昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

 <増補修正版 27>長期停電 豆電球を囲む4人の生活(2-1)

2014-12-03 | 昭和初期

  <増補修正版 27>

      長期停電 豆電球を囲む4人の生活          

  燃料不足 終戦の年(昭和20年初頭)の冬は、当時で一番寒い冬だった。各家庭の玄関前には、空襲が始まりかけた頃に防火用にと配給された容積4百ℓ位のコンクリート製の水槽が1つずつ置かれて、いつも水が一杯に満たされていた。その水槽の表面には朝になると、たいてい厚さ4~5cmの厚氷が張った。これでは、いざという時に役立たないから、その厚い氷をなんとか5~6個の塊に砕き、水槽横の下水溝に捨て、水を補充して学徒動員に出動するのが常だった。処が、夕方帰ってきても、その氷の塊は殆ど体積を減らさずに元の場所に散らばっていることが常だった。南向きの玄関先での話である。この寒さは翌春も続いた。早くから殆どの工場が被爆で休止状態になり、煙の都と言われた大阪の空に煙はなく、各家庭で使う燃料も戦後しばらくは焼け跡から、焼け残りの木材を調達した家庭も多かっただろうが次第に切れて、空中へ放出する煙が減少し、空を覆う煤煙の減少がもとで、放射冷却の多大の増加が影響しただろう。燃料不足で公園の樹木の枝が次々と切られたり、折られたりしてなくなって行ったことも嘆かわしい思い出だ。

 

  豆炭 その頃の我が家(多分、一般家庭でも)の主な暖房器具は火鉢。言うならば大きな陶器の鉢である。大小いろいろある。それに木灰を半分ほど入れ、その表面中央部に火をつけた木炭をいくつか置く。火鉢の周りに座って、炭火の上に手をかざして暖をとるのだ。炭火の量にもよるが周りに何人もおる時は手だけしか温まらない。余程寒くて火鉢を1人占めできる時は、男なら、股を開いて火鉢の縁へ両足を乗せて上がり、しゃがみ込むと、体全体が芯から温まって、やっと生き返った気持ちがしたものだった。世にこれを“股火鉢”または“キン火鉢”と称した(失礼)。その頃、豆炭というものがあった。木炭の粉に粘土粉か何かを混ぜて、握り寿司位の大きさに固めたもので、発火量は小さいが火もちがよい(燃焼時間が長い)ので就寝時のコタツによく使われた。痩躯、冷え性の私であるが、50歳まではさすがに就寝時のコタツは不要だった。しかし、少年の頃から、窓ガラスの多い広い2階の中の1間でただ1人、洋机で勉強する夜間の足温めにはなくてはならぬものだった。他の暖房はなしだ。夜遅くなってくると、2個の豆炭は小さくなって離れ離れになり火が消えかけてくる。豆炭を鉄の火箸で近づけ直し、ふうふうと息を吹きかけて火力をもち直さなければならなかった。毎夜のことだ。

 

  長期停電 さて、そんな寒い戦後すぐの冬の日に長期の停電は起きた。近所の10軒位、同じ柱上変圧器を共用していた家庭だけでの話である。電力の使い過ぎで変圧器が焼損したからだ。停電は各家庭が費用を分担して新しい変圧器を購入するまで1ヶ月続いた。

 * 交流高圧で送られてきた電力を、家庭用に110ボルトに減圧する装置。 トランスとも呼ぶ。

  停電の夜 長い冬の夜を我が家ではどう過ごしていたか。当初、私は昼間に星座図や、星の話を読んでおいて、夜になると、星空を見て楽しんだ。当時の空は本当に美しかった。もう今は都会では見られない銀河も真っ黒な空に実に鮮やかに見えた。正に満天の星だった。最初にも記したが、空襲までの大阪は煙の都とも称されていた。工業都で多数の煙突から立ち上る煙で、晴天の日でも日曜日以外の空は多少どんより曇っていたが、それでもある程度は銀河も見えた。今は煙突の煙はなくなっている筈だが、どこの大都会でも見られないのではなかろうか。街の電灯の明かりが邪魔しているとのこと。戦後、復興するまでの街は真っ暗だった。私たち、やゝ郊外の住宅地では外灯を点けない家が多く、街灯もなかった。特に、停電の我が家の通りは。余談だが大阪は水の都とも言われた。大阪には水路が多かったために八百八(はっぱくや)橋あると言われたが、今はその水路も地下に隠されて、上は道路になって橋の数は激減している筈だ。

話を戻す。その間、父が都都逸(どどいつ)を1つだけ教えてくれようとした。将来のことを慮ってのことだろう。年中忙しい我が家庭にとっては稀有のことであった。しかし、3~4日で匙は投げられた。私の音痴のためである。長期停電の頃の私はもう工専の学生だったが、私の学校は新聞に“世界一長い”と書かれた学校乗っ取りストをやっていたので勉強には支障なかった。ストのことは次稿に記す。この間に、速記術をかじったが、これも後の2回の記事とする。

  隔時停電 かくして1か月が過ぎ、久しぶりに電灯が点いた夜の明るかったこと。終戦の夜に、敵機から光が見えないようにするために、電球の傘の周りから垂らせていた黒いカバーを十数ヶ月ぶりに外した時と同じ思いをしたものだった。

しかし、1時間おきに停電はやってきた。それは、少なくとも4年は続いたことを次のことからも言える。戦後3年目、理科の教師になり、必要に応じてラジオ製作を講習会で学び、知人たちに頼まれて3球の簡単な物を3台造ったことがあった。理科室用に、板の上に器具を並べて配線が見えるラジオも造った。やっと半田ごてが温もってきて工作が少し進むか進まないうちに、確実に停電はやってきて、電気ごてはたちまち冷えることの繰り返しで実にもどかしい思いをしていたから。4台目に自家用の5球スーパー電気蓄音機を長時間かけて造ってラジオ製作は終わりにした。なお、「週に2~3日の計画停電を行う」との電力会社(多分東京)のポスターが昭和26年に出されたとの新聞コラムの切抜きが手元にあることも記しておく。北朝鮮の最近の窮状を聞くにつれ、当時の食料事情(別記)などとともにあれこれを思い出す昨今である。

  豆電球 いつまでもそうはしていられない。父が鉛蓄電池を買ってきた。15×35×20cm位のガラス槽に希硫酸を満たし、中に鉛板を並立させたものである。それで灯せるのは直径2cm位の豆電球1個。それでも、それまで臨時に使っていた小さな石油ランプよりは幾分明るかった。

毎夜、家族4人はその周りに集まって思い思いに仕事をした。母は次々に破れる衣類の繕いで机は要らないが、他の3人は、みかん箱や裁縫箱など、なるべく小さいものを机の代わりに置いて、その上で、仕事や勉強をしたものである。火鉢は少し離れた所にしか置けないから、毛布をかぶったりした日もあったことを思い出した。

  充電器製造 蓄電池は長期間は使えない。私はそれに必要な充電器を造ることになった。まず、近所の主人1人だけの町工場に変圧器の製作を頼んだ。出来上がったのは鉄心に直径2mm位もあるエナメル被覆電線を何百回か巻きつけた、1辺が10cmもある、形もややいびつな馬鹿でかい不細工なもの。後から考えるともっと細い線でよかったのだ。これを砂糖の木箱の蓋に据えて、日本橋*2で買ってきた、今なら小型CDそっくりの直径8㎝位の、銀粉を片面に吹き付けたようなセレン整流器を4枚組み合わせて完成。電気科の授業はまだ2ヶ月位しか受けていないのに、なぜできたかは思い出せない。新聞か雑誌にでも出ていたのだろうか。 

  *家庭用電気の交流を蓄電池充電に必要な直流に変える装置。

*2戦後の日本橋通りは、東側はラジオ等の電気器具をばらした中古部品の店がずらりと並び、 向かい側には古書籍商が10軒位並んでいた。

        

          [完](平成19年11月初稿・24年3月・26年12月改訂)

 

    昭和24年の出来事  

5月1 - 海王星衛星ネレイドが発見される

5日 - ロンドン条約に基づき欧州評議会発足 1月25 - 中国共産党北京奪回

11 - イスラエル国際連合59番目の加盟国として認められる・ シャム王国が国号をタイ王国に正式変更する

12 - ソ連ベルリン封鎖解除

  電気製品 戦前の家庭での電力需要と言えば、少数のタングステン電灯・ラジオ、他にせいぜいあって、アイロン・扇風機位のものか。今のように多電力を消費する多種多様の機器はなかった。そうだから柱上変圧器の大きさは最近のものに比べて、見かけの体積は1回り小さく、その後の材料や性能の改良を考えると、能力ははるかに小さかったろう。処が、終戦直後から急速に各家庭に普及した電気製品があった。電気パン焼き器と電熱器である。どちらも手造りのごく粗雑な代物だったが、その時代の2大ヒット商品だったと思う。前者は今もあるような製品の原型をしていた。小麦粉は多少出回りかけていたのだろう。定かには覚えていないが、時々はパンを焼いたのだった。はっきりと覚えていることは、まだ、国内でパンが見られない終戦の年末近い頃、GHQから食パンが各家庭に少量支給された。以前記したように、茶色い団子汁か、時たま1升瓶でザクザクと搗いた白くはなりきれない米飯しか食べていない身には、こんなに白くて美味しいものがあったのかと思ったことだ。正月に餅はなくともパンさえあればよいのにとさえ思ったほどだった。

後者の電熱器は直径25cm位の円盤状の粘土の厚板に渦巻状の溝を掘って、焼いて固めた耐熱盤の溝にニクロム線をはめ込んで、上に鍋や薬缶を乗せられるようにしただけの簡単なものだ。本来は厨房用だろうが、あらゆる燃料に事欠いた時代に、火鉢替わりにも使えて一躍貴重な存在となっていた。ただし、超インフレで懐の寒い時代、電気代もこたえたはずだが……。

 

  盗電 電気代が高いのに変圧器が焼け切れるほどに電気を使ったのか。“イエス”。停電になる前だったか、後だったか、2階の小部屋にいて驚いたことがある。ふと気がつくと、長屋続きの隣の屋根から1人の大男が音もなく、我が家の物干し台へ上がってきたではないか。すわ泥棒と身構えたが、なにか様子が違う。男は家の中を窺がう様子もなく、窓のすぐ外で伸び上がって両手で何かをしている様子、そっと近づくと、窓の上にある電力量計(いわゆるメーター)の引き込み口の辺りをまさぐっていた。男はすぐに眼の前を横切って隣家へ。暫し考えて合点。盗電の有無を調べていたのだ。その頃、我が屋並みのメーターは、2階の窓の上にあった。電線をできるだけ短くするために電線の引き込み口を電柱に一番近い所に設けたからだろう。盗電するには、電気がメーターを通る以前、すなわちメーターより外の部分の電線に分岐回路を接続して、そこから室内へ電線を引きこまなければならないから、それを調べに回っていたのだ。今、これを書いていて、当時の検針者は一々2階まで上がっていたことを思い出した。

本論へ戻る。変圧器が焼けたのは、きっと、盗電もあったのだろう。ともかく、寒くて、しかも燃料が何もかも高くて手に入りにくかった時代、公園の樹々の枝も燃料にと盗伐され、公衆浴場(一般家庭に風呂はなかった)も膝くらいまでしか湯を沸さなくて、夜遅くにはドロドロだった時代。盗電で電気をばんばん使った家庭もあったのではなかろうか。

p>  停電の夜 長い冬の夜を我が家ではどう過ごしていたか。当初、私は昼間に星座図や、星の話を読んでおいて、夜になると、星空を見て楽しんだ。当時の空は本当に美しかった。もう今は都会では見られない銀河も真っ黒な空に実に鮮やかに見えた。正に満天の星だった。最初にも記したが、空襲までの大阪は煙の都とも称されていた。工業都で多数の煙突から立ち上る煙で、晴天の日でも日曜日以外の空は多少どんより曇っていたが、それでもある程度は銀河も見えた。今は煙突の煙はなくなっている筈だが、どこの大都会でも見られないのではなかろうか。街の電灯の明かりが邪魔しているとのこと。戦後、復興するまでの街は真っ暗だった。私たち、やゝ郊外の住宅地では外灯を点けない家が多く、街灯もなかった。特に、停電の我が家の通りは。余談だが大阪は水の都とも言われた。大阪には水路が多かったために八百八(はっぱくや)橋あると言われたが、今はその水路も地下に隠されて、上は道路になって橋の数は激減している筈だ。

話を戻す。その間、父が都都逸(どどいつ)を1つだけ教えてくれようとした。将来のことを慮ってのことだろう。年中忙しい我が家庭にとっては稀有のことであった。しかし、3~4日で匙は投げられた。私の音痴のためである。長期停電の頃の私はもう工専の学生だったが、私の学校は新聞に“世界一長い”と書かれた学校乗っ取りストをやっていたので勉強には支障なかった。ストのことは次稿に記す。この間に、速記術をかじったが、これも後の2回の記事とする。

  隔時停電 かくして1か月が過ぎ、久しぶりに電灯が点いた夜の明るかったこと。終戦の夜に、敵機から光が見えないようにするために、電球の傘の周りから垂らせていた黒いカバーを十数ヶ月ぶりに外した時と同じ思いをしたものだった。

しかし、1時間おきに停電はやってきた。それは、少なくとも4年は続いたことを次のことからも言える。戦後3年目、理科の教師になり、必要に応じてラジオ製作を講習会で学び、知人たちに頼まれて3球の簡単な物を3台造ったことがあった。理科室用に、板の上に器具を並べて配線が見えるラジオも造った。やっと半田ごてが温もってきて工作が少し進むか進まないうちに、確実に停電はやってきて、電気ごてはたちまち冷えることの繰り返しで実にもどかしい思いをしていたから。4台目に自家用の5球スーパー電気蓄音機を長時間かけて造ってラジオ製作は終わりにした。なお、「週に2~3日の計画停電を行う」との電力会社(多分東京)のポスターが昭和26年に出されたとの新聞コラムの切抜きが手元にあることも記しておく。北朝鮮の最近の窮状を聞くにつれ、当時の食料事情(別記)などとともにあれこれを思い出す昨今である。

  豆電球 いつまでもそうはしていられない。父が鉛蓄電池を買ってきた。15×35×20cm位のガラス槽に希硫酸を満たし、中に鉛板を並立させたものである。それで灯せるのは直径2cm位の豆電球1個。それでも、それまで臨時に使っていた小さな石油ランプよりは幾分明るかった。

毎夜、家族4人はその周りに集まって思い思いに仕事をした。母は次々に破れる衣類の繕いで机は要らないが、他の3人は、みかん箱や裁縫箱など、なるべく小さいものを机の代わりに置いて、その上で、仕事や勉強をしたものである。火鉢は少し離れた所にしか置けないから、毛布をかぶったりした日もあったことを思い出した。

  充電器製造 蓄電池は長期間は使えない。私はそれに必要な充電器を造ることになった。まず、近所の主人1人だけの町工場に変圧器の製作を頼んだ。出来上がったのは鉄心に直径2mm位もあるエナメル被覆電線を何百回か巻きつけた、1辺が10cmもある、形もややいびつな馬鹿でかい不細工なもの。後から考えるともっと細い線でよかったのだ。これを砂糖の木箱の蓋に据えて、日本橋*2で買ってきた、今なら小型CDそっくりの直径8㎝位の、銀粉を片面に吹き付けたようなセレン整流器を4枚組み合わせて完成。電気科の授業はまだ2ヶ月位しか受けていないのに、なぜできたかは思い出せない。新聞か雑誌にでも出ていたのだろうか。 

  *家庭用電気の交流を蓄電池充電に必要な直流に変える装置。

*2戦後の日本橋通りは、東側はラジオ等の電気器具をばらした中古部品の店がずらりと並び、 向かい側には古書籍商が10軒位並んでいた。

        

          [完](平成19年11月初稿・24年3月・26年12月改訂)

 

    昭和24年の出来事  

5月1 - 海王星衛星ネレイドが発見される

5日 - ロンドン条約に基づき欧州評議会発足 1月25 - 中国共産党北京奪回

11 - イスラエル国際連合59番目の加盟国として認められる・ シャム王国が国号をタイ王国に正式変更する

12 - ソ連ベルリン封鎖解除


<増補修正版 27>長期停電豆電球を囲む4人の生活(2-2)

2014-12-03 | 昭和初期

  停電の夜 長い冬の夜を我が家ではどう過ごしていたか。当初、私は昼間に星座図や、星の話を読んでおいて、夜になると、星空を見て楽しんだ。当時の空は本当に美しかった。もう今は都会では見られない銀河も真っ黒な空に実に鮮やかに見えた。正に満天の星だった。最初にも記したが、空襲までの大阪は煙の都とも称されていた。工業都で多数の煙突から立ち上る煙で、晴天の日でも日曜日以外の空は多少どんより曇っていたが、それでもある程度は銀河も見えた。今は煙突の煙はなくなっている筈だが、どこの大都会でも見られないのではなかろうか。街の電灯の明かりが邪魔しているとのこと。戦後、復興するまでの街は真っ暗だった。私たち、やゝ郊外の住宅地では外灯を点けない家が多く、街灯もなかった。特に、停電の我が家の通りは。余談だが大阪は水の都とも言われた。大阪には水路が多かったために八百八(はっぱくや)橋あると言われたが、今はその水路も地下に隠されて、上は道路になって橋の数は激減している筈だ。

話を戻す。その間、父が都都逸(どどいつ)を1つだけ教えてくれようとした。将来のことを慮ってのことだろう。年中忙しい我が家庭にとっては稀有のことであった。しかし、3~4日で匙は投げられた。私の音痴のためである。長期停電の頃の私はもう工専の学生だったが、私の学校は新聞に“世界一長い”と書かれた学校乗っ取りストをやっていたので勉強には支障なかった。ストのことは次稿に記す。この間に、速記術をかじったが、これも後の2回の記事とする。

 

  隔時停電 かくして1か月が過ぎ、久しぶりに電灯が点いた夜の明るかったこと。終戦の夜に、敵機から光が見えないようにするために、電球の傘の周りから垂らせていた黒いカバーを十数ヶ月ぶりに外した時と同じ思いをしたものだった。

しかし、1時間おきに停電はやってきた。それは、少なくとも4年は続いたことを次のことからも言える。戦後3年目、理科の教師になり、必要に応じてラジオ製作を講習会で学び、知人たちに頼まれて3球の簡単な物を3台造ったことがあった。理科室用に、板の上に器具を並べて配線が見えるラジオも造った。やっと半田ごてが温もってきて工作が少し進むか進まないうちに、確実に停電はやってきて、電気ごてはたちまち冷えることの繰り返しで実にもどかしい思いをしていたから。4台目に自家用の5球スーパー電気蓄音機を長時間かけて造ってラジオ製作は終わりにした。なお、「週に2~3日の計画停電を行う」との電力会社(多分東京)のポスターが昭和26年に出されたとの新聞コラムの切抜きが手元にあることも記しておく。北朝鮮の最近の窮状を聞くにつれ、当時の食料事情(別記)などとともにあれこれを思い出す昨今である。

 

  豆電球 いつまでもそうはしていられない。父が鉛蓄電池を買ってきた。15×35×20cm位のガラス槽に希硫酸を満たし、中に鉛板を並立させたものである。それで灯せるのは直径2cm位の豆電球1個。それでも、それまで臨時に使っていた小さな石油ランプよりは幾分明るかった。

毎夜、家族4人はその周りに集まって思い思いに仕事をした。母は次々に破れる衣類の繕いで机は要らないが、他の3人は、みかん箱や裁縫箱など、なるべく小さいものを机の代わりに置いて、その上で、仕事や勉強をしたものである。火鉢は少し離れた所にしか置けないから、毛布をかぶったりした日もあったことを思い出した。

 

  充電器製造 蓄電池は長期間は使えない。私はそれに必要な充電器を造ることになった。まず、近所の主人1人だけの町工場に変圧器の製作を頼んだ。出来上がったのは鉄心に直径2mm位もあるエナメル被覆電線を何百回か巻きつけた、1辺が10cmもある、形もややいびつな馬鹿でかい不細工なもの。後から考えるともっと細い線でよかったのだ。これを砂糖の木箱の蓋に据えて、日本橋*2で買ってきた、今なら小型CDそっくりの直径8㎝位の、銀粉を片面に吹き付けたようなセレン整流器を4枚組み合わせて完成。電気科の授業はまだ2ヶ月位しか受けていないのに、なぜできたかは思い出せない。新聞か雑誌にでも出ていたのだろうか。 

  *家庭用電気の交流を蓄電池充電に必要な直流に変える装置。

*2戦後の日本橋通りは、東側はラジオ等の電気器具をばらした中古部品の店がずらりと並び、 向かい側には古書籍商が10軒位並んでいた。

        

          [完](平成19年11月初稿・24年3月・26年12月改訂)

 

    昭和24年の出来事    

5月1 - 海王星衛星ネレイドが発見される

5日 - ロンドン条約に基づき欧州評議会発足 1月25 - 中国共産党北京奪回

11 - イスラエル国際連合59番目の加盟国として認められる・ シャム王国が国号をタイ王国に正式変更する

12 - ソ連ベルリン封鎖解除


<増補修正版 26>それ断線、電車の後押し(2-1)

2014-12-01 | 昭和初期

 

 <増補修正版 26>

            それ断線、電車の後押し      

          生兵法で危うく感電死    

                  1本架線で馬は感電    

  後押し 「チンチン」と鈴の音、運転手が天井の片隅から垂れている紐(ひも)の端を勢いよく引くと、紐は客席の窓上を通って電車の後端で、車掌席の天井の鈴を大きく振って鳴らす。と、「断線です。押して下さい」との車掌の声。待ってましたと言わんばかりに、我々学生ばかり10人位が、惰力で走っている電車の3つの乗降口からいっせいに跳び下りて、市電の側面や後部に散らばり、ヨイショ、ヨイショと車両を押す。車両は10人以上の大人を乗せたまま、ズルズル、ズーと滑り出し、舗装道路面と同じ高さに埋め込まれたレールの上をのろのろ進んでゆく。20~30m位進むと、再び車内から「チンチン」と鈴の音。車掌が断線区間を無事乗り越えたことを、窓上の反対側の紐の端を引いて運転手席の鈴を鳴らせて知らせたのだ。とたんに、我々は押すのをやめて、少し速度を増しかけた電車に次々に跳び乗る。電車は再びいつもの速度でゴトゴトゴーと走りだす。これは、終戦半年位前からか、勤労動員に向かう市電で、殆ど毎日、後には、日に2~3回も出くわしたこともある現象だった。

当時、(大阪市)阿倍野区の文の里から南海平野線で西行、終点の恵美須町、そこから市電でまた西行して大正橋、南下して大正区南端の大運橋下車、計15km位の行程だったが、後押しをしたのはすべて最後の2~3km範囲だけだったように思う。今、考えてみると、電車が満員になる主要区間では、保守工事ができていたが、周辺部までは手が回らないか、取り替える電線がなかったか、恐らく、両方だっただろうか。元気な少壮男性は殆ど戦場か工場へ送られ、市電の車掌は若い女性ばかりの人手不足の時代だったし、物資不足で、武器・弾丸の製造のために甲子園の大鉄傘や、多数の銅像、家庭の鉄器類も供出さされたのだったから。外国からの物資購入のためだろうが、家庭の貴金属・宝石の供出も要求されていたのだった。大阪市発展の基礎を築いた関市長の天王寺公園にあった銅像が、戦後永らく、台座だけになっていたのを見ては、苦い戦争の思い出がよみがえったことだった。日本初の軍神広瀬中佐の像まで供出さされたとのこと。

 

  (残念ながら図がまた入りません)

     (前照灯の位置あいまい)                  

断線が始まった初めの頃は、運転手からの「チンチン」の合図があると、車掌がガタンと後ろ中央の窓を落とし、そこから上半身を後ろ向きにのけぞらせて出し、上を見上げて、目の前に垂れている2本の綱の下方を両手で1本ずつ同時に手繰り寄せて引き下げる。綱の上端は電車の屋根から立ち上がっている2本のポールのめいめいの先端近くにつながっているのだ。切れて垂れ下がったりしている電線にポールが接触しないようにかわし、断線区間を通り過ぎると綱を緩めて、ポールの先端の滑車の溝を再び電線(トロリー線)にはめ込む。今度は車掌から運転手へ「チンチン」の合図で、電車はもと通りに走ったものだ。先に記した後押しの場合とどう違うかは後で詳しく説明する。     

         戦後焼け跡の光景

戦後は動員先の方面へは全く行くことがなかったので、市電の後押しがいつまで必要だったのかは分からない。時代が飛ぶが、被災記を先に出してしまっているので、戦後焼け跡の光景にここで少し触れておく。

 終戦後1ヶ月ほどして、当時の大阪市では南端の阿倍野区から同市の北東端の旭区まで、後押しをしたのとはほぼ反対方向の学校へ通学することになった。今度は全く市の中央部は通らない経路だが、後押しをしたことは1度もなかった。とは言っても、空襲の被害で不通の箇所があちらこちらにあり、徒歩でつなぎつなぎ総計5.5km位は歩いて行ったのだった。 

家から、先ずは、南大阪の玄関口天王寺へ南海平野線で行きたいのだが、近所の停留所に来る電車は既に屋根の上にまで23のひとが腹ばっている有様。この真似をする勇気はなかった。窓の外でも足場と掴める何かがある所や後部排障器*はすでに先客で満員。仕方なしに25分位だったかを先ずは歩いて天王寺へ。

  *「電車の後押し付図」参照。 

 天王寺で省線(JR環状線)には乗れた。大阪城に近い桜ノ宮で降りて東側へ出る。終戦前日に猛爆を受けて壊滅した砲兵工廠の反対側だ。辺りは殆ど見渡す限り赤錆(さび)色の焼け野原で、道路以外の、つまり家のあった場所は崩れ落ちた瓦や壁土で、一面30cm位盛り上がり、ほぼ均等にならされたように見えた。現に、私は近道をするために道路は通らずに、その上を斜めの方向に不自由なく歩いていたのだから。どこの町の焼け跡も同じような光景だった。赤錆色は建築に使われていた釘などが雨に打たれて出た錆のせいだろう。ただ、この場所はぽつぽつといくつかの土蔵があるのが目立った。すべて外扉は開け放たれていて、そこにひとが住んでいる気配があった。所々に、これもごく少し点在するだけだったが、焼け残った木材やスレートまたはトタンで造った急ごしらえの小さな掘っ建て小屋もあり、ある朝、その1軒の横の、地面から立ち上がったむき出しの水道管の前でうずくまって洗い物をしていた和服姿の主婦の姿が、いまだに眼に焼きついている。まだ霜の残っている寒い朝だった。何しろ、一面赤錆色のだだっ広い視野の中で、毎日のように通いながらやゝ早朝ということもあってか、めったに動くものの姿は見なかったからかも知れない。  

そのうち天王寺から学校まで市電で通えるようになったのだが、戦後どれ位のことか、残念ながら、日記が捨てられたので分からない。

                (平成元年頃作成、1326年補記)

    戦後焼け跡の光景

戦後は動員先の方面へは全く行くことがなかったので、市電の後押しがいつまで必要だったのかは分からない。時代が飛ぶが、被災記を先に出してしまっているので、戦後焼け跡の光景にここで少し触れておく。

 終戦後1ヶ月ほどして、当時の大阪市では南端の阿倍野区から同市の北東端の旭区まで、後押しをしたのとはほぼ反対方向の学校へ通学することになった。今度は全く市の中央部は通らない経路だが、後押しをしたことは1度もなかった。とは言っても、空襲の被害で不通の箇所があちらこちらにあり、徒歩でつなぎつなぎ総計5.5km位は歩いて行ったのだった。

 

家から、先ずは、南大阪の玄関口天王寺へ南海平野線で行きたいのだが、近所の停留所に来る電車は既に屋根の上にまで23のひとが腹ばっている有様。この真似をする勇気はなかった。窓の外でも足場と掴める何かがある所や後部排障器*はすでに先客で満員。仕方なしに25分位だったかを先ずは歩いて天王寺へ。

 

 

 

 *「電車の後押し付図」参照。 

 

 

 

天王寺で省線(JR環状線)には乗れた。大阪城に近い桜ノ宮で降りて東側へ出る。終戦前日に猛爆を受けて壊滅した砲兵工廠の反対側だ。辺りは殆ど見渡す限り赤錆(さび)色の焼け野原で、道路以外の、つまり家のあった場所は崩れ落ちた瓦や壁土で、一面30cm位盛り上がり、ほぼ均等にならされたように見えた。現に、私は近道をするために道路は通らずに、その上を斜めの方向に不自由なく歩いていたのだから。どこの町の焼け跡も同じような光景だった。赤錆色は建築に使われていた釘などが雨に打たれて出た錆のせいだろう。ただ、この場所はぽつぽつといくつかの土蔵があるのが目立った。すべて外扉は開け放たれていて、そこにひとが住んでいる気配があった。所々に、これもごく少し点在するだけだったが、焼け残った木材やスレートまたはトタンで造った急ごしらえの小さな掘っ建て小屋もあり、ある朝、その1軒の横の、地面から立ち上がったむき出しの水道管の前でうずくまって洗い物をしていた和服姿の主婦の姿が、いまだに眼に焼きついている。まだ霜の残っている寒い朝だった。何しろ、一面赤錆色のだだっ広い視野の中で、毎日のように通いながらやゝ早朝ということもあってか、めったに動くものの姿は見なかったからかも知れない。  

            (平成元年頃作成、1326年補記)

  

      昭和23年の出来事

   1月1  二重橋を開放し、国民一般参賀(23年ぶり)・英国で鉄道を国有化(英国国有鉄道創設)・イタリア共和国憲法施行・関税および貿易に関する一般協定 (GATT) 発効・ベネルクス関税同盟が発効

2 - 民衆芸術劇場第1回公演「破戒」(有楽座

4  日米国際電話再開・ビルマ(後のミャンマー)がイギリスから独立

5 - 名鉄瀬戸線旭前大森間で脱線事故(死者35名・重軽傷154名)

6 - ロイヤル陸軍長官が「日本共産主義に対する防壁にする」と声明

12 - 夫婦で乳児103名を殺害し養育費配給品を着服した事件が発覚(寿産院事件、夫婦の逮捕は15日)

13 - 平野力三前農相が公職追放

17 - オランダ軍とインドネシア独立勢力のジャワ島における交戦が停戦

21 - 松本治一郎参議院副議長が通常国会開会式臨席の天皇に対し「カニの横ばい」式の拝謁を拒否

22 婦人初の政務次官誕生(榊原千代)・英国のベヴィン外相、英国下院で演説。「西欧連合 (Western Union) 」の結成を提唱

23 - 戦後初の仏映画「美女と野獣」封切

24 - GHQの意向により文部省が朝鮮学校閉鎖令を通達

26 - 帝国銀行椎名町支店で毒殺・現金奪取事件(帝銀事件

28 - 関西汽船女王丸が瀬戸内海で触雷沈没(死者22名・行方不明161名)

30  サンモリッツオリンピック開幕(~2月8)・マハトマ・ガンディー暗殺

31 - マラヤ連邦成立