飛耳長目樹明

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再放送のNHK戦後史ドラマ 吉田茂と白洲次郎(7)

2014-03-04 20:47:09 | 日記

 吉田茂という人物は、薄汚い人物である。

 新憲法案は、明治憲法の手続きに則って、枢密院で審議され、昭和天皇の裁可を経て、第一次吉田内閣が最後の帝国議会に提出された。枢密院では自由な議論が行われていることは、議事録を見れば分かる。
 押しつけではなく、帝国議会では熱心な議論が行われた。
 第25条の、国民の最低の文化的経済的生活の保障の条項は、GHQ暗にはなく、議員提案による。
 第9条については、共産党の野坂参三議員が、自衛のための軍備を持っておいた方がいいのではないかと質問している。
 これに対し、吉田首相は、「侵略戦争は自衛を名として起こっている。今後日本はたとえ自衛のためでも一切のの軍備を持たない」と答弁した。これに議事録を見て頂きたい。
 この吉田答弁に、圧倒的な支持が集まり、憲法草案を議会を通過した。
 小学生には「あたらしい憲法のはなし」という特別教科書が配布された。それには飛行機、軍艦、大砲は小銃を、大きなドラム缶の中に放り込んだ絵が描かれ、一切の軍備を持たない、しかし心配することはない、今後は紛争は話し合いで解決すると書かれていた。
 ところが吉田首相は数年後にこれを裏切るのである。 

 第一次内閣は、衆議院を解散したが、総選挙で第一党は社会党、第二党は民主党(旧民政党・進歩党)(やがて改進党と改称)だった。
 そこで社会党の片山内閣が誕生した。

 この直前に吉田は将来の政敵を葬った。

 一人は大蔵大臣の石橋湛山である。湛山は東洋経済新報の記者で、社長になっていた。自由主義的な記者で大正初期から「小日本主義」を唱え、山東省、朝鮮、満洲の放棄を唱えた。もっとも自由主義的な自由党員だが、吉田はGHQと図って、湛山を公職追放とした。戦時中に翼賛団体に入っていたからというが、ほとんど全員が入っていたのである。
 湛山は後に首相になるが、病気のとなり、やむなく岸信介に譲った。
 もし湛山が首相になっていたら、GHQにぺこぺこしていた吉田路線は早期に廃絶していたであろう。

 もう一人は衆議院副議長の松本治一郎の公職追放である。松本はの出身であるが、戦後は社会党に属し、衆議院副議長になった。総選挙後の開院式の時、昭和天皇が議会に臨み勅語を読む。衆参両院の議長・副議長が、事前に挨拶するが、まつもとは前に進み出て、「今日は御苦労様です」と挨拶し、廻れ右して、元の列に戻った。
 従来は、天皇に後ろ姿を見せず、「蟹の横這い」のように左か右に移動した。
 
 もう天皇主権ではなく国民主権なのである。天皇は象徴であって、最高機関ではない。
 しかし吉田は、松本の態度に怒り、GHQに頼み込んで、公職追放にした。

 吉田は、マッカーサーと幕僚たちにペコペコし、御機嫌を伺い、奴隷にようにいいなりになった。吉田はマッカーサーの忠臣であった。
 GHQは吉田を使って、日本を属国化し、吉田の立場を強くするために、吉田の政敵を公職追放にしてくれたのである。

 これでも日本人か。



























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