今日は午後から雨が降り、夕方からは霧が深くなりました。今は「労働公園」の電子塔はおろか、「緑山」全体が全く見えません。ここまで霧が深いと空港と港は混乱するでしょうね。
さて、昨日は一転、天気も良く、近所を散歩しました。東北三省で唯一の外国語大学である「大連外国語学院」が旅順区に完全移転し、「延安路」の「南山キャンパス」はすっかり更地となりつつあります。今日はこの様子と周辺の様子をお伝え致します。

そして「大連外国語学院」は今年の3月、国家の教育部(=日本で言うと文部科学省)より、ようやく「大連外国語大学」に「昇格」が認められました。中国は日本とは違い、「学院」というのは「大学」の下に位置付けられます。この「昇格」は悲願だったでしょうね。3月22日付け大連地元紙『半島晨報』(A28ページ)の記事で、見出しは「大連外国語学院が大連外国語大学に改名となった」とあります。
中国の外国語大学といえば「北京外国語大学」と「上海外国語大学」が双璧で、共に「重点大学」でもあります。一方で「大連外国語学院」は「一般大学」、それも中堅ランクに過ぎず、前述の両校が「質」であるなら、こちらは「量」で勝負といった学校です。
今年度の卒業生数(日本語人材)も学部生が1584人、大学院生が67人を数え、在校生数(日本語人材)は5400人です。私自身の印象も、日本語学科の教員と学生は「質」という点で今一つの大学で、大連の一般市民の「評価」も低いですが、「量」という点では圧倒しており、通信教育生(中国語:自考)や社会人、各国留学生などにも広く門戸を開いています。この点の貢献度は非常に大きく、「中国で最も日本語熱が高く、日本理解がある町・大連」を作り上げ、現在進行させている最大の「功労者」だと思います。

「延安路」の「南山キャンパス」は、大連外国語「学院」時代として、その役目を終えようとしています。昨日の「正門」の様子です。

「廖承志(りょう・しょうし)」の揮毫(きごう)による「大連外国語学院」の「看板」は既に除去されています。廖承志ですが、大学入試で日本史を選択した方なら学んだ名前だと思います。1962年に高碕達之助との間で取り交わした覚書に基づく「LT貿易」を開始した、中国共産党史上最高の知日家と称される政治家です。

校門にあった様々な「プレート」も、既に取り外された跡が見て取れます。

唯一、まともに残されていた校舎です。中に入ってみると・・・

「国際培訓学院」の紹介パネルがありました。成人高等教育学院だそうです。人も居ました。

向かい側の校舎も解体が進んでいます。

レンガが散乱しています。

鉄筋も分別され、まとめられています。ちょうどこの先には池がありましたね。

道沿いに歩いてみます。

階段があった跡ですね。もう上には上がれません。

ここにも分別された鉄筋がまとめられています。所々にはまだ緑が残されています。この上には図書館がありましたね。

遠くを見れば、まだ解体中のビルが残っています。あそこは学内のホテルだったと思います。手前には机や椅子が散乱しているのが御確認いただけます。

これ以上は進めないので、一旦、正門を出て外から廻って行こうと思います。ということで再び正門です。旧・東本願寺前にあったバス停(27路・「南山」)が、正門のすぐ右隣であるここまで移動してきたのが御確認いただけます。この移動、普段このバス停を使っている身としては本当に迷惑です(笑)。

正門すぐ左隣のビルも解体中です。

道路沿いを歩きますが、キャンパス内の建物は皆、解体終了していますね。

右折して、留学生の「総本山」だった「大連外国語学院漢学院」に向かいます。坂を上がっていきます。カラオケ屋(青い看板)の右の白い建物は入居者募集の「空き物件」になっていますね。

「塀」から見える解体されたキャンパス内のビルです。地下があった建物のようですね。

先程の「国際培訓学院」の向かい側にある解体中の校舎が見えました。

「漢学院」へ向かう坂です。上がってきた道を振り返って撮りました。

坂の途中にあったパン屋さんです。ここでよく各国の留学生が食事やコーヒーブレイク、パソコンなどをしていました。既に閉店しており、店内は解体進行中でした。

「塀」から見えた解体中のキャンパス内のビルです。キャンパス内のホテルである「大連外国語学院賓館」の裏に当たりますね。

「大連外国語学院賓館」の入り口ですね。建物は解体中も、「看板」はまだそのままの状態ですね。

解体中のホテル「大連外国語学院賓館」です。

世界各国からの留学生が集まっていた「漢学院」入り口です。「国際漢語培訓中心」の字が確認できます。

この入り口からちょっと離れて、真向かいの小高い場所に移動して撮った現在の「漢学院」です。既に何も無く、更地になっていました。家から近かったし、一般人も利用できるので、ここにはよく御飯を食べに来ていました。

この小高い場所からホテル「大連外国語学院賓館」を臨みます。

やや角度を変えて撮ります。

坂の頂上です。大連気象台がある「気象街」との「交差点」です。ここの「屋台群」は健在でした。大学は無くなれど、周辺住民は健在ですからね。

この先をちょっと行くと「武昌街」にぶつかる長~い階段路があります。ここの2件も入居者募集の『空き物件』ですね。

長~い階段路の途中の風景です。昭和初期を思わせるかなり古い建物ばかりです。蛇足ながら、この「気象街」から「武昌街」の入り口(「解放路」とぶつかる場所)までの周囲一帯は、日本統治時代(満州国時代)、「逢坂町」という地名でした。この場所は当時の大連の「遊郭」(今風に言えばソープランド街)だった地域で、当時、日本人経営の遊郭が計55件、朝鮮人経営の遊郭が計15件あり、「嬢」の総数も800人超だったそうです。「嬢」を客に見せるために、「通り沿いには大きい窓のみ、玄関は裏手」という特異な建物がずらっと並ぶ通りも現存しており、異彩を放っています。

さて、話を戻します。場所も正門に戻ります。正門から「中山広場」方向に進みます。最初の交差点(「七七街」)ですね。交差点左側は以前、日本のコーヒーチェーン店「珈琲館」(中国語:「真鍋珈琲」)でした。今はインテリアの店になっています。右側の建物はレストランでしたが・・・。

内装を解体中でした。今度は何が出来るんでしょうか。

右折して、郵便局(緑色の看板)の右隣は「手足情」という有名なマッサージ店でした。私が大連に来る前からあった店で、15年ぐらいの老舗です。大連に長期駐在している人間なら知らない人はいない店だったと思います。

しかし閉店したようで、入居者募集の『空き物件』の紙が貼ってありました。

中を覗くと、当たり前ですが、何もありませんでした。階段上がってすぐ左で「足洗い」。階段右で地下に下りて施術です。全身マッサージ2時間で100元でした。男女問わず、日本人客が多く、良い店だっただけに残念です。大連外国語大学の移転だけでなく、昨年秋の反日暴動、PM2.5に代表される環境汚染問題、食と水の不安、インフレ、さらに円安・・・。大連に長期駐在する日本人が減っていることを如実に表す、老舗「手足情」の閉店ですね。
追記(5月30日):「手足情」は人民路のシャングリラマンション向かいに移転したそうです。

同じ通り沿いで以前、漫画喫茶「散歩道」が入っていたところです。ここも日本人だらけだった店で、カツ丼、カレー、味噌汁、が絶品でした。新しい店はワインバーになるようで準備中でした。

旧「散歩道」は、ここから歩いて1分ほど離れた「独立街」に、コーヒー&軽食の店「歩行道」として生まれ変わったようです。

この「独立街」をのんびり歩きます。やっぱり「アカシア」!

信号機の上も満開の「アカシア」!

「国破れて山河あり」という言葉がありますが、大連の代名詞的存在の大学が消え、周辺の「老舗」も消え、この一帯は全く新しい時代を迎えようとしています。一方で、通りの「アカシア」だけは、以前と変わらぬ美しさを見せていますね。今日はローカルネタにもかかわらず、かなり長いエントリーになりましたのでこの辺で。
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さて、昨日は一転、天気も良く、近所を散歩しました。東北三省で唯一の外国語大学である「大連外国語学院」が旅順区に完全移転し、「延安路」の「南山キャンパス」はすっかり更地となりつつあります。今日はこの様子と周辺の様子をお伝え致します。

そして「大連外国語学院」は今年の3月、国家の教育部(=日本で言うと文部科学省)より、ようやく「大連外国語大学」に「昇格」が認められました。中国は日本とは違い、「学院」というのは「大学」の下に位置付けられます。この「昇格」は悲願だったでしょうね。3月22日付け大連地元紙『半島晨報』(A28ページ)の記事で、見出しは「大連外国語学院が大連外国語大学に改名となった」とあります。
中国の外国語大学といえば「北京外国語大学」と「上海外国語大学」が双璧で、共に「重点大学」でもあります。一方で「大連外国語学院」は「一般大学」、それも中堅ランクに過ぎず、前述の両校が「質」であるなら、こちらは「量」で勝負といった学校です。
今年度の卒業生数(日本語人材)も学部生が1584人、大学院生が67人を数え、在校生数(日本語人材)は5400人です。私自身の印象も、日本語学科の教員と学生は「質」という点で今一つの大学で、大連の一般市民の「評価」も低いですが、「量」という点では圧倒しており、通信教育生(中国語:自考)や社会人、各国留学生などにも広く門戸を開いています。この点の貢献度は非常に大きく、「中国で最も日本語熱が高く、日本理解がある町・大連」を作り上げ、現在進行させている最大の「功労者」だと思います。

「延安路」の「南山キャンパス」は、大連外国語「学院」時代として、その役目を終えようとしています。昨日の「正門」の様子です。

「廖承志(りょう・しょうし)」の揮毫(きごう)による「大連外国語学院」の「看板」は既に除去されています。廖承志ですが、大学入試で日本史を選択した方なら学んだ名前だと思います。1962年に高碕達之助との間で取り交わした覚書に基づく「LT貿易」を開始した、中国共産党史上最高の知日家と称される政治家です。

校門にあった様々な「プレート」も、既に取り外された跡が見て取れます。

唯一、まともに残されていた校舎です。中に入ってみると・・・

「国際培訓学院」の紹介パネルがありました。成人高等教育学院だそうです。人も居ました。

向かい側の校舎も解体が進んでいます。

レンガが散乱しています。

鉄筋も分別され、まとめられています。ちょうどこの先には池がありましたね。

道沿いに歩いてみます。

階段があった跡ですね。もう上には上がれません。

ここにも分別された鉄筋がまとめられています。所々にはまだ緑が残されています。この上には図書館がありましたね。

遠くを見れば、まだ解体中のビルが残っています。あそこは学内のホテルだったと思います。手前には机や椅子が散乱しているのが御確認いただけます。

これ以上は進めないので、一旦、正門を出て外から廻って行こうと思います。ということで再び正門です。旧・東本願寺前にあったバス停(27路・「南山」)が、正門のすぐ右隣であるここまで移動してきたのが御確認いただけます。この移動、普段このバス停を使っている身としては本当に迷惑です(笑)。

正門すぐ左隣のビルも解体中です。

道路沿いを歩きますが、キャンパス内の建物は皆、解体終了していますね。

右折して、留学生の「総本山」だった「大連外国語学院漢学院」に向かいます。坂を上がっていきます。カラオケ屋(青い看板)の右の白い建物は入居者募集の「空き物件」になっていますね。

「塀」から見える解体されたキャンパス内のビルです。地下があった建物のようですね。

先程の「国際培訓学院」の向かい側にある解体中の校舎が見えました。

「漢学院」へ向かう坂です。上がってきた道を振り返って撮りました。

坂の途中にあったパン屋さんです。ここでよく各国の留学生が食事やコーヒーブレイク、パソコンなどをしていました。既に閉店しており、店内は解体進行中でした。

「塀」から見えた解体中のキャンパス内のビルです。キャンパス内のホテルである「大連外国語学院賓館」の裏に当たりますね。

「大連外国語学院賓館」の入り口ですね。建物は解体中も、「看板」はまだそのままの状態ですね。

解体中のホテル「大連外国語学院賓館」です。

世界各国からの留学生が集まっていた「漢学院」入り口です。「国際漢語培訓中心」の字が確認できます。

この入り口からちょっと離れて、真向かいの小高い場所に移動して撮った現在の「漢学院」です。既に何も無く、更地になっていました。家から近かったし、一般人も利用できるので、ここにはよく御飯を食べに来ていました。

この小高い場所からホテル「大連外国語学院賓館」を臨みます。

やや角度を変えて撮ります。

坂の頂上です。大連気象台がある「気象街」との「交差点」です。ここの「屋台群」は健在でした。大学は無くなれど、周辺住民は健在ですからね。

この先をちょっと行くと「武昌街」にぶつかる長~い階段路があります。ここの2件も入居者募集の『空き物件』ですね。

長~い階段路の途中の風景です。昭和初期を思わせるかなり古い建物ばかりです。蛇足ながら、この「気象街」から「武昌街」の入り口(「解放路」とぶつかる場所)までの周囲一帯は、日本統治時代(満州国時代)、「逢坂町」という地名でした。この場所は当時の大連の「遊郭」(今風に言えばソープランド街)だった地域で、当時、日本人経営の遊郭が計55件、朝鮮人経営の遊郭が計15件あり、「嬢」の総数も800人超だったそうです。「嬢」を客に見せるために、「通り沿いには大きい窓のみ、玄関は裏手」という特異な建物がずらっと並ぶ通りも現存しており、異彩を放っています。

さて、話を戻します。場所も正門に戻ります。正門から「中山広場」方向に進みます。最初の交差点(「七七街」)ですね。交差点左側は以前、日本のコーヒーチェーン店「珈琲館」(中国語:「真鍋珈琲」)でした。今はインテリアの店になっています。右側の建物はレストランでしたが・・・。

内装を解体中でした。今度は何が出来るんでしょうか。

右折して、郵便局(緑色の看板)の右隣は「手足情」という有名なマッサージ店でした。私が大連に来る前からあった店で、15年ぐらいの老舗です。大連に長期駐在している人間なら知らない人はいない店だったと思います。

しかし閉店したようで、入居者募集の『空き物件』の紙が貼ってありました。

中を覗くと、当たり前ですが、何もありませんでした。階段上がってすぐ左で「足洗い」。階段右で地下に下りて施術です。全身マッサージ2時間で100元でした。男女問わず、日本人客が多く、良い店だっただけに残念です。大連外国語大学の移転だけでなく、昨年秋の反日暴動、PM2.5に代表される環境汚染問題、食と水の不安、インフレ、さらに円安・・・。大連に長期駐在する日本人が減っていることを如実に表す、老舗「手足情」の閉店ですね。
追記(5月30日):「手足情」は人民路のシャングリラマンション向かいに移転したそうです。

同じ通り沿いで以前、漫画喫茶「散歩道」が入っていたところです。ここも日本人だらけだった店で、カツ丼、カレー、味噌汁、が絶品でした。新しい店はワインバーになるようで準備中でした。

旧「散歩道」は、ここから歩いて1分ほど離れた「独立街」に、コーヒー&軽食の店「歩行道」として生まれ変わったようです。

この「独立街」をのんびり歩きます。やっぱり「アカシア」!

信号機の上も満開の「アカシア」!

「国破れて山河あり」という言葉がありますが、大連の代名詞的存在の大学が消え、周辺の「老舗」も消え、この一帯は全く新しい時代を迎えようとしています。一方で、通りの「アカシア」だけは、以前と変わらぬ美しさを見せていますね。今日はローカルネタにもかかわらず、かなり長いエントリーになりましたのでこの辺で。
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