Haste not, Rest not

二度と返ってこない今の自分の気持ちを積み重ねる部屋。

無題

2011-06-01 14:12:27 | 日記

あれから毎日、生き方について考えている。

そういうことができる環境に生きていること自体、とても幸せなことだとは思う。

答えなどわからない。

正解というものじたい、たぶん存在しない。

逆に言ったら、どんな生き方も正解。

わかっている、そんなのは。考える前から。とっくに。

その時々の自分、の思うとおりに日々生きていくしかないと。

毎日どんなに考えて、どの角を曲がっても、どの方向を選んでも、たどり着くのは結局いつも同じ場所だ。

けれど、ずっと考え続けている。

見つかるはずのない、正解に限りなく近い何かを求めて。

それをやめられない。

安心したいのだ。

これが自分にとっての正解、と自分を納得させて、数々の不安や悲劇的な未来像から解き放たれたいのだ。

でもそんなの無理だ。現実は現実。受け止めるしかない。

悲観から逃避するための楽観主義、または思考そのものの停止、は毒だ。

けれど、後悔は何も生まない。

恐ろしいほどの無関心さを、今更悔いても意味はない。

毎日不安だ。つねに。

幸せだと感じた瞬間、反動のように負の感情が全身を襲うことがある。

でも、真実を知ったことを後悔はしていない。

与えられた日々を、これ以上ないほど愛おしみながら人生を送ることができているから。

「当たり前」だった日常は、想像以上に脆く儚いものだった。

当たり前なんかじゃないこと、わかっていたつもりだったけれど、

足りていなかった。想像を遙かに超えていた、そのとうとさ。

失ったときに気づくのでは、遅すぎるから。

今の私がこうして生きていられることに関わるすべてに渾身の感謝を。



たった一度与えられた、人生という素晴らしい機会を、

賢く、しなやかに、ときには残酷なまでに割り切り、

楽しんで生き抜く強い覚悟を。







以下自分でも見るに堪えないどっろどろの思考。
道筋も脈絡も思考パターンもぐっちゃぐちゃ。
でもこれがありのままの気持ちだったりするからほとほと嫌になる。






























ある人のメッセージ。

「事態は収束していないのに日本の人々の楽観性は諸外国からしてみるともはや『個々の無責任さ』と評価されつつあり、極東の小さな島国の不幸な出来事、その歴史、と冷ややかにささやかれています。」

この数行の衝撃と脳内だけではとても足りず体中を駆けめぐった無数の思考。
そのいちぶ。

今も飢餓にあえぐ「後進」国に生きる命も、
もはや生存だけが目的ならば必要のない豊かさを求めテクノロジーを駆使してエネルギーを作り出してきた「先進」国に生きる命も
どちらの命も同じ重さだ、そこに差はない、当たり前だ、でもきっと錯覚しがちだ、状況が違うという理由で
命の存在だけについて論じるなら、前者の状況や命についてニュースにならないのならば、後者の命について問題視されないのも当然で、後者だけが注目されるのならばそれはおかしいということになる
ならばメッセージの内容のような評価となって当然なのだろう
全体で見たときにパーセンテージでいったらコンマ以下、その程度なら問題にならないのだろう
じゃあ問題になる事態ってなんだ?
パーセンテージ?命に関しては何の意味もなさない記号だ。
命に関しては0か100かだ。
ひとりの命は誰かの人生、つまり命に繋がっているのに


こうしている間にも名も知らぬ誰かの力になろうとしているひとがいること、
必死で状況を変えようと行動を起こしているひとがいること、
事態を収拾させようと、自らの命を賭けて最前線で戦っているひとがいること、
そういうひとたちが発しているちからが、未来を強く照らしていく、そんな世界を信じたい気持ちと、
そういうひとたちの思いが一握りの冷酷な権力によってあっけなく握りつぶされていく様に絶望する気持ちと、
そういう気持ちたちがシーソーゲームをしている日々。

捨てきれない希望、それは明るい未来云々じゃない。
ひとの思いやりとか、温かさとか、愛する気持ちとか、そういうものにはどんなものも敵わないんだって思いたい気持ち。

緊急事態で自分のことしか考えてないあたしが、こんなことを思うのは矛盾の極みなのだけれど。