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延べ4500人の方においでいただきました。

2011-10-01 05:44:19 | プロフィール


9月の私のブログへのアクセス状況がまとまりましたのでお知らせします。延べ来訪者数は4554人、1日平均151.8人となりました。一番多かった日は208人、少なかった日は115人でした。

Gooにブログを開設している方は164万人だそうですが、その中で1万番以内に入ると順位が公表されます。先月は16回1万番以内に入ることができました。最高で6242番でした。

普通議員のブログは通り一遍で面白くないものと相場が決まっています。そんな中毎日大勢の方にご覧いただき感謝しております。肯定的な評価にしろ否定的な評価にしろ、とにもかくにも見ていただけなくてははじまりません。

まずは私が何を考えているか知っていただくことから始めようと思っています。その中には政治向きのこともあるでしょうし、地域のこと、農業のこと、そして私の家族、孫のことなど様々です。そんなことがらを一つひとつ紡いで行きたいと思っています。

これからもよろしくお願いします。

映画会大成功でした!

2011-09-26 04:15:56 | プロフィール

写真は竹村英明さんの講演会の様子です。

25日はサンテラスホールで原子力発電所と自然エネルギーを考える講演会と映画会がありました。まず最初に「自然エネルギーによる地域の自立」と題して環境エネルギー政策研究所の竹村英明さんの講演、そして鎌仲ひとみ監督の映画「ミツバチの羽音と地球の回転」の上映が行われました。

当日は絶好の好天で稲刈りや果樹の収穫で忙しい中でしたが300人の方にお出でいただきました。当日券をお求めになった方も50人ほどいらっしゃってこの問題に対する関心の高さをうかがい知る事ができました。

私はスタッフの一員として最初からかかわってきましたので、大勢の皆さんのご協力を得て成功裏に終わることができてほっとしています。この映画はすでに佐久や上田でも上映されておりすでにご覧いただいている方も多く、前売り券の販売がなかなか進まなかったので心配していました。皆様のご協力を感謝申し上げます。

この講演と映画会を主催したのは東御市にある宅幼老所「おひさま」を中心にした実行委員会でした。「おひさま」は滋野地区の乙女平区の住民の皆さんが立ち上げた宅幼老所です。実はこの宅幼老所は映画に出てくる山口県上関町(かみのせきまち)の祝島(いわいじま)の皆さんと特別な関係にあります。

3年前に「おひさま」が開所したとき、祝島の皆さんははるばる東御市まで視察にこられたのです。祝島では高齢化が進んでおり、住民主体の宅幼老所の建設が課題でした。そして今年の7月には祝島で集いの家「おひさま」の開所にまでこぎつけました。そんな関係もあってなんとか祝島の皆さんを応援したいという宅幼老所「おひさま」の皆さんの熱意が映画会の開催となったものです。

この成功を自然エネルギー普及に向けた第一歩としてゆくことが出来ればと思います。

ぶどうの初出荷です

2011-09-16 07:39:15 | プロフィール
9月16日、早朝、ぶどうの初出荷です。


まだ品物はそれほど多くはありません。


市場の価格を気にしています。


出荷のあと畑にまわりぶどうの摘み取りです。


至福の時です。この時のために春から努力してきました。


今年の巨峰は梅雨明けが早かったこともありやや小ぶりです。


枝が茶色になってくることを糖熟といいます。採りごろです。


いたずらカラスが袋を破って突っついていました。

高校と市役所の間に道路ができます

2011-09-14 11:32:20 | プロフィール


9月9日の全員協議会において県・東深井(あがた・ひがしふかい)線道路新設工事についての報告がありました。それによれば現在市役所の西で止っている市道県・東深井線を東へ東御消防署まで320m延長しようというものです。幅員12mで両側に歩道が計画されています。

この工事により道路敷きに東御清祥高校の管理教室の一部と体育館がかかり、あわせて求女川への架橋が必要になります。また道路と図書館、中央公民館との間に駐車場を設ける予定です。

工事の目的は第一に市役所周辺の道路整備です。緊急車両が和方面に出動する場合18号経由でしたが、新しい道路により迅速に対応できるそうです。また現在中央公民館駐車場が市役所への連絡通路として使われていますが、新しい道路でより円滑に移動できます。第二に、これに伴い道路沿いに100台の駐車場が確保できます。第三に、補償金により東御清祥高校の整備を進めることができるそうです。県も財源財源がないため平成23年から多部制単位制となった高校の整備が進んでいません。市として積極的な取組みが必要としています。

事業費は高校への補償(管理棟・体育館・駐輪場)として10億円、用地費1億円、橋を含む道路建設費4億円、合計15億円です。

これは社会資本整備交付金の対象となり事業費の55%が補助金でまかなわれるそうです。のこりの45%が起債の対象となり、東御市としての当初事業費は1億5千万円だそうです。

大きな事業であり詳細についてはじめて聞いたので、多くの議員さんからも質問が出されていました。15億円かけてやるべき事業なのかどうか慎重に議論する必要があります。皆様のご意見をお寄せください。

福島の子供たちの45%が内部被曝!

2011-08-18 22:24:19 | プロフィール
福島の子ども、半数近くが甲状腺被曝 政府調査で判明

 東京電力福島第一原子力発電所事故をめぐり、政府の原子力災害対策本部は17日、福島県の子ども約1150人を対象にした甲状腺の内部被曝(ひばく)検査で、45%で被曝が確認されていたことを明らかにした。17日、同県いわき市で開かれた説明会で発表した。すぐに医療措置が必要な値ではないと判断されているが、低い線量の被曝は不明な点も多く、長期的に見守る必要がある。

 検査は3月24~30日、いわき市と川俣町、飯舘村で0~15歳の子どもを対象に実施した。原子力安全委員会が当時、精密検査が必要だと決めた基準は甲状腺被曝線量が毎時0.20マイクロシーベルト以上。1150人のうち、条件が整い測定できた1080人は全員、0.10マイクロシーベルト以下だった。

 この日、説明会には、検査を受けた子どもの保護者ら約50人が参加した。対策本部原子力被災者生活支援チームの福島靖正医療班長は「問題となるレベルではない」と説明した。

 全体の55%の子は検出限界も含み測定値が「0」だった。「0」超では、0.01マイクロシーベルトが26%いた。0.02マイクロシーベルトが11%で、最高は0.10マイクロシーベルトだった。

 3月の検査時に、その場で「健康に影響はない」とする結果が保護者らに伝えられた。ただし数値は通知されず、説明を求める声が上がっていた。

 対策本部は、当時18歳以下の県内の子ども36万人について、福島県が一生涯続ける予定の甲状腺の超音波検査への協力を呼びかけている。毎日新聞(林義則、大岩ゆり)


「やっぱりそうだったか」というのが偽らざる気持ちです。あの水蒸気爆発があった3月12日、政府は放射能の拡散を一般に知らせず多くの市民が被曝するのを手をこまねいて見ていました。その責任はすべて政府にあります。そしていまも福島の子供たちは放射能の被曝を受け続けています。

本当に「健康に影響はない」「問題となるレベルではない」と断定できるのでしょうか。あのチェルノブイリで見られたような白血病やガンになる可能性は全くないのでしょうか。政府のいう言葉はもう誰も信じていないでしょう。

8月20日(土)、東御市中央公民館で午後1時半から、「福島の子供たちを放射能から守ろう」という講演会があります。講師は「子供たちを放射能から守る福島ネットワーク」のお母さん。どうぞおいでください。

終戦記念日について考える(2)

2011-08-15 03:08:59 | プロフィール
前日のブログに書いた「昭和戦陣録」についてもう少し書いてみようと思います。この本は青いクロスの表紙で箱に入った全文230ページに及ぶ立派なものです。表題は「昭和戦陣録 滋野村」と墨書され「村会議長 大村忠男著」とされています。

このことからわかるようにこの本は単に有志によって編まれた本ではなく、当時の村議会議員22名、田口孝雄村長始め村の幹部8名、区の総代8名、一般から選ばれた編纂委員40名、計78名によって編集された公的な記録ともいえるでしょう。

この序文で「滋野村長 田口孝雄氏」は以下のようにその思いを綴っています。

「満州事変勃発より太平洋戦争終結に至るまでの十ヵ年の日本が歩んだ途、その批判は後世歴史家に任せるとするも、日本民族史上最大努力であり変化でもあった。

この特異の歴史の各頁についてわれわれ郷土滋野村の人々の中よりも直接参加し、百六十余の尊い人命が犠牲となりその外に七百名近くの若き人々が従軍された。われわれ村民は、講和締結を機とし、これ等の方々を慰労し、その努力を永遠に子孫に伝うるため、ささやかながら、ここに村議会の議決を経て『昭和戦陣録』を編纂して上梓した。

ここにこれを戦没の方々の霊前に供えそしてまた出征帰還の方々に贈って村民一同とともにその労に対し感謝を捧げたいと思う。各位××(判読できず)の編集不備を責めらるることなくその意を諒とせられて御高覧の上、先人の労苦を偲び、感謝の真心を捧げていただきたい。以って序とする」(原文は旧仮名遣い)


これに対して「滋野村遺族会長 滝沢好太郎氏」は下記のような序文を書いています。

「滋野村においては、村議会の議決により村経済多事なるにもかかわらず、多額の費用を以って近隣に未だ類例をみない『昭和戦陣録』を刊行された。これは満州事変より太平洋戦争に至るまでの本村出身者の戦没者ならびに出征帰還者の戦歴を登載したものである。

顧みれば終戦後7ヵ年、吾々のいとし子、最愛の夫たちが、護国のために、幾百千里離れた見知らぬ異境の果てに散って行ったのであるが、公には慰めの言葉一つなくまことに寂しい限りであった。

しかるに、本村においては、さきに盛大なる戦没者慰霊祭を挙行していただき、いままた、ここに温情あふるる記念と慰めを贈っていただき、万感新たに胸中に湧き、さぞかし地下の霊も満足のことと察せられ喜びにたえない。

ここに遺族会長として、滋野村のこの計画に感謝するとともに、感激の一端を綴ってあいさつとしたい」(原文は旧仮名遣い)


いずれも日付は1952年(昭和27)年8月28日となっています。文章中にもあるように日米講和条約の締結が1951年9月8日、その発効が1952年4月28日であり、「昭和戦陣録」はこの発効をまって刊行されたものです。

しかし、当時は戦争の暗い記憶を払拭し新生日本の建設に向けて歩みだしたばかりです。そんな時、あらためて戦争の記憶を呼び覚まし、一人ひとりの戦歴に想いを寄せるという行為はなかなかできることではなかったと思います。ちまたには傷痍軍人もあふれていたでしょうが顧みる人とてなかったのではないでしょうか。わが滋野村の先達たちはそんな中で戦争の「批判は後世史家に任せ」、従軍帰還者、戦没者を「慰労し、その努力を永遠に子孫に伝えるため」、昭和戦陣録を刊行したのです。

昭和戦陣録は「戦没者追想録」と「出征者追想録」に分かれ、それぞれ集落ごとに掲載されています。ちなみに私の父、若林平一郎はすでに亡くなって数年たちますが、以下のように記載されています。

陸軍歩兵上等兵 若林平一郎 大正2年2月10日生
中屋敷若林末作氏長男に生る。本郡長村青年学校教諭。
昭和19年5月12日金沢東部第49部隊に応召。
5月17日門司にて乗船、釜山より牡丹江郊外414部隊転属、
7月17日沖縄本島那覇市に上陸。台湾新竹台北等各地に転戦。
沖縄作戦において暗号手として直接間接に参加。
終戦後の自活農園を拡充して経営主任を務む。
中国捕虜収容所に入り米軍輸送船により浦賀に上陸、21年1月復員す。


これをみると私の父は満州、沖縄を経由し、終戦は台湾で迎えたものと思われます。満州や沖縄にそのままいたら戦争によって命を落としていたかもしれません。そうしたら私も存在しません。まさに紙一重のところで生きて帰って来ることができたのです。また終戦で捕虜になった後、自活農園を経営するなど、農業教師としての経験を生かした活躍をしているのは興味深いところです。

こうしたごく一般の兵士一人ひとりの戦歴まで事細かに記した文書はあまり類例はないのではないでしょうか。

昨今の平和教育の中で太平洋戦争に従軍した兵士が侵略者として顧みられないことは誠に残念に思います。戦争はどうあれその中で国のため郷土のためにせいいっぱい戦った兵士を慰労したこの滋野村の取組みに対して心から敬意を表します。

ちなみにアマゾンでは古書としてこの本を取り扱っているようです。

孫たちがやってきました

2011-08-04 03:41:22 | プロフィール
娘が孫二人を連れてやってきました。上の子が熱を出し病院に行くというので下の子を預かりました。しばらく下の孫のお守りをしました。お散歩に行くと真っ先に家の前の川に興味を示します。やがてそばの公民館の庭から小石を拾って川にポイ。そんなことを繰り返していました。上の孫がやはり同じことをしていたのでそのマネなのでしょうか。

病院で座薬をもらって少し元気を取り戻した上の孫も一緒に冷し中華を食べてから、娘は来たときと同じようにあわただしく帰って行きました。保育園に行きだしてから4ヶ月。これからいろいろな病気にかかってくるのだろうと思います。私たちも忙しい農作業の合間でしたが、孫たちと遊ぶことができてリフレッシュできました。


チューリップ帽が似合っています。


公民館の庭で小石を拾います。


小石を持っておもむろに歩き始めます。


小石を川にポイと投げ入れます。


小石が落ちた先を観察しています。

驚くべき田舎芝居!

2011-07-30 23:10:34 | プロフィール
九州電力によるやらせメール事件が思わぬ展開を見せています。やらせメールの震源がなんと認可当局である古川佐賀県知事自身であることがわかりました。認可する側である佐賀県と認可される側である九州電力が舞台裏で口裏を合わせていたのです。これでは水戸黄門に出てくる悪代官と悪徳業者、越後屋との関係そのままです。7月30日の新聞報道の内容を転載します。

九電やらせメール 古川知事が引き金?

玄海原発(東松浦郡玄海町)2、3号機の再稼働に関する説明番組をめぐる九州電力の「やらせメール」問題で、古川康佐賀県知事は30日、緊急に記者会見を開き、番組開催5日前の6月21日に九電副社長(当時)ら幹部3人と面会し、「原発の再稼働を容認する意見が経済界にあるが、表に出てこない。番組の機会を利用して、その声を出していくことも必要」と発言していたことを明らかにした。知事は「やらせメールを依頼したことは全くない。当事者の九電に対し、発言したことは軽率だったと反省している」と釈明したが、同問題を調査している第三者委員会の郷原信委員長は30日夜、福岡市で会見し、「知事の発言がやらせメール問題の引き金になった可能性は十分にある」と述べた。

 古川知事によると、6月21日朝、退任あいさつに訪れた当時の段上守副社長と原子力発電本部長の諸岡雅俊常務、大坪潔晴佐賀支店長と知事公舎で面会した。玄海原発の再稼働問題に話が及び、知事は説明番組の周知を求めた際、「再稼働の議論を深めるためには賛成、反対双方の立場から幅広い意見を寄せてもらうことが必要」と発言。反対意見だけでなく、電力の安定供給を理由に再稼働を容認する経済界の意見を出す必要性も話したという。

 九電の調査結果では、副社長ら3人が知事と面会した後の同日昼に「発言投稿を増やす必要がある」と認識を共有、やらせメール指示に至った経緯がある。結果的にやらせメールにつながった可能性を問われると、古川知事は「私が言ったから、やらせが行われたとは考えていない」と否定し、自身の責任については「第三者委員会の事実解明を待ちたい」と述べた。


これに対して原発に反対している京都大学の小出裕章助教は2011年7月30日の中日新聞朝刊で以下のようにコメントしています。

原子力行政は、「原子力村」の中で、政府、自治体、電力会社がグルになってずっとやってきた。九州電力に続いて発覚した今回のやらせ問題も、何の驚きもない。逆に、ようやく今になって原子力行政の「常識」が問題視されるようになったということに驚く。わたし自身、何度も、原発政策を進める自治体でのシンポジウムで、多くの人が動員され参加するのを見てきた。今回明らかになった問題は氷山の一角にすぎない。

ミツバチの羽音と地球の回転

2011-07-14 06:06:36 | プロフィール
「ミツバチの羽音と地球の回転」という不思議なタイトルのドギュメンタリー映画をご存知でしょうか。監督は鎌仲ひとみさん。いま全国あちこちで自主上映会が開かれており、ここ長野県でも佐久市、御代田町、上田市などで開催されてきました。上田市では映画館とタイアップして上映してきました。この映画を東御市でも上映したいという動きが始まっています。

この映画は日本のエネルギーの最前線、
上関原発計画に向き合う祝い島の人々と、
スウェーデンで持続可能な社会を構築する人々の取組みの両方を
一本の映画で描いている。
いかにして、自分たちのエネルギーの未来を切り開くのか?
現場からの問いかけは私達に選択を迫ってくる。
また同時に不可能と思われていたことを可能にする人間のエネルギーが、
私たちと同じ全く普通の人々の感性と思いが、
国の違いを超えて交差し新しいビジョンを描き出す。
(「ミツバチの羽音と地球の回転」の紹介より)


福島原発事故による深刻な放射能汚染の実態から、多くの人々の中に原子力発電所はこのままでいいのかという思いがあります。そんな中、中国電力の上関原発建設に反対して30年にわたって、粘り強く取り組んできたのが山口県上関町祝島の人々です。お金を使って懐柔しようとする中国電力に対して、「金なんかいらない、この海が命ちだ」として祝島の人々は団結してきました。

それではなぜいま、ここ東御市でこの映画を上映するのでしょうか。それには祝島と東御市の宅幼老所との3年間にわたる交流があります。今回の取組みの中心人物はNPO法人おもいやり乙女平の理事長のYさんです。おもいやり乙女平は滋野地区の乙女平区で「おひさま」という宅幼老所を開設しています。

物語は3年前にさかのぼります。Yさんによれば宅幼老所が開設される数日前、祝島から視察の電話があったそうです。住民主体で宅幼老所を開設した事案は全国にもあまりありません。祝島ではお年寄りが多く、行政に頼らず自分たちで宅老所を開設したいという思いがあり「おひさま」に注目したのです。

視察当日はるばる祝島から大勢の住民の方がやって来ました。それから3年間にわたって祝島と「おひさま」との交流が続き、7月10日には祝島の宅老所が開設され、Yさんはお祝いに駆けつけたそうです。その施設の名前も「おひさま」。乙女平と祝島と兄弟施設が立ちあがったのです。祝島でのNPO設立はこれからだそうですがそれぞれの思いが結実しました。

原発反対運動と地域住民が立ち上げた宅老所、一見何の関連性もないように見えます。原発で常に取りざたされるのはお金です。祝島でも原発に賛成すればお金をあげるといわれたそうです。上関町にもすでに国から多額の交付金がもたらされ、原発が来れば町は豊かになる、原発が来れば雇用も生まれるという中国電力の宣伝が行き渡っています。

原発による金で町が二分され利権が交錯し、住民の中に深刻な対立が生まれている中で本当に町おこしなんてできるのでしょうか。福島第一原発の地元では原発による固定資産税の増収で立派な建物が次々と建てられました。しかし長い年月の中で固定資産は償却され税収難に陥り、今度は町から原発の増設を願い出るありさまになっています。中には財政再建団体に陥っている町もあります。

地域を良くして行くためにはお金で地域の安心と安全を原発に売り渡すのではなく、地域住民の主体的な取組みが何よりも大切です。祝島と「おひさま」を結び付けているものはまさにこうした地域住民の自立への取組みだと思います。

この上映会に寄せるYさんの思いは熱くすでに上映実行委員会の準備会を立ち上げています。多くの皆さんにこの映画をごらんいただき、原発と自然エネルギーと地域の自立を考えていただきたいと思います。上映会の日程は以下の通りです。

鎌仲ひとみ監督作品上映会「ミツバチの羽音と地球の回転」

未来のエネルギーをどうするのか?
瀬戸内海の祝島やスウェーデンで原発と決別して
エネルギーの自立に取り組む未来をめざす人々の物語
テーマ:地域の自立エネルギーから介護まで

と き:9月25日(日)午後1時より
ところ:東御市文化会館(サンテラスホール)


第一部 講演「自然エネルギーによる地域の自立」1時~2時
    講師 竹村 英明 氏(エナジーグリーン社事業部長)
第二部 映画「ミツバチの羽音と地球の回転」2時15分~4時30分

主催: 宅幼老所おひさま・ミツバチ上映実行委員会とうみ
問合せ先:0268-63-5969(吉田)

ジベレリンについてお話しましょう

2011-06-27 04:27:20 | プロフィール
ブドウ農家にとってこの時期が一番忙しい時です。巨峰の房切りが終わり今度はジベレリンの作業です。ジベレリンとは植物ホルモンの一種です。開花前後に2回花房をこの水溶液に浸すと種がないまま実が大きくなるのです。

このジベレリンはもともとは稲の病気の研究から発見されたものだそうです。稲に馬鹿苗病という病気があり、この病気にかかった苗はひょろ長く大きくなります。1926年、日本の学者が原因物質を発見しジベレリンと名づけました。

その後このジベレリンには、植物の細胞を肥大化させ大きくしたり、花粉がなくても果実をつけたりするなど様々な作用があることが分かってきました。この性質をブドウ栽培に応用して種無しブドウができるようになりました。デラウェアという小粒で甘いブドウなどはその典型でしょう。あれで種があったのではとても食べにくいでしょう。

この地域でジベレリンが使い始めたのはいつからか分かりませんが、わが家ではピオーネの栽培から使い始め、今年からは巨峰にも本格的に使っています。ジベレリンを使うと確実に実がつき肥大化して大きな房になります。昨年は結実不良で実がつかなかったことを考えればこの効果は絶大です。しかし甘みはやや落ちるようです。

しかしジベレリンの作業は大変です。一房一房にジベレリンを撒布しなければならす、しかも撒布後8時間は雨にあてることはできません。梅雨の合間の天候を見ながら作業を進めなければなりません。この時期、天候には気を使います。

それにしても稲の病気の研究が種無しブドウの栽培技術に応用され、それを発見したのが日本人だなんて面白いですね。


ジベレリン水溶液の入ったタンクを肩にかけ、コップの中にブドウの房を入れスイッチを押すとジベレリンが噴出します。


この作業を種無しにする房すべてに行ないます。作業は開花期とそのあとと2回行ないます。

日めくりカレンダー