元旦から近くのシネコンで「怪人二十面相・伝」を観た。
面白かった、続編も期待したいところだ。
そういえば最近は映画をシネコンで観る事が多くなった。
シネコンには大体の観たい映画は揃っているし、綺麗な劇場、行き届いた
サービスと何かと便利に出来ている。
しかし、映画を観た後、何か月か過ぎれば、はて何処の劇場で観たのか記
憶にないのだ。まだボケる歳でもないし、後で調べて判る事なのだが、そ
のての映画の大半はシネコンでの鑑賞なのだ。
昔観た映画はどの劇場で、どの座席あたりか覚えているのに可笑しな事だ。
思いあたるにシネコンは画一的で個性に乏しいのが一因ではないかと、結
論に至り、個性豊かだった頃の映画館が懐かしく愛しく思えてきた。
そんな事で古い映画館について語らせていただきます。
まずは僕がその昔、足しげく通った映画館。とりわけ大阪キタ界隈の、今
は無き劇場についてです。
OS劇場
大阪の少し古い映画ファンなら、誰もが一度は足を運んだはずの大劇場。
テアトル東京と並び日本を代表するビッグスクリーンの壮大さは、映画
を観る前からすでに感動ものだった。
もう死語になってしまったシネラマ。三台の映写機で湾曲画面にスペク
タクルシーンが繰り広げられる、まさに夢のパノラマシアターだった。
僕が初めてOS劇場を経験したのは、「グランプリ」という映画で、
まだ子供だったので、記憶には乏しいが、レースのクラッシュシーンの
迫力だけは、はっきりと覚えている。
その後、映画マニアになってからはどれだけお世話になっただろうか、
「アラビアのロレンス」「ゴッドファーザー」「地獄の黙示録」「未知
との遭遇」「スターウォーズ」「エイリアン」70年代80年代の大作
は大体ここで観たんじゃないだろうか。
思い出にあるのは「大地震」という映画の時。スクリーンの前に巨大な
スーパーウーファーのスピーカーが設けられ、地震の場面がくるとそれ
が唸りだし、劇場全体に震動が起こる仕掛けなのだ。その音量は凄く、
また実際に僕の座っ座席シートは小刻みに揺れていました。
OSビル。今は浪花餃子スタジアムになって昔の面影はありません。
クラッシクでゴージャス感たっぷりな映画館だった。
もう一度あの劇場であの座席で観てみたいと思うのは、僕だけではない
はずだ。
北野劇場 梅田スカラ座 梅田劇場
1980年にナビオ阪急ができる前、そこに阪急航空ビルという建物が
あり、レストランや劇場で賑わう空間は、その頃の僕にとっての大阪の
中心、いや世界の中心はここでした。
また子供の頃、父に連れられ洋食屋さんやガンコーナーという今で言う
とこのゲーセンによく出かけたものです。
梅田劇場は東宝の封切館。北野劇場は洋画のメジャー封切館。スカラ座
はちょっと落着いた大人の劇場だった。若い僕だったけどスカラ座が一
番のお気に入りで、エレベータで上がりスカラ座の静かなフロアに入る
と幸せな気分になった。
思い出は梅田地下劇場。ここは封切館なのだが少し名画座タイプで、高
校の頃、友人等とブルース・リーの二本立で盛り上がった。
それともう一館、北野シネマがあった。ATG専門の映画館で僕も何度
か足を運んだ。若い人にはアートシアターギルドなんて言っても何のこ
っちゃでしょうが、結構いい作品に出会えたものです。
それと映画館じゃないけど、トップホットシアターという寄席劇場もあ
ってとてもエンターテイメントなエリアでした。
ナビオ阪急に建て替えられた後、北野劇場は大阪の、いや日本を代表す
る映画館としてその名を誇っていました。(父の話によると大昔の北野
は映画とは別に実演と題して、銀幕のトップスターが舞台でその勇姿を
見せては大阪人を喜ばせたらしい。父は辰巳柳太郎や島田正吾を観たら
しい)
そんなわけでシネコンになって、北野やスカラ座の名前が消えた事が、
僕には一番悲しかった。
若い時の映画記録帳(38年前の汚い字で綴られた鑑賞データ)を久しぶ
りに開き、OSや北野・スカラ座での鑑賞記録を調べると、北野劇場で
父と兄の三人でジョン・ウェイン主演「リオ・ロボ」)を観ていた。
今になって思う事はハワード・ホークスの映画を封切で観ていたんだと、
感慨にふけり、自分に感動した。
面白かった、続編も期待したいところだ。
そういえば最近は映画をシネコンで観る事が多くなった。
シネコンには大体の観たい映画は揃っているし、綺麗な劇場、行き届いた
サービスと何かと便利に出来ている。
しかし、映画を観た後、何か月か過ぎれば、はて何処の劇場で観たのか記
憶にないのだ。まだボケる歳でもないし、後で調べて判る事なのだが、そ
のての映画の大半はシネコンでの鑑賞なのだ。
昔観た映画はどの劇場で、どの座席あたりか覚えているのに可笑しな事だ。
思いあたるにシネコンは画一的で個性に乏しいのが一因ではないかと、結
論に至り、個性豊かだった頃の映画館が懐かしく愛しく思えてきた。
そんな事で古い映画館について語らせていただきます。
まずは僕がその昔、足しげく通った映画館。とりわけ大阪キタ界隈の、今
は無き劇場についてです。
OS劇場
大阪の少し古い映画ファンなら、誰もが一度は足を運んだはずの大劇場。
テアトル東京と並び日本を代表するビッグスクリーンの壮大さは、映画
を観る前からすでに感動ものだった。
もう死語になってしまったシネラマ。三台の映写機で湾曲画面にスペク
タクルシーンが繰り広げられる、まさに夢のパノラマシアターだった。
僕が初めてOS劇場を経験したのは、「グランプリ」という映画で、
まだ子供だったので、記憶には乏しいが、レースのクラッシュシーンの
迫力だけは、はっきりと覚えている。
その後、映画マニアになってからはどれだけお世話になっただろうか、
「アラビアのロレンス」「ゴッドファーザー」「地獄の黙示録」「未知
との遭遇」「スターウォーズ」「エイリアン」70年代80年代の大作
は大体ここで観たんじゃないだろうか。
思い出にあるのは「大地震」という映画の時。スクリーンの前に巨大な
スーパーウーファーのスピーカーが設けられ、地震の場面がくるとそれ
が唸りだし、劇場全体に震動が起こる仕掛けなのだ。その音量は凄く、
また実際に僕の座っ座席シートは小刻みに揺れていました。
OSビル。今は浪花餃子スタジアムになって昔の面影はありません。
クラッシクでゴージャス感たっぷりな映画館だった。
もう一度あの劇場であの座席で観てみたいと思うのは、僕だけではない
はずだ。
北野劇場 梅田スカラ座 梅田劇場
1980年にナビオ阪急ができる前、そこに阪急航空ビルという建物が
あり、レストランや劇場で賑わう空間は、その頃の僕にとっての大阪の
中心、いや世界の中心はここでした。
また子供の頃、父に連れられ洋食屋さんやガンコーナーという今で言う
とこのゲーセンによく出かけたものです。
梅田劇場は東宝の封切館。北野劇場は洋画のメジャー封切館。スカラ座
はちょっと落着いた大人の劇場だった。若い僕だったけどスカラ座が一
番のお気に入りで、エレベータで上がりスカラ座の静かなフロアに入る
と幸せな気分になった。
思い出は梅田地下劇場。ここは封切館なのだが少し名画座タイプで、高
校の頃、友人等とブルース・リーの二本立で盛り上がった。
それともう一館、北野シネマがあった。ATG専門の映画館で僕も何度
か足を運んだ。若い人にはアートシアターギルドなんて言っても何のこ
っちゃでしょうが、結構いい作品に出会えたものです。
それと映画館じゃないけど、トップホットシアターという寄席劇場もあ
ってとてもエンターテイメントなエリアでした。
ナビオ阪急に建て替えられた後、北野劇場は大阪の、いや日本を代表す
る映画館としてその名を誇っていました。(父の話によると大昔の北野
は映画とは別に実演と題して、銀幕のトップスターが舞台でその勇姿を
見せては大阪人を喜ばせたらしい。父は辰巳柳太郎や島田正吾を観たら
しい)
そんなわけでシネコンになって、北野やスカラ座の名前が消えた事が、
僕には一番悲しかった。
若い時の映画記録帳(38年前の汚い字で綴られた鑑賞データ)を久しぶ
りに開き、OSや北野・スカラ座での鑑賞記録を調べると、北野劇場で
父と兄の三人でジョン・ウェイン主演「リオ・ロボ」)を観ていた。
今になって思う事はハワード・ホークスの映画を封切で観ていたんだと、
感慨にふけり、自分に感動した。
