
走行検査掛として実際に新幹線に乗務していた時代です。走行検査とは東海道新幹線運転中に発生したトラブルに対応するために乗務する職種で東海道新幹線開業時からしばらくは”ひかり”は運転士二人乗務に対して”こだま”は運転士1名、走行検査1名体制で運転されていました。
この頃の私は職場に問題があれば当局に指摘し改善を求める、しかし言いっぱなしではなく仕事は人一倍する。常に当局と一労働者であると言う意識を持つものの、仲間内でのスキルアップでも切磋琢磨し、新幹線の安全安定輸送に貢献するんだ!と言う気概を持って仕事をしていました。なので、事なかれ主義の管理者とか先輩とは激しく対立した記憶もあり、今思い返すとめんどくさい後輩にたったんだろうなぁ?と気付いたのは自分がその先輩の同じくらいの歳になってからでした。 86,10頃 東海道新幹線新大阪駅 同僚撮影のプリントを複写
本日、勤務地の東京駅第7ホーム(東海道新幹線 14・15番線ホーム)の輸送業務を終え43年間の鉄道人生を終える事が出来ました。明日、31日をもってJR東海を完全退社することになります。
思い返せば1977年04月に国鉄新幹線総局に入社して大阪・吹田の大阪鉄道学園での03ヶ月の新入社員研修の上、08月に今は品川のオフィスビル街(品川インターシティ)となってしまった東京第一運転所に配属されちょうど10年間、東海道新幹線の電車を保守し日本一、いや世界一の新幹線の安全輸送にプライドをもって携わっていました。そして1987年04月の国鉄分割民営化の波に飲み込まれ、分割民営化に対して反対の立場を誇示した労働組合に私が所属していた事から国鉄末期〜新会社と今に至るまで徹底的な組合差別を受けてきました。今でも忘れられないのが新会社設立のお祝いムードの日に狭い一室に同じ組合の人が何人もがほぼ軟禁状態で閉じ込められ、やって来た管理者から〝お前らは本来新会社に採用されるはずのない不適格な社員であるが政治の力関係で会社側から言わせれば不本意ながらも採用した。出来れば自らの手で一刻も早くこの会社から去って欲しい〝とだけ言われた事です。この屈辱的な言葉は今も鮮明に私の脳裏に残っています。また新会社になったある時、新人社員に一言、二言話しかけたところ困惑している様子で、理由を問いただすと〝あの人たちとは絶対に話してはいけない〝とキツく上司から言われていると白状しました。我々はそんな口も聞いてはいけない見下された社員であった訳です。

良い悪いは別として国鉄=労働運動といって過言でない程、国鉄で働くと言う事は常に労働運動とかかわっていくんと言う事でした。まだ総評と言う労働者の代表みたいな組織が存在し、政府自民党と対等に論議をして労働者権利の向上・労働条件や労働環境の改善に取り組んでいました。今みたいに一般国民=労働者を虫けらの様に扱う事が出来なかったのは今も昔もいろいろな評価はありますが総評と言う強い労働者の組織があったからという事は否定出来ないと思います。 79年頃 東京第一運転所 臨修庫 プリント複写
さらに分割民営化当初は〝新会社設立を妨害したならず者〝とレッテルを貼られ国鉄時代に従事していた仕事から外されプライドが高ければ高い人ほど、それをへし折るような簡単な仕事に従事させられました。それは昔の仲間からよく見える駅のコンコースでお土産売りをやらされたり、早朝の〝こだま〝でコーヒーを販売、更には駅構内でハンバーガーショップをやされられ、〝会社の考えに背くとこんな事になるぞ!〝と言わんばかりの見せしめに遭いました。そんな仕打ちを受けてもへこたれずに頑張っていると、ひょんな事から営業本部直轄の予約センターに1991年に異動配属されました。この部署では同じ会社でもこんなに違うのか?と驚くほど組合差別はほとんどなく、逆にできる者は何でもやれ!と言う能力主義で管理者でもない私に管理者以上の仕事が舞い込むようになりました。ついこないだまで仕事らしい仕事を与えられなかった一般社員が何でここまで?と戸惑いを感じながらも任された仕事の大きさにやり甲斐を感じる日々でした。

↑↓予約センター時代の画像はとても少なく、あっても送別会や歓迎会の画像ばかりで仕事してる姿は探すのに苦労しました。この当時は目立つことが”良し”の時代でサスペンダーをして、これが私のトレードマークでした。これは女性に印象を与える事もありましたが、営業をしているとお得意様にいかに名前を覚えてもらうかが、営業マンとしての大切な資質だと思ったからでした。会社の指導は白ワイシャツ推奨でしたが、いつも色のあるシャツを着用していました。これもその一環です。管理者も派手なワイシャツには何か言いたい雰囲気は感じていましたが結局、最後まで何も言われませんでした。 ↑95,08,31 横浜予約サービスセンター ↓たぶん06年頃 青山予約サービスセンター プリント複写

しかし、それも長くは続かず世の中のチケットレス時代到来を見据えた2006年に予約センターが廃止され、異動を余儀なくされ一番行きたくなかった駅業務へ配置転換となってしまいました。その当時、すでに50歳直前で慣れない仕事に目を白黒させて、自分の子供くらいの社員に仕事を教えてもらうと言う屈辱で久々に組合差別を感じる様になりました。
駅業務では主にホームで列車監視と言って東海道新幹線が安全に運行を見守る仕事に従事し2006年から2010年まで品川駅、その後に新富士駅と転勤し(この時は上司と喧嘩し、その報復異動)その後、今の東京駅に2016年に転勤し今日に至りました。
好きで国鉄に入り嫌な事も多くあっても続けてきた仕事だけに再雇用満期の65歳まで仕事を続けたかったのが本音ですが、仕事のキツさがそれを許してくれませんでした。また、職場で波風を立てるのは本意ではないので後輩に当たる中堅社員のあまりにも失礼な日々の振る舞いに口を閉ざしていましたがそれも限界を迎え”去れる者は去るしかない”と思い今回の完全退社を決断した次第です。
最後に心残りといえば一昨年に発生させた回送列車を03分延発と言う責任事象の事です。自分だけは責任事故は発生させないと硬く信じていただけに、同僚の不手際が元々の原因(余計な事をして、それに釣られてしまった)とは言え、そのショックは今も引きずっています。
この間を総じて振り返ると期待に胸膨らませて国鉄に入ったものの労働争議や国鉄解体と新会社設立後の不当労働行為に振り回された波瀾万丈の40年でした。
国鉄時代は55歳定年ながらも去って行く人は老いていたのを鮮明に記憶しておりますが、今の自分は63歳とは言えまだまだ元気で、家に籠るのもまだもったいない気がしてなりません。たぶん、しばらくすると身体を動かしたくてウズウズし新しい人生を模索するのではないか思います。少し休んでから新たな進路を考えようかと思っています。
最後にいままで私とかかわりのあったみなさまのご厚意に厚く御礼申し上げ、こらからも変わりなくご指導、ご鞭撻をお願いして退社のご挨拶としたいと思います。
ありがとうございました。

恥ずかしいので私は断ったのですが”最後だから”と言って鉄ちゃん仲間が駅に押しかけて私を撮影して行きました。今はマスク着用が義務付けられていますが、撮影用にマスクを外して列車監視をした時の画像です。 21,07,21 元青年部長撮影