祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

九要論と十六注

2014-11-01 07:14:38 | 理論―陰陽五行、名言集

九要論と十六注 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 2日(木)22時19分41秒 返信・引用


kさんへ 九要論も十六注も拳譜の重要な一部だと思います。「戴氏心意六合拳 技撃精要」は拳譜のすべてを解説した本ではなく、拳譜の拳理と練拳がどのような関係にあるかということを趣旨とした本として書かれたものです。九要論や九歌などまだまだ取り上げなければならないところはあるわけですが、それは次回以降ということでご了解ください。





岳飛と戴氏心意拳 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 2日(木)22時35分19秒 返信・引用


岳飛は伝説上の戴氏心意拳の始祖とされています。があくまでも伝説上ということであって、事実上は姫際可でしょう。大東流合気柔術の始祖が源氏の誰それといったのと同じようなことでしょう。
 九要論も伝統的な拳譜の一部ですから、岳飛が伝えた九要論という表現になっているわけです。九要論は岳飛が伝えたかどうかはたしかに疑わしいですね。私達練拳者にとって大切なのは、九要論の内容の意味するものであると思います。





言葉はついてくる 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 2日(木)23時07分43秒 返信・引用


霍先生の例を出していただいているように、理論や言葉ははじめは意味のないものですよね。
功が深まってくると、ああこういうことだったんだなあとか、わかってきますよね。その時初めて拳譜のありがたい言葉が自分のものになってくるというか、そういうことってよくあると思うんですよね。





Re: 岳飛と戴氏心意拳 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 3日(金)07時35分49秒 返信・引用


> No.432[元記事へ]

うさぎさんへ

> 岳飛は伝説上の戴氏心意拳の始祖とされています。があくまでも伝説上ということであって、事実上は姫際可でしょう。

「武術」で黄さんという民間の研究家の方も同じ見解を発表していますねぇ。
最近の研究ではこの考え方が主流なのでしょうか。

>  九要論も伝統的な拳譜の一部ですから、岳飛が伝えた九要論という表現になっているわけです。九要論は岳飛が伝えたかどうかはたしかに疑わしいですね。

霍先生もその辺のことが頭にあったのかもしれません。

>私達練拳者にとって大切なのは、九要論の内容の意味するものであると思います。

2013年 1月 1日(火)14時11分32秒に「霍先生の説くところによると「昔、戴氏心意拳では、全身全ての節(肩、肘、手首、足首、膝、股、丹田、胸、頭)に9つの拳法があったと言った。だから9×9で81の拳法があったことになる。しかし多くのものは失伝した。私は研究して(霍先生のところの)5膀7炮をもともとの理論に合うように増やして9膀9炮にした。」なのだそうです。」と投稿したことがありますが、ここの「もとの理論」は「九大要論」のことではないかと何となく思っていました。(霍先生に確認したわけではないのですが)







Re: 戴家拳における科学の有用性 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 3日(金)08時04分47秒 返信・引用 編集済


> No.430[元記事へ]

補足です(^_^;)。

>「ある現象を考える時、異なった視点からの多角的な解釈があればその現象をより深く理解できるので特定の視点に拘る必要はない」といった感じの主張をしたつもりでした。

上記の具体例については2013年 1月 5日(土)09時51分の
「実はその次に「頭が悪いなぁ!」と実感したのは2010年に開催されたうさぎさんの講習会に参加したときでした。この時はいつまでたっても背中に力が現れず、「年齢的に限界なのかなぁ」と思いながらの参加でした。「技撃精要」の63ページの元の図が掲載されているテキストで講習を受けたのですが、この図を見て「膝も回り、更に踵も回るのだ」と気づきました。
これも少し考えれば当たり前なのですが、「体液が下腹部に流れ、下腹部の一部が回転するように動く」のであれば下腹部に近い上下の筋肉から力が入ってくるハズですが、やはり早く手法が使えるようになりたいと言う思いが目を曇らせていたのでしょう。太ももに現れた力が膝方向に伸びてゆき、やがて膝に節が現れる(膝小僧が締まる)ということには考えが及びませんでした。膝小僧はおろか、踵の関節まで回転させなくては(締めなくては)ならないのだ と判った時うさぎさんに「踵まで回転させるのですかねぇ」と暗く問いかけてしまいました(^_^;)。」
を参考にしてください。

「バカ」でも視点を変えると気づきがあるということです。

この気づきのおかげで
「それでもこの講習会の後、再び太ももにも意識が向くようになり、より大きく力が入るようになるにつれて、力の入る範囲も伸びてゆくことが感じられ、これが練拳を続けるときの励みになりました。
結果として二年くらい前に背にも力が入り、この後少しして(以前投稿したように肌の)保湿性が増し、その後暫くして膝小僧に力が届くようになり(膝小僧が締まるようになり)、その後暫くして土踏まずが上がるようになり、最近本当に時々ですが、踵の関節の一部(足の外側の出っ張った部分)も締まるようになりました。
腰掛けた状態で足の指に力を入れて土踏まずが上がる時、踵の関節に手を当てて締まり方を確認しましたが、この締まり方は膝関節が締まることで生じる力で催される踵関節の締まり方とは感覚的に異なっているような気がしています。」
となり、今は何とか踵の関節も回る(締められる)ようになりました(^_^;)。

拳譜の内容は「判らない箇所」も多いのですが、「判る箇所」については、(私的解釈ですが)「本当にそうだなぁ!」という「感じ」で納得できることも多いです。

まだ、具体的な投稿については、2013年 4月 5日(金)20時27分の「戴氏心意拳の風景(その2)」の「赤子の戯れ」だけなのですが、機会があれば、この内容についてももう少し詳しく投稿し、他の拳譜の記述についても自分の練拳体験と他の視点からの解釈を投稿したいと思います。

「赤子の戯れ」はフェルデンクライス(大脳生理学の運動感覚学習)の視点からの投稿ですが、他の投稿もフェルデンクライスか間質液の視点からの投稿になると思います。

まぁ、バカによる「複眼的視点による気づき」として気楽に読んでください。







Re: 理論が生まれる(その2) 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 3日(金)21時04分42秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

> 私がよく感じることなのですが、中国人の老師からは、拳譜の中の表現があふれる如く伝えられるのに、日本人老師は、学生に伝えるときに、そのような表現はほとんど出てこず、自分なりの解釈や喩えを使って教える事を見て私は残念だなあと思ってしまうんです。

私は中国武術の講習会を受けことはほとんどないのですが、安田先生の太極拳の講習会には一度だけ参加させて頂いたことがあります。
この時は確かに西洋科学的な説明が多かった様な気がしました。
正確さを若干犠牲にして、理解しやすさを優先したのかなぁ とも思ったのですが、後日雑誌で「太極拳の動きはすべて力学的に説明できる」と発言されていたので特に正確さを犠牲にしたわけではなかったようです。

ただ安田先生のように極端に実力のある先生はやはり例外として考えるべきでしょう。

>  堅物な考え方かもしれませんが、日本人が解釈した物を伝えるというのは日本化中国武術であるのではないかと思うんです。

確かにそういった場合が多いのではないでしょうか。

ちなみに私が参加している会を主催されているM先生は中国式の説明方法を採用されることが多いようです。
やはり、実力があるということなのでしょう。

謙虚さが洋服を着ている様なM先生ですが、内から溢れてくる自信は隠しようもなく、NHKの「驚異の中国功夫」については「武術的に意味があるのかなぁ」と漏らしているのを聞いたことがあります。

「近代市街戦においてならば江戸庶民に恐れられた闇一族をも葬り去った伊賀忍法の秘術を遥かに凌駕するM先生の驚異の中国功夫」については明日にでも時間があれば投稿したいと思います。(いつもにもまして判り難い文章ですが、何となくスゴいなぁ と感じて頂ければ宜しいかと思います)






M老師 ナナフシ 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 4日(土)08時58分38秒 返信・引用 編集済


きもいタイトルですが「丹田功の風景」と違って内容には自身があります。

江戸時代のことです。伊賀の村雨一族の霧丸と闇一族の忍者が秘術をつくして闘っておりました。霧丸の秘術に敗れた闇一族の忍者は、最後の力を振り絞って仲間へのメッセージを残します。土の上に残されたそのメッセージは「霧丸 ナナフシ」。

ナナフシとはその擬態能力で木の一部となることが出来る昆虫なのです。

霧丸の秘術はナナフシのように木に擬態化する術でして、木の一部となった霧丸の姿を見失った闇一族の忍者は霧丸が逃げたと勘違いして「向こうを探してみようv(^_^)v。」と振り返ったところを後ろから刺されてしまった というわけです。(出典 伊賀の影丸 闇一族の巻 より)

これを読んだ時の私の感想は「緑が少ない市街地では使いにくいのではないか」というものでしたが、浅い理解でしかありませんでした。ナナフシの秘術の本質は「擬態化」であり「擬態の対象」は状況に応じて変わってくるのです。

Sさんからのメールに添付されていた中国でのM老師を撮影したビデオには「中国人と同化して人ごみにまぎれこんでいるM老師を見つけるのは難しい」とのコメントがつけられておりました。

ビデオを観るとその功夫は同化などというというレベルではなく「現代の市街戦でアメリカの精鋭特殊部隊一個師団を撲滅しておつりのくるナナフシの秘術」の域に達しておりました。「人を殺しておつりがくる」中国歴代の武術家でもこの域に達した人は少数なのではないでしょうか。






目指すもの 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 4日(土)22時24分23秒 返信・引用


九要論については、インターネット上にも探せば出てくると思いますので、調べて見てください。
安田さんは、多分私とは方法論も違うし、私には、安田さんのような才能はありません。私がやっていることが正統なものだとは、いいません。私は、私のような才能もない、体力もないような人間が、コツコツとやって行けば何とか武術家になって行くことができるかなあっていうところなんです。
M氏は、私が評するのは僭越ですが、非常に人格が高く、中国武術に対して高い見識と功をお持ちの方です。私もM氏のような方のようになれたらと思っています。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 理論化するということ | トップ | ライフワークとしての武術 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

理論―陰陽五行、名言集」カテゴリの最新記事