昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

<増補修正版 43>  学校新聞に関係、三重苦に

2015-05-30 | 昭和初期
<増補修正版 46> 学校新聞に関係、三重苦に
               全国コンクール入賞も

学校新聞編集に協力 奉職4年目の秋だったか、職員会議の席上で、日頃まじめで尊敬していた中年の国語科教師が突然発言を求めて、学校新聞の編集が忙しいから協力者が欲しいとのこと。協力者としては既に、私に目をかけてくださっていた国語科の元校長もいたのだが、たまたま、前年の校内学級新聞コンクールに出した拙い作品について、時の新聞部長の3年生N君に、新聞記事の割付(わりつけ)レイアウト)*法を教えられて興味を抱いていたので、つい、割付だけなら手伝いますと申し出てしまった。付言するが、学校新聞発行は太平洋戦争後、教育の生活化、社会化を推進する重要 な一環として奨励されていた。
 *縦型縦組新聞の紙面では(ア)主要な見出しは大きな字体で、紙面の2本の対角線上に置くようにする。紙面を見る時の自然の目の動きに一致しているという。重要記事の位置は右上、左上、中央の順だ。(イ)段を仕切る横罫が端から端まで通るのを“ハラ切り”といって、最下段以外はこれを絶対避けなければ紙面が上下に分割される感じがしてよくない。そのためにも(ア)が必要になる。(ア)・(イ)の結果、“箱もの”(長方形の罫線囲み記事)以外のニュースなどは切抜きには全く適さないいびつな形になるがやむを得ない。(次稿『 今昔、新聞 紙面や記事の幾変転』にも記載)なお、当時の紙の大きさは今の規格に合わないことを付言する。B4版より縦横1㎝位長い370×264mmだった。 
 
2度の吃驚!(びっくり) 2学期末発行の学校新聞はなんと私の名前で発行された。割付を手伝っただけなのに。それまではくだんの国語科教員の名前で発行されていたのだ。少々後に は“生徒会発行”と改めた。年度末になって驚いたことに、その国語科教員は転勤し、元小学校校長も退職されて、学校新聞は私1人の負担とされてしまった。しかも校務は相変わらず教務で、新聞はクラブ活動として扱われた。それまで持っていたラジオクラブは止めた。前稿に記した“時枝文法“の採用者―その頃は学校ごとに採用していた?―と思うが、相談もできない状態になってしまったのだった。

他校紙と交流
 新聞部には、2~3の学校から学校新聞が届けられていた。それで、毎日新聞で知った学校新聞の優秀校にこちらの新聞を送ると、依頼状は添えていないのに全て先方の新聞を送って頂けた。当時前橋二中と、大阪府堺市の三国ヶ丘中学校が優秀だったことは覚えている。他にも仙台とか2~3校あったが失念した。お許し請う。なぜか、大阪の2~3の高校からも来て、その中の全国高校紙からのゴシップが面白いので、毎号で転載させて頂いていた。
 
 コンクール目標 1年ほど経つた頃から、他校紙の刺激と、優秀な部員の存在とでコンクール応募を次第に思いたつようになった。大した自信はなかったが、当時大阪ではコンクールがなかったから全国コンクールを目標にするよりほかなかった。模造紙を縦半分に切って縦長につないだものに「期全国コンクール入選」と父に毛筆で大書してもらったものを新聞部の小部屋の壁に張り、その前で部員23名とセルフタイマーで写した写真が残っている。私は珍しくふっくらした顔で写っている。この頃は少し体の調子がよかったようだ。始めから“全国”と大きく出た理由は翌年夏に毎日新聞社のコンクールに応募した新聞の後書きに書き添えた。
 
猛暑下の編集 夏休みの8月17日から連続15日間、連日30度を上回るその年最高の暑さ*の下、午前は西、午後は北の教室で編集に没頭、3時を過ぎるまで昼食を忘れていたことが2度もあったとも。弁当持ちだったのだ。部員たちが作り上げた原稿が8ページ分以上(5万字)。これを6ページに切り詰めるのにまた一苦労したと記している。
 *この頃の大阪の気温は今より相当低かった。天文学的な原因もあろうが、今はエアコンからの放熱がより暑さを増しているいるのではなかろうか。

この前年の女子のK部長と、この年のI部長とT主筆(論説担当)、どちらも3年生の男子だが、3人とも実に優秀だった。K部長の妹の2年生も優秀で翌々年部長となった。代々の新聞部長は皆貧しい家庭の子だったことを書き添える。ユニフォームとか,楽器とかが要らないから新聞部を選んだのだろうか。とまれ、知恵を出し合って企画した。
 
企画 通常は4ページ建てだが、本号は2ページ増した。前号編集の折に発案されていたが、今号のために残しておいた企画も少しあった。「希望訪問 第1回、一家合わせて五十六段」はその1つだ。購買部を担当されていた60歳位の穏やかで上品な紳士のお宅を部長1人で休日に訪問した記事だ。小柄な方だが、奥様と妹さんとを併せて、なぎなたと剣道で56段あるとのこと。お宅には、日本刀・なぎなた・防具がたくさんあったことにまず驚き、鎖鎌もあったと報じている。刀は試合の賞品だとのこと。生徒の保護者に毎日新聞社の方がおられた関係で、この記事は間もなく、殆どそのまま毎日新聞にも載せられた。             

1面は休暇明け早々の4種目の学級対抗スポーツの日程と優勝予想など。他に論説欄や行事予定などで一流紙と紙面構成はそっくりだが、中央やゝ下にブドウ棚の下から校舎の半分と農園の一部を写した会心の写真を入れて紙面を引き締め、それに「摂陽の秋」と題する20行の詩*―生涯に3つ位しか作っていないが-を添えた。今になって、自分のイニシャルは入れておいた方がよかったと考えている。それ以前の号に掲載した会心の教員の似顔絵にも。
 
*日射しは/まだ夏を思わせる。/しかし、/秋は来ているのだ。/摂陽の秋は、/先ず農園に訪れる。/ブドウがみのり、/イチョウが黄ばみ/コスモスの蕾が/まさにほころびよう/としている。/稲はまだ青いが,/一斉に穂を生じている。/日中の暑さも/ここ、しばらく、/大陸に移動性高気圧が/張り出して来ているため/本格的な秋の訪れも/間もないことでしょうと/ラジオが報じている。

2面は全面進学指導のページとした。進学校の選び方・経費・奨学金(月額500円だった)・高校訪問記。これには特に内容が珍しい工業高校を残してあった。定時制高校の実情について、教師が昼夜かけもちで疲れていて、よい授業ができないとまで書かれていたのには感心した。誰の取材だったかが分からない。生徒の原稿にはすべてイニシャルを入れたはずだが?

3面は「実力考査すでに三回 75%が歓迎 高校進学に有利の理由も」が第1見出しで男女別賛否の同心円グラフを添え、次の見出しは「男子に多い不勉強 全校平均1.6時間 7時間勉強組もいる」として2種類のグラフを添えている。第2の記事は「昔の中学生生活を語る座談会」で、男女4人の出席教員の1人に加わり、体罰の思い出で、三流校だからと断って話していた。最終ページへ続けた記事だった。左上は翌年部長になる女子K(前部長の妹)の2コマ漫画、左下は、「腕くらべホラくらべクラス自慢」の連続物で2学級を取り上げている。その見出し図案に6行2段の、軍配うちわとほら貝を組合わせた漫画風のものを描いていた。これにだけは私のイニシャルを小さく入れていた。
4面は「もったいない図書室 千余冊大あくび “もてる”のは少女小説ばかり」と、先に紹介したなぎなた一家の記事。中央には、「さこそあれ摂陽七不思議」の横見出しの下に「“死人の声”に職人真っ青 本校の地、もと伝染病院 死体焼場変じてゴミ捨場に」との縦見出し。以前応接室として使っていた小部屋の室名掲示板の真っ黒な1面、よく見ると白エナメルの文字を墨で塗りつぶしてあり、それが“個(狂)室”と書いてあったことも。発見者名は私だ。 「カメラ探偵記」として休憩時間の教室での男子生徒ばかりの4枚の隠し撮り写真も載せた。顔は写していない。それらに付けた解説を紹介する。〈机が泣いていますよ。ユカもきたないってね。ほらほら。―机上でナイフを使っての鉛筆削り・大事なおみ足、机の上、スリッパも大切らしいですね。―机に座って片足を机上に〉他略。
後は教頭の随想と「声」欄、後者はT主筆が投稿ゼロを嘆き、勧誘する内容だ。

5面は、「一番乗り6時44分 成績不振者ほど早く登校 お祭り寝過組も成績2」と題して2種類の調査グラフを付けたのがトップ記事。「先輩の論文海外で称賛 チョウの生態に貴重な研究」や、新任教師の談話・昨年度教生25名の就職先・学級新聞コンクール募集(1位には豪華な刺繍の表彰額を半年間貸与)、先に紹介した他高校から転載の「高校珍聞」が面白い。左下3分の1を占める「無くて七癖(くせ)(むち)の用途も多種多様 長さは身長に反比例?」の記事は選ばれた7本の鞭を図案的に並べた写真を見出しの一部としている。小規模校だから、生徒は全教師を知っており、興味を引いたと思う。それぞれの持ち主の鞭の使い方を、剣戟型・代用品型・手足併用型・不公平型・コヅキ型・説教型と分類している。不公平型とは、一番太くて長い鞭を使用の東京女高師出の至って小柄な理科の教員で、ある組へはムチを持って行かないのに、同じ学年でも、他のある組では忘れて行くと職員室へ取りにやらせるとのこと。私は最後に登場で、鞭の長さは2番目、予告型とされていた。「大切な話をする時、いつも半分笑い顔でムチを机の上に置き左手でムチの根本をおさえ右手で先を持ちムチを上へそり返して放し音を出す。その音は他の先生の音よりも一段大きく、皆一度に静かになり授業に身を入れる」とある。全記事の担当者が異なり署名入りである。

6面は学芸欄だが、左上には「夏休み熱戦譜」として3つのスポーツクラブの戦績を記した。女子バレー部のネット際での攻防の写真を添えた。ボールの位置を見栄えがよいように、切り抜いてごく少しだけ下げ、これも会心作だったが、改作を卒業したバレー部員に見破られた。座談会の続きと、「時の科学」の4回目として立体映画の解説―入手先は記していなかった―を入れている。
 
コンクール入賞 かくて期待と冷やひやの新聞週間第1日の10月1日、発表の朝。当時我が家では毎日新聞を取っていなかった。出勤の駅から学校までの5分間の路で部員が追いついて来て入選を知らせてくれた。3等3席だった。募集の段階では、1等1校、2,3等各2校だったのに1校増やして3等3席として入選させて頂いた。前項の、大阪ではコンクールがないとの後書きで同情して頂いたかとも考えたが3席はまだ下に1校あった。佳作でも十分満足だったのだが-――。一生の中でこれが一等級に嬉しい出来事だった。批評は「難があるが取材は苦心している」とあり、難とは、座談会の記事を2面に分割したことと添えられていた。今は一流紙の1面の長い談話は2面に続けるのが常道だが、当時はどうだったのか。その頃は忙しくもあったし、政治への関心は大分低かったので1面記事は余り読まなかったからか覚えていない。入賞作の一部分を読み返してみて、誤字の見落としもあった。句点間が長すぎる文もあった。部員2人が1人で2つずつ同じページに小作品を載せているのも少し気になった。生徒の作品には全部イニシャルを付けて、自分のには入れなかった不統一も気になった。もっともっと気になったのは、旧漢字が多いこと。官庁の公用文や一流新聞紙面は完全に当用漢字表*1,850字の時代のはずだったが、町の印刷屋は大部分を昔のままの活字で済ましていたのだ。ざっと見出しの大活字だけを見渡しても“学”と“余”が1字ずつは新字体字だが、他の箇所では旧字体だった。小学校で既に何年間か新字体で学んできた生徒たちにどの程度、この新聞が読んでもらえたのか、今になって強く気になったのだが、当時は諦めていたのか、それほど気にした記憶がない。コンクールの評にも書かれていない。仕方がない時代だったのだ。

この年、旺文社でもコンクールを催していたことを後に知って残念に思ったことだった。ちなみに副賞は1万円、これでミゼットカメラやフィルムを買い、教室内での隠し撮りに使った。これは後にもらった。旺文社のは1等のかもしれないが、顕微鏡だった。
 
*昭和21年11月、内閣告示で当用漢字表1850字以外は公用文では使えなくなっていた。;

 
記念飛行 1、2日後だったかに、大阪本社で表彰式があった。私は、授業を欠きたくなくて部長だけを行かせた。表敬訪問という言葉はまだ知らなかった。新聞週間の「ペンに託して」という各界人の連載記事に中学生代表として1名派遣せよと言われて帰ってきた。大阪上空遊覧飛行の記事を書くとのこと。部長を行かせてやりたかったが、地理に詳しく能筆のT主筆に決めた。彼には学校上空を飛ぶ時には、この下に部長等がいるのだと必ず書けよとくれぐれも言いつけておいた。部長の名を書くことも。翌朝毎日新聞に載せられた記事は残念ながら残していないが、次号の学校新聞には、2時間にわたる大阪府一帯視察の、1,800字に及ぶ名記事が毎日新聞を飾ったと次号で報じている。
 
取材コンクール 11月15日、府中学校新聞連盟主催の取材コンクールにも参加。前部長I君、新部長kさんと1年生2人を派遣。22校、約90名の参加で、1位入選校を始めとして約10校は教員付き添いだったそうだ。「民主警察は私たちの生活を守るためにいかに努力しているか」という題を与えられて分散。9時集合で2時提出というあわただしさ。最寄りの警察署に行き、留置場など見せてもらうが、一般市民との応対が見られないとて、1年生は別の警察署に急行、やはり、同じ結果だったが、正午過ぎ、新聞社に戻って記事執筆。時間いっぱいで提出、2位。この記事はまたも毎日新聞に「驚かされたお巡りさん」の題で掲載された。留置場の構造・接見の様子―見せてくれた―・指紋検出の速さ・通りすがりのひとの声など、立派なものである。正に多士済々だった。嬉しい悲鳴として全国90校から、新聞の交換希望が来て、予め2百部は余分に印刷してあったが、郵送料に8百円かかったことを報じている。
 
反省 入選作の少し後からだが、報道や企画物に重点を置き、校長等の署名入りの原稿をこちらからは依頼せず、滅多に載せなかった。学校新聞の本来の目的を果たさなかったと後には反省したことだった。そんなことからだろうが、校長は表彰状を校長室に掲げてくれたが、教頭は、俄(にわか)仲人としての結婚式の場でも、遂に一言も新聞のことには触れてくれなかった。以前書いた教頭への反対運動の先棒を担いだことが原因かも知れないが。
 
専門委員 入選するとすぐに “大阪市立中学校教育研究会学校新聞部”の専門委員を委嘱された。これは教科や、特殊活動の部門別に、市内8ブロックに各3人の専門委員をおく制度である。この制度がいつからあるのかは知らないが、視聴覚部が新設された時、以前記した古だぬき殿が、私に行ってくれと命じてきた。学校新聞担当になった頃だったか。うるさい仕事が待っているに違いないと考えて、学校新聞も視聴覚の1つの手段と定義づけて押し付けようとしたことだと思う。帰ってきて、映画を見せてもらい、映画館の入場券をもらった―第1回はそれだけだった―と報告すると、入場券は取り上げ、専門委員は彼と仲のよい、生徒からは“タヌキ”と呼ばれている教師に代えた。専門委員会の部は各教科の外に道徳・図書館・進路指導・統計など計20ほだった。
 
線香花火 専門委員になるとすぐに、大阪府でも同じ年度内にコンクールを催すことに決まった。その帰途だったかも知れないが誰かが、私に、入選作を出されると1位は決まりだと言うから、出さないとすぐさま返答してしまった。私は幼時から何事もすぐに返答する癖が治らないで、友人に指摘されたこともある。口の重い別の友人が、第3者にする返答が遅いのがじれったくて代わりに返答してしまった記憶もある。よく考えれば出していけない理由はなかったのだが、一旦口にしたことを守って、次号、種切れの作品を出して2位に終った。全国コンクール入選は線香花火的なものだった。表彰式にはまたも部長を行かせた。以後、どこへも応募していない。部員には「常にアンテナを―」と言い続けたが、よい企画はさっぱり得られなくなった。
 
広告収入 新聞には毎号、校下の商店数軒の広告を掲載し、広告料金をもらっていた*。私が転出する前任者から仕事を引き継いだ時、広告費の引き継ぎとして空の真新しい封筒に、0円と記入し認印を押したものを渡された。以後8年間、相当に溜まった額を、やっと得られた後継者に引き継いだが、校長に渡すべきだったと後悔した。年に1回は、新聞部員たちの慰労として、共にうどんを食べたが、新聞発行の度に慰労すべきだったとも後悔した。入賞した時にはもう少し豪勢にしてもよかったのではないかと今頃思う。写真代と他校への新聞の送料はこれから支出していた。新聞から逃れられる1年ほど前に、職員会議でちらっと広告収入に触れたひとがいたので、翌日から1週間ほど、会計帳と支出費用の領収書の控えを職員室に吊るしておいたことがあった。
 *1面の一番よい場所で3百円と記録している。裏表で5~6個掲載していた。年4回発行。新聞部員の中には広告集めだけ専門の部員もいた。彼は、同窓会の都度、そのことを楽しい思い出として語ってくれる。
 

解放 その後、相変らず、学校新聞編集はクラブだとして教務も併せ持たされ続けるし、そのくせ、創立5年記念紙(8ページ建て)の編集・創立10年記念誌(PTA発行、B5版p.58)編集の協力、創立10周年記念誌(B5版p.58)や卒業アルバムの編集はやらされるし、数学科の病気欠勤者のせいで授業時間は長年増えるはで、またまた体は弱って行った。学校新聞は最後の1年間ついに若い女性教員が協力を申し出てくれはしたが続ける意欲は回復しなかった。以前、新築の家の配線工事をしてあげた校務員さんが見かねて、そんなことを続けていたら死ぬでと言われて腹を決め、それからは、更に要求された仕事はきっぱり断り続けた。そして遂に、学校新聞専門委員会の部長の奥さんだったひとが転勤してきて、喜んで引き継いでくれることになり苦行から解放された。学校新聞は8年間担当したのだった。専門委員はすぐに辞退した。実際には編集に携わらないでも委員会の役員を続けているひともいたが、理論家ではないし、一切そんな気は起きなかった。
              
[完]  平成25年4月作成・27年5 
学校新聞の内容を少し詳しく紹介させて頂きましたが伝わったでしょうか。その面白さをお伝えしたいと思ってのことですが、概要を記すだけでは到底無理だったかと反省大です。せめて、現在・未来にひょっとして、学校などの新聞を担当される方に何かお役に立つことがあれば幸いと思っています。

 
 昭和40(1965)年の出来事

01/08 韓国、南ベトナムに派兵決定。
01/20 日航、海外団体旅行用の「ジャルパック」発売。
02/07 米軍のベトナム北爆開始。ベトナム戦争激化。
02/10 社会党・岡田春夫、衆院予算委で防衛庁統幕会議の極秘資料"三矢研究"追究。
02/20 アンプル入り風邪薬による死者続出、製薬会社、販売自主規制。
02/22 北炭夕張炭坑でガス爆発、62人死亡。
03/06 山陽特殊製鋼、会社更正法適用申請。
03/14 作家・戸川幸夫が西表島で発見したヤマネコが新種と鑑定される(イリオモテヤマネコ)。
03/16 東京都議会議長選挙をめぐる汚職事件摘発。6月までに11議員逮捕。
03/18 ソ連の宇宙飛行士レオーノフ中佐が人類史上初の宇宙遊泳に成功。
04/01 東京電力、電気料金の銀行口座振替制を開始。11.1には都の水道料金も。
04/24 ベ平連主催、初のデモ行進。
05/22 東京農大ワンダーフォーゲル部の新入生訓練で1人死亡。25日主将ら逮捕。
06/01 福岡県山野炭坑でガス爆発。237人死亡。
06/12 家永三郎、教科書検定を違憲とし、国に対し民事訴訟起こす。
06/22 日韓基本条約ほか関係4協定調印。
06/26 川崎の急造宅地で土砂崩れ、24人死亡。
07/04 吉展ちゃん事件(38年3月)の容疑者・小原保逮捕(5日都の円通寺で遺体発見)。
07/04 第7回参議院議員選挙。
07/29 神奈川県座間町で警官2人殺傷の少年ライフル魔、渋谷の銃砲店で店員を人質に警官隊と銃撃戦。16人負傷。
08/03 松代群発地震(~42年)。
09/24 国鉄「みどりの窓口」開設。コンピュータによる特急券指定券を販売。旅行が便利に。
10/5~7 台風の影響でマリアナ海域で漁船7隻遭難。死者・不明209人
10/21 朝永振一郎にノーベル物理学賞授与と発表。
11/08 日本テレビ系「11PM(イレブンピーエム)」放送開始。
11/10 中国で文化大革命始まる。
11/17 プロ野球ドラフト制始まる。巨人・堀内恒夫、阪神・藤田平、阪急・長池徳二、近鉄・鈴木啓示ら。
11/19 閣議、戦後初の赤字国債発行を決定。
11/18 関係閣僚懇談会、新東京国際空港建設地を千葉県富里村に内定。
11/29 初の「コンピュータ白書」。台数は世界2位。
12/13 40年の造船進水量が10年連続の世界1位。
12/20 東大・名大・群馬大各附属病院の無給医局員340人、身分保証を要求し初の診療拒否。
●世相 アイビー族登場/エレキブーム/ピンク映画さかん/大塚製薬「オロナミンC」発売/鎌田商会(現・白元)が「アイスノン」を発売
●歌謡曲
[1]
1.ラストダンスは私に(越路吹雪)
2.ウナセラディ東京(和田弘とマヒナスターズ)
3.悲しき願い(尾藤イサオ)
4.女の意地(西田佐知子)
5.愛して愛して愛しちゃったのよ(和田弘とマヒナスターズと田代美代子)
6.ナポリは恋人(弘田三枝子)
7.ごめんね・・・ジロー(奥村チヨ)
8.赤坂の夜は更けて(西田佐知子)
9.下町育ち(笹みどり)
10.さよならはダンスの後に(倍賞千恵子)
11.チキン・オブ・ザ・シー(ジャニーズ)
12.まつのき小唄(二宮ゆき子)
13.くやしいじゃないの(森山加代子)
14.赤いグラス(アイ・ジョージ・志摩ちなみ)
15.ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー(越路吹雪)

[2]
1.サン・トワ・マミー(越路吹雪)
2.柔(美空ひばり)
3.二人の世界(石原裕次郎)
4.私を愛して(奥村チヨ)
5.涙くんさよなら(和田弘とマヒナスターズ)
6.アンジェリータ(ダーク・ダックス)
7.朝日のあたる家(ダニー飯田とパラダイスキング)
8.夢みるシャンソン人形(弘田三枝子)
9.恋する瞳(伊東ゆかり)
10.スエーデンの城(岸洋子)
11.夏の日の思い出 (日野てる子)
12.君に涙とほほえみを(布施明)
13.知りたくないの(菅原洋一)
14.砂に消えた涙(弘田三枝子)
15.アイドルを探せ(中尾ミエ)

●書籍ベストセラー
日本の歴史 1~10回[中央公論社]
なせばなる!(大松博文)
南ヴェトナム戦争従軍記 [岩波新書]
おれについてこい! (大松博文)
人間革命 1(池田大作)
バランスシート
ヒロシマ・ノート(大江健三郎)
白い巨塔(山崎豊子)[新潮社]
三分間スピーチ[光文社]
わが愛を星に祈りて

  

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