妖しい亜熱泰

タイと東京、アジアと和の話題など。
出かけたついでに一枚をつづります。

佐保路を歩く

2008-07-22 | Weblog
梅雨が明けた。久々に大和路を歩いてみようと思った。
バス停を降りて5分も経たないうちに汗だくになる。自動販売機で水を補給し、歩くこと数分、目の前には大きな陵墓が姿を現した。

初めて奈良に来たのは、中学生時代のクラブ活動の合宿だった。今はなくなってしまった夜行列車「銀河」に揺られて京都まで、そこから奈良線のディーゼルカーに乗り換えて最初にやってきたのが、このウワナベ、コナベ古墳だった。近くに高台がないので、前方後円墳という●と▲を合わせた独特の形状は確認できず、池に囲まれた、立ち入り禁止の島という印象だけが残っていた。

奈良、大和路といえば大仏さんだったり、法隆寺だったり、鹿だったりを連想するのが普通だろうけど、私にとっては、この観光客が訪れることがあまりない、佐紀盾列古墳群という難しい名前のついた一角が、是非とも再訪したい場所だった。ずっとずっと以前に訪れた場所なのにあまり周囲の風景が変わっていないような気がした。時折地元の人が自転車で通り過ぎるだけ、後ろは住宅が点在している古墳さえなければただの地方の風景の中である。逆にそのほうが、この古墳が造営された1500年前を思ってみるには、ふさわしいような気もした。

バス通りに戻って少し歩くと道端に海龍王寺の入口が見えた。どうかすると通り過ぎてしまいそうなくらい地味な入口だ。かつての大伽藍も今は本堂ほかわずかの建物が残るのみで、ひっそりしていた。参拝客は誰もいない。本堂には重文の仏像が安置されていた。ひととおり拝んで堂内を見回して、あれっと思った。国宝が見あたらないのだ。入口でもらった栞を読むと、五十小塔は西金堂にあるとのこと。脇の西金堂をのぞくと、模型のような小さな五重塔だけが安置されていた。こんな小さな古刹のなかで、よくも千年以上も大切に守られてきたものだ。

静かな境内を出ると、また強い日差しが差し込んできた。今年の大和路は暑い。

モンゴルDAY!

2008-07-13 | Weblog
7月11日はモンゴル革命記念日の祝日でナーダムという大きなお祭があります。それで日本でもお祭りをやろうということで、早稲田奉仕園で「モンゴルDAY!」というセミナーが開催されました。

前半がモンゴル留学生のお話、ティータイムを挟んで後半が馬頭琴コンサートでした。
モンゴル民族はモンゴル国という自前の国のほかに、北側のロシアや南側の中華人民共和国に内モンゴル自治区をを中心とした地域等にも住んでいて、複雑だ。今回招かれた留学生は、モンゴル国からが2人、内モンゴル自治区から1人で、司会は早稲田奉仕園でモンゴル語を教えている先生で、この方も内モンゴルの出身。

モンゴル国の人口は260万人で、約半分が首都、ウランバートルに集中している。民主化以来、生活はどんどん変わって、ファッションや映画の流行で言えば渋谷と変わらないそうだ。言論も自由になり、好きなことがいえるようになった。ただ、80年間ロシアの影響下にあったので、モンゴル語はキリル文字表記がいまだに残っている。
草原の生活は昔からの遊牧。夏は羊や山羊の世話をしたり馬乳酒を作ったりする。乳酸菌や羊毛を売って生計を立てている。冬になると牧草地を求めて移動する。太陽光発電のおかげで草原のゲルでもテレビを見ることができるようになったが、よいことなのかどうか?ゲルには鍵がない。いつ、誰が来ても歓迎される風習が残っている。モンゴル人にとって、出会いとは貴重な情報交換の場で、どこの誰が何をしているか、などの話題で盛り上がる。
モンゴル人や日本人は遠まわしに物事をいうのが似ている。

内モンゴル自治区には380万人、つまりモンゴル国よりも多くのモンゴル人が生活している。しかし、自治区の人口2000万人なので、政治的にも経済的にも中国人の影響下にある。言論の自由がないので、たとえ日本に留学している身でも、家族が内モンゴルにいるので自由な発言はできない。モンゴル人はモンゴル語と中国語両方ができないと、暮らしていけない。最近、モンゴル語の学校が減少してきているのが心配だ。モンゴル人の中には、モンゴル語を習得しても仕事に使えないなどの理由でモンゴル語を学習していない人が増えてきた。
自分のアイデンティティに悩んでいる。「何人ですか?」と聞かれると「モンゴル人」と答えると、モンゴル国民と誤解され、「中国人」と答えるのにも抵抗がある。
ほかのアジアの分断国家に比べると、外モンゴル人と内モンゴル人は仲が良い。ただ、体制が違うので交流の機会が少ない。

後半はバトオチル氏の馬頭琴コンサート。バトオチル氏は馬頭琴を弾きながらホーミーを歌うことができる数少ない演奏家のひとり。初めて聞いたホーミーの音は、何故か浪曲のようでもあり、お経のようにも聞こえる不思議な調べだった。

ティタイムに、モンゴルのミルクティ(スー・ティ・ツァイ)を初めて飲んだ。粟粒のような黄色い米とバター、塩をコップに入れ、ミルクティを注いで飲みます。しょっぱくてかなり濃厚な味だ。口の中ではかなり後を引きそうな感じだったが、飲み終わると意外にもさっぱりした気分。モンゴル語の先生に寄ると、気がめいったときはこのスー・ティ・ツァイを飲むと落ち着くとのことです。

それにしても、みなさん、顔立ちが日本人とほとんど変わらないのがすごく不思議。

アニメーション監督 出崎統

2008-07-07 | Weblog
日本最初のラジオ放送は、1925(大正14)年に東京、愛宕山で始まった。場所は愛宕神社の隣で、今はNHK放送博物館になっている。昨年「あたごさま」参りに来たときから気になっていた。
ちょうど、博物館でアニメーションに関する講演があるというので出かけてみた。


子供時分(昭和18年生まれなので)の娯楽といえば貸本屋。特に漫画が好きで、高校生の時に投稿欄に応募したところ採用され、それがきっかけでいくつかのアルバイトの注文が来るようになった。
漫画で食べていこうと思い、大手出版社に売り込みに行ったがすべて駄目だった。
それで、就職していたが、たまたま新聞の求人欄にアトムの絵を見つけたら、「虫プロ」だったので応募したら採用された。後で聞いたところでは、採用担当者が貸本の投稿欄で名前を知っていたからだという。
300人くらいの社員がいたが、すぐに腕前は100番目くらいになった。すると先輩から「ビックX」の絵コンテの仕事を頼まれ、これがきっかけになり絵コンテに夢中になった。高校時代で終わってしまっていた漫画家の夢とアニメーションの仕事ががつながり、進化したという実感。
初の監督作品は「あしたのジョー」。その後「エースをねらえ!」、「天才バカボン」、「ベルサイユのばら」、「宝島」などを次々と世に送り出す。一時、連続テレビアニメから遠ざかっていたが、2005年NHKの「雪の女王」で復帰。絵コンテは色々考えたが、他の人じゃ出来ないだろうと結局すべて自分でやってしまったという。

まだまだ現役バリバリ活躍中の出崎統監督さんのお話でした。

おもちゃ美術館

2008-07-02 | Weblog
積木遊びをしている子どもがいる。木の香りが漂うバスタブの中に木製の玉がたくさん敷き詰められていて、その中で子どもたちが玉をジャラジャラかき回して遊んでいる。ジャングルジムのような二階建ての檻のようなところに入ってはしゃぐ子どもがいる。傍らでは、子どもそっちのけで、ケンダマに興じる大人の姿もちらほら。

見た目は都内どこにでありそうな小さな小学校だ。中が2区画に分かれていて、そのひとつが「東京おもちゃ美術館」になっている。もともと1984年に中野で開館した施設だが、2008年に四谷に移転してきたものだ。
新宿御苑近くに用事が出来たので、インターネットで地図を見ていて偶然見つけて出かけてみることに。

美術館という名前になっているのは、中で企画展をやっているからだろう。今はおもちゃのシルクロードと題して「アジアの玩具展Ⅰ」を開催中だ。中国、台湾、ミャンマー、インド、インドネシアなど多数の玩具を展示している。中国のものが圧倒的に多いのと、タイやインドネシアに多いと思っていた操り人形が各国にも分布していたのが印象的だった。

建物は鉄筋作りだが、中の木の香りがとてもいい。この環境の中で遊ぶというのが日頃テレビゲームばかりしている子どもたちには、新鮮で面白いのだろう。入場料子供500円、大人700円にもかかわらず多くの家族連れが遊んでいた。

それにしても、自分の子供時分には幼稚園や小学校に備品としておいてあったような遊び道具も多いのにわざわざお金を払ってやってくるというのはどうゆうことなのだろう。ちょっと不思議な感じだ。

帰りがけ、旧新宿区立四谷第四小学校跡地の碑を見つけた。卒業生たちはどんな思いなのかな。