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EVERYTIME WITH MOVIE

アナキンのBLOG

あの頃から今まで 思いは夢の中

『未来世紀ブラジル』  不条理な夢

2009年07月22日 | 永遠の名作映画
1985年 イギリス/アメリカ映画
テリー・ギリアム監督


70年代深夜テレビで観たモンティパイソンにはまった。
その後はテリー・ギリアムの作品が、フライングサーカスの世
界へと僕を導いてくれた。
ギリアムの映画はファンタジーだ。しかしそれは一筋縄ではな
いのは誰もが知っている。時に皮肉一杯で、時に抒情的で、時
にはグロテスクだ。
そして大体においてが不条理な夢で出来ている。そうです、
ギリアムは夢を描く作家なのです。

モンティパイソン時代の彼のアニメーション自体、明るい感じ
のものではなかった。
「スピルバーグはディズニーの陽の部分を受け継ぎ、自分は陰
の部分を受け継いだ」とギリアム本人も語るように、彼の夢は
一見コミカルに進むが、結局のところは暗く虚しいラストが待
っている。

この映画は情報化社会における真の自由について語られている。
完璧に情報統制された社会において、人間は如何に自由を守り、
それに立ち向かう事ができるのか。
そんな統制のシステムを壊す事は、どんな理由があろうと犯罪
であり、テロ行為と見なされる管理社会の恐怖が描かれている。

この映画のように管理する側の正義は非人間的なのは明らかで、
管理される一市民の自由は、何処にもない。
それでも主人公は愛に目覚め、自由を守るべく、そのシステムに
関わり続け、泥沼へと堕ちていく。
どこまでも諦めず戦う姿は、弱々しいがとても健気だ。
最後には愛も自由も手に入れるはずなのに、その結末は果てしな
く悲しい。
結局、自由を守れるのは頭の中だけという構図なのだろうが、そ
こにも未来は見えてこない。

それにしてもギリアムのイメージはユニークだ。
「バンデットQ」「バロン」「フィッシャーキング」「12モンキ
ーズ」など好むと好まざるもあろうが、くどい程見せつけてくる。
そしてこの映画にもやはり彼独特の映像表現が満載している。
主人公が夢の中にある大きな壁や、槍を持った武将、地を蠢く労
役に苦しむ民のイメージなど、ブラックなデザインはいつものご
とく健在だ。
それから劇中に「戦艦ポチョムキン」や「赤い靴」「ブレードラ
ンナー」などを想わせるイメージが観られる。
とくに光と影を巧みに駆使した表現主義的な絵造りは面白い。

公開当時、大好きなデニーロがギリアム作品に出るというので、
公開日を楽しみに待っていた。  デニーロ、おいしい役には
違いはなかったが、ほとんど忍者衣装で顔もチラリ程度。ギリ
アムの洒落に笑えた。

映画製作にあったってギリアムは度々、苦難の道を歩む事にな
るのは映画ファンならよく御存知でしょう。
スポンサーやプロデューサーとの関係もあるが、大体の原因は
彼自身にあるのは確かで、興業的にも評価的にも受け入れにく
い灰汁のきつい作品にはそういったトラブルは仕方ないものの
ようです。
その逆に観客側からすれば、一度はまれば彼の映画は癖になっ
てしまう事は間違いありません。
そんな訳でこの作品を気に入ったなら、どのギリアム映画も楽
しめます。是非、観てください。


『裏窓』  自由なマクガフィン

2009年04月06日 | 永遠の名作映画
1954年 アメリカ映画
アルフレッド・ヒッチコック監督


ヒッチコックは不当な評価を受けてきた映画作家の一人だ。
巨匠と言われつつも、やはりサスペンス映画作家としてのみのラ
ベルを低く貼られ、そのクセのある人柄も理解されがたい要因も
あってか、長くその作家性は不遇なものであったように思う。
この僕も子供の頃から「ヒッチコック劇場」をテレビで観たりし
て、その容姿と語り口は独特のクセを感じていた。
フィルム自体にもそのクセは感じられるのか、映画好きになってか
らも作家ヒッチコックは苦手だった。

フランソワ・トリュフォーは「ヒッチコック映画術」の中でこの「裏窓」
はベストな作品と讃えている。僕もそう思うし、この映画で少しは
彼のクセの呪縛から解き放された気がする。
その映画術の巧みさ面白さにハマり、やっとヒッチコックを評価で
きるようになった作品という訳です。
まぁ彼の作品そのものは絶対的に面白く、昔から漏らさず観てきた
わけだから、その後は僕にとってヒッチコック観直し作業が続いた。

映画は小難しく観る事もないけど、作家の細かい演出にその面白さ
を見つけられるのも有意義な鑑賞方法の一つではないでしょうか。
その点においてヒッチコックは逆に取っ付きやすい作家といえるで
しょう。

まずは舞台劇のような映画的設定の面白さはどうだろうか。
カメラはほとんど主人公の部屋からの視点で、セットはグリニッジ
ビレッジにあるアパートの裏庭を中心とした狭い空間のみだ。
そこでの住人達と片足を骨折し車椅子で過す報道カメラマンの主人
公のカットが繰返される。切り取られた一部屋のドラマと主人公の
好奇心が、巧みな編集による効果でドラマを構築していく様は見事
だ。
語らずの説明は実に映画的で、ファーストシーンのカメラの動線は
計算のうえだろうが、滑るようなアングルの美しさは何度見ても楽
しい。ヒッチコック曰くサイレント映画を撮っていれば映画的表現
は当然のように身につくものだそうです。

語らずと言えばこの犯罪の殺害方法も動機もなにも、犯人像につい
て多くは語られない。それはヒッチコックにはさほど重要な事では
ないようで、大事なのは表現そのものなんでしょうか。
そこも映画的で僕ら映画好きには、たまらないものなのですね。

それにしても好奇心旺盛で覗き見する主人公は、ひとつ間違えば変
態そのもで、それをオシャレに見せるのも演出家の力量と言えるの
だろう。(笑)
ジェームス・スチュワートというアメリカの良心の如き男優とグレ
ース・ケリーという美の象徴の如き女優を、カメラマンとモデルに
設定したのは、そういう理由だったのかな。
それにしても、この映画のグレース・ケリーの美しさはどうだろう。
モデル役という事もあって、お色直しのように着飾ってはドキドキ
させてくれる。こんな美女を前に結婚を躊躇する主人公は如何なも
だろうか?
40年50年代は確かに女優が女優らしく輝いていた時代だったと
思う。バーグマンやモンロー・エリザベス・テーラーにオードリー
・ヘップバーンなど多彩な人材に、映画作家も創作意欲を駆りたて
られたのだろう。

『ベニスに死す』  芸術との出逢い

2009年03月29日 | 永遠の名作映画
1971年 イタリア映画
ルキノ・ヴィスコンティ監督


映画には物語があり、音楽が流れ、美術が広がり、一つの世界が形成
されていきます。
映画が総合芸術と云われるが所以は、各界の芸術作家の叡智を結集し
フィルムの上に、映像表現としての時間や空間を奏でるところにある
と思います。
この映画において、僕が出逢った偉大な作家たちは、今もなお心の中
に輝く巨星としての存在を失ってはいません。

トーマス・マン

言わずと知れたドイツの文豪です。この映画で彼の名を知った僕は、
手始めに「トニオ・クレーゲル」に出会い、一読で虜になります。
主人公トニオの青春のもどかしさに、少なからずも自分にもある純
な心の葛藤を投影し共感を覚えたものです。
その次に読んだのが「魔の山」。 僕の中で生涯忘れる事のできぬ
文学的体験を感じた作品です。
トニオ以上に僕の心を掴み、トーマス・マンの世界へ僕を引きずり
込ませたハンス。人の生きるべき道と死に往く道を教えられた、
我が心の一冊でした。
その後「ブッテンブローグ家の人々」などを読み、トーマス・マン
に酔いしれた二十代でした。

グスタフ・マーラー

始めて聞いたマーラーは当然の如く交響曲五番四楽章です。
あまりにも美しく、悲しい旋律に、涙なしでは聞けない名曲という
物の存在を初めて確認したのはこの時です。
交響曲一番「巨人」はいろんな指揮者での演奏を聴き比べし、音楽
の持つ自由な誇張と省略の魔法に感心させられた。
僕のお気に入りは交響曲九番で、暗い葬送的なイメージだが、マー
ラーの本質的なスタイルが味わえる一番の曲に思えるのです。

ルキノ・ヴィスコンティ

そしてヴィスコンティ。ほぼ同時期に「地獄に堕ちた勇者ども」を
観て、一筋縄では捕えきれる事は容易ではない監督と確認。
僕の愛すべきフェリーニ監督と比較しては、描く世界の違いは歴然。
イタリア北部の貴族で映画監督。そんな彼でしか描く事の出来ない
映像は、美しさよりもどこか肌寒い質感で表現され、観る者に心の
暖を求めずにはいられない構成になっている。
その後「家族の肖像」「ルードウィヒ」「イノセント」とヴィスコ
ンティを追いかけていった。

しかし、このような天才的作家たちのハーモニーは大体が失敗に終
わるもので、強力な個性の融合が結実する事はまずはない。
けれども、この映画は何がそうしたのか、稀に成功した一例となる。
そのあたりに答えが有るとして、この映画を観てはどうだろう。

まぁ実際にはマンがシナリオを書いているわけでもないし、マーラ
ーがオリジナルスコアを書き下ろしたわけでもないから、これはビ
スコンティの「ベニスに死す」という事になるんだけど、その古典
なる文学作品と名曲をチョイスして、太刀打ちできる映画を撮る算
段が彼にはあったのだろうか。
それは探せば、やはり絵造りという事になるのではないか。
冒頭からのシーンはモネの名画「印象・日の出」を思わせる映像が
美しく、僕には人生最後の一日の夜明けを連想させられ怖い気もし
た。
その後の船乗りと主人公や波止場に着いての件も、醜悪な人間と芸
術家の対比が面白い。
そうした絵造りには、少年タジオ役のビョルン・アンドレセンは完
璧な逸材だった。ヴィスコンティ作品にはいつも美男子がいるが、
この映画に必要なのは中性的で無機物的な、ギリシャ彫刻美を持つ
死神のような象徴だったわけで、まさに彼のこの時期はそういう美
貌を放っていた。
僕の好きなシーンは主人公が病に侵されながらも、ゴーストタウン
のようなベニスの街中を、逃げ隠れしながら少年の家族を追い続け
る件だ。少年の誘惑的な視線と、老いた芸術家の狼狽する姿は見事
で、まるでヴィスコンティが自身の夢の中を、カメラで撮らえた続
けた彷徨シーンのようだ。
ラストシーンは冒頭シーンとは対照的に、人生の終焉を夕陽のよう
な輝きの中に立つ少年に、手お差しのべる芸術家の最後で、黒い髪
染めが額に流れていく姿は、隠しきれない人の哀れが表現されてい
て素晴らしい。

映画制作は作家の頭の中にある映像を、いかに具象化する事が難し
いものなのか、凡百な映画はそれで残念な結果を残す事になる。
しかしこの映画の映像イメージの素晴らしさは、映画史においても
最高のものではないだろうか。
やはり映画は絵造りが一番大事なんだと、「ベニスに死す」を観る
度に思う。

『アラビアのロレンス』 奇跡の映画

2008年12月14日 | 永遠の名作映画
1962年 イギリス映画
デヴィッド・リーン監督


人には皆、様々な出逢いがある。
僕と映画の運命的な出逢いは、この「アラビアのロレンス」です。

あれは中学一年の春。あの日から、僕の映画に囲まれた日々は始
ったのです。そして、あの時の感動を超える出逢いは、未だにあ
りません。
先日、東京や大阪でニュープリント版が公開されると聞きました。
未見の皆さん、是非観にいってください。この映画を大スクリー
ンで観てください。
この映画について、僕のような者が、多くを語るのはおこがまし
い限りです。けど、この映画への積年の熱い想いを察し、どうぞ
お許しください。

まず、この「アラビアのロレンス」の制作に携わった、当時の人
達に敬意を表します。
全てのシーン、脚本・撮影・編集・音楽・美術がパーフェクトで
す。
今日、撮影機材はコンパクトで、撮影クルーの移動・設営も楽に
なりました。そして、CG技術の発達は、どんな画造りも可能に
しました。しかし、50年前はそうではありません。
あの広大な砂の上を映画製作は、困難な環境と重労働で進められ
て行ったのです。
そして、そこにあったのは紛れもなく、人智を超えた美しい映像
の叙事詩だった。
「アラビアのロレンス」は“マエストロ”デヴィッド・リーンが
描いた奇跡の映画なのです。


脚本構成の巧みさは、全編に伏線を張り、シークエンスを紡ぎ合
わせては、人間ドラマと歴史ドラマの構築を図っている。
説明的な台詞もどこか詩情的であり、皮肉的でもあるのが面白い。

ロレンスの本質は何だったのか、それは誰も判らない。
ロレンス本人でさえ、アラブにおいて、そのアイデンティティー
を捜し、逆に砂の中に見失い、失望へと堕ちて行く。
その悲しみに満ちたロレンスを、追い越して去り行くバイクのラス
ト。そしてそれがファーストシーンへと繋がり、ループされる展開
の妙は人間の儚さを見せてくれる。

ロレンスという人間も、変わりゆくロレンスの悲しみも、個人の夢
と国家の思惑も、アラブ民族の相違も、誰も掴みきれないでいる。
ジャーナリストはその上っ面だけを掬いあげ、判ったかのように語
る道化として表現されているのは、納得だ。


フレディー・ヤングの撮影は映画史に残る偉業だ。
有名なアリ出現シーン・ガシム救出シーン・アカバ襲撃シーンなど
すべて70ミリフィルムを計算にいれた構図と奥行き表現は見事だ
し、砂漠での露出効果は見る者に熱く乾いた空間を呼び起こしてく
れた。
またモーリス・ジャールの音楽を聴けば、この映画を一度観た物な
ら、必ずまた、あの風景が蘇る。

そして役者がいい。アレック・ギネスをはじめベテラン陣は言うま
でもなく、オマー・シャリフとピーター・オトゥールは、彼ら以外には
考えられない程の適役だったと思う。
ピーター・オトゥールには悪いが、彼はこの映画の為に役者として
生まれたきたんじゃないかと思うほどだ。

劇中、ジャーナリストに、「あなたが砂漠に、惹かれるのは何故で
すか?」との質問に、「清潔だからです」と答えるロレンス。
はたして、その後、油に塗れ、オイルマネーに翻弄されていく、ア
ラブの運命をロレンスは感じていたのか。
それとも、アラブの地に自分が描く、果てしない夢を追い求めてい
たのかは、また定かではない。

『ベルリン天使の詩』 愛しき人間賛歌

2008年11月15日 | 永遠の名作映画
「ベルリン天使の詩」 1987年ドイツ映画
ヴィム・ヴェンダース監督

ベルリンの壁が崩壊する少し前の話。地球創世記から現在に至るまで、
すべてを見守り、人々の声に耳をかたむけ、静かに記録してきた天使
ダミエル。
ある日彼はサーカスの空中ブランコ乗りのマリオンに出会う。彼女を
見守るうちに、ダミエルは次第に人間の感覚・感情・愛情にひかれて
いく。
そしてダミエルは人間になる事を決心する。

全編にわたって綴られるのは、人々の内なる声と風のように語られる
詩。そしてゆっくりとした時間の映像。
好むと好まずはあるが、圧倒的な情報量とスピードで迫る昨今の映画
にはない漂い感がいい。

中年の天使は永遠の使命に飽きたのか、人類社会からの疎外感なのか
、命をかけての決断にさほどの苦悩はなかった。
それどころか、期待と希望に満ちマリオンのもとへと降りて行った。
はたして人の感覚・感性は、彼が思っていたような素晴らしい世界に
あったのだろうか。

世界は色とりどりなファッションや音楽にあふれ、暖かいコーヒーの
香りがあるように、五感を研ぎ澄まして生きて行けば、こんなにも良
い世界なんだと思わしてくれる。
僕はこの映画を観終わった後、忘れていたその感覚・感性の存在に熱
くなり、涙した。
そしてその感覚と感性の極みに愛があることを教えてくれる。
この世界は素晴らしいと。

天使の姿は子供に見えて、大人には見えないというよくあるパターン
なのだが、面白いのは子供たは彼らに語りかけてはこない。
ただ見えるだけで、彼らの存在を意識してるわけでもないのだろうか。
霊的な存在の真実に理屈はないようだ。
コロンボには天使が見えないが、その存在を感じとり会話してくる。
そのうえ握手までして、五感でコミュニケーションをとるのだ。
彼もまた昔は天使だったことを告白するのだ。
だったら僕たちも天使なのかもね。


どのシーンもいいのだが、特に図書館とバーのシーンは素晴らしいと
思った。
『パリ・テキサス』とこの作品でヴェンダースはどこまで行くのかと
思っていたけど、その後はおとなしくなってしまった。
けどいつかまた、こういう作品を僕らの前に持って来てくれるだろう。

彼もまた天使なのだから。

『ノスタルジア』  失われた憧憬

2008年08月10日 | 永遠の名作映画

「ノスタルジア」 1983年 イタリア映画 
アンドレイ・タルコフスキー監督


タルコフスキーはロシア人で、ソビエトという国家のもとでカメラを
廻し続けていた。
とにかくすべての文化人・芸術家にとってソビエトという国と時代は
悲しい関係で成り立っていた。
タルコフスキーにあっても例外ではなく、故郷を離れざるをえない状況
に追い込まれていった。
それが故に彼のロシアへの想い・あこがれ・望郷の念はつのるばかり
だったのだろう。


 ノスタルジア

詩人のゴルチャコフはイタリアを訪れ、亡命の後、祖国ロシアに戻り
非業の死をとげた作曲家ベレゾフスキー(映画の中ではカスノフスキー
という名前)の伝記を書くべく、この亡命の地に思いを馳せる。
そしてイタリア人の女性通訳との関係や、世界の荒廃に嘆き身をもって
救済を訴える狂人ドミニコとの触れ合いが描かれている。

全編にわたって描かれる故郷と溢れ流れる水のイメージがタルコフスキー
独特の世界観で綴られる。
ここにある水のイメージには一つの解釈はない、同じように表現される
火にも特別な意味は持たせてはいないのだろう。
僕たちがそれを、どう受け止め感じるかは様々で、タルコフスキーの
真意もそこにあるのだろう。

タルコフスキーの映画は難解で抽象的な映像の羅列が睡眠を促進させる
と言う人も多い。
しかし僕にはそんなリズムの映像がたまらなく心地よい。
コマーシャリズムに乗ったインパクトあるものではなく、内的世界の映像は
浸透力があり、身体の奥深くまで酔わせてくれる。
夢の様に、一見無意味な事の重なりが織りなす物語が、ひとつのトーンに
彩られた時、映画における至福の時を感じられるのだ。


詩人は少なからずとも、狂人ドメニコに共有する何かを感じる。
ドメニコは現代社会においては狂人なのだろうが、人間本来の理念に向かう
姿は、世界を破滅に追いやろうとする愚鈍な現代人より、理知的にも
思える。
そのドメニコが焼身自殺をして世界に訴えかける。
しかしそれは報われる事はないだろう。
過ぎた火は炎となり、全てを燃えつくし失うだけだ。
そして蝋燭のわずかな火を守り、此の岸から彼の岸へと命を懸け歩む詩人も
また儚いだけなのだろうか。
(京都下鴨神社の御手洗神事みたい)

絶望の淵に立たされた人は何を見つめ、何処へ進みゆくのだろうか。
信じるものを失った者の最後にあるイメージは天国や浄土ではなく、心の
故郷なのだろうか。
この映画のラストはそう語る。
しかしそこには雪が降り始め、厳しく寒い冬の訪れが暗示される。
もの凄いラストシーンである。

タルコフスキーはソビエトを離れ自由主義社会へと渡って行った。
初めにも言ったがそれが余計に望郷の念を膨らませていったようだ。
何が自由で、その自由が人類に何をもたらすのか。
自由がために失われつつあるものの悲しみは計りしれない。
失われたものへの憧れは、今この歳になって、強く感じられるようになった。
二十代でこの映画に出会った時には、到底感じなかった思いだ。
ノスタルジックな淋しさは果てしない。