好日12 諸学の統一
諸学の統一は、デカルトが三五〇年前に抱いた野望であった。その野望が達成される時期が、刻一刻と近付きつつあるという気配が、私の実感によれば、濃厚なのである。
諸学の統一だって? 統一どころか、学問はますます細分化されつつあり、同じジャンルの研究者だって隣の研究室で何を研究しているか分からない。統一どころではない。事態はまったく逆の方向へ進んでいる、それが現代の常識ではないか、とあなたは言うかもしれない。しかし・・・
二十一世紀の科学は、次第に脳研究へ向けて収斂されていく気運が濃厚である。脳研究は科学の最後のフロンティアとも言われている。ところが、この脳研究において、従来の科学の方法論はまったく無効とまではいえないものの、科学のそれぞれの領域から科学者がそれぞれに持ち寄った知識と方法論を駆使して研究しても、なお成果は微々たるものであり、方法論それ自体の模索がなお続いているというのが現状らしいのである。
その意味で脳科学はいまだガリレオ出現以前の段階にあり、新たな方法論の確立に向けて、深い混沌が支配している状況である。心と脳の関係を根本的に問う新たな学問の樹立を待ち望む精神的雰囲気が、次第に色濃く立ち現れてきているのである。
すなわち、諸学の統一の理念の再生なくして、二十一世紀の科学のメインテーマである心脳問題の解決はない。したがって論理的な必然性によって、諸学の統一は今世紀中に達成されるであろう。これが今年になって私に訪れた最初の直観であった。
ところで、そういう課題を誰が担うことになるのか、それは分からない。ただ、晩年の小林秀雄は繰り返しベルクソンの『物質と記憶』という書物の重要性を語っていた。そして心脳問題の理解を深めていく課題を自らに課していた。その努力は極めてデモーニッシュなものであり、大著『本居宣長』はその神懸かり的な達成であったという見方も可能である。小林秀雄は、新たなるデカルト輩出の準備を整えて、あの世へ去っていったのだ。
「真理を探求するためには、一生に一度は、あらゆる事柄について、可能なかぎり疑わなければならない。」(デカルト『哲学原理』三輪正・本田英太郎共訳)
このデカルトの孤独な決断が、二十一世紀のいまここで、もう一度だけでいい、その全き姿で蘇らなくてはいけないのである。
正月休みに帰省した。その時にこんなふうな反省を私はしたのだった。この家で生まれ育った私は、東京へ旅立つことになった時に、どんな初志をいだいたのであったか。金持ちになりたいと思ったのであったのか、権力を持ちたいと思ったのか、名誉が得たいと思ったのか。いや、それらのどれでもなかった。勿論それらの欲望も、少しはあったけれども、最大の志は学問を究めること、知の究極に達することであったはずだ。あの時の少年はいまどこにいるのか。いったい今の自分に、どれだけの確実な知があるだろう。あれやこれやと彷徨っただけで、確実なことは何一つといって身に付いていない。無知の極みではないか。これが自分の結果ということであっていいのか。初志を、その一念を忘れないで、もう一度再出発したい。これが、平成十七年度の初春に抱いた私の感慨であった。
一生に一度の決断を実行する時節が今私にも訪れたのである。
★代数学と幾何学の間に橋を架けたルネ・デカルト ★
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