箱舟（後編）

瞬間、眠っていた未沙の睫毛が微かに動いた。
「艦長！」
汗だくになって見下ろす木村医師の顔がぼんやりと見えてきた。
「聞こえますか？艦長！聞こえたら指を動かしてみてください！」
何を言われているのかを理解するのに少し時間が掛かったが、未沙の指先がわずかに動いたのを木村医師は確認できた。
途端、表情は柔らかくなり、安堵の息を吐いた。
「もう大丈夫です。良く頑張りましたね艦長。お子さんは無事です。女の子ですよ」
---女の子…。
貧血でまだクラクラする。言葉もまだ出せずにいた。
赤ん坊はいつの間にか泣き止んでいる。
看護師が顔の真横にまで連れてきてくれた。
「腕、動かせますか？指で赤ちゃんの掌に触ってみてください」
身体はだるさを訴えていたが、ゆっくりと腕を折り曲げるようにして赤ん坊に向けた。
小ちゃい手の平に少し触れると、その指を赤ん坊はぎゅ、と握り返してきた。
その小さな力に、自分が生きている実感が沸いてくる。
自然と涙が零れ落ちた。
「…さあ、艦長。ちゃんと抱っこ出来るように体力を取り戻さないとね」
「はい…」
ようやっと未沙は微笑むことが出来た。

あれからどのくらい経ったのだろうか？
分娩室のドアを穴が開きそうなくらい見つめていた。
そのドアが開き、看護師が赤ん坊を抱いて出てきた。
「艦長は意識を取り戻しました。もう大丈夫ですよ」
無事の報せを聞いて輝はもう一度床にへたれこんだ。
「あらあら。娘さんの前ですよ。しっかりなさいませ、お父様」
輝の様子がほほえましく、思わず看護師はくすくすと笑ってしまった。
残りの処置を助手達に任せてきた木村医師が分娩室から出てきた。
「中佐、お待たせしました。おめでとうございます。やっと赤ちゃんを抱っこさせてあげられますよ。…でもその格好」
木村医師も今気がついたかのように輝の姿を見て吹き出した。
我に返った輝は立ち上がり、パイロットスーツの上半身部分だけを脱ぎ始めた。
その間、木村医師は分娩室へ戻り、タオルを持ってすぐ戻ってきた。
「はい。これで顔をお拭きください」
ちゃんとタオルを湿らせて来てくれていた。
涙と鼻水でベタベタになった顔を拭き、輝は赤ん坊を抱っこする事が出来た。
ぐにゃぐにゃしている小さな身体に恐るおそる腕を伸ばす。
父親の胸に抱かれた赤ん坊は、いきなり大きな欠伸をした。
「あらあら。泣き疲れちゃったのかしらね。艦長が目覚める直前まで泣いていたんですものね」
---未沙が気づくまで？
この子は母親の異変に気づいていたのかもしれない。
なんとなく輝はそう感じた。
小さな口をむにむにと動かすだけで、すっかり輝に安心しきっているかのように身体を預けている。
---産まれてくれて、ありがとう。
赤ん坊の重みを腕に感じ、輝もやっと笑顔になれた。
「そろそろいいですか？中佐。今日一日は新生児室で様子を視させていただきますので…」
「あ！ああ、はいっ、お願いしますっ」
再び赤ん坊を看護師に渡した。
廊下を歩いていく看護師の背中を見送り、輝は木村医師に向き直った。
「先生…ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
「いいえ。艦長の意志の強さですよ」
帽子とマスクを取りながら木村医師は言った。
「どんなに医者の腕が良くても、患者本人が生きようと思わなければどうにもならない事があります。…艦長はよっぽどあなた達を置いて逝くわけにはいかなかったんでしょうね」
「…なんかそれって、俺が頼りないって聞こえるんですけど」
「え？！そうですか？！」
言い方がまずかったのか？と、木村医師は慌てた。
「すみませんっ！そういう意味じゃなくて、艦長はあなた達ともっと幸せな気分を味わいたかったんだと言いたかったんですがっ！すみません、すみません！」
「え？！いえいえ、そんな謝らないでくださいっ！こちらこそすみません！」
廊下で謝罪合戦が繰り広げられているとは露知らず、未沙は休息の眠りに落ちていった。

メガロード（箱舟）は進む。
その動力は、みんなの強い意思と祈りなのかもしれない。
いつか必ず見る事が出来るだろう。
美しい虹を、未来を。






Image music:「箱舟」