<増補修正版 27>
長期停電 豆電球を囲む4人の生活
燃料不足 終戦の年(昭和20年初頭)の冬は、当時で一番寒い冬だった。各家庭の玄関前には、空襲が始まりかけた頃に防火用にと配給された容積4百ℓ位のコンクリート製の水槽が1つずつ置かれて、いつも水が一杯に満たされていた。その水槽の表面には朝になると、たいてい厚さ4~5cmの厚氷が張った。これでは、いざという時に役立たないから、その厚い氷をなんとか5~6個の塊に砕き、水槽横の下水溝に捨て、水を補充して学徒動員に出動するのが常だった。処が、夕方帰ってきても、その氷の塊は殆ど体積を減らさずに元の場所に散らばっていることが常だった。南向きの玄関先での話である。この寒さは翌春も続いた。早くから殆どの工場が被爆で休止状態になり、煙の都と言われた大阪の空に煙はなく、各家庭で使う燃料も戦後しばらくは焼け跡から、焼け残りの木材を調達した家庭も多かっただろうが次第に切れて、空中へ放出する煙が減少し、空を覆う煤煙の減少がもとで、放射冷却の多大の増加が影響しただろう。燃料不足で公園の樹木の枝が次々と切られたり、折られたりしてなくなって行ったことも嘆かわしい思い出だ。
豆炭 その頃の我が家(多分、一般家庭でも)の主な暖房器具は火鉢。言うならば大きな陶器の鉢である。大小いろいろある。それに木灰を半分ほど入れ、その表面中央部に火をつけた木炭をいくつか置く。火鉢の周りに座って、炭火の上に手をかざして暖をとるのだ。炭火の量にもよるが周りに何人もおる時は手だけしか温まらない。余程寒くて火鉢を1人占めできる時は、男なら、股を開いて火鉢の縁へ両足を乗せて上がり、しゃがみ込むと、体全体が芯から温まって、やっと生き返った気持ちがしたものだった。世にこれを“股火鉢”または“キン○火鉢”と称した(失礼)。その頃、豆炭というものがあった。木炭の粉に粘土粉か何かを混ぜて、握り寿司位の大きさに固めたもので、発火量は小さいが火もちがよい(燃焼時間が長い)ので就寝時のコタツによく使われた。痩躯、冷え性の私であるが、50歳まではさすがに就寝時のコタツは不要だった。しかし、少年の頃から、窓ガラスの多い広い2階の中の1間でただ1人、洋机で勉強する夜間の足温めにはなくてはならぬものだった。他の暖房はなしだ。夜遅くなってくると、2個の豆炭は小さくなって離れ離れになり火が消えかけてくる。豆炭を鉄の火箸で近づけ直し、ふうふうと息を吹きかけて火力をもち直さなければならなかった。毎夜のことだ。
長期停電 さて、そんな寒い戦後すぐの冬の日に長期の停電は起きた。近所の10軒位、同じ柱上変圧器を共用していた家庭だけでの話である。電力の使い過ぎで変圧器が焼損したからだ。停電は各家庭が費用を分担して新しい変圧器を購入するまで1ヶ月続いた。
* 交流高圧で送られてきた電力を、家庭用に110ボルトに減圧する装置。 トランスとも呼ぶ。
停電の夜 長い冬の夜を我が家ではどう過ごしていたか。当初、私は昼間に星座図や、星の話を読んでおいて、夜になると、星空を見て楽しんだ。当時の空は本当に美しかった。もう今は都会では見られない銀河も真っ黒な空に実に鮮やかに見えた。正に満天の星だった。最初にも記したが、空襲までの大阪は煙の都とも称されていた。工業都で多数の煙突から立ち上る煙で、晴天の日でも日曜日以外の空は多少どんより曇っていたが、それでもある程度は銀河も見えた。今は煙突の煙はなくなっている筈だが、どこの大都会でも見られないのではなかろうか。街の電灯の明かりが邪魔しているとのこと。戦後、復興するまでの街は真っ暗だった。私たち、やゝ郊外の住宅地では外灯を点けない家が多く、街灯もなかった。特に、停電の我が家の通りは。余談だが大阪は水の都とも言われた。大阪には水路が多かったために八百八(はっぱくや)橋あると言われたが、今はその水路も地下に隠されて、上は道路になって橋の数は激減している筈だ。
話を戻す。その間、父が都都逸(どどいつ)を1つだけ教えてくれようとした。将来のことを慮ってのことだろう。年中忙しい我が家庭にとっては稀有のことであった。しかし、3~4日で匙は投げられた。私の音痴のためである。長期停電の頃の私はもう工専の学生だったが、私の学校は新聞に“世界一長い”と書かれた学校乗っ取りストをやっていたので勉強には支障なかった。ストのことは次稿に記す。この間に、速記術をかじったが、これも後の2回の記事とする。
隔時停電 かくして1か月が過ぎ、久しぶりに電灯が点いた夜の明るかったこと。終戦の夜に、敵機から光が見えないようにするために、電球の傘の周りから垂らせていた黒いカバーを十数ヶ月ぶりに外した時と同じ思いをしたものだった。
しかし、1時間おきに停電はやってきた。それは、少なくとも4年は続いたことを次のことからも言える。戦後3年目、理科の教師になり、必要に応じてラジオ製作を講習会で学び、知人たちに頼まれて3球の簡単な物を3台造ったことがあった。理科室用に、板の上に器具を並べて配線が見えるラジオも造った。やっと半田ごてが温もってきて工作が少し進むか進まないうちに、確実に停電はやってきて、電気ごてはたちまち冷えることの繰り返しで実にもどかしい思いをしていたから。4台目に自家用の5球スーパー電気蓄音機を長時間かけて造ってラジオ製作は終わりにした。なお、「週に2~3日の計画停電を行う」との電力会社(多分東京)のポスターが昭和26年に出されたとの新聞コラムの切抜きが手元にあることも記しておく。北朝鮮の最近の窮状を聞くにつれ、当時の食料事情(別記)などとともにあれこれを思い出す昨今である。
豆電球 いつまでもそうはしていられない。父が鉛蓄電池を買ってきた。15×35×20cm位のガラス槽に希硫酸を満たし、中に鉛板を並立させたものである。それで灯せるのは直径2cm位の豆電球1個。それでも、それまで臨時に使っていた小さな石油ランプよりは幾分明るかった。
毎夜、家族4人はその周りに集まって思い思いに仕事をした。母は次々に破れる衣類の繕いで机は要らないが、他の3人は、みかん箱や裁縫箱など、なるべく小さいものを机の代わりに置いて、その上で、仕事や勉強をしたものである。火鉢は少し離れた所にしか置けないから、毛布をかぶったりした日もあったことを思い出した。
充電器製造 蓄電池は長期間は使えない。私はそれに必要な充電器*を造ることになった。まず、近所の主人1人だけの町工場に変圧器の製作を頼んだ。出来上がったのは鉄心に直径2mm位もあるエナメル被覆電線を何百回か巻きつけた、1辺が10cmもある、形もややいびつな馬鹿でかい不細工なもの。後から考えるともっと細い線でよかったのだ。これを砂糖の木箱の蓋に据えて、日本橋*2で買ってきた、今なら小型CDそっくりの直径8㎝位の、銀粉を片面に吹き付けたようなセレン整流器を4枚組み合わせて完成。電気科の授業はまだ2ヶ月位しか受けていないのに、なぜできたかは思い出せない。新聞か雑誌にでも出ていたのだろうか。
*家庭用電気の交流を蓄電池充電に必要な直流に変える装置。
*2戦後の日本橋通りは、東側はラジオ等の電気器具をばらした中古部品の店がずらりと並び、 向かい側には古書籍商が10軒位並んでいた。
[完](平成19年11月初稿・24年3月・26年12月改訂)
昭和24年の出来事
5日 - ロンドン条約に基づき欧州評議会発足 1月25日 - 中国共産党が北京奪回
11日 - イスラエルが国際連合59番目の加盟国として認められる・ シャム王国が国号をタイ王国に正式変更する
電気製品 戦前の家庭での電力需要と言えば、少数のタングステン電灯・ラジオ、他にせいぜいあって、アイロン・扇風機位のものか。今のように多電力を消費する多種多様の機器はなかった。そうだから柱上変圧器の大きさは最近のものに比べて、見かけの体積は1回り小さく、その後の材料や性能の改良を考えると、能力ははるかに小さかったろう。処が、終戦直後から急速に各家庭に普及した電気製品があった。電気パン焼き器と電熱器である。どちらも手造りのごく粗雑な代物だったが、その時代の2大ヒット商品だったと思う。前者は今もあるような製品の原型をしていた。小麦粉は多少出回りかけていたのだろう。定かには覚えていないが、時々はパンを焼いたのだった。はっきりと覚えていることは、まだ、国内でパンが見られない終戦の年末近い頃、GHQから食パンが各家庭に少量支給された。以前記したように、茶色い団子汁か、時たま1升瓶でザクザクと搗いた白くはなりきれない米飯しか食べていない身には、こんなに白くて美味しいものがあったのかと思ったことだ。正月に餅はなくともパンさえあればよいのにとさえ思ったほどだった。
後者の電熱器は直径25cm位の円盤状の粘土の厚板に渦巻状の溝を掘って、焼いて固めた耐熱盤の溝にニクロム線をはめ込んで、上に鍋や薬缶を乗せられるようにしただけの簡単なものだ。本来は厨房用だろうが、あらゆる燃料に事欠いた時代に、火鉢替わりにも使えて一躍貴重な存在となっていた。ただし、超インフレで懐の寒い時代、電気代もこたえたはずだが……。
盗電 電気代が高いのに変圧器が焼け切れるほどに電気を使ったのか。“イエス”。停電になる前だったか、後だったか、2階の小部屋にいて驚いたことがある。ふと気がつくと、長屋続きの隣の屋根から1人の大男が音もなく、我が家の物干し台へ上がってきたではないか。すわ泥棒と身構えたが、なにか様子が違う。男は家の中を窺がう様子もなく、窓のすぐ外で伸び上がって両手で何かをしている様子、そっと近づくと、窓の上にある電力量計(いわゆるメーター)の引き込み口の辺りをまさぐっていた。男はすぐに眼の前を横切って隣家へ。暫し考えて合点。盗電の有無を調べていたのだ。その頃、我が屋並みのメーターは、2階の窓の上にあった。電線をできるだけ短くするために電線の引き込み口を電柱に一番近い所に設けたからだろう。盗電するには、電気がメーターを通る以前、すなわちメーターより外の部分の電線に分岐回路を接続して、そこから室内へ電線を引きこまなければならないから、それを調べに回っていたのだ。今、これを書いていて、当時の検針者は一々2階まで上がっていたことを思い出した。
本論へ戻る。変圧器が焼けたのは、きっと、盗電もあったのだろう。ともかく、寒くて、しかも燃料が何もかも高くて手に入りにくかった時代、公園の樹々の枝も燃料にと盗伐され、公衆浴場(一般家庭に風呂はなかった)も膝くらいまでしか湯を沸さなくて、夜遅くにはドロドロだった時代。盗電で電気をばんばん使った家庭もあったのではなかろうか。
p> 停電の夜 長い冬の夜を我が家ではどう過ごしていたか。当初、私は昼間に星座図や、星の話を読んでおいて、夜になると、星空を見て楽しんだ。当時の空は本当に美しかった。もう今は都会では見られない銀河も真っ黒な空に実に鮮やかに見えた。正に満天の星だった。最初にも記したが、空襲までの大阪は煙の都とも称されていた。工業都で多数の煙突から立ち上る煙で、晴天の日でも日曜日以外の空は多少どんより曇っていたが、それでもある程度は銀河も見えた。今は煙突の煙はなくなっている筈だが、どこの大都会でも見られないのではなかろうか。街の電灯の明かりが邪魔しているとのこと。戦後、復興するまでの街は真っ暗だった。私たち、やゝ郊外の住宅地では外灯を点けない家が多く、街灯もなかった。特に、停電の我が家の通りは。余談だが大阪は水の都とも言われた。大阪には水路が多かったために八百八(はっぱくや)橋あると言われたが、今はその水路も地下に隠されて、上は道路になって橋の数は激減している筈だ。話を戻す。その間、父が都都逸(どどいつ)を1つだけ教えてくれようとした。将来のことを慮ってのことだろう。年中忙しい我が家庭にとっては稀有のことであった。しかし、3~4日で匙は投げられた。私の音痴のためである。長期停電の頃の私はもう工専の学生だったが、私の学校は新聞に“世界一長い”と書かれた学校乗っ取りストをやっていたので勉強には支障なかった。ストのことは次稿に記す。この間に、速記術をかじったが、これも後の2回の記事とする。
隔時停電 かくして1か月が過ぎ、久しぶりに電灯が点いた夜の明るかったこと。終戦の夜に、敵機から光が見えないようにするために、電球の傘の周りから垂らせていた黒いカバーを十数ヶ月ぶりに外した時と同じ思いをしたものだった。
しかし、1時間おきに停電はやってきた。それは、少なくとも4年は続いたことを次のことからも言える。戦後3年目、理科の教師になり、必要に応じてラジオ製作を講習会で学び、知人たちに頼まれて3球の簡単な物を3台造ったことがあった。理科室用に、板の上に器具を並べて配線が見えるラジオも造った。やっと半田ごてが温もってきて工作が少し進むか進まないうちに、確実に停電はやってきて、電気ごてはたちまち冷えることの繰り返しで実にもどかしい思いをしていたから。4台目に自家用の5球スーパー電気蓄音機を長時間かけて造ってラジオ製作は終わりにした。なお、「週に2~3日の計画停電を行う」との電力会社(多分東京)のポスターが昭和26年に出されたとの新聞コラムの切抜きが手元にあることも記しておく。北朝鮮の最近の窮状を聞くにつれ、当時の食料事情(別記)などとともにあれこれを思い出す昨今である。
豆電球 いつまでもそうはしていられない。父が鉛蓄電池を買ってきた。15×35×20cm位のガラス槽に希硫酸を満たし、中に鉛板を並立させたものである。それで灯せるのは直径2cm位の豆電球1個。それでも、それまで臨時に使っていた小さな石油ランプよりは幾分明るかった。
毎夜、家族4人はその周りに集まって思い思いに仕事をした。母は次々に破れる衣類の繕いで机は要らないが、他の3人は、みかん箱や裁縫箱など、なるべく小さいものを机の代わりに置いて、その上で、仕事や勉強をしたものである。火鉢は少し離れた所にしか置けないから、毛布をかぶったりした日もあったことを思い出した。
充電器製造 蓄電池は長期間は使えない。私はそれに必要な充電器*を造ることになった。まず、近所の主人1人だけの町工場に変圧器の製作を頼んだ。出来上がったのは鉄心に直径2mm位もあるエナメル被覆電線を何百回か巻きつけた、1辺が10cmもある、形もややいびつな馬鹿でかい不細工なもの。後から考えるともっと細い線でよかったのだ。これを砂糖の木箱の蓋に据えて、日本橋*2で買ってきた、今なら小型CDそっくりの直径8㎝位の、銀粉を片面に吹き付けたようなセレン整流器を4枚組み合わせて完成。電気科の授業はまだ2ヶ月位しか受けていないのに、なぜできたかは思い出せない。新聞か雑誌にでも出ていたのだろうか。
*家庭用電気の交流を蓄電池充電に必要な直流に変える装置。
*2戦後の日本橋通りは、東側はラジオ等の電気器具をばらした中古部品の店がずらりと並び、 向かい側には古書籍商が10軒位並んでいた。
[完](平成19年11月初稿・24年3月・26年12月改訂)
昭和24年の出来事
5日 - ロンドン条約に基づき欧州評議会発足 1月25日 - 中国共産党が北京奪回