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個人的脳内アウトプット記録

ケンタとジュンとカヨちゃんの国

2010-06-21 21:08:00 | movie


「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」を見た。

大森監督と安藤サクラちゃんが興味を引かれたポイント。

大森監督前作の「ゲルマニウムの夜」は原作ありきで、今回はオリジナルのようだ。

だからか、「ゲルマニウム」ほど物語を覚えていないということはなかったけれど、手触りは似ていた。

「ゲルマニウム」の印象は、最後の方の広田レオナさん演じるシスターが馬小屋にいた昼間?真っ白な背景、真っ白な太陽光、それまでがタイトルでいうだけありダークで夜の印象が続いた中で表れた白、コントラストがあった分余計印象にあるのかもしれない。あの不思議な画面。でも、今でも時折なぜか思い出すのです。まるでシュールレアリスムの絵画のよう。
あとはたしか主人公が誰かの口に石をほおばらせた状態で殴り続けるという残虐極まりない暴力シーン。。><

あとは。。ぶっちゃけて大森南朋さんからの流れも否定できない。今は昔ほど熱烈じゃないけど、やっぱり「ヴァイブレータ」の大森さんは卑怯です。今でも気になる俳優さんだし、私などがどうこう言うまでもなく、あれはあくまできっかけであり、今や大森さんは俳優として存在感や演技が素晴らしい貴重な俳優さんで。
そしてお父さんも結構好き。。とにかく大森家の面々は私を惹き付ける。

前作「ゲルマニウム」は、嫌いではないんだけど、量産される映画よりは断然好きなんだけど、でも正直よく分からなかった。。でもまだ先を見てみたい大森監督だった。

この「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」、タイトルが素晴らしい。
なにはともあれタイトルはグッド。スタートダッシュ、掴みはO.K。(偉そうに)

でも、内容は、ちょっといろいろ言いたいことがもやもやと。。。

ネタバレすみません





結局、これは3人の国を作るとか、3人の国へ行く、逃げる、とかいう話ではないのですね。。

多分、タイトル、「ケンタとジュンと」「カヨちゃん」の間に「、」を入れるべき結果なように思う。

ケンタとジュンはお互いがお互いしか最終的には居なくて、二人だけで絶望してしまった。

カヨちゃんは、彼女の望んだことではないけれど、彼女はきっとジュンと居たかったし、ジュンと居られるならケンタがおまけ(^^;でくっついていようとよくて、とにかく二人とまだまだ、きっと永遠に居たかったと思うけど、結果的には独り置き去りにされた。

どういう意図なんだろ。。。大森監督。

カヨちゃんは独りでも自分の王国を作れる存在として描いたのだろうか。
それは、カヨちゃんという個性の持ちうる王国でもあり、あるいは、女性だから、女性性の底力、男性では持ち得ない強さを描きたかったのだろうか。

でも、期待通り、期待以上に、安藤サクラさんは良かった。
なんなんだろう彼女のすごさは。どこからあの演技や野性味が出てきているのか。

劇中の設定で言われるまでもなく、私が今まで見たサクラちゃんの中で断トツにブス(^^;
ブスなのに、えもいわれぬ魅力がある。目が離せないのだ。いや、たまに直視できない時も。。(ごめんなさい、サクラちゃん)見ているこちらが見てはいけないものを見てしまったような気持ちにさせられるというか。でも、日本中探して誰が、観客にこんな風に思わせる女優がいるというのだろう。サクラちゃんの他にいないと思う。
婉曲に「個性的」という表現で表せる女優さんはたくさんいる。「ファニー」とか。それは世界中にたくさんいる。私はそんな女優さんがやはりどちらかというと好きだ。
でも、「個性的」をツッ飛ばしてもう、「ブス」とずばり一言で言い切りたくなる女優は日本どころか世界にもそれほどいないと思う。

でもここでいう「ブス」は、いわゆる美人や可愛いとは容姿上言えないけれど、味わいがあるとか愛嬌があるとか、でも才能はあるとか、性格が素敵とか、そんな後付けや言い訳などむしろ邪魔!!そんな言い訳つけて「ブス」という言葉を汚すな!!と言いたくなるような、むしろ最上級の賛辞の言葉として、安藤サクラさんに捧げたいのです。

劇中、さんざんな扱われようされたカヨちゃんは結構長いこと物語から姿を消す。

その時間の物足りなさと言ったら。。

そして、ある時カヨちゃんは突如また登場。私は不細工ちゃんな野良猫が1ヶ月くらい姿を消して、「死んじゃったのかな」と心配になったところでひょっこりまた姿を見せてくれた時のような(^^;)喜びを感じました。見たかったよ~(”会いたかった”じゃないところが、、、私も劇中の男達と同じひどいカヨちゃんへの扱いをしているような。。)カヨちゃん!

でも、ずっと「愛されたい」ばっかり言っていたカヨちゃんが、「ジュンを愛しているって気づいたの」と、「愛している」と口にしたシーンでは胸がぎゅっとなった。


それから、また全然違う話になるけれど、もう一つ、ケンタ達が兄の収容されている網走の刑務所に着いて、ケンタが兄との対面を果たした場面。

もうどう見ても何も見えていない、何も感じていない、希望などあるはずもない、かといって自暴自棄とも違う、そんなのはとうの昔に通り過ぎて、もう無機質な存在となっている兄が、弟ケンタの「お兄ちゃんのした事、おれ分かるよ。」と、世界中が全員兄を悪だ罪だと言ったとしても(もちろん事実としてそういうことをした)、弟は彼の気持ちを理解すると言ってくれて、たった一人でも理解者がいることの救済、
その言葉を聞いた刹那だけ、兄の目に柔らかい光が浮かんで、きっと、涙まではいかないけれど、ずっと無機質に成り果てていた兄に人間としての温度が一瞬戻った瞬間があって、私はこの演技に鳥肌が立った。
その後、ちょっと解釈がいろいろに分かれる感じなんだけど、結局兄は弟を突き放す。弟はこの時ついに絶望の果てに追いやられてしまう。多分、どんな状態になっても家族への愛って消えなくて、唯一の肉親・家族である弟に、自分のことなどに関わらないで、弟だけは幸せに生きて欲しいと思った兄の兄心だったのではないかと私は理解したんだけれど。。

でも、その気持ちは届かず、むしろ弟は兄に道を示して欲しかった。
それが叶わず、ただ拒絶された感覚だけが増大して、唯一の肉親を失ったケンタは、血は繋がらないけれど、今の彼の唯一の家族とも言えるジュンとのなだれ込むような自暴自棄の流れへ向かってしまう。
というか、これはケンタの性格の問題だと思うんだけど、むしろジュンの方が絶望するケンタに今まで以上に寄り添いだしたような気がした。ケンタはむしろ一匹でもいいタイプ。今書きながら思ったけど、ジュンっていじらしいなぁ。。

これは、パンフも読まず、インタビューなども読まず、勝手に書いているので、思い込みや思い違いもあると思うけれど、なんか、全体的には今の私の気分とは合わなかった。
私はやっぱりどんな芸術作品でも、希望を見たいと思うから。内容はどうあれ、暗くても、悲しくても、最後は絶対に希望を見たい。光を見たい。と思う。

でも、見て良かったと思う。大森監督の次回作も是非期待しています。

原点 そこからまた

2010-05-23 23:13:35 | movie
やっと見たぞ「のだめカンタービレ最終楽章後編」。

公開時海外旅行へ行っていたので機会を逸してしまった。
すごい良かったとは思わなかった前編だったけど、一応最後まで見届けないとと思って。

後編。可もなく不可もなく。連続ドラマの時からの上手いドラマ化の良い雰囲気を踏襲。
キャスティングの的を得た感じも最初に見た衝撃度は薄れ(当たり前だけど)、馴染んで平らに映る。
ギャグの衝撃度も(のだめが人形になったり(^^;なんか普通に見えたし。

原作を連続ドラマ時分くらいまででストップしていて全てを読んでいる訳ではないので、あれこれ言う資格はないかもしれないけれど、はっきり言って必ずしも映画で見る必要ないなぁとも思う。ドラマで全部やってくれたら良かったのにとも。。

それでも、音楽に魅了された人、音楽をするために生まれてきた人、延いては芸術表現というものに魅了された人なら誰もが感じたりぶつかったりする気持ちを相変わらずに見事に描いているのには唸るしすごく共感できた。

私が一番印象深かったのは、目標を見失ったのだめがミルヒーからの悪魔の契約(^^;を受諾しついに演奏会をした場面。
特にその前半、私は泣きそうになってしまった。
なんて顔をしてピアノを弾いてるんだよ。。。(涙)と何とも言えないのだめの表情に胸がいっぱいになったのです。

あれは絶望の先の顔。

悲しみ絶望苦しみ怒りといった嵐の感情が過ぎ去って、夢打ち砕かれた者の、無感情になった者の顔だと思った。

監督はどう指導したんだろう、それとも樹里ちゃんがシナリオを読み込んで自ら表現したのか、あるいは現場でのだめになる事で自然に出た顔だったのか、分からないけれどあの表情はすごいと思った。

いくら自暴自棄になったといえ、のだめの夢は先輩との共演であって誰でもいいわけではなかったはず。
なのにミルヒーからの誘いを受けたのは、もちろん正常な思考が出来なかったというのもあるけど、たぶん一方で「私だって!!!」という、見返してやりたいといった気持ちもあったような気がする。
それは、恋としてのよくある失恋後の見返したいではなく、いち音楽家としての意地というか嫉妬心というか。
どんなにぼろぼろになった心でも命を押しのけて無意識からわき上がってくるそのどうしようもない情熱。それが芸術家の魂。
いや、もしかしたらよくある恋としての見返したいもあったのかもしれないけど。。

芸術家の恋ってなんか複雑で切ない。

いろんな意味で元来た道には戻れないんだ。芸術に魅了された人間は。

恋ですらも戻せない。魂の求める方へ行くしかない。

自暴自棄になった抜け殻のような体で、もう喜びからではない、生き死にぎりぎりの、自分を瀬戸際ぎりぎりで狂気から保つために、闘うためだけに突き動かされるように弾くうちに、やはりそれでもわき上がる僅かな喜び、オーケストラでピアノを弾く興奮、楽しさをじわじわと感じ始めて、それは本当は先輩の隣で知るはずだった喜びだったけれど。。という複雑な思いもありながら、せめぎ合いのような感覚の中でのだめは才能をいかんなく発揮した。

もう弾けない、、と失踪状態で姿を消したのだめがもう一度音楽の楽しさを思い出す場面もグッと来た。
「音楽の原点は打楽器」という台詞が出てくるのだが、私は音楽家でも何でもない(そして何者すらでもないが。。)けど、個人的に芸術の喜びを私に取り戻させてくれたのも打楽器だったから。ちょっと驚いたし、すごく納得もした。

何度も書いているけど、モーモールルギャバンでゲイリーさんのドラムに出会って、純粋に音楽や芸術のすばらしさを再認識させてもらえたのだ。情報や経験や欲望で頭でっかちになって身動きが取れなくなった私に肉体感覚としての芸術のおもしろさを思い出させてくれた。
自分自身もスティックまで買っちゃって(^^;、また挫折しそうな匂い満々だけど。。、でも、ちょっと叩いてみただけでもなんかすごく興奮してわくわくうれしさがこみあげてくるのだ。
言われてみれば、ギターとかって木に弦を張って、と手間がかかっているし、フルートやサックスも金属を加工したものだけれど、打楽器、単に机を叩いただけでも音は出て、それはいわば一つの打楽器なのだ。
太古の昔からきっと、人は感情を音楽として奏で始めた時、歌とともに石や木や地面を叩いていたに違いない。
そう、地球を叩いたって一つの立派な楽器になっちゃう。
そのシンプルな楽しさ、原点。

いろいろに共感できる場面が多く、やはり見逃さないで良かったと思う。

そして、芸術表現って、映画でも言っていたように、「これ以上良い演奏は出来ないというくらいベストな演奏をして、それでも次はまたもっと良いものをやろうと思う、この繰り返しなんだ」ということに尽きる。

終わりのない旅なんだ。これは人生も同じ。

空気人形

2009-09-27 15:56:29 | movie


是枝裕和監督の「空気人形」を見た。

予告編を見て、あまりいい感じはしていなかったけど(単純にすんなりいかないぞ、結構黒い闇ありそうだぞ)、ぺ・ドゥナが見たくて。

ぺ・ドゥナは本当に良かった。
唯一無二。最高に素晴らしい。
いつまでもいつまでも見ていたいくらい。

そして文字通り体当たりで演じていて素晴らしかった。

でも、ストーリーが全くいただけなかった。

なんであんな風にしなきゃならないのか。
最後が。
全然わからない。ひどいと思った。

とても美しい要素をたくさん持った作品だったのに、美しい、本当に穿ったところなく誰が見ても美しいなと思う、それこそ映画で空気人形がお気に入りで集めていたガラス達の様に、キラキラと美しいものを、子供が見ても老人が見ても綺麗だと思えるままに写し取るだけじゃだめなのだろうか。今時は観客受けしないから?
ショッキングさ、そんなに要るのか。
テレビゲームのやりすぎじゃないの?

ぺ・ドゥナさんが美しい要素に応えようと自分を全て投げ出して演じ、他のキャストも良かったし、アートワークも可愛いかったし、途中のエピソードや映像も心にグッとくる良いシーンもたくさんあったし、いいところがいっぱいあったのに、それだけじゃ映画として足りないと思ったのかな。

原作の持ち味もこんな感じなのだろうか。
それならもう仕方ないけど。
原作を読まないとならない、と思う。どんな感じか。

監督が映画化したいと思った理由が、空気人形の空気がアクシデントで抜けて、愛する人に息を吹き込まれて息を吹き返す場面と言っているだけあって、そのシーンはすごく素晴らしかった。泣きたくなるようだった。
夢のシーンだと思う。人の思いとしても(誰かとつながりたい)、映画作品としても(美しい作品を作りたい)、こんな場面を形にしたいと、出会いたいと、感じたいと夢見るような、ファンタジーが具象化したような歴史的名美場面だと思う。

彼の息で満たされて、息を吹き返した空気人形が、頬が上気したその表情が本当に、その時だけ唯一人間の女の子に見えるのがまたすごく良くて。
逆に言うとそれ以外は見事に人形なのが、ぺ・ドゥナの演技力のすごさに脱帽する。

他になぜか泣きそうになったのが、冒頭で出てくる板尾さん演じる空気人形の持ち主の家の外観の絵。
演者の表情でもセリフでもなく、建物の佇まいに胸がせつなくなってしまった。
こんなことは初めて。
撮影監督の人が腕のある人らしい。クリストファー・ドイルとか綺麗なかっこいい映像を撮る人はいるし、見ただけであの人だと分かるし、映像だけで個性を表現する技量を持った人は確かにいるが、こんな風に映像で情感を伝えてくる、一遍の詩を読んだかのように人の心を揺さぶる映像を撮れる人がいるんだなぁ、世界にはすごい人がたくさんいるんだなぁと個人的にとても感銘した。



それにしても以前「誰も知らない」を見た時も、いまいち話の持って行き方に共感できなくて(これは実際の事件が題材だから仕方ないとしても)、思ったよりがっかりした気持ちを抱えて映画館を出た記憶がある。監督はこういう描き方をする人なんだろうきっと。ドキュメンタリー出身ならではの淡々と切り取る目線。

淡々と冷たい目と情緒ある温かい映像。

この落差がある意味商業として映画を成り立たす一つの方式なのか。
製作者全員が情感に流されてもまとまらないだろうし、淡々とした人しかいなければ作品でなく資料映像になるだろう。


人形はしょせん人形だから、たとえば幸せになったりしたら嘘くさい話になっちゃうのかな。

でも、「心を持ったから、嘘をつきました」と言うのなら、嘘でもいいから監督には見た人が本当に心が満たされるような美しい物語を紡ぎきってほしかったと思う。
美しいおとぎ話を。

とはいえ、おとぎ話も結構残酷なのが多いんだけど…(; ;)

ミルク

2009-05-07 13:53:14 | movie


『ミルク』を見た。

あくまで極々私個人の感じることに過ぎないが、ショーン・ペンもガス・ヴァン・サントもどうしてもピンと来ないようだ。

ハーヴィー・ミルクについては昔「Times of Harvey Milk」というドキュメンタリーを見る機会があってその時「こんな人がいたんだ」と感銘を受けたし、個人的にはゲイというテーマは自分にとって好きな分野でゲイの人たちの生き方に勝手にも共感を覚える。かなり自分の鉄板的要素が高い作品なのでどんな出来ばえであろうとも面白く見られるだろうと想像していた。

冒頭で、ショーン・ペン演じるハーヴィーが万が一の時のために自分の思いを録音機に吹き込むシーンはとても良かった。
「僕は自分の立場が分かっている。不安や恐れを抱く人々のかっこうの標的となるだろうということを」
自分がゲイとしてマイノリティーとして生きてきた人生の中で悩み苦しみ、痛みを十分過ぎる程に味わって、それでも自分を攻撃する側への理解をも示そうとする彼の心の優しさが伝わってくる。

このシーンを見てこの作品への期待が膨らんだ。

しかし、その後は物語は淡々と緩慢に進み、あまり伝わってくるものがなかった。

ショーン・ペンは演技力の高いすごい役者なのだと思うし、キャストも良かったし、題材だってもちろん人に伝えてゆくべき素晴らしい内容だ。

でもなぜかあまり心にこなかったのであった。

アメリカで初めてゲイである事を公言して政治家となったハーヴィー・ミルクの政治家としての歩みを伝えるための作品として忠実に作られたのだとは思うが、彼の生き方を貫く"思い"が、私には強くは伝わってこなかった。
具体的には、行動には絶対きっかけがあるはず。きっかけの中には感情的葛藤があるはず。その大切な部分が年表の様な史実としての物語の流れに流されてしまっているように思えた。
ハーヴィーが何を感じて何に打ちのめされ、それでもどうして希望を見続けられるのか、そんな生き様をもっと私は見たかった。史実だけなら「Times of~」を見ればいいのだから。
ショーン・ペンはゲイに見えたし本当にうまく演じていた。でも、「うまいなぁ。役者魂だよなぁ。努力したのだろうなぁ。」ということを乗り越えるものは感じられず…。

それならばむしろ、どちらかというと逆恨みのダン・ホワイトやハーヴィーの元を去ったスコットの方が感情移入が出来た。
(特にスコットを演じたジェームズ・フランコは良かった。目や佇まいが素晴らしく、彼の方が演技なのか実は本当にゲイなのじゃないかわからない感じの演技力だった。)

ショーン・ペンも、ヴァン・サント監督も数本作品を見ただけだが、いまひとつひっかかるところのないまま今まできているので、これはもう単に感じ方の違い、趣味の違いの問題なのかも。
興味深い作品が多いので気になるが、見終わってもあまり何も残らないことが多いのだ。
ショーン・ペンに関しては完全に好みの問題かもしれない…(ごめんなさい!)

きっと他の人が見れば、ハーヴィー・ミルクという人の生き方を知るきっかけとなる素晴らしい作品となりうるのだろうと思う。

物語の最後、ハーヴィー本人の写真が出てくるのだが、彼の笑顔一つだけで、2時間のこの作品の何倍もの感動が伝わってくる。
「あぁそうだった、この笑顔、この穏やかな目」
「Times of Harvey Milk」を見た時のことを思い出した。
字幕無しで見たので理解できないところも多かったけど、彼の笑顔を見ているだけで切なくなった。

いろいろ苦しみ闘って、乗り越えた人の。
静かで深い。
とても優しい目。
こんなに優しくて悲しい笑顔はないように思う。

七夜待

2008-11-04 11:55:32 | movie


河瀬直美監督の新作『七夜待』を見た。

河瀬監督の『殯の森』を見て以来、とても気になる監督さんであった。
『殯の森』は手ごわい作品ではあったが、とてもオリジナルで、そして私が一番映画に大切だと思うもの、「感情」がしっかりと流れていた。

そんな河瀬監督の新作、そして今回のこのチラシの色彩、色の美しさが重要事項である私にとってこの鮮やかな色合いに心惹かれた。
更に、グレゴワール・コランが出るという。
見ない理由が無かった。

映画が始まった途端、タイの街の喧騒の中の雑多な音の波が私の耳にバァッと入ってきたことにまず驚いた。
どちらかと言えば視覚の人間だと思っていた私、気になるのは常に映像や人の表情なのだが、今回は音が一番に私の中に飛び込んできたのだ。

主人公の彩子がスーツケースを引きながら、人でごった返すタイの市場の間を縫うように歩く。
クラクションの音。市場の人々の喧騒。その狭い路地をまさかの電車通過。
雑多で、猥雑ともいえる、アジアの音。
見ているだけで眩暈がしてきそうな。

主人公・彩子の表情も険しい。

何とかホテルへの行き方を聞いて、タクシーへ乗り込む。

ほっとしたのもつかの間、バックミラー越しのタクシー運転手の視線。
彩子の心に生まれる警戒心。

気付くとなぜか森に連れて来られている。
運転手はタイ語で何かガナリ立てている。言葉もわからず、不気味なこの男に身の危険を感じて逃げ出す彩子。
傍から冷静に見てみれば(例えば特に男性なら)何も逃げ出す必要も無い様に思えるが、彩子の感じた恐怖は皮膚感覚としてこちらにも強く伝わってくる。

外国。言葉がわからない。不気味な男。どこだかわからない森の中。

外国に女一人旅なのに多少の言葉も勉強せずに来て、タクシーの中で居眠りする彩子の無鉄砲さ考えの無さも考え物ではあるけれど、だからと言ってこんな思いをする理由は無い。「来なきゃ良かった」とすら思っただろう。

パニック状態で走り逃げて来た彩子は、一人のフランス人に助けを求める。
動転している彩子を優しく抱きとめ、子をあやすように守ってくれるフランス人・グレッグの胸にしがみついているうちに次第に落ち着いてくる彩子。

グレッグがこんな王子様みたいな優しい雰囲気の美しい男性でなかったら彩子はこんなにも無防備に胸に飛びこんで行っただろうか。どさくさにまぎれて…ぐらいの勢いでむしろ抱きついている様に見える彩子に意地悪な疑問はちょっと胸をかすめるが、でもグレッグの胸で彩子がゆっくりと気持ちを落ち着けてくる様子が手に取る様に伝わってきて、「言葉」でなく「感覚」が、彼は安心していい人間だと彩子は感じ取ったからこそなのだと思えた。また、男に追われた恐ろしさでパニックになっていた彩子の心が正常になる為に本能的にグレッグにしがみついていたと思える。そんな理屈でない皮膚感覚を見事に表現していた場面だと思った。
(理屈でない皮膚感覚…これは本当で、後にグレッグがゲイであるとわかる。ゲイならば女性は安心に決まっている(^^; それにしても、私はなぜかどうしてもゲイの男性に心が惹かれる。かっこいい男性は世の中たくさんいるが、単に見ていて「素敵」ときゅんとなる以上にもっと一歩進んで胸が切なくなる様な気持ちにさせられる美しさと恋心を感じてしまう時、私の場合ゲイの人である事が多い。これは本当に不思議。この意味はいずれ解明せねばなるまいと思う。グレッグがゲイだと言った時「またか!」としょっぱい気持ちになった…(^^;
そして、この時に、険しかった彩子の心のしばりの一筋が、一つほぐれ始めた様に思う。

その後も、グレッグが滞在しているタイ人の母子との交流を通して、言葉を越えた心と心の触れ合いの中で彩子はおもりを少しずつ落としていく。心のサビを落とした彩子は「心」で人や物事を考えられるようになってゆく。

個人的には、タイ人の母が幼い我が子を既に仏門に入れたいと考えていた場面でのその母の思いに胸が打たれる思いがした。普段はとても穏やかな母親が子供の出家だけは自分の思うようにしようとするある種強引にも見えるその思いの影に、「物質的に貧しいから、せめて豊かな心の人間になってほしいのよ!」と言う母の子を思う気持ちに涙が出そうになった。貧しさからの脱却の厳しさ。そのどうしようもないひっ迫した現実。乏しい生活の中でも一番に子供の事を考え、どうしたら我が子が幸せに生きられるのかを常に考える母の愛。
そして、現代人の生き方を問いかけている様な気持ちにもなった。物質的に恵まれている事は果たして本当に幸せなことなのだろうか。
人は「心」で生きる。
この当たり前のことのはずの事が、近代社会に生きる私達にはだんだん難しくなってきている。

表面上の豊かさという錆びがこびりつき無駄に分厚くなった心を、この作品を見て、彩子を通じて、感覚や心を取り戻す、なんだかわからないけれど私も彩子と一緒になって泣けてきたり、いい意味で投げやりになれたり、そんな疑似体験をしているような気分になれ、見終わる頃にはとてもすっきりした気持ちになれた。

癒し…という言葉は出来るならあまり使いたくはないのだが、この作品はある種の癒しを感じられる作品だと思う。映画を通じてマッサージやセラピーを受けたかのような感覚になれる作品。見終わると、視界がすっきりしていた。それは、映像はもちろん、その一つ一つの音にも丹念に気持ちを配って作り上げられた作品なのではないからだろうか。音といってもきっとタイやアジアのあの辺りへ行けば普通に転がっている日常の音なのかもしれないけれど、電子音や人工の音であふれかえった今の日本では失われてしまった音なのだと思う。そしてきっと、昔は日本にだってあった音。

今も、一つ一つの場面の色彩や音が、目を閉じると浮んでくる。
久しぶりに映画を見て心が潤いを得た体験だった。
本当に美しい作品を見たように思う。

それはやはり河瀬監督という人が、映画作りという事に丹念な思いを込めて向き合う人だからなのだと思う。丁寧な思いは人に伝わる。
わかりやすくないから駄作だという頭の悪い人間がこの世には多いけれど、わからないならもっと考えればいい。感じればいい。それを出来ないくせに金や表面的な耳ざわりの良さだけに価値を置き、どんどん怠惰になってゆく。
私は河瀬監督を本当に同じ日本人として誇りに思う。好き嫌いは別として、これをつぶそうとする意識が蔓延するような日本の社会にこれ以上進んでいくのなら、それこそ絶望であるとしか言いようが無い。
日本人の本来の良さや忘れかけているものを見せてくれる河瀬監督の作品をこれからも見ていきたいと強く思う。

ぐるりのこと。

2008-06-16 17:07:34 | movie
土曜日に『ぐるりのこと。』を見に行った。

渋谷に出るのは相変わらず気合がいるから億劫ではあったけれど、以前からずっと気になっていて、是非見ないとと思って思い切って出かけた。

しかし、「あ~、やっちまった…」と言った、つまりはずれてしまった作品だった。

まず何故見たかったのかと言えば、キャストで、リリーさんと木村多江さん。なんと面白そうな組み合わせ。
第二に、これもかなりの期待度パーセンテージを担っていたのだが、橋口亮輔監督の最新作。

リリーさんは良かった。
良かったというか、役者かと言えば全く違うと思うし、もちろんイラストレーターさんなので役者を極める必要もないのだけれど、いつものあのまんまリリーさんで存在していて、飄々としたあの存在感は素晴らしかった。
多江さんも素敵だった。とてもきれい。あらゆる意味で心も顔も。せせらぎの水のよう。

良かった点は以上。

期待しすぎたのがまたいけなかったのかなぁ…。
私は夫婦の場面をもっとたくさん見たかった。
しかし、見終わってみて私の印象に残ったのは、リリーさん演じる法廷画家の夫カナオの仕事場である裁判での被告人達の方。

子供を亡くした事で心のバランスを崩してゆく妻と、それを支える夫。
そしてその周りには家族がいて同僚がいて、ごたごたと生きている。
地球にはカナオ達夫婦だけがいるわけではもちろんない。
二人だけでの世界が成立するわけでもない。
夫は妻が心配であっても、四六時中妻を見ているわけにはいかないわけで、仕事もしなければならないし、生活していかなければならない。

世界には数え切れない位の夫婦がいて、数え切れない位の家族がいて、数え切れない位の一人ぼっちがいて、カナオ達夫婦の様に例えば妻が精神的ショックから鬱になったとしても、それはカナオ達夫婦にとってはものすごい大きな出来事だが、でもそれを世界という大きな単位で見たらもしかしたら一個の点にもならないことかもしれない。例えば妻の心が限界に達して、悲鳴を上げて、夫婦にとっては命の瀬戸際で大変な夜であっても、風邪で寝込んでいた階下の住人にとっては安眠の侵害以外の何ものでもなくて、だから鬱と風邪はどちらが深刻な問題なのかに答えは無い。(そんな件の場面が作品にある)
そんな風に、この作品はカナオ夫婦を軸としながらもそれだけではなく周囲の人々や世界に絡めて描こうとしているのだなという意図はわかった。

でも、その周囲の人々というのは、あそこまで悪い人たちを並べ立てる意味はあったのだろうか。

裁判所のシーンでは、実際に起きてきた凶悪犯罪や異常犯罪を想起させるもので、フィクションだとわかって見ていても、本当に酷い気持ちにさせられた。

それ以外の周囲の人々と言っても出てくるのは変なとんかつ屋(酷い)とか、変な義理の姉とか、妻の母親も変だし、あそこまで見ている観客の心に生理的にショックを与えるようなタイプの人間達を登場させることが、人々が取り巻く世界というものを描くことに効果があったかとは到底思えなかった。

現実問題、昨今は絶望的にならざるを得ないような残忍で悲惨な事件や出来事も多く、それがリアルだといえばそうなのかもしれないけれど、それを映画の中で知らしめなくても十分にその恐ろしさや不安感は嫌と言うほど私達は感じさせられているのに、あそこまでオンパレードにしたかった監督の気持ちがよくわからなかった。

ヤフー映画の中で誰かが言っていたけれど、「脚本の焦点が曖昧」という意見に大いに肯く。
「あのように凶悪犯罪、特に子供が犠牲になった犯罪の加害者を描くことで子供を失ったカナオ達夫婦の再生を描こうとしたのかもしれない」と言っていて、私もそうなんだろうと思う。しかしそれが成功していたとは少なくとも私には思えなかった。
法廷画家や裁判所のリサーチをしているうちに犯罪者の心の闇の方に興味が湧いて描きたくなったとしか思えない。それはまた別の機会にすれば良かったのに…。

リリーさんと木村多江さんという可愛らしく素晴らしいキャスティングを発見したのに、そして映画の冒頭ではそれが遺憾なく発揮されて素晴らしい相乗効果が生まれそうな予感が画面からこぼれだしていたのに、どうしてそれが霞んで消えてしまう様な方向性へこの作品は進んでしまったのだろう。

全く余談だけれど、映画を見終わってじわじわとショックが心に広がるのを感じながら空腹だったので地元近くの讃岐のうどん屋チェーン店に入った。久しぶりだったのだが、何回か行ってもいつもファストフードの割りに美味しくて満足感のあるお店だったのでせめて美味しいものをササッと食べて元気を回復しようと思って入ったのに、店員にギャルが増えていて、感じもよくなく、ギャルでもしっかり仕事をする人もいるから一概には言いたくないけれどギャルの良くない所を総結集したような雰囲気満載で、店に入った瞬間何だか嫌な予感がしたのだが、まぁうどんさえ美味しければ…と思ったらうどんも不味かった。やっぱり料理も人が現れる。絶対に。変な人の作る料理には変な気が入ってる気がするのだ。とにかくもう2度と行かない。
たまにこういう日がある。「映画→不作」、「気持ち→精神的ドランク状態&落ち込む」、こういう日は大抵帰りに電車で変な客に側に寄ってこられる地獄か、不味い食事に当たって(逆当たり)身も心も打ちのめされ地獄に合う。

予め衝撃強そうだなと分かっている作品(「ノーカントリー」とか「ガーゴイル」とか…)なら心の準備があるし、分かっていて選んだ自分の責任だと割り切れるが、ホラー映画ならいざ知らず、まさかこんな結果になるとは予想もつかないものがこんなに精神的ダメージを持った作品だったなんて。意外なところに落とし穴はあるものだ。
うどんのせいもあり、気持ちの落ち込みと疲れがひどくて結局昨日はベットから起き上がれずほとんど寝てすごしてしまった。お陰でだいぶ回復してきたけど。
映画見て落ち込んで寝込むなんて、久しぶりに味わった。
強いて言うならこんな風に弱く柔な感受性、感性、ちょっと自分に取り戻ってきたことは良かったかもしれない。最近あらゆる意味で鈍くなっていたから。鈍くならざるを得ないあえて鈍くもしていたところもあり。

もう少し疲れを取ったら、また次の旅へ出発しよう。良い映画を観たい。
私の映画の旅は果てしなく続く。

ブレス

2008-05-05 22:01:26 | movie
キム・ギドク監督新作『ブレス』を見た。

色々書きたいことはある気もするが、全体の印象としては言わば"ギ毒"は薄まっていた。
もちろん唯一無二のギドク監督の感じ、暴走こそ華の世界は十分にあるけど、『弓』(私はかなり『弓』が好きである)とか『悪い男』とか程のあらゆる意味で強烈なものは感じられなかった。
(私の隣にいたおじさんがエンドロールとともに「何だかよくわからなかったな!」と独り言を漏らしていて、もちろんそれに答える人はおらず(関西やアメリカとかなら違うだろうけど)シーーンとしたままおじさんはすぐに席を立っていってしまったのだが、心の中で肯いていた人は多分劇場に少なからず大勢いた気がする…)

事前に見ていた記事でのハッとする程の色の鮮やかさ美しさに期待が膨らんだので少し期待はずれだった。
小さくまとまっていた気がした。

ただ最後の主婦と夫と子供の家族の感じが結構良かった。
監督にしては珍しく希望を感じさせていて。

全然関係ないが、映画の後友達とお茶を飲んだ時に、なぜか「森山中の黒沢さん」がいかに素晴らしいかで盛り上がった。(あと、ハリセンボンの二人も。「マイケル・ムーア監督じゃねぇよ!」が大好き(^^; ハルカさんの方も空港の入国審査で不法侵入と間違われて別室へ連れて行かれたらしい。しかも胸に"MEXICO(メキシコ)"と書かれたTシャツを着ていたという…笑いの神様が付いているとしか思えない彼女達!(^^;)
黒沢さんて素晴らしい。輝いていると思う。TVではあんなにはじけているのに楽屋ではとても人見知りで全然しゃべらないらしいけれど、それでもTVで見る黒沢さんは自分の世界を突き詰めて最近どんどん輝いていると思う。憧れる。
ある意味ギドク監督と双璧をなす位に(それは大げさ)私の中でますます突っ走って欲しい人だ。

今回はまぁまぁだったけれど、これからも私はギドク監督の作品を見たいと思うことには変わりはない。
次回作に期待。

人気者と森でさ迷う者

2008-01-29 13:51:36 | movie
最近見た映画についてひっかかったこと。

最近見たというのは『人のセックスを笑うな』と『殯の森』。

ヤフー映画で、他の人はどう感じたんだろうと見てみたのだが、自分とは全く逆の感じ方の人が多かった。

多くの人に好評だったのは『人のセックスを笑うな』。

酷評が多かったのは『殯の森』。

『人の~』は私自身もとても見たいと思って期待していた作品だ。

まず、永作博美さん。彼女の存在感は本当にすごい。
『腑抜けども悲しみの愛を見せろ』も良かったし、以前『人間風車』という舞台で見た彼女の存在感を私は忘れられない。あの舞台を見て以来、私の中で永作さんはすごく信頼している大好きな女優さんだ。
だから永作さんが主演と聞いて、ほぼ決まったも同然。「絶対見たい!」と。

チケットも当日は満員だった為翌日の予約を入れて再度劇場へ向かわなければならない程の人気ぶりに、なんとなく私のテンションも上昇。

そして、さぁ、やっといよいよ見られるぞといううれしさとともに鑑賞。

しかし、正直、退屈であった。
不快感はない。出演者もみな可愛らしくて好感が持てた。

でも、見終わって私の頭に残ったのは、永作さん演じるユリのだんなさんの信玄餅の食べ方だけだった。あれ…?私はお金を払って信玄餅の食べ方のうんちくを見たかったのかしら?あれれ??

これはあくまでとても大げさに言えば、のことで、信玄餅以外にも印象に残ったことはもちろんある。永作さんの佇まいはあいかわらず魅力があった。しかし。

某経済の新聞の映画評で大絶賛だったけど、絶賛するほど良いかなぁ…と思ったのだ。

増長なシーンの連続は、そこが監督の個性なんだろうと思えば良い事ではある。個性こそ一番大切にするべきものだから。でも、私にはこの作品の増長な雰囲気にあまり魅力が感じられなかった。
フランス映画の女優さんの様に、そこに居るだけでずっと見ていたくなるような空気や佇まいを持った演者なら増長な長回しのシーンでも効果的だけど、この映画の出演者にそれ程までの魅力を備えた人がいなかった。永作さんをもってしても。

辛口ついでに毒を吐くなら、もしこの人気キャストが実現しなかったら、ヤフー映画の人々はそれでも絶賛するのだろうか。永作さんはもちろん、松山くんも蒼井優ちゃんも忍成くんも可愛くてフレッシュで素敵な俳優さん達だけど、このキャストが客引きパンダ(あぁ本当に暴言をごめんなさい…)でないと、彼らがいなくてもあの作品が退屈ではないと言える人はいるのかな。

それに、劇中でも何度か流されるあの表題曲が私には鼻に付いた。
旬のキャスト、興味を掻き立てないはずのないタイトル、お洒落風なテーマソングで味付け(軽く洗脳)、才能を感じさせる「ふう」のカメラワーク風演出…。
私にはどうしても「集客」と「金」の匂いしか感じられなかった。
監督は、うまく商業路線の特急電車に乗ることに成功したのだろう。

私の言っている事はひがみっぽいとは思う。
『人の~』を良かったと言う人は、きっとみんな性格の良い人だと思う。
毎日をまっとうに生きている多くの人なんだろうと思う。
だから、私は決して批判をしたいわけではない。ただ、自分はどうしても何かが多くの人が持っているものからかけ離れていると認めないといけないのだなぁとしみじみ実感したということだ。
それに、文句だけなら誰でも言える。

そして、『殯の森』。
確かに私も手放しで素晴らしいとは言わないけれど、私はこの作品にとても感動を覚えた。
つじつまとかを考えれば粗があるのかもしれないど、文字通り、死の悲しみから回復する「殯(もがり)=喪あがり」の過程が、その感情の過程が、見事に表現されていた。私は監督は真に映画にたずさわるべき表現者であり、芸術家であると感じた。

しかし、良かったという好意の評価ももちろんあるのだが、酷評の人が多く、監督バッシング、ひいては監督の人間性まで非難するようなコメントもあって、読んでいて悲しくなった。

価値観は十人十色だから、絶賛もあれば批判もある。

私の価値観は、自分でも自覚しているが、どちらかと言えば一般的なものではない。あえて意識的にそうでありたいとも願っている。

しかし、今回この2つの作品の多くの人の評価の分かれ方と、自分の評価の分かれ方との真逆さに、私は今後どうあるべきかあらためて考えさせられた。

私は人だから、温もりも欲しい。
他の人の、そしてできれば多くの人の、温かい歓迎も欲しい。
けれど、私という人間の本質は、それとは相容れないのかもしれない。
人の歓迎を得ようとばかりしていては、いつまでたっても等身大の自分を取り戻し、自由に自分を表現できる日はこないのだろう。

私という個性は、きっと多くの人には受け入れられない。
私が私を表現したとき、もしかしたら誰も見向きもしてくれないかもしれない。
あるいは、『殯の森』の監督の様に心無い言葉を向けられるのかもしれない。
それを想像すると怯えるし、足がすくむ。

じゃあ、一生このまま何も叫ばずに、死んでもいいのか。
絶対に嫌だ。
商業路線の列車に乗れれば、それが私の魂の安息の地なのか。
そうではないだろう。
迎合する自分を葬り去らなければならない。
勇気を持たなければ。

『人の~』の監督も、決して列車に乗ろうとして表現したのではないんだろうと思う。あくまで自分の個性で表現した。それが人の目に留まり監督の下にチャンスが与えられた。そして多くの人が良いと評価した。
『殯の森』の監督も、自分の個性で表現した。
一方は、興行的ヒットとなり成功したし、一方は批判を受けた。
(でも海外では認められたのだからどちらがどうとは言えないけど。)

大切なのは、自分の信念で表現することだ。
それが例えみんなに受け入れられなくても。
自分のやりたいと思う事を信念に基づいて表現する。後のことは誰かが決める事であって私がとやかく案ずることではない。
良いと感じる人もいれば、悪いと感じる人もいる。当然のこと。

私はどうしても「こう表現したら、どう人が思うだろうか」という事を考えてしまう。
そんな自分を卒業する勇気を持たなければ、と思わせられた。

再会の街で

2007-12-25 12:14:27 | movie


『再会の街で』を見てきた。

アダム・サンドラーのファンで、以前から公開を楽しみにしていた作品だった。

結論から言うと、とても良かった。

予告編を何度か見ていたから、「9・11で家族を失い悲しみに打ちひしがれた男が友情で悲しみを乗り越えてゆく」と言ったおおよその内容は分かっていたけれど、映画を見ていて気づくと胸が痛くて涙が流れていた。

アダムたん(友達の受け売りのこの呼び方を気に入っているので以下こう呼びたい(^^;)を始め、全ての登場人物が丹念に描かれているのもとても良い。

アダムたん演じるチャーリーはとにかく打ちのめされている。
家族を突然失ってしまったあまりの悲しみの大きさに、家族の話題に一切触れることができない。
亡くなった妻の両親や偶然再会した大学時代のルームメイトのアラン(ドン・チードル)が家族の話題に触れてくるやいなや烈火のごとく暴れる。
(この辺のキレっぷりは「パンチドランクラブ」の中の彼を思い出していただければ想像に難くない。)
もちろん彼らは怒らせようとしているわけでは毛頭なく、チャーリーを心配して何か彼の力になりたいと思っている。
しかし、チャーリーにとって周囲の声は届かない。
悲しみは時が解決してくれるともいうけれど、チャーリーの悲しみの傷は未だ全く癒えていないのだ。今なお血が流れ続けているかのように。
あまりの苦しみに現実から逃避するしかできない。亡霊のように生きるしかできない。
痛がって暴れる獣のようなチャーリーは生活や社会や現実と言った一切から自分を閉じる。

最愛の家族のいない未来などもちろんのこと、妻の両親の様に写真を見て思い出に浸る、過去を振り返る事もできない。できないというか不可能で、そして今を生きることもできない。
チャーリーの時間はただただ止まったまま。妻と娘達を失った日から。
TVゲームをしたり、ドラムを叩いたり、スクーターで街をさまようことしかできないのだ。
現実をシャットアウトするかのように、いつもヘッドホンをしている。70年代80年代の音楽を聴いている。

そんな彼の姿は浮世離れしていて、表面上は一見ユーモラスに見える。穏やかであるようにすら見える。
しかし、彼のヘッドホンから流れる表題曲「Reign Over Me」のように、彼の内側では悲しみの嵐が激しく吹き荒れていて、チャーリーはその悲しみにずっとずっと一人で耐えているのだとわかる。

とにかく、チャーリーの悲しみを、アダムたんは見事に演じていた。
表情が本当に素晴らしい。
脇を固める俳優達も秀逸で、久々に見たリヴ・タイラーも良かったし裁判長役のドナルド・サザーランドもすごく良かった。
二人とも「悲しみ」をぞんざいには決して扱わない人物として素晴らしかった。
そして、ドン・チードル演じるアランの歯科クリニックの変な患者ドナ・リマー。
これは是非映画を見て確かめて欲しい。
私は「ドナ・リマー」という名キャラクターの名前を一生忘れないだろう。(^^;

本当はネタバレを気にせずいろいろ書こうと思ったのだが、これからご覧になる人のためにやはり詳しいことは書かないことにした。
多くの人が見て、この作品の素晴らしさ面白さを楽しんでもらいたいなぁと思うから。

最後に映画を見て思ったこと。
人は悲しさに打ちのめされた時、悲しみたいだけ悲しむことがきっととても大切なんだと思う。
周囲の人間はそんな時、つい自分の都合で助けたくなったり、ケアして治して前向きに生き「させよう」としたりする。もちろん悪気はないと思う。心配するからこそだ。でも、感情は理論ではない。命と同じように扱うべきものだと思う。「悲しみ」という感情は負に見えるけど、だからと言って一日も早く心から失くす必要もないのだと思う。各々のペースでそれらの感情と向き合うものであって、周りの人間が手を出して何か型におさめて整理を付けさせるようなものであっては決してならないのだと思う。
人が悲しみの中にいる時、周囲の者ができることは、その人の悲しい様を見守ってあげることではないか。「悲しくてボロボロなのですね」とわかってあげること。そして、その悲しみからその人自身一段階進みたくなった時には、その声を聞いてあげる。できることがあるならその時に差し伸べてあげられる手を準備しながら。

でも、人生は孤独に思えても、人は人に救われて生きているんだなぁとも思います。辛くても、明けない夜はない。

この映画を見られて良かった。久々に胸があたたかくなった。

once

2007-11-09 23:32:05 | movie


『ONCE ダブリンの街角で』を見た。

開始時刻ギリギリで劇場に駆け込み、席に着いた途端に上映が始まったという慌しさでの幕開け(自分が悪いんだけど…)だったのだが、流れてきた歌声と共にスゥッと作品の中に入ることが出来た。

私はまた既にじんわりと涙していた。
なんか最近いつも映画ですぐ泣き過ぎている(しかも秒殺)けど。

ストリートミュージシャンの男が、「彼女にサマードレスを着せてやりたい~」とか歌いながらギターをかき鳴らす。オーディエンスは怪しい動きの男だけ。
「勘弁してくれ。盗って逃げても絶対に逃がさないぞ」
「俺はそんなつもりないぞ。ほら、チップだ」
(多分日本円で10円位だろう。。)
結局そいつはチップの入った男のギターケースをパクッて逃走。
男は追って追ってパクリ野郎を取り押さえる。

「俺はこれで食ってるんだ」
無事チップの入ったギターケースを取り返すが、パクリ野郎が無心するとナケナシのチップの中からお金をあげてしまう。

この冒頭シーン、好き。
優しい人なのだ。この主人公は。

そんな心根のあたたかい男と、チェコ移民の少女がダブリンの街角で出会う。

この二人には名前はない。
そして二人は音楽を通して少しずつ心を通わせる。

二人の交流が、素朴に、あたたかい音楽と共に描かれる。

男と女。
音楽と音楽。
人と人。と人と人。。。

この二人だけでなく、男とその父親、少女の家族、音楽仲間、といった人々との交流も優しく描かれている。

見終わって、私は久しぶりに「胸が切ない」という感覚を味わった。
「切ないラブストーリー」を謳う作品は数知れないが、私にとってこの作品程切ないなぁちくしょう…(泣)と思えた作品は近年あまりなかった。

優等生すぎる結末かもしれない。
でも、そんなうがった心ですらも、あたたかく包み込まれてしまう。
愛ってきっとこういうものであったはずだと思い出させてくれる。
「愛する人に幸せであってもらいたい」ということ。

それにしてもなんて身持ちの固い映画なのだ!ちくしょう!
なんでそんなに良い人なんだ、男よ!

そして、音楽が素晴らしいのは言うまでもない。
冒頭シーンの「サマードレスを着せてやりたい~」ですら私は切なくて泣けてしまった。
登場する音楽全てにハートがある。
主人公の人としての優しさがにじんでいる。
恋を失ったら、そんな簡単には忘れられなかったり、
夢は突き進めるほどシンプルには出来ていなくて、今日も街角で歌う日々。
そんな人生を歩んできた男の、それでも消えることのない音楽への情熱や愛が力強く息づいている。

本当に良い映画です。ラブストーリー以上にラブストーリーだった。