火事現場を離れた私たちは、課長の許可を得てそのまま直帰した。
脚に力が入らない私を気遣って、高橋くんはタクシーを呼んでくれた。
そして、土日の休みの間自分の部屋にいた方がいいと言う。
「1人でいると、考えなくてもいいことを考えちゃうから。美樹ちゃんは普段からそうだし、今日は尚更」
普段からのくだりは余計だけど、確かにそうかもしれない。
現に今だって、窓から入り込んで来る炎の映像が、繰り返し頭の中で流れてる。
火事現場の書店から、タクシーで高橋くんの部屋までは、40分くらい。
くっついて座って手をぎゅっと繋いだ。
でも、どこからかあのゴーっと言う音が聞こえる気がしてならない。
たぶん、怖い記憶が聞かせる音なんだろうけど…
目を瞑ってそれに耐えていると、彼が耳元でもう少しだから、と何回も言ってくれる。
左手を彼の手に、右手で腕を掴み肩に顔を埋めて。
繰り返される『もう少しだから』を聞いているうち、遠くから聞こえていた轟音は止んだ。
彼の部屋で、シャワーを浴びて着替えて、昼間の火事場の臭いを消した。
ゆったりしたTシャツとショートパンツに着替えて、ソファに座って水を飲んでいたら、いつの間にかうとうとしていたらしい。
目を開けたら、まだボディーソープの香りのする彼に、もたれていた。
「あ…ごめんね、私寝ちゃってた?」
「うん、ちょっとうとうとしてたみたいだね」
顔を起こして彼の目を見ていたら、思い出した。
「お礼を、言わなきゃいけなかったのに、忘れてた。」
「え?何のお礼?」
「助けてくれたお礼」
「お礼なんて…本当に何事も無くて良かった」
「もうひとつお礼があるんだ」
「ええ?もうないでしょ」
「私を、泣かせてくれたこと」
「泣かせたって…ああ、そうか」
「10歳の時、なんでだか分からないけど、こんな怪我したのに我慢して我慢して、泣かなかったの。今から考えると、子供なのになんで我慢したんだろうって思う」
「今日はた…敦が、受け止めてくれたから全部吐き出せたの」
「…いま、高橋って言いかけた?」
「あ、わかっちゃった?まだ慣れてないんだから見逃して~」
「…別に急がなくてもいいよ。結局言ってくれたし」
ちいちゃくふふ、と笑うと安心した声で彼が言う。
「笑ってくれて良かった。助けられて良かった。5歳の時は何も出来なかったけど…」
彼にお礼を伝えられてホッとした。
ホッとした途端、まぶたが重くなってきた。
「ねむい。もう寝よう」
「うん、明日は土曜日で休みだし、目覚ましかけないで寝よう」
すぐ隣にいてくれるから安心出来たけれど、それでも深く眠りに入ると、その夜は夢を見た。
今日の火事じゃなくて、子供の頃の火事。
走っても走っても追いかけて来る炎。
右腕になめるように襲いかかってくる所で、目が覚めた。
彼が私の顔を覗き込んでる。
「夢、見てたの。前の火事の夢」
「…そう。うなされてたから、気になって見てた」
「いつ止むのかな、これ」
「きっと止むよ、大丈夫」
それから、母のお腹に入るみたいに、彼の腕の中で丸まって眠った。
頭の上から規則正しい寝息が聞こえて、すーっと眠りに落ちた。
月曜日、会社に行くとみんなから労られ、課長からはもう少し休めばと言われ、正直こそばゆい。
結局、怪我はしていなかったのだから。
火事の時のことについては、私の精神的なダメージを察してくれたのか、そこまで詳しくは聞かれなかった。
そのかわり、また普通に営業の仕事に戻った私と高橋くんに、みんなからの遠回しな質問が飛んで来た。
「火事のとき、高橋くんすごく小山さんを、労ってあげたんだってねえ」
課長はやんわりと。
「二人とも、やけに仲いいなって思ってたんだよね」
前に一緒に仕事をしてた先輩は、オレ分かってるぜ的な。
最終的には、休み前の金曜日に高橋くんと二人で、岩田さんにご飯に誘われ、洗いざらい聞き出されることに。
「お疲れさまでした」
3人でビールで乾杯して笑い合う。
先週の金曜から1週間たったなんて、嘘みたいだ。
「美樹ちゃん、体調はもういいの」
「大丈夫です!ほら、ビールも飲んでるし」
岩田さんに向けてグラスを掲げ、笑って見せた。
正直、体調が悪い訳でもないのに、お酒はあんまり、だった。
それはまだ、1日おきくらいに火事の夢を見るから、なんだろうか。
「それにしても、まさかあの書店のビルで火事が起きるなんてね」
「そうですよね。出火元は飲食店みたいですけど」
確かに、あの時まさかあそこで火事なんて、考えもしなかった。
「高橋くん、よく美樹ちゃんのいるとこに駆けつけたね~」
岩田さんが、ほとほと感じ入ったように言う。
「書店の木村さんが言ってくれたんですよ。飲食店の真下が倉庫だって」
このことを、初めて彼に聞いた時は、本当に有り難かった。
私は腰が抜けてたし、敦が早く来てくれたお陰で助かったんだから。
「あ、そういえば。宮崎さん、営業に移るの止めたみたいだよ」
「え?そうなんですか。初耳…」
横の彼を見ると、びっくりしている。
彼にも言ってないんだ…
「なんだか、研修してみたけど、向いてないと思うので、って本人が言ったみたい」
助け出された後の、私を見る悲しげな目が思い出された。
宮崎さんなりに、気持ちの整理がついたのかな。
「ねえ、美樹ちゃんがお手洗い行ってる間に、聞いていい?」
「なんですか?」
「美樹ちゃん、ちょっと口数が少ない気がする。ほんとに大丈夫なの?高橋くんから見て、どう?」
「そうですね…まだ、1日置きくらいにうなされてて」
「あれっ…もう、二人は一緒なの?」
口を滑らせたからか、敦は思わず苦笑い。
「いや、土日だけのつもりが心配で引き止めてしまったので」
「そうだったんだ…」
「でも、少しずつ悪い夢は見なくなってるみたいですよ。仕事も出来てるし、ちょっとずつ、元に戻ると思います」
「高橋くんがいれば、ね」
「そうだったらいいなって思ってます…。まだ言ってないんですけど、もう一緒に住もうかって思っていて」
「は~高橋くん、そりゃ心配もあるだろうけど…とにかくみきちゃんが大好きなんだね」
「岩田さん、ストレート過ぎます。まあ、大好きですけど」
「高橋くんだって、ストレートじゃない。でも、良かった。美樹ちゃんにこんな素敵な彼が出来て安心したわ」
私がお手洗いから戻ると、岩田さんがニヤニヤしていた。
「岩田さん、何ニヤニヤしてるんですか。ねえ、何か言ったの?」
前半は岩田さんに、後半は彼に尋ねる。
「内緒だよ。ねえねえ、あの書店への転職話はどうするつもり?」
「あぁ…興味はあるし半分決めてたところもあるんですけど…少し、考え中です」
「書店自体は営業してるんだっけ?」
「一部閉めて、営業はしてましたよ」
実は昨日の木曜日、行って来たのだ。
買い付け担当の木村さんには、ものすごく心配されて「お誘いはまだ有効ですから」と、言ってくれた。
行きたい気持ちが大きいけれど、今は考えることがたくさんあって、決めかねていた。
じゃあ来週、と言って岩田さんと別れた。
当たり前のように、敦の部屋への最寄り駅で降りた。
このまま、一緒に住んでもいいかなあ…
前に言われたときは、すんなりそう思えなかったけど。
でも、今夜は…