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中国遼寧省大連で生きるおっさん

一人の名も無きおっさんが、浅学菲才ながらも、自分の言葉と写真で、毎回一生懸命に書いている大連ブログでございます。

大連で人身事故の瞬間を目にする(1)

2019年10月29日 | 大連生活あれこれ
日曜日から酷い大気汚染日が続たものの、昨日は風が吹き、今朝は素晴らしい朝となりました。


日中も風があり、大気の状態はとても良かったです。お昼過ぎ午後1時の市中心部「青泥窪橋(大連駅)」の大気データです。


夕方5時半の帰宅時に買い物がてらに撮ります。夕暮れの市中心部の労働公園「緑山」と電視塔です。毎日こうだと良いんですけどねえ。


夜7時半になって洗濯をしようと思ったら、粉末洗剤が切れたので再び買い物に行きます。それほど寒くはありません。焼き芋屋さんが出ていたので一つ買って帰りました。


同日同時刻です。一方でこちら満州最果ての町の一つ、満州里(内モンゴル自治区)では雪(!)ですね。

さて、夕べ仕事を終え、市中心部「青泥窪橋(大連駅)」で買い物をし、移動中に交通事故(人身事故)の瞬間を目にしました。

日本とは違って、こちら中国は「自己中心主義」という考え方が普通ですから、車と車の事故はしょっちゅう目にしますが、人身事故、それもその瞬間、そして人が吹き飛ぶ姿を見ました。目に焼き付きますね・・・。

二回に分けてお届けする、今日のエントリーは、本題に移る前の「プロローグ」のみを書きます。


この国は「昔、アヘン中毒、今、スマホ中毒」の国です。「スマホ絶対主義」の国なんですね。日々利用している朝の地下鉄ですが、御覧のように、この日は車両の一番前に立つ人までスマホ利用者「10連チャン」です。日本と違う所はイヤホンを利用せず大音量で動画を見ている奴が「必ずいる」ことですね。困ったことに中高年に多いです。

スマホと共に急速に発達したのが、それを利用して注文する飲食物の「デリバリー(出前)」です。

このデリバリー、基本、電動自転車やバイクといった二輪車による配達なんですが、とにかく交通マナーが悪いんですよ。全く守りません。逆走、信号無視は当たり前。クラクションも使い放題で「我が物顔で」歩道もカッ飛ばします。「どけ!どけ!」ってやつですね。分かりやすく言うと「中国の暴走族」です。

中国は日本と違って「職に貴賤あり」の国ですからね。ですから「高考」という名の大学入試が世界一過酷となるわけです。「超学歴社会」で「学無き者」はどうなるか?こういった「賤業」、そして「負け組」に属することになります。厳しい社会ですよ。

先月撮った写真ですが、公共バスの最前列に座ると連中の姿が良く分かります。


赤信号で止まります。日本と違ってヘルメット無し、二輪もナンバー無しです。いざとなった時、身軽に逃走できないし、証拠も残りますからね。


待っているのが面倒くさくなって無視。まあデリバリーは商品到着までの配達制限時間も設定されていますからね。


私の乗っているバスが次の信号で先程の「オレンジオヤジ」に追い付きました。こちらの交差点では奴の前に2台の「先客」です。


3台まとめて信号無視(!)。行ってしまいました。

今の若い方は御存じないかもしれませんが、今から約30年前の1980年、ビートたけしさんはビートきよしさんとコンビを組んでいて、「ツービート」というコンビ名で活躍していました。で、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という流行語を生みました。私がガキの頃の話です。

大連は「坂の町」ということもあって、二輪車に優しくない町です。若い人だと自転車に乗れない人も少なくありません。日本人的に中国と言えば「自転車」のイメージがあることに加えて、最近では一時期、中国発のビジネスで「シェアサイクル」が広く報道されたこともありました。が、大連のみならず、こちら満州の大都市中心部で自転車(シェアサイクル)は見られません。黒竜江省の省都・ハルビン中心部には無し。吉林省の省都・長春にも無し。例外はこちら遼寧省の省都・瀋陽で、こちらは「自転車王国」です。まあ先程の満州里市の雪ではありませんが、こちら満州は他地域に先駆けて冬が早いのと積雪、道路の凍結といった問題もありますからね。

さて自転車が一般的でない町で、一般人民が自転車を乗ったらどうなるか?基本、自転車道(二輪車専用道路)も無いし、連中もまた「ルール」を知らないし、元からの「自己中心主義」という考え方もあって、道の端や脇を走る奴はまだ良い方で、道路のど真ん中をチャリで走る奴なんてのがいるんですよ。

当然、交通事故です。


該当者は不在で、事故現場がそのまま維持されていました。


潰されたお弁当です。


角度を変えます。


ナンバープレートがひん曲がっていますね。


所変わって、こちらはマクドナルドのデリバリーですね。タクシーとの接触事故です。御覧のように、あの「大型リュック」は、いざという時、体の動きの自由を大きく奪いますね。世界的企業といっても、この国では所詮この程度です。これを「安全第二」と言います。

次回に続きます。

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一週間ぶりの深呼吸、そして「敬老」と「老害」、更に「すき家」

2019年10月25日 | 大連生活あれこれ
前回のエントリーでも書きましたが、先週末から大連ではこの秋最初の「大型大気汚染」が続いていました。毎日霧で、風=大気の流動、は殆ど無く、汚染された大気が蓄積されていくのみという「PM2.5地獄」の日々です。


昨日の朝はかなり酷かったです。いつも撮っている市中心部の労働公園「緑山」と電視塔ですが、電視塔がすっぽりと消えてしまっていましたね。で、夜中は本当に久しぶりの雨が少し降り、のちに強風となったので、


朝は素晴らしい天気となりました。同所です。「PM2.5地獄」と「快晴」の対比写真が撮れました。24時間でこんなに変化が起きたという事です。


今日10時の市中心部「青泥窪橋(大連駅)」の大気データです。本当に久しぶりの、外での深呼吸を堪能しました。これが「中国での日々」なんですよ。が、気温は低くて8度、更にはかなりの風です。


前回のエントリーでも触れましたが、先日、PM2.5が「200」=「非常に健康に悪い」表示の中、ライトレールに乗って「開発区」、「保税区」に行きました。「保税区」駅前のバス停で一人のお年寄りが字を書いていました。中国ではよく公園などで見られる光景です。大きな筆で水を墨汁代わりにして地面に書きます。水で書きますので、時間が経つと綺麗に消えるだけです。


「お上手ですね」と声をかけると、にっこりとしていました。私にとっては「中国人」で、「敬老」対象です。芸術性が感じられ優雅な趣味を持つ人間から学ぶことって本当に多いですよ。

「あいちトリエンナーレ」でしたっけ、あんなの幼稚な人間を多く集めた「芸術」という名の「ゴミの展示」と「自由」という名の「反社会の主張」でしょ。

中国は歴史と漢字の国です。こちらに来ていながら歴史を学ばず、知らず、字も汚い日本人って多いんですよ。以前、こちら中国でも大使館、領事館に天皇陛下の御即位を祝賀するための記帳台が置かれ、私も参加したんですが、見るに堪えない字が少なくなく、「同じ日本人」として恥ずかしさを覚えましたね。

建国の父・毛沢東を筆頭に、中国のトップはとにかく毛筆で自分の字を残します。これを揮毫(きごう)と言います。が、今現在のトップである北京の「核心」はあまり揮毫をしません。何故か?言わずもがなですね。


市中心部に戻り、公共バスに乗ると、こちらもまたお年寄りで、女性(!)です。ナメた態度で座っていますねえ。私にとっては「支那人」で、「老害」対象です。


同じバスの車内で、こちらはシルバーシートに座る中年女性(!)です。何とかなりませんかねえ、連中の足・・・。日本には絶対に来て欲しくないですね。が、この手の輩ばっかし来るんですよねえ・・・。

「PM2.5地獄」の日々のため、こちら大連では女性を中心にマスク姿が増えてきている様子もお分かりいただけたかと思います。


昼食は「オリンピック広場」の地下にある、日本の牛丼チェーン店「すき家」で食べました。日本とは違って、ラーメン、カレー、おでん、焼き魚(サンマ)、デザート、と何でもあります。


ちなみに隣の隣は「商売敵」の「吉野家」です。


久しぶりに「すき家」の牛丼を食べます。メニューを見ましょう。ミニ盛(13元=約200円)、並盛(中国語表記:小碗、16元=約250円)、大盛(21元=約320円)、特盛(中国語表記:超級碗、28元=約430円)ですね。


並=小、など日本語との「表記」にズレを感じるでしょう?注意しましょう。で、「超級碗」で行きます。

蛇足ながら、本家日本の「すき家」には、更に「メガ盛」というメニューがあります。そして更に「裏メニュー」で「キング盛(キング牛丼)」というのがあります。この「キング盛(キング牛丼)」は知らない方が多いですね。こちらです。


で、注文後、30秒ほどで来た「特盛」(中国語表記:超級碗)です。紅ショウガをたっぷり乗せて美味しくいただきました。お肉は多すぎて満足、そしてこちらでは何も言わなくても「つゆだく」になるので美味しかったですねえ。


帰りのバス停では「野良ちゃん」に「お見送り」を受けました。風邪ひくなよ~。

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令和元年を迎えた大連「旧・光明台小学校」周辺を歩く

2019年10月18日 | 大連生活あれこれ
今日の大連は暖かく、風もありません。ということで前々日、前日からの大気汚染は加速中です。


朝はPM2.5の大気汚染が酷く、真っ白でした。今朝8時、市中心部「青泥窪橋(大連駅)」の大気データです。日本基準の約4.5倍の汚染度で、「健康に良くない」表示です。久しぶりに日本から持ってきたPM2.5対応マスクを装着しての出勤です。

さて、今日は日本統治時代の「旧・光明台小学校」とその周辺を歩きます。今現在の「オリンピック広場」からすぐですね。


アクセスは簡単で、公共バスの「27路」、「529路」、「527路」に乗って「九六七医院」という名のバス停で下車、真ん前に立っている大きな病院が今現在の「旧・光明台小学校」です。残念ながら、かつての姿は失われています。


病院前です。御覧のように中華人民共和国人民解放軍が管轄している病院なので、撮影は控えましょう。大通り(勝利路)沿いから撮る、最低限に留めておいた方が無難です。この病院ですが、つい最近まで「二一〇医院」という名でした。今でこそ「九六七医院」という名ですが、大連地元的にはまだ「二一〇医院」表記の方が少なくありません。つまりタクシーや市民の間では新しい名の「九六七医院」では通じない場合もあるという事です。


先程降りたバス停から令和元年である、「旧・光明台小学校」の現在の姿を撮りました。公共バスで行かれる方はこちらをどうぞ。


さて降りたバス停から左側を望みます。このまま真っ直ぐ歩いて二つ目の交差点の角にあるのが、かつての「昭和高等女学校」です。行きましょう。


途中、この「九六七医院」の患者衣を着たまま散歩を謳歌しているハゲオヤジがいました。退院が近いのかウキウキです。

病院周辺では各病院の「患者衣」のまま、朝市などでは寝起きの「パジャマ姿」のまま、夏には「北京ビキニ(?!)」と称される「腹出し姿」のまま、外を歩く、外出する、これが「支那人」です。私の職場に居る「中国人」は皆こういう姿を見ると眉をひそめて無言になります。自分たちと「同じ中国人」と認識せず、「違う中国人」と認識しているんですよ。


で、二つ目の交差点の角にあるかつての「昭和高等女学校」の今現在=令和元年の姿です。現在は大連市「水仙小学校」となっています。真横がちょうどバス停ですので、ここもアクセスが良いです。


角度を変えます。

令和元年を迎えた大連「昭和高等女学校」、そして5月で気温40度
https://sky.ap.teacup.com/dalian4649/695.html


日本では未だに台風19号の被害が収まりませんが、ここ「水仙小学校」は日本同様、災害における緊急避難場所となっています。和訳は不要でしょう。

さて、先程の「旧・光明台小学校」の前、「九六七医院」のバス停に戻ります。バス停から左方向を真っ直ぐ歩いてきましたが、今度は逆に右方向を歩いて、かつての「早苗小学校」に行きます。


バス停から右方向を望みます。二つ目の信号まで真っ直ぐ歩いて行きます。


この横断歩道を渡って右折します。


またひたすら真っ直ぐ歩きます。道路の名は「東北路」です。


一つ目の信号を渡り、


ひたすら真っ直ぐ。もし左折して、この「風鳴街」に入り、ひたすら真っ直ぐ歩くと日本統治時代の家が数多く見られます。日本統治時代の「早苗町」、「若菜町」ですね。


話を戻します。ひたすら真っ直ぐ歩くと、次は「新華街」に入る角です。


アップです。ここの角にある家も日本統治時代の家ですが、人が住んでおり、現役です。調べてみると日本統治時代の住所は「大連市早苗町92」、そして「94」です。日本統治時代に住まれていた方はいますかね。


また真っ直ぐ歩くと左に校庭が見えてきました。「旧・早苗小学校」ですね。


今現在は高校です。


「旧・早苗小学校」の入口へと向かいましょう。校舎を左に見ながら真っ直ぐです。


歴史を感じさせてくれます。ここを左に曲がると、


到着です。「旧・早苗小学校」で、現在の「大連教育学院」です。

令和元年を迎えた大連「早苗高等小学校」、そして異常気象の満州主要都市
https://sky.ap.teacup.com/dalian4649/696.html

このルートは大通りばかりを歩きますので、車の排気ガスが凄いです。マスク必携ですよ。

御参考までに。

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令和元年を迎えた大連「旧・常盤小学校」周辺、「越後町」、「能登町」を歩く

2019年10月16日 | 大連生活あれこれ
今日の大連は風が収まり「秋」でした。


が、風が無いと大気が動かないので、昼頃から汚染日になりましたね。午後2時、市中心部「青泥窪橋(大連駅)」の大気データです。

さて、今日もこの「青泥窪橋(大連駅)」周辺ネタで、日本統治時代は旧「常盤小学校」の周辺、そして「越後町」、「能登町」へと歩きます。


昨日のエントリーでも取り上げた、旧「常盤橋」交差点のそばです。茶色い建物が日本統治時代の当時から残る「南満州鉄道瓦斯(ガス)会社」です。


道路を隔てた向かい側です。「老虎灘」、また日本統治時代は高級料亭で名古屋城を模して造られた「一方亭」方面に向かうバス(「2路」)のターミナルとなっています。写真中央に写るのが「大連商場」です。日本統治時代の名は「大連市場」です。行ってみましょう。


当時の絵葉書です。これが日本統治時代で、


これが令和元年の現在です。

先程の「南満州鉄道瓦斯(ガス)会社」が見えるバス停へと戻ります。バス停の目の前にローソンがあるんですが、このローソンの裏にも日本統治時代の建物が残っています。行きましょう。


この道を入って行きます。突き当りはこれまたローソンなんですが、その手前の角を右に曲がります。


左にとても古い建物が建っているのがお分かりいただけます。


角度を変えます。この建物の前はゴミ収集箱が並んでいて気の毒です。


正面です。


また角度を変えます。今も現役ですよ。日本統治時代は旅館?ホテル?らしいですが、当時の『大連商工案内』では確認できませんね。一時帰国の際に信頼に値するソースを見つけて、またゆっくり調べましょう。


またまた先程の「南満州鉄道瓦斯(ガス)会社」が見えるバス停へと戻ります。そこから撮った今現在の旧「常盤小学校」です。今は残念ながら四つ星ホテル「中山大酒店」、そしてショッピングモール「百年城」となっています。つまり「大連市場」の斜め前に旧「常盤小学校」があったんですね。


旧「常盤小学校」で、今現在はショッピングモール「百年城」です。


ショッピングモール「百年城」ですが、日本人的に中で買うものは少ないです。1階に「スタバ」と「アップルストア」、


3階に「無印良品」、


5階に熊本発で、中国で最も有名な日式ラーメンチェーン店「味千ラーメン」があります。


令和元年の今年は中国にとって建国70周年です。入り口に置かれたモニュメントです。


では旧「常盤小学校」の前、旧「トキワホテル」があった角から「越後町(現・玉光街)」に入りましょう。ひたすら前進です。突き当りは「青泥窪橋小学校」です。


最初の交差点です。これまたレトロな白い建物です。隣に写るグレーの建物は、


日本統治時代そのままの姿の「香港上海銀行」です。令和元年の今は「中国工商銀行」が入っています。銀行業で変わっていないんですね。


「石碑」です。


突き当りは「青泥窪橋小学校」ですが、一歩手前の角を曲がり「同心街」へと入ります。かつての「能登町」へと向かいます。


すぐに日本統治時代の家が見られます。今も現役です。


日本統治時代に住まれていた方、今も現役ですよ!


左に曲がれば、今の子たちが通う「青泥窪橋小学校」です。この辺りの子供ですが、日本統治時代は「常盤小学校」、今はこちらの「青泥窪橋小学校」ですね。


日本統治時代の名前ですと「能登町」と「摂津町」の交差点です。ここにこの「青泥窪橋小学校」があります。


正門です。

で、この「青泥窪橋小学校」の隣に、日本統治時代の「大連消防署」が建物そのままに残っています。


今は消防署ではなく「日月明賓館」というホテルです。宿泊料は写真に写る電光掲示板でお分かりいただけますように、二人部屋で一泊139元(=約2130円)ですね。リーズナブルな価格ですし、アクセスも良いので、日本統治時代のこの地域に思い入れや所縁のある方は「記念宿泊」も悪くないですね。


アップです。

令和元年の今でも残る建物を散歩がてら見てきました。御参考までに。

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令和元年を迎えた大連「常盤橋」周辺、そして「連鎖街」の三船敏郎の「家」

2019年10月15日 | 大連生活あれこれ
今日は早出、「冬モード」の大連です。


今朝7時ちょっと前です。冷えますねえ。


蛇足ながら、省都・瀋陽の同日同時刻です。

さて今日は市中心部「青泥窪橋(大連駅)」の今昔です。日本統治時代は「常盤橋、常盤橋通り」という名の繁華街でした。当時と令和元年の今の対比を取り上げたいと思います。


現在、土産物として売られている絵葉書からで、日本統治時代「常盤橋通り」の様子です。「常盤橋」交差点から「連鎖街」方面を撮った写真ですね。撮影場所は当時向かい側にあった旧「天満屋ホテル」からでしょう。左端に「南満州鉄道瓦斯(ガス)会社」が写っています。


で、令和元年の今、ほぼ同じアングルで撮ります。旧「天満屋ホテル」の位置に立って、絵葉書のように左端に「南満州鉄道瓦斯会社」を入れて写します。


写真中心の左下をアップで。「連鎖街」の建物です。


少し移動して、先程触れた、当時のまま残る「南満州鉄道瓦斯会社」です。


角度を変えます。旧「常盤橋」交差点から撮った「南満州鉄道瓦斯会社」です。

この「南満州鉄道瓦斯会社」ですが、令和元年の今、「日本繋がり」ですと一階に二軒の店が入っていますよ(入っていました)。


まずは元気に営業している「和食亭」です。営業中=「鯉のぼり」、が目印です。昼時はサラリーマンとOLで混みます。


チキンカレーや鶏のから揚げ定食、牛丼など日替わりで食べられます。美味しいですよ。


もう一軒の「日本繋がり」。同じくこのビルの一階にあった日式ラーメン屋「麺膳」は先月で閉店しました。安く食べられる「和食亭」に客を食われたかな・・・。


旧「常盤町通り」を渡って先程、触れた「連鎖街」へと移動します。日本統治時代は時代を超越したナンバーワンの繁華街ですね。日本統治時代は「銀座通り」という名の現在です。当時のここ「連鎖街」は東京の本家本元の「銀座」に勝るとも劣らないレベルの商店街でしたから、この名がつけられたのも納得というものです。御覧のように令和元年の今でも建物は現役です。真っ直ぐ行けば大連駅ですね。行きましょう。右側にちょこっと写っている青い店はローソンです。


アップです。日本統治時代から令和の時代になっても、この「連鎖街」に入る「日本繋がり」の店はあるのです。大連で一番「価値のある」ローソンだと思いますね。ちなみにお隣もコンビニ(中国系の「快客」)です。コンビニの隣がコンビニ(!)です。


更に足を進めると、大連ではお馴染み、持ち帰り弁当屋の「阿Q桶飯」です。写真左に写る赤い店で、よく利用させてもらっています。イートインコーナーがあるので店内で食べることもできますよ。この店の2階が日本統治時代は「スター写真館」=三船敏郎の「家」、ですね。御覧のように令和元年でも現存していますよ。


角度を変えてアップです。私の世代ですと、三船敏郎よりも娘の三船美佳さんのお騒がせぶりの方が印象が強いです。三船敏郎は映画で見るぐらいですが、ここには5歳(9歳の春?)に青島から移り住んできて、聖徳小学校、大連中学校へと進みました。後年(昭和62年、1987年)にこの「家」を訪れたそうですが、あまりの変貌ぶりに激怒して、二度と来ることは無かったそうです。ともあれ三船敏郎ファンにとっては、今風に言うと正真正銘の「聖地」ですから、無くなる前に「巡礼」する価値はありますね。

ちなみに三船敏郎が、かつての「家」であったここを再訪した時の様子は、産経新聞のこちらの記事に詳しいです。素晴らしい記事なので、このエントリーの最後にも全文掲載しておきます。

スターウォーズファンにとっての三船敏郎は、オビ=ワン・ケノービ役のオファーを断る(『スター・ウォーズ』、1975年)、またダース・ベイダーの素顔となるアナキン・スカイウォーカー役のオファーを再び断る(『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』、1983年)で超有名ですね。


足を進めると、ちょうど日本統治時代と変わらぬ外観を保つ路面電車が通り過ぎて行きました。この光景も当時と変わらないんじゃないですかね。


で、道路の突き当りが大連駅です。右端に写っています。

さて、先程の旧「常盤橋通り」に戻ります。


当時の「三越」から先程の「南満州鉄道瓦斯会社」へと移した写真ですね。これまた現在、土産物として売られている絵葉書です。


これまた令和元年の今、ほぼ同じアングルで撮ります。車も比較したかったので、今現在のタクシーを入れました。


角度を変えて「三越百貨店」です。今は一階に日本でもお馴染みでスペイン発のアパレルショップ「ZARA」が入っています。


「石碑」は建物の裏側にあります。

歴史を学んで大連を訪れると、タイムマシンに乗った気分になれますよ。感動や感激もひとしおです。




参考記事:
「世界のミフネ」育てた写真館 「昔の面影すらないじゃないかっ」…変わり果てた街に絶句

面影消えた思い出の地

 三船敏郎は不機嫌さ丸出しに、帰りの飛行機の中でずっと怒鳴り続けていた。

 「あの変わりようは何だ。昔の面影すらなかったじゃないかっ」

 三船が戦後初めて大連(だいれん)を再訪したのは、昭和62(1987)年のことである。日中国交正常化(72年)から15年を記念した映画祭への出席が目的だったが、三船は公式行事以外、ホテルから出ようとしない。ようやく同行者らに促され、訪ねたのが父、徳造(とくぞう)が経営していた「スター写真館」の跡地であった。

 父の写真館は、小規模ながら、昭和4(1929)年に開業した当時最先端のショッピングモール「連鎖商店街」の2階にあった。13年の大連の電話帳には、《スター写真館(三船徳造) 栄町》の名前で登録されている。

 ところが、「内地にも例をみない」と謳(うた)われた、名店や遊技施設が並ぶテーマパークのような話題の新名所も、戦後は小売店や問屋などが混在する雑居ビルと化し、すっかり様変わりしてしまう。重い腰を上げて写真館の跡地を見に行った三船は面影すらない思い出の場所に失望を隠せなかったに違いない。

大連での再チャレンジ

 徳造は秋田・鳥海山麓にあった裕福な家の次男だった。三船の長男、史郎(しろう)(64)=三船プロ代表取締役=によれば、「祖父(徳造)は次男だから跡を継げないし、おそらく新天地で一旗揚げようとしたんでしょうね。『秋香(しゅうこう)』の号を好んで使い、写真館経営のかたわら、従軍カメラマンのような仕事もやっていたらしい。日露戦役記念や満州の名所を撮って販売した写真帳が残っています」

 その写真帳は、大連「スター写真館」の前、中国の青島(チンタオ)と営口(えいこう)にあった「三船写真館」時代のものだ。大連へ移ってきたのは青島で生まれた(大正9=1920年)三船が9歳の春。きっかけは、仕事の不振だったらしい。三船はこう書き残している。

 「父は第一次大戦後の好景気に恵まれ(略)市中でも飛ぶ鳥落とす程の勢いであった。しかし、私がほぼ物心のつき始める頃には、その勢いも衰えて、父は苦境にあった。(略)新しい地、大連の街に安住の場所を求めて船の甲板上の人となったのである」(昭和23年発刊の「映画スター自叙伝集」より)

 大連・連鎖街店街の「スター写真館」の開業は、経済的苦境に陥った徳造にとって新規まき直し、再チャレンジだったのだろう。

最初の志望はカメラマン

 大連で過ごした少年時代、「家計は楽ではなかった」(同)というが、夏は海水浴や野球、冬はスケート遊びに夢中になる。三船少年が通ったのは大連放送局(JOAQ=ラジオ局)に近い、新興住宅地の聖徳(しょうとく)小学校、6回生に三船の名があった。

 小学校で下級生だった元大学教授(92)は「(三船がいたことは)何となく覚えている。(スター写真館があった)連鎖街にはよく買い物にいったけれど…」と懸命に記憶をたぐる。当然かもしれない。後年の世界的映画スターも当時は無名の少年、「スター写真館」は覚えていても、それが三船と結びつくのは戦後のことだ。

 史郎によれば、三船少年はやがて父親の仕事を手伝うようになる。「学校が休みのときは、三脚担いで父親(徳造)の仕事を手伝いに行った、と言ってました。学校の卒業写真や記念写真などを撮っていたようですね」

 父を手伝いながら、撮影や現像の技術を身につけた三船は6年間いた軍隊でも腕を見込まれて航空写真作成の任務を任される。昭和21年、第1回東宝のニューフェースに合格し、俳優になったときも実は撮影部(カメラマン)志望だったことは、よく知られているエピソードだ。

 「原点」は大連のスター写真館にあったのだろう。

コスモポリタンの街

 大連の街について後年、三船はこう語っている。

 「この港町は、いうなれば日本の植民地で、日本人が威張っていました。(略)外国品は豊富だし、日本人の生活程度はかなり高いようでした。外人も多く住んでいて、ちょっとコスモポリタン的な雰囲気を持った明るい風光に囲まれた清潔な街でした。(略)三船は外人キラーといわれる素地が、すでにこのとき育っていたのかもしれません。外国人に対して、ぜんぜんコンプレックスを感じたことがないのです」(雑誌「潮」昭和45年4月号より)

 ところが戦後、三船は史郎らに大連時代の思い出を語ることはほとんどなかった。訪問したのも昭和62年の一度きり。同じ大連出身の俳優、横内正(ただし)(74)は「三船さんとは共演もしたが、大連の話をしたことはなかった。寡黙な方だったしね。今から思えば、話を聞いておけばよかったな」と残念がる。

 三船にとって、大連の街は簡単には割り切れない複雑な思いがあったのだろうか。それが「悪夢のような」(「映画スター自叙伝集」)軍隊生活とつながるためか、あるいは少年時代の思い出そのままに、そっと残しておきたかったのか、今となっては知るよしもない。

 「スター写真館」があった連鎖商店街は、それから随分、時がたって、作家の井上ひさし(平成22年、75歳で死去)が、こまつ座の芝居に書き、人気バンド、サザンオールスターズの桑田佳祐(59)が歌にうたった。

 内地にも例をみない商店街とはどんな街だったのか-。次回書きたいと思う。=敬称略、隔週で掲載します

(文化部編集委員 喜多由浩)



 三船敏郎(みふね・としろう) 大正9年、中国・青島生まれ、少年時代に大連へ移る。6年間の軍隊生活を経て、昭和21年、東宝のニューフェースに合格し、俳優に。黒澤明監督とのコンビで「羅生門」「七人の侍」「赤ひげ」などに出演、日本を代表する映画スターとなった。海外作品への主演も多く、「世界のミフネ」と呼ばれた。平成9年、77歳で死去。
https://www.sankei.com/premium/news/150719/prm1507190026-n1.html


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