前回あげた旅人の讃酒歌を四つ並べて、その内容を要約するとこんな感じになる。
ああでもない、こうでもないと思い悩んでいても始まらない。濁り酒ではあるが、まあ一杯やろう。分かったふうな顔しているよりは、酔っぱらって声を上げて泣いてみるのもよい。酒を飲んで憂さ晴らしをする以上に価値のあるものなんて世の中にありはしない。夜光の玉だろうが何だろうが、ただの石ではないか。生きている間くらいはせめて酒でも飲んで楽しくやろう。死んでしまえばそれだけのことなのだよ。
旅人本人が実際に酒好きであったかどうかは分かりようがないし、宴席の座興に、世の中の酒飲みなんて大方こんなところだよと皮肉っただけのことかもしれない。しかし、十三首一気に興に乗って詠み切っている様子から、他人事をスケッチしたとは到底思えない。やはり、酔い泣きをしている、あるいはしたいのは旅人本人であろう。
十三首の中、他にも二首に酔い泣きが詠われており、旅人にとって、酒は酔い泣きするものであったらしい。確かに酔ってしまえば、感情の抑制が利かない以上、泣くのも笑うのも勝手、そのための酒ということになる。しかし、落語に出てくるような泣き上戸というのに、経験上あまりお目にかかったことがない。旅人の頃や落語の世界と比べると、人目を気にして泣くに泣けない不自由といったものが、今の時代はそれほどないのかもしれない。
最初にただの酒ではなく、いきなり濁り酒を出してくるあたり、やはり旅人は分かっている。酔い泣きは濁り酒でなくてはならないのである。
先に触れたように郷里は信州東部、「小諸なる古城のほとり」の小諸の城下も徒歩の圏内である。この藤村の詩は、このあたりでは誰でも知っているが三連目はこうである。
暮れ行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
藤村には別にもう一つ「千曲川旅情の歌」があり、こっちの方は一連目がこうなっている。
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく
明日をのみ思ひわづらふ
この藤村の場合もやはり濁り酒でなくてはならない。濁り酒を「濁れる飲みて」である。美酒であっては歌にならない。人はなぜ酒を飲むのであろうか。酒によってしか向き合えない自分の姿というものがある。二十代の藤村と六十過ぎの旅人では、それが大分趣の異なったものであったにしても、やはり濁り酒を傾けて、内なる対話を試みているところは同じであり、そこには酒に託して何事か思想と呼べるものが共通して語られている。
旅人は、養老4年(720)隼人の反乱を討つべく征途につき、後に太宰府の長官、師(そち)として晩年を九州で過ごしている。太宰師は重責であり、旅人はそれを果たして帰京後大納言に栄進している。しかし、帰京の翌年、結局中央の政治においては何ら出番のないまま生涯を終えている。旅人が九州に赴いた、その年鎌足の子、不比等が亡くなり、藤原氏は次の代に移り、いよいよ律令の名の下に藤原氏専権を露わにしており、不比等と同世代の旅人は、この横暴を遠くから座視するほかなかったのである。この間、藤原一族は邪魔な左大臣長屋王を自殺に追い込んだりもしている。
旅人が賛酒歌を詠んだのは、旅人には配所にも近い、この太宰府においてである。これが、旅人にとって酔い泣きするほかない、泣くに泣けないわが身の現実ではなかったのか。
この時代、律令制の進展と共に、大衆の貧窮と抑圧は著しく、それは藤原氏専権への風当たりなって、社会には新たな変化が求められるている。民間で行基が活躍し、国家鎮護に代わる大衆救済のための仏教思想が、熱狂的に受け入れられているのが、この時代である。相聞歌のオンパレードのような万葉集ではあるが、そこに政治的な葛藤や、社会の矛盾が全く詠われていないとしたら、その方が却っておかしいのである。讃酒歌には確かにその芽のようなものがある。
憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ(337)
おくららは,いまはまからむ,こなくらむ,それそのははも,わをまつらむぞ
旅人の讃酒歌の一つ前に、山上憶良の「罷宴歌」が置かれている。憶良は旅人の歌仲間で、晩年は太宰府管下の筑前守として九州で過ごし、旅人の二年後に亡くなっている。
分かりやすい歌である。子供が泣いて待っているから、その母親、つまりかみさんも私のことを待っているから、宴会の途中ではあるけど失礼するという。今時のサラリーマンであっても、こんなことを言ったらおいおいということになりはしないか。やはりここでも、当たり前のことを当たり前に詠むというのは結構難しいのである。(つづく)