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くるみ料理コンテストがありました

2012-11-25 00:44:26 | 雑感
11月24日、今年も恒例のくるみ料理コンテストが道の駅「雷電くるみの里」で行われました。この地域特産のくるみを使った料理を一般から募集し、くるみの消費拡大につなげようというこの取り組みは滋野地区活性化研究委員会が実施しているもので、今回で3回目になります。優秀作品の中からは道の駅の新メニューに取り上げられたものも出て来ています。料理コンテストにあわせてくるみの品評会や写真展なども行われました。

いま東御市ではくるみの栽培が盛んに行われています。この地域では昔からかしぐるみの栽培が盛んでしたが、一時期アメリカシロヒトリという害虫が大発生し生産も大きく落ち込んでいました。しかし、食材としてのくるみの良さが見直され、健康にもいいことから遊休農地対策として栽培が奨励されてきています。

アメリカシロヒトリに効果がある薬剤も開発され、消毒用の強力な動力噴霧器も町で貸し出すようになり、ここ数年くるみを植えつける方が増えてきています。わが家にもくるみの木は3本あり数年前に2本植えています。


道の駅でくるみ料理コンテストとくるみ品評会が行われました。


料理部門で最優秀の市長賞を受賞した「くるみいなり」です。どんな味なのか食べてみたくなりました。


くるみを撮った写真展も行われていました。

海野宿ふれあい祭でした

2012-11-24 01:14:39 | 雑感
11月23日は海野宿ふれあい祭でした。朝からあいにくの小雨模様でしたがにぎやかに行われました。時間が遅かったため、恒例の江戸時代の海野宿を再現する時代仮装行列を見ることはできませんでしたが、たくさんの出店が出でおり、大勢の観光客が詰めかけていました。

この日はいつもなら地元区の芸能発表会が重なり見ることはできないのですが、今年は1週間ずれたため初めて訪れることができました。海野宿は江戸時代の宿場の雰囲気を残しており、重要伝統的建造物群に指定されています。これだけの建物が残されているところは全国でもまれです。地元の女性達がつくられた名物の「ほうとう」をいただきました。とてもおいしくあたたまりました。


小雨の中大勢の観光客でにぎわう海野宿。まるで江戸時代にタイムスリップしたようです。


海野宿に特徴的な「うだつ」があちこちの建物にあります。


「うだつ」は防火壁です。隣家からの延焼を防ぐため、軒先から突き出しています。

柿が真っ赤に熟しています

2012-11-22 02:09:02 | 雑感
我が家から見る浅間山はもうすっかり雪化粧をしています。里にも間もなく雪が積もるでしょう。先日の霜で我が家の柿の木も葉がすっかり落ち、青い空に赤い柿の実がたわわに実っている様子がよく見えます。選挙でいそがしがっていたのですが、我が家の柿は今年は大豊作です。今年も干し柿にしたり知人に差し上げたりするために柿もぎをしました。柿の木はもろいため木に登るときはよほど注意しなければなりません。高いところの実は渡り鳥のために残し、手が届きやすい下の枝から収穫しました。夜なべで皮むきをし糸を通して干し柿をつくろうと思います。






六分水の虫干しでした

2012-11-18 02:45:09 | 雑感
11月17日は恒例の六分水の古文書の虫干しがありました。滋野地区は南面傾斜の扇状地であるため、昔から水には苦労してきたところです。農業用水に使える河川は湯の丸山・烏帽子岳からの谷川の水だけ。そのため水争いが絶えず時には流血の騒ぎもあったそうです。

そんな状況を克服しようと、江戸時代中期、小諸藩であった大石村、片羽村、桜井村、中屋敷村と、天領であった別府村、原口村、新張村が話し合い、水の配分方法を滋野分は六分、祢津分は四分と定めました。これが六分水といわれるものです。こうした取り組みは幕府の許可が必要です。当時の村役人の方々は何度も幕府に陳情して裁可状を得ました。

六分水の虫干しとは、代々受け継がれてきた六分水関連の古文書と絵図面の虫干しをし、関係区の区長さんはじめ役員の皆さんで確認する行事となっています。いまではため池も完備したり新しい水源も整備されたり、昔ほど水に苦労することはなくなりました。しかしご先祖の苦労をしのび、水を大切にし、この歴史と伝統を子々孫々にまで伝える大切な行事となっています。

この行事は旧小諸藩4村(大石、片羽、桜井、中屋敷)が主催し、川上である旧天領の新張と別府、原口を接待する形で行われています。立会人として市長や市議会議員が出席しています。いつまでも大切にして行きたいと思います。


古文書が机の上に並べられ虫干しが行われます。


絵図面には事細かに六分水の水の流れが描かれ、ところどころに付箋が張られ書き込みがなされています。


絵図面の端に六分水と四分水を分水する枡場が描かれています。

風よ、ふたたび東御市を吹き渡れ!

2012-11-03 02:28:00 | 雑感
東御市のような地方の小さな町の場合、市議会議員選挙など身近な選挙は地縁や血縁によることが多く、いわゆる地盤・看板・カバンがモノをいい、よそ者・若者・馬鹿者は排除されてきました。そんな保守的な地域に4年前の選挙では旋風が巻き起こりました。よそからワインを造りたいという思いで一人やってきた農業青年に対し、2位を100票も引き離す1100票もの得票を与えたのです。

彼はこの地域に知り合いはいません。名前も知られてはいません。当然お金もありません。あったのはワインにかける情熱と、この地域を変えて行きたいという強い思いでした。そんな彼に多くの市民の皆さんは期待を込めたのでした。彼は泡沫候補と目されていたので、この結果は驚きをもって受け止められました。

私にも同様なことが言えます。わずか1か月前までサラリーマンで地域の事など何も知らず、当然知名度もありませんでした。選挙戦のさなか、ある方から「ところであんたさんは区長やったでごわすか」と聞かれたものです。区の役員は会計をやっただけでした。そんな私にも市民の皆さんは877もの票を与えていただき、8番目という高位で当選させていただきました。後援会の皆様の必死のご努力によって当選させていただいたのですが、最下位で当選できればいいと思っていた私自身驚きでした。

こうした二つのことから4年前の選挙の際、この地域を変えたいという風が確かに吹いたのだろうと思います。様々な利害や地縁・血縁で行われてきた選挙に少しずつではありますが、変化を目指す胎動と新しい政治を目指す息吹が感じられます。今回の舞台が丘計画に反対する住民運動もそうした動きの一つだと思います。すべて上から決められてきたこれまでのやり方に疑問を抱き、おかしいことはおかしいと発言する人々が少しずつではありますが出てきています。

今回の選挙で4年前を上回る風が東御市を吹き渡ることを期待します。あなたかませの政治ではなく、自ら参加する政治に変えることこそが求められているのだろうと思います。自ら選び取る政治は責任も伴い、決して楽なものではないと思います。しかしあえてそうした道を選択される人々が出てこられることを期待したいと思うのです。

風よ、ふたたび東御市を吹き渡れ!

議員活動4年間を振り返って

2012-11-01 23:52:21 | 雑感
私が議員になって4年になります。「議会だより」16号に「これまで、そしてさらなる飛躍をめざして-議員活動4年間を振り返る!」と題して一文を掲載しました。以下にその内容を転載します。ご覧ください。

■ 右も左もわからない中で無謀にも議員に挑戦

問  若林さんの経歴を教えてください。
若林 私は昭和24年生まれです。上田高校から横浜市立大学に進学し、地元の八十二銀行に就職しました。退職する前はコンサルタントとして、地元企業の経営改革のお手伝いをしてきました。

問  議員になったきっかけは何ですか。
若林 もともと政治には縁遠かったのですが、区の役員の時、滋野地区で中部電力送電線建設反対運動が起き、そんな中で行政と関わるようになりました。前回仲間から立候補をすすめられ、定年を前にして悩みに悩んだすえ銀行を退職。無謀とも言える挑戦でしたが、幸い皆さんのご支援で当選できました。

■ 私を支えてくれたすべての人に感謝です

問  当選されて何を感じましたか。
若林 いま考えてみると銀行でつちかった営業力と人脈、コンサルタントで学んだ分析力・企画力、住民運動で鍛えられた「市民目線」と、大切な仲間の存在が私を支えてくれました。どれ一つ欠けてもいまの私はなかったと思います。すべての皆様に感謝です。これからはお世話になったふるさとのために精一杯頑張りたいと思います。

■ 議員になって初の議会で取り組んだことは

問  議員になって最初に取り組んだことは何ですか。
若林 最初の議会で医学生への奨学金制度にかかわりました。これは医師不足を解消するため、市内出身の医学生へ奨学金を支給し、将来市立病院で働いてもらうというもの。これまで議会で何度も継続審議になっていましたが、同僚議員の協力を得て成立にこぎつけました。

問  ほかに取り組んだことは何ですか。
若林 土地開発公社の不良資産問題です。公社はバブル崩壊で多額の不良資産を抱えていました。私は一般質問で「資産評価を時価評価とし、不良資産の実態を明らかにすべき」と主張しました。その後、市も不良資産処理に取り組むようになりました。

■ しっかりと議論するために一般質問の改革が実現

問  議会改革ではどうですか。
若林 一般質問の改革に取り組みました。これまで議員からの質問は3回まででした。これでは突っ込んだ議論はできません。回数の制限をなくし質問方式もまとめて質問、まとめて答えるというのではなく、一問一答方式を主張しました。昨年3月議会から実現されました。

■ わかりやすく、読みやすい「市議会だより」めざして

問  一昨年には広報委員長になったんですね。
若林 広報委員長になり「市議会だより」の刷新に取り組みました。「わかりやすく、読まれる市議会だより」を目標にして編集しています。

問  新しい企画も始まりましたね。
若林 市民の素朴な疑問に答える「議会Q&A」がスタートし好評です。それが評価されたのでしょうか。これまで3つの市議会が視察に来られました。

■ 子供たちにツケを回さないため不要不急事業の見直しが必要です

問  これからの市政の課題は何でしょうか。
若林 少子高齢化社会はすぐそこまで来ています福祉関係予算の増額は避けられません。合併後10年たち合併特例措置が終了し、平成26年からは交付税が削減されます。税収も落込んでいます。収入は減るのに支出は増えます。不要不急な事業の見直しなど行財政改革はまったなしです。

問  舞台が丘事業についてはどう考えますか。
若林 耐震補強や利便性向上は当然必要です。しかし、あるものを使い、おカネはかけず、市民の納得を得て進めるべきです。今回完成した新市庁舎も古い建物を活用しています。第2期事業の15億円道路の必要性には疑問を感じています。

滋野小学校の音楽会が開かれました

2012-10-26 23:53:10 | 雑感
10月26日、地元の滋野小学校の音楽会がサンテラスホールで開催されました。私も来賓としてご招待され参加してきました。サンテラスホールは客席数750席で市内最大の本格的ホールです。しばらく前からここで音楽会を開催しているとのこと。市内にはほかに4つ小学校がありますが、児童数や楽器を移動するためのわずわしさなどから利用しているは滋野小学校だけとのことでした。こんなすばらしいホールで発表会ができる子供たちは幸せだと思いました。

大きな会場も子供たちと保護者の皆さんが座るといっぱいでした。区長さんはじめ民生児童委員の皆さん、学校ボランティアの皆さんなど大勢の来賓の方がいらっしゃっていました。各学年ごとに歌と楽器演奏の発表がありました。素晴らしいと思ったのはオペレッタに挑戦された学年があったことです。孫悟空や雷電などを題材にした音楽劇が披露されました。6年生が演奏したハチャトゥリアンの「剣の舞」はさすが最上級生と思わせるほどでした。

子供たちの音楽に対する感覚の鋭さは私たちのころとは雲泥の差です。限られた時間の中でこれほどまでに完成度の高い舞台を作り上げられた先生たちに感謝です。先生たちはご自分たちが行った音楽劇の中で、子供たちに「夢を持つ」「夢をあきらめない」ことの大切さを訴えられていました。そういえば先日行われた炎のアートフェスティバルのキャンドルサービスの文字も「夢」でした。いまはなかなか夢の持てない時代です。しかし子供たちには夢を持ってこれからの人生にチャレンジしていってほしいと思いました。ありがとうございました。


サンテラスホールの立派な環境の中で音楽会が始まりました。


オペレッタの孫悟空「火炎山」です。とても楽しく子供たちが舞台を縦横無尽に駆け回っていました。


地元出身の江戸時代の力士雷電為右衛門を題材にしたオペレッタ「雷電くん」です。歌を自分たちで作ったり、衣装を考えたり、雷電のエピソードを寸劇にしたりと、とても工夫されていました。真ん中の児童が持ち上げているのは「お風呂に入っているお母さん」です。言い伝えによれば昔雷電のお母さんが家の外でお風呂に入っていた時のこと、急に雨が降ってきたそうおです。これを見た雷電がお母さんを風呂桶ごと持ち上げ家の中に運んだそうです。雷電が子供のころから力持ちだったという有名な逸話ですがそれを舞台上で表現してくれました。

おたよりをいただきました

2012-10-11 03:56:39 | 雑感
滋野小学校で下の娘が教わった藤野岳之先生の思い出をこれまでこのブログに書いてきましたが、先日こんな書き込みをいただきました。

はじめまして。私は藤野先生が茨城県つくば市(旧茎崎町)の小学校で臨時教師をされていた26年前に、先生の生徒だった者です。
先生が他の学校へ移られてからも、しばらく連絡を取ったり、会いに行ったりしておりましたが、中学高校と忙しくなるにつれ連絡も途絶え、気が付けば先生と全く連絡が取れない状態になっておりました。
私にとって先生は人生で一番の先生でした。
どうにかして連絡を取りたくて、時々Webや教師の名簿等で先生を捜しておりました。
そしてこちらに辿り着いた次第です。
先生のことを詳しく書いてくださり、本当にありがとうございました。
今はショックと悲しい気持ちでいっぱいですが、私も是非お墓参りをさせていただきたいです。


この方は私の娘の大先輩にあたるのですね。藤野先生は勤務された学校それぞれでとても大切なものを子供たちに植えつけてくれたのですね。いいや、子供たちだけではなく私たち保護者も大切な思い出をいただきました。

26年といえば四半世紀にもなります。そんなにたってからも慕われる先生なんてそうはいません。私は娘と共に藤野先生というお人柄にふれることができたことを喜びとしたいと思います。

半世紀ぶりの再会でした

2012-10-11 03:20:44 | 雑感
9月23日、東部中学校・滋野地区昭和39年度卒業生還暦同窓会を行いました。この春から準備を進め、各地区ごとに幹事を決め、住所を調べてお手紙を差し上げ、開催にこぎつけたものです。卒業生100名中、住所がわかった皆さんが80名。そのうち37名の方が参加されました。とても懐かしく昔話に花が咲きました。最初は誰かわからなかったけれど、話す中で思い出し「○○ちゃん」と子供のころの呼び名で語りかけていました。

この仲間は小学校に入る時は4クラスでした。その後3年生の時分町問題が持ち上がり、滋野村は東部町と小諸市に分断され、その中で芝生田(しぼうだ)、井子(いご)、糠地(ぬか次)の集落が小諸市に分かれることになりました。これに伴い3クラスになりました。

中学1年に滋野の中学は東部中学校に統合されることになり隣接する滋野小学校に間借り、中学2年の春統合中学に移転しました。中学3年の時には滋野(しげの)・祢津(ねつ)・和(かのう)・田中(たなか)の4地区が一緒になり13クラスのマンモス校ができました。こうして私たちは昭和の大合併の中で同級生との別れを経験してきました。

半世紀ぶりに再開したおさななじみは昔の面影が残っており、自然に名前も思い出していました。来年もまた集まろうということで散会しました。遠くからおいでいただいた皆さん、幹事の皆さんご苦労様でした。またの再開を期して。


ありし日の東部中学校・滋野部校。高い石垣の上に建つなかなか威風堂々とした校舎でした。4つの中学校の合併に伴い解体され、新しい統合中学校の管理棟となりました。


当日集まった37名の同窓生の皆さんです。

気仙沼にボランティアに行って来ました

2012-08-23 01:00:53 | 雑感
8月20日から2泊3日で宮城県の気仙沼市でのボランティア活動に妻と一緒に参加してきました。参加者は保育園の先生やこれまでボランティア活動をされてきたパワーあふれるとてもステキな女性の皆さんです。そんな中男性は草笛名人、マジック名人、そして私の3人。ボランティア初心者の私と妻は申込書の特技の欄には「力仕事何でもやります」としか書けませんでした。とにかく何かお役に立ちたいという気持ちと、妻に被災地の現実を見せたいという思いだけで参加しました。


まず南三陸町に入りました。瓦礫はそこそこ片付いたのですが一面の空き地が広がっており、復興はまだこれからでした。現地のホテルマンの方に被災地を案内していただき、被災された状況などを語っていただきました。


そんな中のひとつ、南三陸町の防災庁舎を訪れました。ここで最後まで防災無線で避難を呼びかけた女性職員の方がいらっしゃったのですね。津波は3階建の防災庁舎の上まできたそうです。祭壇がつくられていて、私たちもお参りをしました。


何もない空き地に仮設店舗による商店街が建てられていました。買い物をすることも大切な支援だと聞いていましたのでお土産を買い求めました。


二日目は3つの班に分かれて保育園を訪れました。私たちが訪れた保育園は民間の保育園でした。園舎が流されてしまったため事務所の1階を借りて保育を行っていました。庭もなく保育の環境としては劣悪でしたが、子供たちはとても元気で保育士さんたちも熱心に取り組まれていました。


読み聞かせをしたり、手遊びをしたり子供たちと楽しい時間が持てました。私は初めての読み聞かせに挑戦しました。


午後は仮設住宅で被災された皆さんと交流しました。仮設住宅の入り口に私たちとの交流会の案内が掲示されていました。


皆さんから被災された状況をお聞きしました。とても印象的だったのはお話を聞いて涙を流した私たちの仲間の姿を見て、女性部長さんが「私たちは泣けないんですよ」といった言葉でした。目の前を自分の家が流れて行くのを見たり、大勢の身内を亡くして心が壊れてしまったというのですね。とても衝撃的でした。


こんなに大きな船が津波で内陸部に打ち上げられていました。被災地は瓦礫が片付いただけで復興までの道のりはまだまだ緒についたばかりでした。


最終日、泊まったホテルの前で写真を撮りました。2泊3日のボランティア活動でしたがとても得るものがたくさんありました。計画された皆さんに感謝申し上げます。気仙沼のお土産を買い求めるために魚市場に行きました。そこで前の日にお世話になった女性部長さんに偶然お会いしました。また話し込んで別れがたい気持ちでした。

帰りのバスの中で誰彼となく「また来たいね」という声があがりました。被災された皆さんも「世間から忘れ去られるのが一番怖い」とおっしゃっていました。来年もまたボランティアで気仙沼を訪れることを心に決めて現地を後にしました。

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