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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

(6) 濁り酒

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 前回あげた旅人の讃酒歌を四つ並べて、その内容を要約するとこんな感じになる。

 ああでもない、こうでもないと思い悩んでいても始まらない。濁り酒ではあるが、まあ一杯やろう。分かったふうな顔しているよりは、酔っぱらって声を上げて泣いてみるのもよい。酒を飲んで憂さ晴らしをする以上に価値のあるものなんて世の中にありはしない。夜光の玉だろうが何だろうが、ただの石ではないか。生きている間くらいはせめて酒でも飲んで楽しくやろう。死んでしまえばそれだけのことなのだよ。

 旅人本人が実際に酒好きであったかどうかは分かりようがないし、宴席の座興に、世の中の酒飲みなんて大方こんなところだよと皮肉っただけのことかもしれない。しかし、十三首一気に興に乗って詠み切っている様子から、他人事をスケッチしたとは到底思えない。やはり、酔い泣きをしている、あるいはしたいのは旅人本人であろう。

 十三首の中、他にも二首に酔い泣きが詠われており、旅人にとって、酒は酔い泣きするものであったらしい。確かに酔ってしまえば、感情の抑制が利かない以上、泣くのも笑うのも勝手、そのための酒ということになる。しかし、落語に出てくるような泣き上戸というのに、経験上あまりお目にかかったことがない。旅人の頃や落語の世界と比べると、人目を気にして泣くに泣けない不自由といったものが、今の時代はそれほどないのかもしれない。

 最初にただの酒ではなく、いきなり濁り酒を出してくるあたり、やはり旅人は分かっている。酔い泣きは濁り酒でなくてはならないのである。

 先に触れたように郷里は信州東部、「小諸なる古城のほとり」の小諸の城下も徒歩の圏内である。この藤村の詩は、このあたりでは誰でも知っているが三連目はこうである。

 暮れ行けば浅間も見えず
 歌哀し佐久の草笛
 千曲川いざよふ波の
 岸近き宿にのぼりつ
 濁り酒濁れる飲みて
 草枕しばし慰む

 藤村には別にもう一つ「千曲川旅情の歌」があり、こっちの方は一連目がこうなっている。

 昨日またかくてありけり
 今日もまたかくてありなむ
 この命なにをあくせく
 明日をのみ思ひわづらふ

 この藤村の場合もやはり濁り酒でなくてはならない。濁り酒を「濁れる飲みて」である。美酒であっては歌にならない。人はなぜ酒を飲むのであろうか。酒によってしか向き合えない自分の姿というものがある。二十代の藤村と六十過ぎの旅人では、それが大分趣の異なったものであったにしても、やはり濁り酒を傾けて、内なる対話を試みているところは同じであり、そこには酒に託して何事か思想と呼べるものが共通して語られている。

 旅人は、養老4年(720)隼人の反乱を討つべく征途につき、後に太宰府の長官、師(そち)として晩年を九州で過ごしている。太宰師は重責であり、旅人はそれを果たして帰京後大納言に栄進している。しかし、帰京の翌年、結局中央の政治においては何ら出番のないまま生涯を終えている。旅人が九州に赴いた、その年鎌足の子、不比等が亡くなり、藤原氏は次の代に移り、いよいよ律令の名の下に藤原氏専権を露わにしており、不比等と同世代の旅人は、この横暴を遠くから座視するほかなかったのである。この間、藤原一族は邪魔な左大臣長屋王を自殺に追い込んだりもしている。

 旅人が賛酒歌を詠んだのは、旅人には配所にも近い、この太宰府においてである。これが、旅人にとって酔い泣きするほかない、泣くに泣けないわが身の現実ではなかったのか。

 この時代、律令制の進展と共に、大衆の貧窮と抑圧は著しく、それは藤原氏専権への風当たりなって、社会には新たな変化が求められるている。民間で行基が活躍し、国家鎮護に代わる大衆救済のための仏教思想が、熱狂的に受け入れられているのが、この時代である。相聞歌のオンパレードのような万葉集ではあるが、そこに政治的な葛藤や、社会の矛盾が全く詠われていないとしたら、その方が却っておかしいのである。讃酒歌には確かにその芽のようなものがある。

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ(337)
おくららは,いまはまからむ,こなくらむ,それそのははも,わをまつらむぞ

 旅人の讃酒歌の一つ前に、山上憶良の「罷宴歌」が置かれている。憶良は旅人の歌仲間で、晩年は太宰府管下の筑前守として九州で過ごし、旅人の二年後に亡くなっている。

 分かりやすい歌である。子供が泣いて待っているから、その母親、つまりかみさんも私のことを待っているから、宴会の途中ではあるけど失礼するという。今時のサラリーマンであっても、こんなことを言ったらおいおいということになりはしないか。やはりここでも、当たり前のことを当たり前に詠むというのは結構難しいのである。(つづく)

(5) 酔ひ泣き

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 万葉集20巻の巻末4巻は家持の歌日記で、前回あげた「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば」は、天平勝宝5年(753)2月25日、今の暦だと4月3日に詠まれている。家持36歳である。

 春はどことなくもの悲しい。下手な解説は必要ないかもしれないが、4月初め、春本番、心が浮き立つ一方で、どこか足が地につかない頼りなさ、不安、孤独、愁いが時として去来し、どことなくやるせないのである。一過性のもので深刻に気に病むほどのものでもなく、すぐ忘れるだけのことで、急に陽気がよくなって、心身共に少々戸惑っているだけのことかもしれない。

 「春愁」は俳句の季語で、近世にはないが、近代になって今ではよく詠まれている。ついでながら秋の愁いは「秋思」で、こっちの方は春より少しだけ深くなる。参考までに二三例をあげてみる。
きぬかつぎむきつゝ春のうれひかな  久保田万太郎
春愁やくらりと海月くつがへる    加藤楸邨
春愁やうす日さしくるあかりとり   川上梨屋
春愁やこの身このまま旅ごころ    久保より江
ジッパーを上げて春愁ひとまず完   櫂木知子 
 いづれもそれほどよい句というわけでもないが、今の時代、春愁はこのように詠まれている。

 この時期、家持には何か特別思い悩む理由があったというだけのことかもしれないのだが、その歌を凝縮すると、そまま近代の俳句になってしまいそうなところがおもしろい。数だけは多い家持の歌の中で、この歌だけが妙に突出し、他に例がないのである。宴席や相聞の贈答で、どうということのない歌ばかり作っていたのが家持であり、百人一首に入っている家持の「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける」にしても、万葉集にはなく、家持のものではないらしい。名高い割には家持はあまり理解されてこなかったことになる。

 この歌に限って、家持は「悽惆之意非歌難撥耳(痛み悲しむ心は歌でなければ払いのけることができない)」と歌の動機を解説している。これは今の時代なら、ごくまっとうな詠み方であり、そもそも歌とはそのようなもので、歌は自分のために詠むのであり、それ以外の動機などなくてもよい。しかし、俳句にしても芭蕉や蕪村の時代、社交の手段として発達したのであり、後世の見知らぬ誰かに鑑賞してもらうために詠むわけもなく、詠まれたその場面で取り敢えず目的は達せられている。家持の時代であるならましてやということになる。

 時代がどうであれ、文字を知り読み書きに長けてくると、自ずから多くを知り、多くを考え、多くを感じるようになるし、儀礼であれ社交であれ、歌や句に慣れ親しんでいる中、興の赴くまま思いがけない自分に出会ってしまったり、思わぬ作品を生み出してしまったりすることはありえるのである。だだそれがどれだけ自覚的であるかが、家持と今の時代を分けている。上の家持の歌が理解されるようになったのは近代になってからのことで、そんな歌を家持は何かのきっかけで作ってしまったのである。実際にこの歌を、百人一首の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寢む」(柿本人麻呂)なんかと比べてみればよい。それがどうしたと言ってしまっては、どんな歌も句も成り立ちようがないのだが、違いは歴然としており、これなどやはりひとり寝たからそれでどうしたとしか言いようがない。

我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(4291)
わがやどの,いささむらたけ,ふくかぜの,おとのかそけき,このゆふへかも

 家持はこの二日前にもこんな歌を詠んでいる。この時期、家持には感傷的にならざるをえない理由が何かあったのであろうか。ともあれ万葉集のひとつの可能性、万葉集から今の時代に何が引き継がれているかを示していることは確かである。

 家持の父が旅人である。生涯武門大伴の氏に拘り続けるところは二人に違いはない。万葉集の可能性といったことに関連して旅人を見てみたい。

験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし(338)
しるしなき,ものをおもはずは,ひとつきの,にごれるさけを,のむべくあるらし

賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし(341)
さかしみと,ものいふよりは,さけのみて,ゑひなきするし,まさりたるらし

夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るにあにしかめやも(346)
よるひかる,たまといふとも,さけのみて,こころをやるに,あにしかめやも

生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(349)
いけるもの,つひにもしぬる,ものにあれば,このよなるまは,たのしくをあらな

 これもまた興に乗って一気に詠んだものであろう。「讃酒歌十三首」の中より抜き出してみた。酒好きの旅人が宴席の徒然に詠んだととれないこともない。「酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」なんてことまで言っている。しかし、猿にはあらぬ、人はなぜ酒を飲むのであろうか。この歌の分かりやすさを、酒の好きな奴はいつの時代にもいるさで済ませてしまってよいものか。当たり前のことを詠むというのは結構難しいのである。(つづく)

(4) うらうらに

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 手元にある万葉集は小学館の日本古典文学全集の4巻本である。万葉仮名の原文が添えられており参考になるが、大き過ぎて重くて扱いづらい。気軽にあっちこっち拾い読みする時は専ら小型の新潮古典集成の5巻本を使っている。最近ネットを通じた買ったが、読まれた形跡のない新刊のままの5冊が2200円、30年前の出版時の頒価は1冊1800円、超買い得ということになるが、万葉集は意外に売れない、あまり人気がないのかもしれない。

 小学館の4巻本も同時期の出版だが、この月報に映画監督の篠田正浩が自身の「万葉体験」を寄せている。岩下志麻のだんなで、1931年生まれ、終戦時15歳、典型的な皇国少年の世代であり、和歌には強い嫌悪感があるとして、前回触れた家持の海行かばを引用している。彼らは、「国のために命を捨てる情念を培うため」に、万葉集を聖典として日本の古典と向き合ったのである。「壬申の乱の存在すら知らなかった」(教えられていなかった)篠田が、古代史に向き合い、万葉集を読むようになったのは、ここ数年と書いている。ということは30年前のことだから、皇国少年の、言霊となった戦中教育の呪縛が解かれるのは、40歳を過ぎてからということになる。篠田は卑弥呼を映画に撮っている。1974年の作品であり、主演はもちろん極妻の岩下志麻である。

 戦中の教育に関連して、先の元下級兵士の手記には、こんな場面も描かれていたので付け加えておきたい。今まさに沈もうとしている戦艦の上で、二振り軍刀を背にして右往左往している少年兵がいる。17歳くらいと書いていた。上官付の従兵であり、楽して出世が早いから希望は多く成績のよい者が当てられる。まず身軽になるべき非常時になぜと声を掛けると、命令だから最後まで軍刀は守るという。何を馬鹿なと思ったと書いていた。当然のことながら、この場合は彼がそうしたように、山育ちで泳げないのなら褌であれ何であれ、使えるものはすべて使いきって、なりふり構わず生き延びるのが正解であり、その知恵を教えるのが教育である。彼には教えられるまでもなく、本来その知恵があったというなら、生存の根幹に関わる、それを歪めるところまで教育など不用だというまでのことである。

 それにしても、白村江の海戦ですら、唐の巨大軍艦に対しては弓矢や刀ではまるで刃が立たないというのに、最新鋭の軍艦と軍刀の取り合わせはどこかちぐはぐで、近代戦に古典の言霊まで動員せずにはおけない、それとどこかで通じている。国中に氾濫した「撃ちてし止まむ」などは万葉集より更に古い古代歌謡の久米歌から取られているし、この手のものが多すぎるのである。

 何かというとすぐに刀を振り回す時代劇は、今の時代が娯楽として生んだ江戸時代の虚像でしかなく、この時代、武士たちは既に幕藩体制を支える膨大な官僚群へと脱皮を遂げ、官吏としての有能を競っていたのであり、刀を命に値する魂にしたりはしていない。その準備がなくては維新後の近代官僚国家は成り立ちようがないのである。

 実のところ、家持の時代もこの点は同じである。大君を軸とした部族連合の時代は終わり、緊迫した国際政治に後を押されて、大陸に倣って律令による国の統一と中央集権が、おおわらわで進められる中で、文字を読み書き、記録を残すことの出来る、新たな大量の官僚群が必要とされたのであり、当初その任に当てられたのは渡来系の人々であったことは間違いない。それを引き継ぎ、他国の文字を自在に操り、自国の言葉を記録し、行政を担う一方で、口承されてきた歌や歴史を記録に留める、新たな職掌とそのための人材が望まれていたのであり、そのためには古い氏族社会の枠に拘らない、それを乗り越える意識改革も必要とされていたはずである。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(4516) 
あらたしき,としのはじめの,はつはるの,けふふるゆきの,いやしけよごと

 万葉集は、よいことが今日の雪のようにどこまでも続いて欲しいという、将来に希望を託したかのような、この家持の歌で終わっている。そこには当然大伴の一族の繁栄も含まれているいたのであろうが、家持の死後殯から引き出された、その屍は鞭打たれ、一族の多くが斬罪、流刑に処せられることになる。ここでも皇位の継承を巡るクーデターが事の発端である。

剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(4467)
つるぎたち,いよよとぐべし,いにしへゆ,さやけくおひて,きにしそのなぞ

 題辞は「喩族歌」、武門としての誇りを持つべく同族を諭した長歌を返したものである。海行かばの詔書にも感動した家持は、どこまでも武門にこだわりがあり、武にも文にも徹しきれず、どこか中途半端である。

 これは、早くから職業的な官僚層を蓄積できた、大陸の律令国家とは対照的な、社会の未成熟によるものであり、時代の限界であり、家持の責任ではないのだが、上の万葉集巻末の歌を最後に、家持の晩年二十数年間については、その歌が一首も伝えられていないことと何か関連があるのかもしれない。

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(4292)   うらうらに,てれるはるひに,ひばりあがり,こころかなしも,ひとりしおもへば

 家持の歌で好きなものを一つだけあげてみた。この孤独が家持本来の資質ではなかろうか。(つづく)

(3) 海行かば

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

韓衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして(4401)

 前回紹介した、同郷の先輩が詠んだ防人歌である。

信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(3399)
しなぬぢは,いまのはりみち,かりばねに,あしふましなむ,くつはけわがせ

 防人は難波の港に集結し、船で最前線の北九州に向かう。信濃からは遠い道程であり、「今の墾り道」急拵いの険しい陸路が終われば、慣れぬ船旅、さぞや船酔いに悩まされたことであろう。
 どういう基準で誰が防人に選ばれたものか。多分海など見たこともない山国育ちの、上の先輩、やもめの防人「小縣郡他田舎人大嶋」も、体力を見込まれ、軍船の漕ぎ手として期待されたのであろうか。

 私の父親も応召し、海軍に配属され、佐世保で訓練を受けている。海など見たこともなければ、泳ぎなど身につける機会があるはずもない、山国しか知らない、忍耐強さと身体強健だけが取り柄の農家出である。それでも海軍、本人はそれを自慢にしてはいたが。

 白村江の海を真っ赤に染めた海戦の際、既に東国からも多くが徴用されている。泳ぎもしらない農民兵が海で戦ったのである。 

 先に紹介したNHKスペシャルのCGがよく出来ていて、白村江の海戦の場面で、万葉集を読んでいる最中でもあり、「海行かば」をつい思い浮かべてしまった。塾の講師をしていた頃、何かの教材で「捧げ銃(つつ)」を「ささげじゅう」と読んで、戦中世代の同僚に笑われたくらいだから、実際に歌ったことなどあるはずもないのだが、それでも話としては十分伝えられているし、メロディは一度聞いたら忘れられないよい曲である。 

 万葉集巻末の4巻は大伴家持の歌日記であり、全巻を通じても1割は家持の歌が占めており、家持が万葉集を代表する歌人であることは疑いないのだが、その割には家持の歌に限ってあまり印象に残らない。「海行かば」の歌詞はその家持の長歌から取られている。

大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」と言立て 大夫の 清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は(4094)
おほともの,とほつかむおやの,そのなをば,おほくめぬしと,おひもちて,つかへしつかさ,(うみゆかば,みづくかばね,やまゆかば,くさむすかばね,おほきみの,へにこそしなめ,かへりみは,せじ)とことだて,ますらをの,きよきそのなを,いにしへよ,いまのをつづに,ながさへる,おやのこどもぞ,おほともと,さへきのうぢは

 長編の歌の一部を抜き出してみたが、「」の中が「海行かば」の歌詞にあたる。長歌の題辞は「賀陸奥國出金詔書歌一首」とある。749年、越中の国守に任ぜられ都への帰参が叶わず、鬱々とした毎日を過ごしていた家持の元に、久々に朗報がもたらされる。東大寺の大仏の鍍金が不足し開眼供養が危惧されている最中、思いもかけず陸奥に金鉱が見つかり、それを喜んだ聖武天皇が、大伴等の臣下の忠誠を再認識して、その家柄を称える詔書を発したのである。感激した家持が、長歌に詔書の言葉がそのまま引用したのが、上の「」の部分であり、元からあった武門の忠誠を表す慣用の修辞である。

 言葉が独自に生命を持ってしまうことを言霊(ことだま)というが、時に現実を鼓舞する言葉が、実際に言霊となって、そのまま言葉以上の現実を生んでしまうこともある。不幸な場合は悪夢のような現実ということになる。

 歌詞は現代語に言い直すまでもないが、「海を行くなら、水に漬かる屍ともならう。山を行くなら、草の生える屍ともならう。天皇の下に、この命を投げ出して悔いはない。決して振り返ったりはしない」ということになる。詔書の方では、最後は「長閑には死なじ」(『続日本紀』)になっている。

 信時潔の作曲で、昭和12年に国民精神強化週間のテーマ曲として作られ、国民歌謡とされ、昭和18年には会合の際には必ず歌うよう指示されている。戦局が悪化するにつれラジオから頻繁に流され、戦意高揚というよりは、歌詞そのままの悲壮感だけが際立ち、挽歌、弔歌の色合いを濃くしていくことになる。日米開戦の日にも流され、「君が代」とはセットであるが、「海行かば」の方が曲想は豊かで歌い易すかったのではないか。

 何年か前、日経の文化欄で読んだ記事が忘れられない。昭和19年、レイテ沖に沈んだ戦艦武蔵の元下級兵士の老人が手記を寄せていた。一面重油の海で、東北の山育ちの農民兵は、自分の褌で丸太に身体を括り、辛うじて生還を果たし、兵役の数年を除き、六十年間を農村に生きたのである。一本の丸太に三十人がすがりついている。全員が必死に足を動かし続けないと、丸太ごと全員が沈んでしまう。大声で歌い、声を掛け合い、眠気と戦い、気力を振り絞る。それでも戦友が次々と力尽きて行く。しかし、落伍者が出るほど丸太は浮力を増し、残された者の生存の確率は上がるのである。励まし合いながらも、脱落する者が出る度に、ほっとする自分の醜さが心の傷となって残ったと、そのように書いていた。
 二千数百の武蔵の乗員の中、最終的な帰還者は数百に満たない。死と向き合い、海に漂い、歌い続けたのが「君が代」であり、「海行かば」であったという。「海行かば」をいま歌う者はなく、忘れられたままである。それでよいのだと思う。(つづく)

(2) 手離れ惜しみ

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 万葉集の実年代は、天智天皇が即位前に政務に就く、その称制662年から壬申の乱を経てほぼ百年間、いわゆる万葉の世紀である。その後は暫く詩文全盛の国風暗黒時代が続くことになる。
 この百年の間に、大陸の律令が導入され、氏族制の部族連合国家は、あっという間に天皇制の神権統一王朝に大きく様変わりする。その変革のエネルギーの巨大さと変化の深刻さは、明治維新に並ぶものと考えてよい。
 維新後百年の変化の余波の中に漂っている、今の時代を透かして振り返ってみると、この万葉の世紀は意外と分かりやすい気がする。

 先週土曜NHKスペシャルで飛鳥の最近の発掘成果を紹介していた。古代律令制国家の成立は、645年の大化の改新に始まる。しかし、そこで悪役として登場し、後の天智天皇、中大兄皇子に首をはねられる蘇我入鹿は、果たして伝えるれる様な逆賊であり、改革に逆らう存在であったのか。飛鳥宮の周囲に配置された蘇我一族の館は、発掘の結果からは砦を兼ねた武器庫や兵舎が中心であり、伝えられるような臣下の分をわきまえない豪邸などではありえないとしている。
 ありそうな話である。このあたりの日本書紀の記述は、中大兄皇子の協力者、鎌足の後を承けた藤原一族に都合よく潤色されていると見るのが正しい。中大兄皇子と鎌足が蹴鞠を通じて知り合うなどは話が出来過ぎている。
 この古代史最大の事件も、その実態は、クーデターといったものが例外なくそうであるように、後に潤色を必要とするようなごく陰湿な権力闘争と見るべきであろう。
 改革という点では事実は逆であろう。イナメ(稲目)、ウマコ(馬子)、エミシ(蝦夷)、そしてイルカ(入鹿)へと連なる、蘇我の一族は多分渡来系であり、彼らは残された同胞を通じて大陸の事情、東アジアの情勢は知悉しており、急速に版図を広げる大唐帝国の脅威を皮膚で感じ取っていたはずである。
 蘇我を滅ぼし、国内政治の主導権を握った中大兄皇子らの方はといえば、国際政治に正面から向き合うのは、663年、白村江で完膚無きまで唐の海軍に叩きのめされるのを待つほかなかったのである。

 最近のCGはよくできている。上の番組の中で白村江の海戦をCGで再現していた。唐の軍艦は想像を超えた巨大さで、装備が半端ではない。全体を獣皮で覆い、火を射掛けられても耐えられるし、舷側には撥ね釣瓶を応用したような、重量物を一気に落下させ寄せ手の小舟を木っ端微塵に破壊する装置をいくつも用意している。射程の長い投石機も何基もそろえている。
 後の和冦とそれほど変わるところのない、弓矢ばかりの天皇の百済救援の遠征軍は、たちまち400艘を海の藻屑とし、海上を真っ赤に染めて、ほうほうの体で本国に逃げ帰ったのである。
 こうして百済の、数年後には高句麗の亡国を目のあたりにして、中央集権の強化と天皇の神権化が一気に加速し、伝統的な氏族社会はここに大きく変貌してゆくことになる。その画期が天智から天武に引き継がれる壬申の乱であることはいうまでもない。
 また、防人が制度化され、北九州や瀬戸内に配備され海防が強化されるのはこれ以降であり、東国の民が防人として西に下る一方で、国を失った百済や高句麗の遺民が続々と東国にも移り住み、それが地方の社会に大きな活力を与えることになる。

 今回は防人歌を少しだけ。

防人に立ちし朝明のかな門出に手離れ惜しみ泣きし子らはも(3569)
さきもりに,たちしあさけの,かなとでに,たばなれをしみ,なきしこらはも

 万葉集だからといって何でもかんでも相聞に絡めて読むこともなく、「子」は文字通り我が子であってもかまわないのでは。

韓衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして(4401)
からころむ,すそにとりつき,なくこらを,おきてぞきのや,おもなしにして

 この場合は間違いなく我が子である。それにしてもどういう家庭の事情であろうか。母はどうした? 詠んだのは「小県の郡」の、防人の階級序列では最上位の国造丁(以下、助丁・主帳丁・火長・一般兵士)、小県は信濃東部の上田辺、郷里の遠い先輩ということになる。

防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(4425)
さきもりに,ゆくはたがせと,とふひとを,みるがともしさ,ものもひもせず

 今度はどこそこの誰々などと噂し合っているのを偶然当事者が聞いてしまったのであろう。人の気も知らないで、他人事のように。とはいうもののその当人でさえ、昨日までは我が身に降りかかってくるとは思っていなかったのかもしれない。

 それにしても時空千年を越えて、こんな率直な感情、思いが今に伝えられるというのは奇跡に近い。翻って、近い過去、あの時代、これほどに率直に自分を表すことができたのであろうか。(つづく)

(1) 多摩の横山

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 昨年末あたりから時々万葉集を拾い読みしている。万葉集に関連した日々の雑感をとりとめもなく綴ってみたい。
 何故か行く先々で万葉集に縁がある。長く住んでいた市川市の、川を挟んだ隣の町名が真間で、京成線に乗っていると、子供達が「真間駅の次はどこ?」「パパ」なんてやっていた。二人に思いを寄せられ決めかねて身を投じた、あの「真間の手児名」の真間である。

葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒く波立つらしも (3349)
かづしかの,ままのうらみを,こぐふねの,ふなびとさわく,なみたつらしも

葛飾の真間の手児名をまことかも我れに寄すとふ真間の手児名を(3384)
かづしかの,ままのてごなを,まことかも,われによすとふ,ままのてごなを
足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ (3387)
あのおとせず,ゆかむこまもが,かづしかの,ままのつぎはし,やまずかよはむ
 真間の町内には手児名霊堂があり、継橋という名の橋もある。

 数年前八王子市に越してきて、万葉通りや万葉公園があるので行ってみると、近くの小高い山の上に歌碑がある。

赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ (4417)
あかごまを,やまのにはかし,とりかにて,たまのよこやま,かしゆかやらむ

 これを詠んだのは「豊嶋郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遅部黒女」、都内豊島区辺の防人の妻、距離的には大分離れているが、八王子のこの辺りの多摩の丘陵(横山)を越えて、武蔵から相模へ抜けていったのであろう。郊外の老人ホームの庭にもある。

妹をこそ相見に来しか眉引きの横山辺ろの獣なす思へる(3531)
いもをこそ,あひみにこしか,まよびきの,よこやまへろの,ししなすおもへる

 こっちの方はどこの横山か分からないが、「獣」は猪か鹿か、いずれにしても多摩の横山でもおかしくはない。こっそり逢いに来てみれば親に見つかって獣のように追い払われた、ええ、忌々しいというわけで、これが老人ホームの庭にあるのが微笑ましい。

 まだある。郷里の信州の家の近くを千曲川が流れていたが、これも詠まれている。
信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ (3400)
しなぬなる,ちぐまのかはの,さざれしも,きみしふみてば,たまとひろはむ

千曲なに浮き居る船の漕ぎ出なば逢ふことかたし今日にしあらずは(3401)
ちくまなに浮き居る船の漕ぎ出なば逢ふことかたし今日にしあらずは

 後の方は「千曲なに」か、「中麻奈に」か、はっきりしないが信濃で詠まれたことは確かで、「千曲」のほうが分かりやすい。こんなのもある。
信濃なる須我の荒野に霍公鳥鳴く声聞けば時過ぎにけり(3352)
しなぬなる,すがのあらのに,ほととぎす,なくこゑきけば,ときすぎにけり
 「須我」が菅平であるとすると、これも懐かしい上田市の郊外である。徒に過ぎてしまったのは、防人から帰るはずの、その時期をさしているのかもしれない。居たたまらない気持ちで、耳障りな時鳥の鳴くのをただ聞いている情景とも読める。

 通勤の途中、毎日多摩川を渡る。少し下流の狛江市に、これも歌碑がある。狛は高麗で、海を渡って多くの人々がこの辺りにも住み着いていたのであろう。
多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき(3373)
たまかはに,さらすてづくり,さらさらに,なにぞこのこの,ここだかなしき
 電車の窓から多摩川を眺める度に、河原で水に晒された真っ白な布がさらさらと揺れている光景が目に浮かんでくる。多摩川辺に住み愛唱している人は多いのではなかろうか。布を叩き(砧)、晒し、都に納め(調布)、そんなことが全て土地に刻まれ、その記憶がそのまま今に伝えられている。

 行く先々で万葉集に出会ってしまうというのは、それほどに、この稀な古代の歌集が地方の、様々な風土に根を張っているということであり、そもそもその成立と、東国などの地方の国々、そこに渡来した人々との間には何か関連があるのかもしれない。そんなことをとりとめもなく少しずつ整理してみたい。(つづく)