漢字・仮名遣いは現代式に改めた部分がある)。

 *2戦争中期から国の政策で中小企業は合併させられた。父は前年9月から10軒ほどの謄写印刷業者が合併した会社(上本町6丁目)へ毎日出勤、鉄道管理局(現JR)を担当していた。そのお陰で戦後発展することになった。

 (写真)3月14日の空襲、後年の新聞から.

                                                 [続く]

 


<増補修正版 4> 大阪大空襲 6-2                 

2014-04-05 | 被災体験記

 

   焼夷弾落下 ラジオの情報から判断して、殆ど敵機も来つくしたかと思い始めた頃の、庭から見上げている家や塀で囲われた空の、中天の1機からパッと橙(だいだい)色の火が放り出された。たちまち、ザーという初めて聞く焼夷弾落下の音。反射的に壕を跳びだし2階へ駆け上がった。南面の広いガラス窓を通して2条の赤黄色い火が、シューとまっすぐな尾を引いて向かいの家並みのすぐ向こう側へ落ちていくのを見た。直ちに振り返り北面の雨戸を開けてみると、裏の平屋建ての屋根越しに、遠方の北の空も西の空も先程見た以上に一帯すべて真っ赤である。眼を北東へ転ずると、灯火管制中の町は全体真っ黒な闇だったが、手前の方の1ケ所だけが赤かった。まさに燃え上がりかけた家が眼に飛び込んで来た。2百m位の所である。何と7か月前まで両親・妹と4人で住んでいた家ではないか。その西隣の大家の家はすでに完全に炎に包まれていた。炎は元の我が家を舐(な)めつくし、さらに、西隣の家も巻き込んですべて倒壊してしまった。もと我が家の表壁の黄土色のタイルが炎の中で真っ赤に映えていたような記憶がよみ返る。あっという間の出来事だった。

  物品持ち出し 窓から身を乗り出して真東を見るとすでにたくさんの家が燃えている様子。百m位の距離と見たが、夜の火事は近く見えると言われる通り、実際は2百m近くあったことを後に知った。激しい風がそちらから吹き付けて火の粉を途中まで運んでくる。あわてて階下へ駆け降り、父や祖父とともに、食料品・衣料品を壕に入るだけ放り込み、壕の入り口の蓋の上に布団を2、3枚かぶせて水をかけた。それまで、迫りくる炎を見てもなお口笛を吹いていたのが、(本が自由には手に入りにくいに)苦労して集めた受験用の参考書の前に立った時、間もなく灰燼に帰すのかと感無量だったと日記に記している。しかし、この後、火の手の迫りが思ったより遅かったので、煙に包まれるのを用心しながら、3人で思い思いの品を裏の庚申街道まで運ぶことにした。3、4度も運んだとある。(この項に書いたことは、物を持ち出したことも含んで。日記を見るまですべて忘れ去ってしまっていた。盗まれたとの記憶も全くない

  前年の6月に、3冊の本を得るための苦労を記録している。いずれも古本である。(当時新刊は殆ど発行されなかったのでは?)旺文社-以前は「欧文社」、戦争により改名―社長赤尾好夫氏の『入試突破の対策を語る』には、実に、父の蔵書など7冊(合価15円分)を提供して50銭(2分の1円)の返金で売ってくれたのを最として、70銭の本を得るのに、2冊提供して20銭返金で何とか買えたこと。また、三省堂発行の「作文の研究」を買うのに何軒も書店を探し回った末に、それも交換本だったことを記している。

  その頃の心理 焼夷弾がまだ落下しきらない中に防空壕を跳びだした等、無茶もよいところだ。焼夷弾落下の位置がもう少しだけ北へずれていたら、体に直撃を受けていたことも考えられる。しかし、その頃は、自分だけは絶対にやられない。神が守って下さっているのだ、自分だけは特別な人間なのだと思っていた。無神論者なのにである。いや、そう思い込もうとしていたのかも知れない。いま思えば実に奇妙なことだが、結果的には、そうすることで度重なる空襲下に無駄に神経をすり減らすことなく、睡眠も十分にとれてタフに生き延びられたのだが暴挙ではあった。そうなった原因は定かではないが、次のような数々の出来事の重なりが影響しての結果だったろうか。 

(その1)夜間の空襲警報下に学校へ駆けつけるべく急いでいた道で、すぐ後を歩いていた人が高射砲弾の落下でやられたらしいこと―空襲初期は、警戒警報発令で、夜間でも、遠方者も学校へ駆けつける体制になっていた。愚策極まりないが、それを忠実に守った自分も愚直極まりない。しかし、この日、愚直者の私には、この制度の批判は頭の中をかすりもしなかった。この制度は間もなく近隣校参集に改められた。そこでは、大学生が隊長になり、私は分隊長に任じられた。 (その2)近所への2度の空襲(少数の焼夷弾や爆弾落下、しかし、死者が多数出ていたことは戦後随分してから知った)時の我が家の安全。(このことは前編で既出) 

(その3)三流校の中で生じた優越感も影響したかもしれない。何しろ将来は文化勲章でも取れるくらいにさえ思っていた身の程知らずだったのだ。このことはずっと後の記事に譲る。

私にとっては、満18歳前からの1年間位が、私の人生で最も体力・気力に満ちた時であり、生意気盛りでもあったのだ。その頃の写真をひとに見せても、それが私であるとは信じてもらえない。精悍な自信に溢れた顔つきをしており、その後長年にわたっての戦争に起因する胃腸虚弱のためのやせ細った顔とは、自分でも別人と思いたいほどなのだから。

ずっと後の記事で述べる。

                           [続く]


<増補修正版 4> 大阪大空襲 6-3                 

2014-04-05 | 被災体験記

  

   バケツ消火 風向きが北東に変わったのに力を得て、父と2人で我が家の防衛を決意。父は2階へ、私はバケツを提げて表へ跳びだす。南の真向かいの家の裏側が大分炎上している。当時、各家々の表口には必ず1㎥位の水を水槽に貯えていた。私は水を満たしたバケツを提げ、真向かいの1戸建ての瀟洒(しょうしゃ)な洋館の東側の、幅90cmほどの路地から奥へ入ろうとするが、激しい炎に火元には近づけそうにない。西の路地へ回り、2つの切戸を開けたり壊したりして裏庭へ入る。東の塀も燃えているが、南の裏塀や更にその向こうの裏通りの家が2階まで真っ赤に燃え上がっている。一面真っ赤にゆらぐ炎のスクリーンに手前の庭の樹木や置石が真っ黒なシルエットとして映されているように見えた。東側の塀の燃えてきている一番手前にバケツの水を放り上げるようにしてかける。一瞬、ジュッと音がして真っ赤な炎がそこだけ消え、黒く焼け焦げた板塀が現れる。すぐに走って帰り、水槽の水を汲んで戻る。さっき消した所が再び燃えている。水をかける。同様の繰り返しを同じ場所で執拗に続ける。水槽が空になると、玄関内からすぐ炊事場にも入れたので、水道を出しっ放しにして、バケツにためておいた水を間断なく運んだ。                        

 水槽として酒樽等も置いていたが、各戸に1個は、配給されたコンクリート製の物(左の写真)を玄関に置いていた。防火用品は左から火叩き(次々項で説明)・とび口・水槽・砂袋。ガラスには飛散防止のためにどこの家も、テープを縦・横・斜めに貼り重ねていた。(大阪森の宮「ピース大阪」(現存) ℡.06-6947-7208にて平成5年写す)  

 近隣の光景 消火活動の途次、我が家の前から東を見ると前方一面火の海。その炎は、5軒位向こうまで迫って来ていると思っていたが、実際は、その向かい側とともに10軒ほど向こうまでだった。しかし、我が家の前の道路から見える突き当りの南北に通ずる道路に沿ってその向こう(東側)一帯の30軒以上もの家々が全滅させられたのだからまことに凄い炎の渦であった。

振り返ってみる西側も、前方は空まですべて真っ赤、しかし、道路の両側とも我が家から向こうへ10軒ずつ位は無事と見えたが、道路上の空は無数の火の粉で埋め尽くされて、火の粉のトンネル内にある感じ。炎が迫って来ている辺りの路の真ん中で、2人の人が向かい合って小型の手押しポンプを交互に懸命に押し合っているのが、後方一帯の炎の海の中にやや小さく黒々とシルエットで浮かび上がっていたのを印象強く覚えている。

 9年後から19年間住むことになる桃が池の北西畔一帯。戦前は天王寺動物園の園長さんや大阪外語の先生も住んでおられた。

  黄金色吹雪の河 私が水を取りに戻る時、見上げる道路上の空は一面、黄金色を帯びて赤々と輝く火の粉の吹雪であった。真っ黒に見えるはずの空は殆ど見えなかったのではなかったか。南側の家並みの大屋根の上を越えて来た火の粉の激しい流れが、南から北へ殆ど水平に吹き流れ、我が家並みの大屋根の連峰を次々に越えて行くのだ。見える限りの空はとうとうと流れる火の粉の河であった。その一部は降下して我が家並みの大屋根や壁面にも降り注いでいる。その下、我が家の2階の窓外の窓手すり上では父が外へ背を向けて身をのけ反らせ、壁板や大屋根の庇(ひさし)の下端の雨樋(あまどい)上へ向かってしきりに火叩きを打ち振るっている。雨樋内のあちこちで枯れ葉などが次々に燃え上がるのとも闘っていたのだ。風向きはいつの間にか最悪の方向に変わっていたのだった。

 竹竿の先に縄切れを数本くくりつけた物、バケツの水に浸してから高い所の火を叩きつけて消す道具。上の写真内にある。

   失神? 火叩きを振るう父は後ろ向きの姿勢だから私の姿は全然見ていなかったが、私が無事でいることはよく分かっていたので安心していたという。その時、私は風邪を引いていたので、そうでなくても咳がよく出ていた。それが煙にむせて、それこそ、ゴホン、ゴホンと全く休む間なしに咳をし続けながら往復していたのがよく聞こえていたためだとのこと。私は水槽の水を使い果たしてからは、玄関内のすぐ横の炊事場まで戻り、水道を出し放しにして満たされている1つのバケツを取り、そこに空のバケツを受けておいて走り、常に路地内の同じ場所まで戻っては塀に水をかけることを繰り返していた。後3mほどで洋館へ燃え移ろうという地点である。20回位も往復した頃だろうか、バケツの水を提げて路地の毎回の地点まで侵入した時、突然、奥方向から頭の上をシュルシュルと火が走り向かってきた。表道路の電柱から路地上を通って裏庭の方へ降りている2本の電線のゴム被覆が燃えて、小走り位の速さで頭上を通り越して行こうとする。路地の出口へ先に燃え移られては大変、あわてて、バケツの水を放り上げる。見事命中。シュッと音がして火はおとなしく消えてくれた。ところがその後である。気がつくと、路地内でぼうっと突っ立っているではないか。ほんの一瞬のことだったかと思うが失神していたようだ。その時は煙のせいだと考えて家へ取って返し、各戸に1個だけ配給されていた防毒マスクを腰に下げ、いざとなれば、これをかぶれば安全と、その後も何度か同じ作業を繰り返し続けた。失神しかけたのは煙のせいではなく、酸素不足のせいなので、防毒マスクでは助からないと考えたのは後になってからだった。

  天佑(てんゆう) 我が家を向いて吹いていた南の風が突然やゝ強い北の風に変わったと思うと雨も降り出した。空襲の後には必ず雨が降ったものだ。これぞ天の助け! さらに気力をみなぎらせて水を運ぶ。当家の主人がやっと戻ってきた。応援の人も加わる。代わって屋根に登ってくれと頼まれて梯子(はしご)に足をかけると、脚がひきつれて動かない。疲れ切っていることに初めて気づく。火事場の馬鹿力という言葉どおり、ひどい風邪も忘れて何時間も走り通していたのだった。その後も事情を知らないひとに度々頼まれては断り続ける。もう大丈夫と見極めたのが6時ごろか。気づくと雨は止んでいたが全身ずぶ濡れであった。 

    焦土 ようやく空が白み始めた頃だった。初めて辺りが見回せてあっと驚いた。昨晩は、少々の植木と、その向こう全体を覆う炎のスクリーンしか見えなかった所が豁然(かつぜん)と開けて、前方やや上方からは眼をさえぎるものなく、まだ明けきらぬ青みがかった薄暗い空がいっぱい広がっている。我が家の向いの家並の奥の何十軒かが無くなっている。煙の臭いがぷんぷん鼻を突く。眼を少し下に転ずると地上1mほどまでは黒一色、焼け焦げた柱や瓦の堆積が、これまた左右も奥行きも何十m以上にずうっと広がっていた。2階建ての家々の一夜にして変わった姿であった。雨でずぶ濡れの焼け棒杭(ぼっくい)の至る所から白い蒸気が上がり、所々からはまだ消えきらぬ青い煙もそよぎ出し、その煙の立ちのぼり口にはちらちらと赤い火のゆらいでいるのもあった。あちこちに呆然と立ちすくむ人の姿も見られた。

   火のついた馬 やっと家へ戻ると、祖父母や母や妹の顔があった。これらの家族は、近隣が燃え始めた時に、4百mほど西の地下鉄御堂筋線予定道路まで逃げていたそうであるが、そのことはまったく知らなかった。その広い道路も避難者で一杯で、そこへも火の粉は容赦なく降り注ぐので、それを避けて人々は右往左往。それでも逃げ切れずに、持ち出した荷物が背中で燃えだす光景もそこかしこで見られたということである。妹にとっては、腹に火のついた馬が猛り狂って人々の群れの中をまっしぐらに走り抜けたのが何よりも忘れられない思い出だという。     

    *現在の御堂筋線昭和町駅付近

(右)大阪市の空襲による消失地域 

(黒い部分)後年の新聞から。

                                                   [続く]

 


<増補修正版 4> 大阪大空襲 6-4                  

2014-04-05 | ベータ―とVHF

   学童疎開 当時、大都市の小学生は集団で山奥の学校や寺などに移住し、そこで勉強したり、松根掘りなどの勤労奉仕をしたりしていた。これを[集団疎開]といい次の世に続く兵士や勤労者(産業戦士と呼んだ)を絶やさぬための国の政策であった。集団疎開を嫌った者は各個に親戚などを頼って「縁故疎開」をしなければならなかった。

空襲の日に、小学校3年生の妹がいたのは、まったく偶然にも、あの晩だけ、追加して疎開させる荷物を選びに縁故疎開先から母とともに帰ってきていたのだった。この日に、父母や妹が、大事な品物だけを疎開先へ肩引き荷車で運ぶ予定だったのが、手配していた肩引きをその日になって突然断られたので一泊してしまったのだった。もし断られていなかったら2階を守る父は片引きを引いて行ってしまったことになり、ひょっとひょっとすると、我が家も屋根から燃えていたかも知れないと考えると肩引きが来なかってかえって幸いだったと言えそうだ。

母と妹が疎開させて頂いた先の方たちは、あの日、富田林の奥から大阪方面の一面の火の海を見下ろして、この分では斎藤さんたちはやられてしまっただろうと話し合っておられたそうだ。

 近畿日本鉄道河内長野線富田林駅東方3.5㎞の北加納(かんの)(かんの)村、標高120m位。

 足元に火 空襲から6日目、やっと肩引き荷車の手配がついて、積めるだけの荷物を積み、父と2人して富田林の次の滝谷不動駅近くの知り合いの一室へ向かう。父と私はそこから大阪市内まで通勤することとし、母と妹はそこへ合流することにした。祖父母は南区(現中央区)から越してきていて今回は助かったが、もう逃げずに今の家で頑張ると腹を決めてしまった。(南区の元の家の辺りはすべて焼き払われていた。米軍は、奈良や京都を残し、大阪府でも、戦後に米軍が入るために環境のよい郊外の町を残したように、古い地域から焼いていったようだと平成23年初期まで考えていたが、京都や大阪も原爆投下予定地だったとは!! しかも、原爆の効果を見るために、それまでは空襲をしない方針だったとか。大阪については、明らかに方針変更があったのだろうが。

荷車の前では台車の前端についた太い綱の輪に首を入れ、肩から腹へ斜めに当てて曳(ひ)くとともに、両手で握った梶(かじ)棒をも前方へ押し出す。後ろの者は積み荷に両手を掛けて前かがみの姿勢で後押しをする。前と後ろとは時々交代しながら進む。4㎞ほど進んで、大和川を越えた辺りから普段は元気だった父が弱り始めて度々休憩したせいもあって28kmほどの路を9時間弱かかって行った。途中、富田林が近づいた辺りで幹線道路が真っ直ぐに続いている所があり、その中ほどで小高くなっている部分があった。そこへ登りきって一休みし、汗を拭きながら前後を見渡して驚いた。前後1kmくらいずつか? 見える限りの道路上は荷車の列だ。 2、30m間隔で延々と連なっていたと思う。のろのろと全て南を指してまるでカブトムシの行列のように進んでいたものだ。荷馬車が混じっていたかどうかどうにも思い出せない。殆どが、荷車だったのではなかろうか。少なくともトラックや乗用車の類はまったく走っていなかったはずだ。何しろ、ガソリンがなくて、木炭バスが登場していた時代だから。

  *出力不足で田舎の坂道では乗客の後押しが必要などということがニュースになっていた。私は バスはまったく利用しなかったので知らないが、市電の後押しをしたことは後の稿とする。

「足元に火がつくまで気づかない」という言葉があるが、あの時の行列の人々は皆そんな心理であったのではなかろうか。すでに東京や横浜が大空襲を受けたことは報道で知っていながら、まさか、我が家の辺りまではと(希望的に)考えていたのではなかろうか。少なくとも、我が家ではそうだったと思う。といって、もちろん、まったく楽観していた訳ではない。大事な荷物を疎開させることは少し前から計画し、空襲の前日に運ぶ予定であったことは上述したが、その日になっても肩引きもリヤカーも借用を断られてしまったのだった。引く手あまただったのだろう。

  塞翁(さいおう)の馬 この修正版の記事を書く段になって、初めて気付いたのだが、あの日にリヤカーが借りられていたら、あの家は祖父母だけで、間違いなく向いの家はやられていた。そして、3m 位の道路をへだてた我が家もどうなっていたことか。これこそ、塞翁の馬*2の故事通りだったのだと。

 自転車の後尾に連結して小荷物を運ぶ1.5m四方くらいの二輪車のこと(写真)。自転車の普及し始めた頃からあったようで、戦後暫くして単車にこれを連結してボディを被せた型の三輪車が出現するまで、よく利用されていた。(写真)                                             

 *2 塞翁の馬 国境の近くにあった要塞の近くに住んでいた老人は、何よりも、周りからもほめられる自分の駿馬を可愛がっていた。その馬がある日突然いなくなってしまう。しかし、しばらくして、その馬は別の白い馬を連れ帰ってきた。しかも、その白馬も負けず劣らずの駿馬であった。それから、かわいがっていた息子がその白馬から落ちて、片足を挫いてしまった。またしばらくして、隣国との戦争が勃発した。若い男は皆、戦争に駆り出されて戦死した。しかし息子は怪我していたため、徴兵されず命拾いした。そして、戦争も終わり、翁は息子たちと一緒に末永く幸せに暮らしたという。このことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、「人間万事塞翁が馬」などと使われる。

  足元に火 空襲から6日目、やっと肩引き荷車の手配がついて、積めるだけの荷物を積み、父と2人して富田林の次の滝谷不動駅近くの知り合いの一室へ向かう。父と私はそこから大阪市内まで通勤することとし、母と妹はそこへ合流することにした。祖父母は南区(現中央区)から越してきていて今回は助かったが、もう逃げずに今の家で頑張ると腹を決めてしまった。(南区の元の家の辺りはすべて焼き払われていた。米軍は、奈良や京都を残し、大阪府でも、戦後に米軍が入るために環境のよい郊外の町を残したように、古い地域から焼いて行ったようだと平成23年初期まで考えていたが、京都や大阪も原爆投下予定地だったとは!! しかも、原爆の効果を見るために、それまでは空襲をしない方針だったとか。大阪については、明らかに方針変更があったのだろうが。

荷車の前では台車の前端についた太い綱の輪に首を入れ、肩から腹へ斜めに当てて曳(ひ)くとともに、両手で握った梶(かじ)棒をも前方へ押し出す。後ろの者は積み荷に両手を掛けて前かがみの姿勢で後押しをする。前と後ろとは時々交代しながら進む。4㎞ほど進んで、大和川を越えた辺りから普段は元気だった父が弱り始めて度々休憩したせいもあって28kmほどの路を9時間弱かかって行った。途中、富田林が近づいた辺りで幹線道路が真っ直ぐに続いている所があり、その中ほどで小高くなっている部分があった。そこへ登りきって一休みし、汗を拭きながら前後を見渡して驚いた。前後1kmくらいずつか? 見える限りの道路上は荷車の列だ。 2、30m間隔で延々と連なっていたと思う。のろのろと全て南を指してまるでカブトムシの行列のように進んでいたものだ。荷馬車が混じっていたかどうかどうにも思い出せない。殆どが、荷車だったのではなかろうか。少なくともトラックや乗用車の類はまったく走っていなかったはずだ。何しろ、ガソリンがなくて、木炭バスが登場していた時代だから。

出力不足で田舎の坂道では乗客の後押しが必要などということがニュースになっていた。私はバスはまったく利用しなかったので知らないが、市電の後押しをしたことは後の稿とする。

「足元に火がつくまで気づかない」という言葉があるが、あの時の行列の人々は皆そんな心理であったのではなかろうか。すでに東京や横浜が大空襲を受けたことは報道で知っていながら、まさか、我が家の辺りまではと(希望的に)考えていたのではなかろうか。少なくとも、我が家ではそうだったと思う。といって、もちろん、まったく楽観していた訳ではない。大事な荷物を疎開させることは少し前から計画し、空襲の前日に運ぶ予定であったことは上述したが、その日になっても肩引きもリヤカーも借用を断られてしまったのだった。引く手あまただったのだろう。

        【完】  (平成5年3月記、24年1月・26年3月修正)

            次稿は「ジェーン台風」の予定です。

 


<増補修正版 4> 大阪大空襲  6-5

2014-04-05 | 被災体験記

    昭和3年の出来事

   1月1日 エストニア通貨マルクをクローンに変更。

6日7日 ロンドンテムズ川がはんらん、14人が死亡。

7日 ロンドン塔の堀が、1843年から干上がり草生していたが、津波によって完全に水に満たされる。

12日 アメリカ人殺人犯ルース・スナイダーの処刑がニューヨーク州オシニングにて執行される。

12日 大相撲ラジオ実況放送開始

17日 モスクワで、ソヴィエト連邦秘密警察が、レフ・トロツキーを逮捕、1月31日カザフ共和国アルマアタ流刑

22日 岡部金治郎マグネトロンの特許を取得

日付不詳 フェルディナンド-ソシュール「言語学原論」邦訳。

   2月1日 赤旗創刊

11日 第2回冬季オリンピックサンモリッツで開催(~2月19日)。

12日 イングランドにて大規模なひょう害が発生し、11人が死亡。

20日 第16回衆議院議員総選挙最初の普通選挙

25日 ワシントンD.C.のチャールズ・ジェンキンス研究所が連邦無線委員会(FRC)より認可を受け、世界で始めてのテレビ所有者となる。

日付不詳「久留米大学」の前身である「九州医学専門学校」が設置される。

   3月12日 マルタイギリス自治領となる。・ カリフォルニア州ロサンゼルス北方に位置する当時建設中だったセント-フランシスダムで事故が発生し、6百人が死亡。

15日 日本共産党に対する一斉検挙(三・一五事件

16日 台北帝国大学設置

16日 キリンレモンの販売が開始。

21日 チャールズ・リンドバーグに対し、大西洋単独飛行の功績を讃え名誉勲章授与。

26日 中華民国杭州で世界初の国立アカデミーとなる中国美術学院が設立。

日付不詳 コミンテルン、「日本問題に関する決議」いわゆる28年テーゼ(「マルクス主義」)。

    4月10日 治安警察法により労働農民党日本労働組合評議会全日本無産青年同盟に解散命令・イリノイ州シカゴ共和党の予備選挙が開催(パイナップル予選)。

12日 イタリアミラノベニート-ムッソリーニに対する爆弾テロ発生。周囲にいた17名が死亡。

12日から14日 アイルランドダブリンカナダのグリーンリー島の間で世界初の大西洋横断飛行が行われる

14日 ブルガリアチルパンプロブディフでそれぞれ大地震が発生し、2.1万棟以上の建物が倒壊、約130人が死亡。

20日 第55特別議会召集

22日 ギリシャコリントで大地震が発生し、20万棟の建物が倒壊。

28日 ペンシルベニア州南部で約71cmの積雪を観測。

最終週 オックスフォード英語辞典の初版が完成し、出版作業に移る。

   5月1日 青森県内の銀行合併により八戸銀行設立。

3日 済南事件日本軍が山東省済南国民政府軍と衝突

10日 ニューヨークで、最初のテレビ定期放送が開始される。

14日 台中不敬事件おこる。

15日 オーストラリアフライングドクターが始まる。

15日 ロサンゼルスのディズニースタジオで短編アニメーション映画「プレーン・クレイジー」がお披露目され、ミッキーマウスとミニーマウスが初めて登場する。

23日 ブエノスアイレスのイタリア大使館に爆弾が投げ込まれ、22人が死亡、43人が負傷。

24日 イタリア人ウンベルト-ノビレも乗船していた飛行船「イタリア」が北極点付近で墜落。

26日 第1回全日本学生陸上競技大会(明治神宮競技場)

30日 飛行船「イタリア」の救助隊が北極点から撤収。

            

6月4日 張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)

8日 北京が北平と改称される。

11日 ウィーンで医者がストライキを起こす。

14日 アルゼンチンのロザリオ大学の医療棟が学生らに乗っ取られる。

18日 アメリア-エアハートが、女性初の大西洋横断飛行に成功

20日 ユーゴスラビア議会でプニシャ-ラチッチが野党議員3人を射殺し、その他2人を負傷させる

24日 スウェーデン機がウンベルト-ノビレなどイタリア北極探検隊の一部を救助。残りもソ連の砕氷船「クラーシン」によって7月12日に救助される。

28日 アメリカ人連続殺人犯アルバート-フィッシュが当時10歳だったグレース-バッドを連れ去り、殺害する。

29日 緊急勅令治安維持法改正公布施行(死刑・無期刑を追加)・テキサス州ヒューストンで民主党全国委員会が開催され、ニューヨーク州知事のアル・スミスがカトリック教徒として初めて大統領選挙に主要政党から立候補することとなった。


<増補修正版 4> 被災記録3  6-6  大阪大空襲

2014-04-05 | 被災体験記

 

   7月2日 イギリスで、女性参政権を認める法律施行・ワシントンのジェンキンス研究所のテレビ局「W3XK」が放送を開始

3日 全府県警察部に特別高等警察設置

6日 ネブラスカ州ポッターで世界史上最大のひょうが落下。

12日 メキシコ人パイロットのエミリオ-カランサニューヨークへ親善飛行を行った帰りに、ニュージャージー州パインバレンズで墜落事故死を遂げる。乗っていたのはカランサ一人だったため他に死者は出なかった。

17日 メキシコのアルバロ-オブレゴン大統領がホセ-デ-レオン-トーラルに暗殺される。

19日 中華民国国民政府日華通商条約の廃棄を通告

25日 アメリカ合衆国中華民国から撤兵

27日 クリケット選手のティッチ-フリーマンが史上初めて7月末までに1シーズン200勝を達成する・ ラドクリフ-ホールが「寂しさの泉」(The Well of Loneliness)を刊行。

28日 第9回夏季オリンピックアムステルダムで開催(~8月12日

   8月2日 エチオピア友好条約調印

16日 連続殺人犯のカール-パンズラムが、およそ20人を殺害した容疑でワシントンD.C.にて逮捕される。

22日 アル・スミスが民主党の大統領候補指名を受け入れるようすがテレビとラジオで同時放映される。

25日 アルバニア人のアフメト・ベイ・ゾグーが自身をゾグー1世と名乗る。

26日 イギリスでメイ-ドノヒューがカフェで出てきたジンジャービールのなかにカタツムリの屍骸を発見する。これがきっかけとなり、製造業者が消費者に対し損害賠償責任を負うことを定めた規定が貴族院にて可決されることとなる。

27日 パリ不戦条約調印(日本を含む15か国が署名)。日本では「人民の名に於て」の字句が政治問題化。

29日 ホンジュラスのサッカークラブ、C-D-モタグアが設立。

   9月1日 アフメド・ゾグーアルバニア国王に即位・リチャード-バードが南極へ向けニューヨークを出発。

11日 ニューヨーク州バッファローでWMAKというテレビ局がテレビ放送を開始。

15日 ティッチ-フリーマンがイングランドの1シーズンのクリケット最多勝利記録を更新。

16日 アメリカ合衆国フロリダ州をオキーチョビー・ハリケーンが襲撃、少なくとも2.5千人以上が死亡

20日 大礼記念京都博覧会開催

25日 ポール-ガルヴィンと兄弟のジョゼフがガルヴィン製造株式会社(現 モトローラ)を設立。

28日 アレクサンダー・フレミングペニシリンを発明

   10月1日 陪審法施行

2日 ローマ カトリック聖人ホセマリア-エスクリバーが、スペインマドリッドオプス-デイ設立。

7日 ハイレ・セラシエ1世アビシニア王に就任

8日 蒋介石国民政府首席に就任

12日 京都平安神宮に日本最大の鳥居が完成・アメリカ合衆国ボストンの子供病院で、世界初の鉄の肺が使用

14日 小樽新聞が北海道置戸で珍獣が捕獲されたと報道(エゾナキウサギの発見

19日 ウィリアム エドワード ヒックマンが1927年に当時12歳だったマリオンパーカーを殺害した罪でカリフォルニア州サン クエンティン州立刑務所において死刑に処される

20日 日本航空輸送設立

22日 プエルトリコ大学リオ ピエドラス校にてピ シグマ-アルファクラブが設立

26日 赤十字国際規約の採択により、赤十字社が正式に設立

27日 早稲田大学演劇博物館開館

   11月1日 ラジオ体操放送開始

4日 マンハッタンのパーク セントラル ホテルで「ニューヨーク一悪名高いギャンブラー」アーノルド ロススタインがポーカーゲーム中に射殺される

6日 1928年アメリカ合衆国大統領選挙で、共和党ハーバート-フーバーが大差で当選

10日 昭和天皇即位の礼挙行

14日 大嘗祭挙行

17日 アメリカ合衆国ボストンボストン-ガーデン開業

18日 ミッキーマウスが公式に初登場したアニメーション映画『蒸気船ウィリー』公開

22日 モーリス ラヴェル作曲によるバレエ『ボレロ』がパリの オペラ座で初演。

23日 同志社大学で火災。天皇が京都滞在中であったため、総長が引責辞任

日付不詳 佐伯俊平(服部之総)、論文「唯物弁証法唯物史観」(「マルクス主義講座」)で三木清の三木哲学と、福本和夫の福本イズムを厳しく批判した。

  12月9日 カトリック神田教会聖堂献堂

21日 アメリカ合衆国議会、ボールダー-ダム(後にフーバー-ダムと改称)の建設を許可する決議を採択

24日 第56議会召集

   日付不詳

アムステルダムオリンピック開催を契機に、コカ コーラヨーロッパに輸出される

トルコトルコ語表記をアラビア文字からトルコ式アルファベットに転換

ヨシフ スターリン第1次5ヶ年計画を発表

グリフィスの実験が行われる

シリア-ウガリット遺跡が発掘され。

油屋熊八、日本で初めて女性バスガイドを自分の経営する観光バス会社に導入。

 

 


<増補修正版 3>被災記録2 大阪初空襲・初空爆 4-1    

2014-04-05 | 被災体験記

また、初期の頃のように、配置が調整できなかったり、図が拡大できなかったりしています。その他にも、いろいろ、以前に戻った不具合があります。御辛抱下さい。

    大阪初空襲・初空爆           

                  近隣の家屋多数焼失、跡形なく吹っ飛ぶ家も                      

 初警報 大阪に空襲警報が初めて出されたのは終戦の3年以上も前―昭和17 194218日で、大阪は空襲されなかったが、稿末の資料るとによると東京・名古屋などで死者50人を出している。飛行機製造工場が狙われたとのこと。東京に小規模の初空襲があったのは月14日。この日以後実際の空襲までに、私の記録では大阪で10回も警報が出されているが、これについては後の稿で触れる。

 インターネットでは、この日初空襲。皇居、大宮御所、及び赤坂離宮の一部の建物に発生した火災は間もなく鎮火。明治神宮本  殿は焼失とある。昭和天皇夫妻や皇太后に疎開の話が持上がるが3人とも疎開を拒否、結局、3人とも東京から動かれる事はなかった由。5月24日の空襲で宮城内の2階建て施設が炎上。翌日には、宮城の明治宮殿(表宮殿)など大小27棟が炎上、消火活動を行おうとした消防士19名が殉職。この時の火災が飛び火によるものか、直接焼夷弾が炸裂したものなのかは不明とある。以降、吹上御苑内の御文庫を仮御所とする。これら詳しいことは報道されなかったのではなかろうか。
米軍司令部は皇居を爆撃目標とする事を禁じていたが、桜田濠沿いの参謀本部などは攻撃対象としたため、これを攻撃目標とした空爆の炎が飛び火したとも、目標をそれて宮城内に着弾したとも、天皇を殺してやれとばかりに命令違反した爆撃機がわざと皇居内に焼夷弾を落としたとも言われる。
 
 

   敵機初来襲 書物によると、初の大阪空襲は終戦の前年の1218日だとある。しかし、その日の私の日記は次のようになっていて、被害があったかどうかは分からない。翌朝の空襲(次項)とをまとめて初空襲としているのかとも思うがどうであろうか。その日の日記を掲げる。

「午後、空襲警報の発令より、(倉庫事務所*2の)ラジオは敵機の大阪侵入を刻々に報じた。味方の戦闘機が飛行雲を引いて駆け回っている中へ、突として(ジュラルミンの機体が)銀色に輝いた9機編隊が現れ、奈良を指して悠々と消え去った。あれこそB25(写真)*3に違いない。恐ろしい感じなど少しもせず、ただ美しいという気が起こるだけだった。 そこらの人のように壕に入る気など毛頭起こらない。無謀とも言えようが、“ラジオ情報”を聞いてあったから安心していたのだ。退避しなかったために、倉庫の3名は(両手に1人ずつ―野球部員の襟首を吊り下げて額と額をぶつけさせたとの伝説のある―時の中学校野球連盟会長で、体格抜群の学級担任の―)S先生からお目玉を頂戴した。僕(ぼく)は、一発拳固を食らわされた。―原文のまま、漢字・仮名遣いは現代式に改める。括弧内は今回挿入―その学級で3年目の副級長をしていて信頼されていたのだが、少し前に、配属将校*4に誤解されれた小事件があった時に、「江田島」という海軍兵学校の紹介小説で知り、信奉していた兵学校の諸信条中の「決して言い訳をするな」を生噛りに実行して以来、生意気な男と認識を変えられていたようだ。      

 毎日新聞社刊『1億人の昭和史』第15巻「昭和史写真年表」による。章末にこの中の全国主要都市被爆記録を転載する。 

  *2この年の2月末に『決戦措置15項目』が発表され、その中で、中学生以上の学生は1年間常時勤労体制につくと定められた。

いわゆる“学徒動員”と称して学校へ通わず、工場などで勤労奉仕をすることになった。私は6月15日から、大正区の久保田鉄

工所鋳鋼工場の倉庫勤務をしていた。なお、この日に大阪初の警戒警報が出されたのだと思う。

*3 ボーイング(Boeing)B25の略称。航続距離の長い陸軍の双発中型爆撃機、定員6名位だったと思うが、平成23年現在確認不能。

*4 大正14年(1925)「陸軍現役将校学校配属令」によって、一定の官公立学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属

された。私立学校については任意的。授業の中に、軍事教練(兵隊になるための初歩的訓練)が組み込まれ、その権限は校長と

同格で絶大なものがあった

   飛行場被爆 前項の翌日の19日には、大阪南方の八尾飛行場の誘導路が爆撃されたらしい。そこから火災が上がるのを見たという友人が1人いた。この日、午前2時頃空襲警報発令。ラジオは「敵味方不明の飛行機中地区上空にあり」と報じ、間もなく、「東地区を経由して伊勢湾から南方へ遁走」と報じ、警報は解除された。新聞でも「敵1機偵察の後遁走」とあっただけだが、翌日、数人から聞いた話を総合すると上記のことは真実らしかった。

    *現JR関西線八尾駅南方1km、私の家からは南東6km。

   大阪市街初空襲 終戦の年の正月3日、午後2時空襲警報発令。もう、この年は2日から工場に出動していた。大正区の久保田鉄工所の防空壕へ例によって友人たちの後から入った。いよいよ、爆音が聞こえた途端に壕から半身を乗り出して空を見上げ続けていて、また担任から叱られた。壕から、9機か10機のB29(写真)の編隊が高空を飛んで行くのを見た。その中の1機は白煙を噴いているように思えた。爆弾落下の音も聞こえず、空襲警報は間もなく解除されたので、その時、我が家から百m余り北東の家並みが12軒も焼夷弾で焼かれていたとは露知らなかった。夕方、勤労動員を終えての帰宅時に、もうすぐ家という所で消防車が2台、水だらけの路上でホースをしまいかけているのを見ても、まだ、そのことには気付かなかった。家から2百m南東の股ヶ池*2の島内の20軒ほどの中流住宅中の1軒も全焼。池へ焼夷弾が8発落ちるのを近くに住む遠縁の老婆が見ていた。この日、大和川近辺の家が何軒か焼かれ、大和川(我が家の南方4km へも10発ほどの焼夷弾が落ちたのを見た人もいるそうだ。ほかに、我が家から10軒ほど東の角の家や、明浄女学校の東100m(後に爆弾の落ちる地点の南百m)にも落ちたが、火災に 至らなかったと聞いた。この日の空襲は大和川付近の高射砲陣地を狙ったったものだと爆いう人がいたが、それにしては、爆 弾でなく焼夷弾だったのが腑に落ちない。                                                              

                                                            慰霊碑

                                                           2 慰霊塔

                    (地図保留、前回は掲載)                      3 初の爆弾落下地点

                                                          4 初の焼夷弾被災地

                                                                                       5 空襲以前の居住地

                                                           空襲時の居住地                                        

                                                            戦後の居住地

                                                                         〔校名は現在のもの〕

                   

この日が、実質上の大阪空襲の初日だったのであり、その前後に、東                                                           

京・横浜・神戸など全国の主要都市が次々と焼かれたり、爆撃されたり

して行ったのだ。

 第2次世界大戦末期から朝鮮戦争期の主力長距離戦略爆撃機。

 モモガイケ 後、桃ヶ池と表記変更。阿倍野は、当時は阿倍野区、阿部野橋などと使い分けられていた。

 

  爆弾落下 私が爆弾の破裂音を近くに聞いたのは幸い1度だけである。終戦の年の214日の夜であった。布団に首     をすくめて警報解除を待っていて、ズシーンと腹に響く大爆音にはっと驚いたことがあった。その結果は翌日くらいに、はっきりと目にした。直径10余m、深さ5m位の、ぽっかりと口を開けたすり鉢状の大きな穴だ。そこは、学徒動員で工場へ通うようになるまでの4年間、通っていた道沿いの家並みの所だ。中の2軒が全く跡形もなくなり、表面すべて綺麗な黄土色の土だけの穴になっていた。他の何物もいっさい残されていなかった。通学の途次、時にはお見かけしていたかも知れない家族が、家と共に粉砕され、吹き飛ばされたかと考えると何ともやるせなかった。

そこは我が家から7mほど北の地点(大阪の南の玄関口、現JR阪和線天王寺駅の1つ南の美章園駅の南西2m)で、1トン爆弾を投下されたのだろうとの人々の話であった。その時、そこから50mほど南の叔父の家の大屋根は、吹き飛んできた粘土の塊で3個もの孔をあけられた。1番大きい粘土塊は40cm角ほどで、2階の床も貫通して、やっと1階の床で止まったということであった。1階から青空が楽に見えたと言う。

   原子爆弾が使われるまでは最大威力の爆弾、右の写真で大きさを見られたい。(写真は米軍の物、

中央区森ノ宮『ピー大阪』での『空襲資料展』で。人物は筆者、小柄。(平成57月撮す。)  ( 写真今回保留)

                                             [続く]

 


 <増補修正版 3>大阪初空襲・初空爆 4-2

2014-04-05 | 被災体験記

   駅に被弾、死者多数 前項と同じ夜、美章園駅は直撃弾を受けて壊滅し、居合わせた10数人が亡くなったことは平成5年まで知らなかった。 その人達の遺骸は復旧を急ぐ将校の命令で、そのまま、貨車でどんどん運び込まれて来る石炭殻で埋め込まれ、高架駅だったのが、その部分だけは盛り土に変えて、3日目位から電車を通過させたとのこと。下記リンク*2レールが宙づりになった所での復旧作業の拡大可能な写真も見ることができる。ただし、同駅に再び電車が停まるようになったのは2年2ヶ月後、戦後のことである。現在、同駅北東の高架下に慰霊碑が設けられている。付近の民家20軒ほども破壊され、併せると死傷者30余名に上るという。合掌。

   実際は、前項で書いたように大穴が開いて、死体は残らなかったと思う。

   *2http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%AB%A0%E5%9C%92%E9%A7%85

  爆弾3発 その時、爆弾の音は1度しか聞いていないので、多分同時に落とした2発の爆弾の、1発は駅に命中し、  他の1発が民家を吹っ飛ばすことになったのだろうとずっと思いこんでいたが、美章園駅のすぐ近くに戦前から住む義弟によると、実はもう1発、更に北にも落ちたが不発だったとのこと。義弟によると他所でも爆弾は3発落としたというから、それがはるばるマリアナ基地から装備や人員までできるだけ削って飛んでくるB29の積載能力の限界だったわけだ。しかもマリアナには帰れずに一旦は中国へ帰り、その後は、そこから来襲したとのこと。」

       主要都市被爆略記(毎日新聞社刊行『1億人の昭和史』第15巻「昭和史写真年表」から) 

     1942.4.18.  米空母ホーネットから飛び立ったB2516機が東京・名古屋など本土初空襲 

筆者注―空爆による死者50人、奇襲のため、全く反撃出来なかったのに、洋上で9機撃墜と、嘘の発表が始まる―ネットより。

      1944.6.16.  米軍のB29爆撃機、中国の基地から初めて北九州空襲

11.24.   マリアナ基地のB2970機、初めて東京を大空襲

12.13.    名古屋初空襲

     12.18.    大阪も初空襲

      19452.4.神戸初空襲(筆者注 -毎日新聞社刊「ショック写真百年史 その瞬間」では、4月18日に神戸にも飛来している)

2.16.    米機動部隊、17日にかけて艦載機1、200機で関東各地を空襲

3. 9. B2910日にかけて東京を大空襲

3.14       2990機、大阪を焼夷弾爆撃。焼失13万戸(筆者注 次の記事その他では274機)*           

3.18.19.28.29. 米機動部隊、九州各地を爆撃

5.14. 400機のB29、名古屋市爆撃。焼失2万戸、名古屋城も炎上

5.24     29の東京大空襲で皇居炎上

6.19.     福岡・静岡に初空襲

6.23.     沖縄失陥、戦死11万人・民間人10万人死亡

7.14.15. 東北・北海道空襲。14日釜石、15日室蘭艦砲射撃、青函連絡船など9隻沈没            

8.6.    29 広島に原子爆弾投下、死者数は9万乃至20数万人とのこと

8.9.    29長崎に原子爆弾投下、死者数は7万人とも15万人とも

    当時の私の日記での90機ということは日本側の発表であり、274機は米側の発表であろう。(当時の日本側の被害発表は常に     過少であったようだ)次の記事中で爆弾のトン数記載のあるのは米発表と考えて間違いないだろう。

(注1)前記の『空襲資料展』での映画の解説その他から、大阪に関してのみ上の被爆記録を補っておく。

大阪への空襲は全部で50回以上、初期の空襲は1万m以上の高空に飛来し、心理効果を狙っていたが、314日から焦土作戦に変更。  その日274機で来襲、3.5時間にわたり、無差別焼夷弾攻撃(ナパーム剤使用のM69集束弾1732トン)、全焼13万戸、死者1.3万人、被災50万人。61日にも全市に空襲、458機で2800トンの爆弾投下。724日、此花区の住友金属・大阪城内の造兵工廠被爆。814日(終戦の前日)154機来襲、707トン投下、造兵工廠壊滅。

 同じ混合液体は火炎放射器の噴射剤としても用いられた。ナパーム弾の充填物は人体や木材などに付着するとその親油性のために落ちにくく、をかけても消火が困難である。消火するためには界面活性剤を含む水か、ガソリン火災用の消火器が必要である。また、ナパーム弾の燃焼の際には大量の酸素が使われるため、着弾地点から離れていても酸欠によって窒息死、あるいは一酸化炭素中毒死することがある。

  (注2)マリアナ基地からの最初の3ヶ月間の空爆は、主として、東京の中島・名古屋の三菱・豊田を3大航空機メ-カーとみなして行ったがさしたる成果は上がらなかった。それは高射砲弾の届かない高度7.5千~1万m以上の高空から行っていたからである。司令官を温厚なヘイウッド・ハンセル少将から、ドイツで一般市民の無差別爆撃を平然とやってのけた米軍最年少の将官カーチス・ルメイ少将 (37歳)に更迭し、一転焦土作戦強行となった。彼は無差別爆撃を厭う部下たちを「日本をやっつけろ、奴らを焼き殺せ」と叱咤した。乗組員を減らし、定員12名の処を3~4名減らし、後部以外の機銃なども外して、焼夷弾をできるだけ多く積んだ。それでも重さのために、気圧の高い海面すれすれを飛ばざるを得なかったが、それが奇襲攻撃となって成功し、日本の大都市を次々と焼き払うことになったのだった。           (岡本好古著「東京大空襲」徳間書店刊より)

             

                      [完]平成5年記・23年追記・24・26年修正

                     

                               次稿は「大阪大空襲」の予定です。


 <増補修正版 3>大阪初空襲 4-3

2014-04-05 | 被災体験記

   昭和2年の出来事(Wikipediaから)

1月1日 健康保険法施行。給付開始・英国放送協会 (BBC) 設立(英国放送会社から改編)・法制局が法令に濁点を施す訓令を 通達

4日 武漢の民衆が漢口英租界を占領

8日 日本結成

11日 米海軍がグァム島駐在の陸戦隊3百名を支那に急派

17日 日本ゼネラル・モータース設立

19日 英政府が支那派兵を決定・ 前年12月に没した日本の大行天皇追号大正天皇と決まる

20日  春秋社「世界大思想全集」創刊

23日- 及川奥郎が新しい小惑星を発見

24日 東京地方で気象台開設以来の寒波(零下7.8度 各所で水道管破裂)    [続く]

 25日 明治節(現文化の日)制定を可決(1927年は“明治60年”)

28日 宮崎県小林町で大火(1200棟焼失)

2月7日 大正天皇大喪大赦137,669名、減刑46,138名。

9日  争議中の磐代炭坑労働組合員が右翼暴力団と衝突

12日 英支那派遣軍が上海に上陸

24日 日本放送協会が初めてオペラを放送(カヴァレリア・ルスティカーナ

3月5日 新潮社「世界文学全集」刊行開始・研究社「新英和中辞典」刊行

7日  北丹後地震(死者2,925人、全壊1万2,584棟、焼失8,287戸)

9日  金華山沖で鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」が沈没(43名死亡)

10日 三菱信託株式会社(後の三菱信託銀行)設立

14日 片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行が破綻」と失言(昭和金融恐慌の発端)

15日 東京渡辺銀行あかじ貯蓄銀行が休業。京浜地方で銀行取り付け騒ぎ

19日 中井銀行休業

21日 日銀が市中銀行に対して非常貸出しを実施

22日 村井銀行中沢銀行八十四銀行など諸銀行が休業

24日 蒋介石国民革命軍南京入城の際、諸外国領事館を襲撃(南京事件

25日 南京事件の善後策につき日英米の司令官が緊急会議・空母「赤城」完成

26日 台湾銀行鈴木商店に新規貸出し停止命令

27日 福島県磐城炭鉱で坑内火災(136名死亡)・映画「椿姫」撮影中の岡田嘉子竹内良一と駆落ちし失踪

ハイゼンベルク不確定性原理に関する論文を提出(量子力学

28日 矢田上海総領事が南京事件につき蒋介石に抗議

29日 南京総領事館の荒木海軍大尉が自決

31日 村山貯水池(多摩湖)完成

4月1日 兵役法公布(徴兵令廃止)・小田急小田原線が営業開始

2日  鈴木商店破産

3日 漢口の日本租界で日本陸戦隊と支那人が衝突(漢口事件

4日 海軍航空本部令公布

5日  花柳病予防法公布

8日  第65銀行休業 - 株式相場大暴落

11日 日英米仏伊が武漢国民政府南京事件に関する謝罪・責任者処罰を要求

・チリのイバニェスが事実上のクーデターで大統領に就任

12日 蒋介石上海で反共クーデターを敢行(4・12事件

16日 重巡妙高が横須賀で進水

17日 第1次若槻内閣総辞職(枢密院台湾銀行救済緊急勅令案を否決)

18日 蒋介石が武漢政府に対抗して南京国民政府を樹立し中共排撃を宣言(国共分裂)

・台湾銀行が在台湾店舗を除き全支店休業、近江銀行休業 - 全国に銀行取付け発生

20日 田中義一内閣成立・東京女子高等師範教授安井コノに理学博士号(初の女博士

21日 全国で銀行取付け激化し十五銀行などが休業・日本ラグビー蹴球協会結成・金沢市で大火(748戸焼失)

22日  金銭債務支払延期緊急勅令により3週間のモラトリアム実施・銀行は一斉休業

5月2日 - ジュネーブ国際経済会議開催(52カ国)

3日 第53臨時議会召集(金融恐慌対策)

 4日  米国映画芸術科学アカデミー創立・

9日  オーストラリアで首都移転(メルボルンキャンベラ)・日銀総裁に井上準之助が就任

日本ポリドール蓄音器設立(日本国内でのレコード製造開始)

12日 ニカラグアでサンディーノがアメリカ合衆国の軍事占領に対してゲリラ戦を開始長野県木曽福島町で大火(600戸焼失)

18日- バス学校爆破事件

20日- チャールズ・リンドバーグが大西洋の単独無着陸飛行に成功・武藤金吉内務政務次官が人口増加問題につき「産児制限は怪しか らん事だ/みんなイモを食へ」と発言・ヒジャーズ王国(後のサウジアラビア)が英国より独立

26日  フォード・モデルTの生産が終了

28日  北伐軍に対する居留民の保護及び治安維持のため陸海軍を派遣(第一次山東出兵


 <増補修正版 3>大阪初空襲 4-4

2014-04-05 | 被災体験記

  6月1日 立憲民政党結成(憲政会と政友本党が合同)

3日 政治結社台湾民党が治安維持法により禁止される

9日 万国郵便連合加盟50年記念切手(4種)発表

11日 東京電信局に自動電信交換機を設置

20日 日米英3か国がジュネーブ海軍軍縮会議を開催・アムンゼン来日

27日 外務省・陸軍省・関東軍首脳が対支政策決定のため東方会議を開催

7月4日 インドネシアスカルノらがインドネシア国民同盟を結成

10日 岩波文庫創刊(漱石こゝろ」他23点)

24日 芥川龍之介睡眠薬を多量に飲んで自殺

31日 大日本排球協会(後の日本バレーボール協会)設立

8月1日 中共軍が南昌で蜂起(南昌起義シベリア鉄道経由による欧州への国際連絡運輸再開(東京-パリ15日間)

13日 NHKが第13回全国中等学校優勝野球大会を放送(初のスポーツ実況中継

24日 - 美保関事件 島根県美保ケ関沖で夜間演習中の駆逐艦「」と巡洋艦「神通」が衝突、蕨は沈没、119名死亡

9月1日  宝塚少女歌劇レビュー初演(『モン・パリ』)

9日  秋収起義起こる

13日 - 日本ビクター設立

21日 三越で日本初のファッションショー開催(水谷八重子東日出子らがモデル)

27日 ロチュース号事件をめぐる国際裁判で、常設国際司法裁判所トルコの違法性を否定する旨の判断を下す。

29日 海軍の八丈島飛行場が完成し開場式挙行・蒋介石が来日(長崎着、11月8日まで滞日)

10月1日- 火災専用の電話番号が112番から119番に変更

4日 南京政府北京政府討伐を発令

29日 昭和銀行設立(破綻した諸銀行の業務継承)・中国共産党の毛沢東が井崗山にソビエト政権を樹立

11月3日 初の明治節(明治神宮参拝者80万人)

5日 来日中の蒋介石が田中首相と会談(国民政府による中国統一に協力要請)

8日 蒋介石が離日(神戸発)

12日 ソビエト共産党がトロツキーらを除名

13日 最初の自動車用水底トンネルが米国で開通(ホランド・トンネル

全国員北原泰作二等兵が軍隊内差別を天皇に直訴し逮捕(名古屋練兵場、11月26日の軍法会議で懲役1年の判決)

・「キンダーブック」創刊(フレーベル館

12月6日労農』創刊(労農派

11日 京都市中央卸売市場開設(日本初の中央卸売市場

22日 金鶴香水(後のマンダム)設立

23日 多摩陵の造営工事が完成し奉告の御儀挙行

24日 第54議会召集

30日 上野・浅草間に日本最初の地下鉄が開通

31日 除夜の鐘寛永寺)が初めて中継放送される。

日付不詳