goo blog サービス終了のお知らせ 

水戸黄門と半沢直樹を考える!

2014-01-16 20:56:30 | 雑感
昨日の「なぜ水戸黄門なのか?」の中で声をあげることが大切だと書きました。ご無理ごもっともではなく、おかしいことはおかしいという異議申し立てをしようではないかという内容でした。

そんな究極の異議申し立てを行った猛者がいます。「倍返し」で人気を博した「半沢直樹」です。人気の作家である池井戸潤さんの「オレたちバブル入行組」「オレたち花のバブル組」が原作となっています。昨年の夏にテレビで放映された直後から超人気で、主人公の決めセリフ「倍返し」は年末の流行語になりました。

皆さんはあのドラマをどのようにご覧になったでしょうか。私は理不尽なことに真正面から立ち向かう主人公の姿に拍手喝采した一人です。しかし同時に一抹の寂しさも感じていました。いつも主人公は一人ぼっちです。確かに主人公に共感して行動を共にする中小企業のおやじさんなども登場しますが、職場では主人公を庇う上司も、信頼を寄せる部下もいません。

私は現役の時は地方銀行の支店に勤務していました。バブルの崩壊やその後の厳しさも体験しています。振るわない業績のために胃が痛むほどの思いをしたこともあります。しかし、職場では上司も部下もお互いに信頼を寄せ、一体となって頑張ってきました。決してドラマのような「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下の責任」ということはありませんでした。

ドラマですから面白くするために誇張してあることは十分わかります。しかしそれでもこのドラマは私が馴染んできた職場環境とあまりにも異なります。ドラマとしてはとても面白いのですが、一人の金融マンとして見た場合とても寂しく残念です。主人公のセリフの「あの小さな明りの1つ1つの中に、人がいる。俺は、そういう人たちの力になれる銀行員になりたい」という思いは、真っ当な金融マンなら至極当然です。

水戸黄門には助さんや格さんがいて、情報は弥七やお銀の担当です。そしてなによりも三つ葉葵の紋所が入った「印籠」、すなわち権力を手にしていました。ですからいつも安全圏にいて勝負をかけることができました。しかし半沢直樹には妻の花さんや同期の渡真利ぐらいしかいません。すべて自分自身を信じて困難を打ち破ってきました。その実行力、精神力には驚嘆すべきものがあります。

しかし、それだけではつらいものがあります。半沢が理不尽と思ったことは、実は職場の誰もが感じているのです。半沢が快刀乱麻のごとく活躍しても職場も会社も何も変わりません。一人ひとりの理不尽なことに対する思いをみんなで共有することで、異議申し立てをした半沢を孤立させることなくみんなで支えて行くことができればと思っています。

現実はそんな甘いものではないことは重々理解できます。それでも私はそうした人を支えて行く存在でありたいと願っています。人が人を信じられない社会であっていいはずがありません。

新年会のはしごでした

2014-01-11 08:18:37 | 雑感
昨日は新年会が二つありました。最初は地域の歴史好きが集まった郷土史研究会です。メンバーは10数名。活発な活動を行っています。毎年修学旅行と銘打って様々なところに出かけてきました。昨年はNHKの大河ドラマ「八重の桜」がありましたので会津若松市に行きました。ちょうど桜の季節と重なってとても思い出深い旅行となりました。


(写真)昨年の会津若松への修学旅行では白虎隊のお墓にお参りしました。

今年の大河ドラマは「軍師官兵衛」。そこでお城をテーマにしました。本来ならば官兵衛にちなんで姫路城にしたかったのですが現在修復中。そこで織田信長の安土城と、お城としてよく保存されている彦根城に行くことになりました。今から楽しみにしています。

夕方からは私が理事を務めているNPOの新年会でした。このNPOはこれまで宅幼老所を運営し、お年寄りのデイサービスを行ってきました。そして今年3歳未満児の保育園の開園を目指しています。こうした活動を住民が担っている例はあまりないのではないでしょうか。NPOができて今年で6年目です。大きな成功を収めることを期待しています。

わが家に椅子型こたつがやってきました

2014-01-10 23:22:11 | 雑感
寒の入りになり冷え込む日が続いています。そんな中、妻が膝が痛いと言いだしました。一時は歩くのも思うに任せず不自由していました。そこで座らなくてもいいように椅子式のこたつを買い求めました。普通のこたつと違って椅子なので、立ったり座ったりする時の膝の負担がなくとても快適です。

しかし腰かけると足元が開くのでスース―します。そこで電気カーペットを使ったり、足元が開かないように毛布を使ったりして工夫しています。そんなこんなで椅子式こたつを使い込んでいます。

今では妻の膝も回復し歩くにも不便を感じなくなりました。それでもやはり椅子はいいですね。もし皆様のお宅でも膝に違和感を感じるようになりましたら、椅子式こたつを検討してみてはいかがでしょうか。デメリットは一つ。それはこたつ寝ができないことです。


わが家の椅子式こたつです。


蘇民将来符のいわれについて

2014-01-07 21:48:53 | 雑感
八日堂で求めてきた蘇民将来符(そみんしょうらいふ)に「蘇民将来符のいわれ」という文書が入っていました。ご参考までに下記に掲げます。

蘇民将来符のいわれ

天平13年(741)聖武天皇の勅願によって国土安穏のため創建された当信濃国分寺八日堂で、古来授けているのが蘇民将来の護符である。

蘇民将来という情け深い者が巨丹(こたん)長者に宿をことわられた旅人を厚く遇し、その言葉にしたがい柳の木に「蘇民将来子孫人也」と書き、これを携帯し門戸にかかげて、その子々孫々が災厄をまぬがれ繁栄したという説話による。

この旅人は薬師初来の化身である牛頭(ごず)天王であって、奈良時代からこの信仰が広くひろまり、薬師如来や牛頭天王をまつった各地の社寺では「蘇民将来子孫門戸也」と書いた紙札や板の御守などを出されたが、現在まで伝わっているものは極めて少なく当寺のものが最も著名である。

それは当寺に文明12年(1460)「牛頭天王祭文」と称する蘇民将来縁起の古写本が保存されていること、六角形の形状や墨と朱の図柄が郷土美術として格調が高いこと、農民美術発祥の地である当地の農民が参与していること、さらに正月の開運招福を祈る「大福長者」が書かれていることなどであろう。

正月7日8日の縁日には、遠近の参詣者がこれを求め帰り門戸にかけ、屋内の棚に安置し、あるいは懐中に携帯して、除災開運を祈願したのが当地方の古くからの伝承で、まことに「国泰・人楽・災除・福至」のための国分寺建立の詔にふさわしい霊符である。

八日堂縁日に出かけました

2014-01-07 21:25:39 | 雑感
家族で国分寺の八日堂縁日にでかけました。風もなく寒さもそれほどでなく大勢の方がお参りにきていました。


屋台の前を通ってお寺に向かいます。

本堂の前は大変な人の波でした。

本堂の中でお賽銭をあげてわが家の安心・安全をお祈りしました。

本堂のまわりにはだるまや熊手など縁起物を売っていました。

わが家のお買いものは招き猫と蘇民将来符です。

孫から初めて年賀状をもらいました

2014-01-02 01:14:32 | 雑感
2014年の第一日が終わりました。雲がかかって初日の出は見えませんでしたが穏やかなお正月でした。年が明けて近くの鎮守様に初詣に行きました。夜空には冬の星々が燦然と輝やいていました。午前中は配達された年賀状の整理、午後は年始のお客様がおいでになりました。

私は毎年年賀状を200枚以上書いています。大学時代の友人関係、銀行でお世話になった友人や先輩、地域の知人、そして親戚関係などです。そして同じくらい年賀状をいただきます。この年賀状がこれまで自分が生きてきた証だと思って続けています。

そんな中で孫から初めて年賀状をもらいました。ハガキに色紙がちぎって貼り付けてあり、端に自分の名前が鏡文字で書かれていました。孫は今年小学校に入学です。宛名はママに書いてもらったのでしょう。何を表しているのかかいもく見当もつきませんが、出してくれたことをうれしく思います。親バカならぬ爺バカです。


新年あけましておめでとうございます

2013-12-31 23:44:53 | 雑感
平成26年、新しい年が明けました。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。

今年は馬年(午年)です。東御市は古より朝廷の御料牧場でした。
まちの名前の由来にもなっています。
馬にあやかって大いに駆けまわり、飛躍の年にしたいものです。

私も馬力全開で、皆様とともにより良いまちづくりのために力を尽くします。
その決意を込めて、「わかばやし」を頭に織り込んだスローガンを作ってみました。
今年もよろしくお願いいたします。 


神戸と京都に行ってきました

2013-12-25 09:57:13 | 雑感
議会が終わった翌日から3日間、妻と一緒に甥の結婚式で神戸に行ってきました。披露宴にはたくさんのお友達がお祝いに駆けつけていただき、お二人の人柄や日頃の仕事ぶりを感じることができました。楽しい家庭を築いていってほしいと思いました。

神戸は視察で来たことがありましたが、ホテルと市役所を往復しただけだったので今回初めて街を歩いてみました。戦前に貿易で神戸を訪れた外人が住んでいたという旧居留地など、石造りの重厚な街並みがとても印象的でした。


神戸のメリケンパーク。赤い塔はポートタワーです。

帰りには京都観光を楽しんできました。定番の金閣寺と銀閣寺を拝観し、川沿いの哲学の道を辿り南禅寺まで歩きました。夏の送り火が灯される山々を見たり、抹茶をいただいたり冬の京都を楽しんできました。ツアーでの観光と違ってバスを乗り継いだり勝手気ままに歩いたりする観光もいいものです。


銀閣寺を背景に写真を撮っていただきました。

お手紙とお花をいただきました

2013-12-06 09:01:42 | 雑感


5日は終日議会でした。その後忘年会があり帰宅は夜遅くになりました。帰ってみると滋野小学校の子供たちからのお手紙と、折り紙で作ったお花が届いていました。

この日、滋野小学校では収穫祭が行われました。同校では授業の中で子供たちの農業体験が行われています。5年生は春から1年かけて稲作りに取り組んでいます。6月の田植え、8月の案山子づくり、10月の稲刈り、11月の脱穀を子供たち自身の手で行っています。私はそのお手伝いとして稲刈りと脱穀に参加してきました。

収穫祭では自分たちで作ったご飯を炊いて、ごちそうをつくり、みんなでお祝いをするのが習わしになっています。そんなところにご招待されました。残念ながら議会があり参加することはできませんでしたが、その思いをお手紙とお花で伝えていただきました。ありがとうございました。思ってもいなかったプレゼントに感激です。大切に保管させていただきます。

満蒙開拓平和記念館に行ってきました

2013-12-01 04:31:53 | 雑感


11月30日、今年の春オープンされた長野県下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館に行ってきました。中国東北部にかつて13年間だけ存在した幻の国「満州国」へ日本から約27万人の農業移民が渡って行きました。そのうち長野県からは全国一の3万3744人(全体の12.5%)が参加。そして飯田下伊那からは8389人(長野県の25%)が送り出されました。これが満蒙開拓です。

「20町歩の地主になれる」と言われ、夢を抱いて大陸に渡ったはずでしたが、1945年8月9日、突然のソ連侵攻で満州は戦場と化し、開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。すでに男たちは戦争に召集され残っているのは女子ども、年寄だけ。馬賊に襲われ多くの開拓民が殺されました。行き場を失って集団自決したり、逃避行の中で命を落とす者も数知れず。終戦後も祖国に帰ることができず、難民収容所では飢えと寒さで大勢亡くなりました。

日中双方に多くの犠牲を出した「満蒙開拓」とはいったい何だったのか。記念館はこの歴史を風化させることなく後世に伝えるために、多くの人々の善意と協力でつくられたものです。パンフレットには「戦争に導かれていく道筋を学び、人々の体験に耳を傾け、平和な社会とは何かを皆さんと一緒に考えていきたい」と結ばれていました。

記念館に展示されている数々の証言を読んだり、ビデオで見てきました。お一人おひとりの言葉に胸がつまされました。語られる事実の重みに言葉がでませんでした。国策に沿って満州に渡り開拓に励み、最後は国からも見放され塗炭の苦しみを負わされたのです。

開拓団を守ってくれるはずの関東軍(満州駐屯軍)の主力はすでに南方戦線に送られ、ソ連軍の侵攻をはばむ力は残されていませんでした。それどころか開拓団にも知らせないで、防衛線を満州から朝鮮国境にまで後退させました。開拓団は日本軍からも見放されたのです。それが開拓団に多大な犠牲を生むことになりました。

帰りに満蒙開拓に家族7人で参加し、九死に一生を得てひとり祖国に帰り、その後中国残留婦人・孤児の引揚げにすべてを捧げた中島多鶴さんの半生を綴った「沈まぬ夕陽―満蒙開拓の今を生きる中島多鶴」(中繁彦著・信濃毎日新聞社刊)を買い求め読みました。あらためて満蒙開拓の実態を知らされました。

以前から行ってみたいと思っていた記念館でしたが、とても多くのことを教えられました。今度は家族で訪れてみたいと思いました。

日めくりカレンダー