飛耳長目樹明

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再放送のNHK戦後史ドラマ 吉田茂と白洲次郎(6)

2014-03-03 00:25:18 | 日記
 3月1日は、1954年3月1日、、ビキニ環礁のアメリカの原爆実験で、焼津の福竜丸が被曝してから、60周年となる。

 吉田茂内閣の岡崎外相は、これはアメリカの原爆実験を探るスパイ船であると断じた。
 リトアニアの領事代理であった杉原千畝が、ソ連経由で亡命しようとするユダヤ人のビザを発給したことは有名である。
 しかし戦後の1947年6月、岡崎勝男外務次官から杉原宛に退職通告書が送付され、やむなく杉原は外務省を依願退職した。岡崎は、戦後になってもナチスドイツに気を使ったのだ。
 この男を外相にしたのは、吉田茂である。
 そしたら上記の発言である。今度はアメリカにすり寄っていたのだ。

 占領時代には、広島と長崎の原爆被災を語ることは、タブーだった。1952年4月28日講和条約が発効して、占領軍のプレスコード(検閲)がなくなった。同年9月のアサヒグラフの原爆被害の写真特集が、ようやく言論の自由の確立を証明した。
 しかし広島長崎を語ることは、反米的で「アカ」であるという雰囲気は濃厚であった。戦前は親米が「アカ」だったが、戦後は反米が「アカ」だった。
 次のニュースには驚いた。1954年3月1日の原爆実験の被災は、福竜丸だけではなかったのだ。

秘密で終わらせない  ビキニ水爆実験60年 (東京新聞2014年3月2日朝刊)

 一九五四年、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で米国が行った水爆実験で静岡県焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」などが被ばくした悲劇から、一日で六十年。事件は今も未解明な部分が残る。日本が米国から原子力を導入する時期と重なり、日米は全容を解明しないまま早期幕引きを図った。今も事件を追う藤枝市の元高校教師枝村三郎さん(75)は、一度隠された真相を浮かび上がらせる難しさを痛感し、昨年成立した特定秘密保護法にも警鐘を鳴らす。 (神谷円香)
 焼津漁協が事件当時記録した「放射能汚染魚の廃棄数量」の一覧。焼津漁業資料館の倉庫に眠っていたこの未発表資料を、枝村さんは焼津市史編集委員を務めていた二〇〇〇年に見つけた。国が放射能検査をした五四年三~十二月、船ごとに廃棄した魚の種類、量、漁獲した場所が詳しく書かれていた。
 第五福竜丸以外にも百十二隻が計約四十六トンのマグロやカツオを捨てていた事実を、枝村さんは〇五年に市史や論文で公表した。今年二月に自費出版した「水爆と第五福竜丸-隠された事件の真相」にも、独自に調べた船の所属港を加えて載せた。
 ただ廃棄処分を免れるため、焼津など検査がある五港を避けて他港に入った船の詳細な実態は謎のままだ。被ばく船は延べ千隻以上とみられるが、米国は五五年一月、七億二千万円の見舞金を払うことで「完全な解決」とした。
 三十年にわたる聞き取り調査で他の船の被ばくを突き止めた、太平洋核実験被災支援センター(高知県)事務局長の山下正寿さん(69)は「第五福竜丸乗組員が他船と連帯できないよう孤立させた」と憤る。
 山下さんは最近、国立衛生試験所(現医薬品食品衛生研究所)が、五港での検査が終わった五四年末以降も東京・築地に入荷するマグロなどの肝臓を調べていたことを、試験所の年報で見つけた。五八年十月にも事件当時に近い放射線量を検出した分析結果が出ていた。だが、この報告を基に国が対処した記録はない。
 事件当時、広島と長崎に続く核の被害に日本の反核世論は盛り上がったが、「原子力は戦争ではなく平和のために利用するべきだ」とする日米両政府は、ビキニ被ばくの全容を明らかにしようとはしなかった。
 外務省は九一年に米国との外交文書を公開したが、文書の機密指定が続いていれば「ビキニ事件は永遠の秘密として闇に葬られていた」と枝村さんは指摘する。
 特定秘密保護法の成立で、安全保障上の秘密が拡大解釈されかねない。東京電力福島第一原発事故の全体像をはじめ、解き明かすべき事柄がますます闇の中に埋もれていくのではないか。枝村さんは「民主主義や基本的人権の否定につながる」と危ぶんでいる。
<ビキニ水爆実験> 1954年3~5月、米国が太平洋・ビキニ環礁などで計6回実施。「第五福竜丸」が受けた3月1日の爆発の威力は広島型原爆の1000倍とされる。他の日本漁船も延べ1000隻以上が被ばく。米エネルギー省によると、日本全土や米国にも放射性降下物が注いだ。『以上)
 
 親独から親米へ。こんな男を吉田はなぜ外相にしたのだ。








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