広東の国民政府の北上が始まると、沿岸各地で大きな騒動が起こった。
たとえば上海では、1940年のアヘン戦争以来、列強の特殊利害があり、租界という事実上の植民地もあった。上海の共同租界の公園には、犬と中国人は入るべからずと云う標札が立っていたと云う。(中国の犬は、英語が読めたのかなあ。これは冗談)
1925年5月30日に530事件が起こった。
これは、日本の工場での労働者のストライキである。日本人の現場監督が中国人の女性労働者にいたずらをするのだ。たんなるいたずらではない。強姦も平気でするのだ。どうも日本人は、若い女性には、平気で乱暴する悪癖がある。
時代劇ドラマで、浪人、用心棒、時にはれっきとした幕臣、藩士が、女性たちに暴行を加えるが、あれと同じだ。
これは上海だけではなく、山東省の青島(チンタオ)(山東省は日本の勢力範囲)の紡績工場でもひんぱんに起こっていた。(いずれ述べるが、国後島の日本領有のきっかけも場所請負人ー飛騨屋ーの用心棒たちがアイヌの妻や娘たちに暴行したことから、アイヌの反乱がはじまった。)
これにイギリス、フランス、アメリカの工場の中国人労働者が同情してストライキに入った。
5月30日、この時は、共同租界の警察はイギリスの当番だった。犬を連れたイギリスの騎馬警官隊が出動し、労働者たちに襲いかかった。
これで1840年のアヘン戦争以来の欧米の横暴への積もりに積もった憤激に火がついた。
英米軍はただちに出動して、ストライキを鎮圧した。
すでに広州を出発した国民政府軍は、長江中流の武漢を占領し、ここに政府を移した。さらに南京、上海に向かって進軍してきたから、英米軍は、戦闘態勢を整えた。
この時、日本は出兵しなかった。この時の若槻憲政会内閣の外相幣原喜重郎の名セリフがある。
「「蒋介石が列国の最後通牒を断乎拒絶したらどうなるのか。あなた方は共同出兵して、砲火によって警罰する他に方法はないであろう。が、これは大いに考えなければならん。
どこの国でも、人間は同じく、心臓は一つです。ところが中国には心臓は無数にあります。一つの心臓だと、その一つを叩き潰せば、それで全国が麻痺状態に陥るものです。たとへば日本では東京を、イギリスでは倫敦(ロンドン)を、アメリカでは紐育(ニューヨーク)を、仮りに外国から砲撃壊滅されると全国は麻痺状態を起こす。取引は中絶される。銀行だの、多くの施設の中心を押へられるから、致命的な打撃を受ける。
しかし支那といふ国は無数の心臓を持ってゐるから、一つの心臓を叩き潰しても他の心臓が動いていて、鼓動が停止しない。すべての心臓を一発で叩き潰すことは、とうてい出来ない。だから冒険政策によって中国を武力で征服するという手段を取るといつになったら、目的を達するか、予測し得られない。
また、そういうことは、あなた方の国はそれでいいかも知らんが、中国に大きな利害関係を持っている日本としては、そんな冒険的な事に私は加はりたくない。だから、日本は、この最後通牒の連名には加はりません。それは、私の最後の決断です。どうかこの趣旨を、あなた方からそれぞれ本国政府へお伝へお願ひたいのであります」
幣原喜重郎『外交五十年』(読売新聞社 一九五〇年、中公文庫 一九八七年)
日本政府がこの態度を保持し、不干渉政策を取っていれば、昭和の戦争は起こらなかったのだ。
しかしここで歴史が大転換する。
1927年に南京、上海を占領した国民政府軍は、裏で英米の利害を保障すると云う協定を結んだらしい。
上海では、外国企業の労働者たちは、ゼネストを行って、国民政府軍を迎えたが、蒋介石は上海に入城するや共産党員約5000名を捕らえて処刑した。いわゆる上海クーデターである。毛沢東は必死に麦畑を抜けて、南へ逃げたと云う。
蒋介石の基盤は浙江財閥である。夫人の宋美齢(姉の宋慶齢は孫文夫人)とその弟の宋子文は、浙江財閥の宋家の出身である。
英米と浙江財閥の提携、その上にある蒋介石の国民政府という構図ができた。
共産党と手を切った国民政府軍は、北上を始めた。目指すは北平(北京)である。
北平(河北省)には満州軍閥の張作霖が出張っていた。関東軍は張作霖を意のままに扱おうとしていたが、張作霖は、イギリスとも手を結ぼうとしていた。満鉄併行線問題である。
河北省の前方に山東省があった。中心都市は済南と海岸の青島。ここは第一次大戦でドイツから奪った利権地域であった。
ここで日本は出兵せず、国民政府の中国統一を支援すべきであった。前内閣の幣原外交を継続すべきだったのだ。
田中政友会内閣は、武力で山東省の利権を守ろうとし、さらにいうことを聞かなくなった張作霖を殺害しようと企て始めた。
今までの憲政会の180度転換するために田中内閣が軍部の幹部と中国各地に駐屯する外交官を召集したのが、東方会議である。当時、奉天総領事だった吉田茂は、この会議に出席している。
東方会議の結論をまとめて天皇に提出したのが、田中上奏文である。
これはいちはやく中国側が入手して『民報』という雑誌に掲載した。
これは日本の中国侵略計画として、各国語に翻訳された。いわゆる「田中メモランダム」である。
たとえば上海では、1940年のアヘン戦争以来、列強の特殊利害があり、租界という事実上の植民地もあった。上海の共同租界の公園には、犬と中国人は入るべからずと云う標札が立っていたと云う。(中国の犬は、英語が読めたのかなあ。これは冗談)
1925年5月30日に530事件が起こった。
これは、日本の工場での労働者のストライキである。日本人の現場監督が中国人の女性労働者にいたずらをするのだ。たんなるいたずらではない。強姦も平気でするのだ。どうも日本人は、若い女性には、平気で乱暴する悪癖がある。
時代劇ドラマで、浪人、用心棒、時にはれっきとした幕臣、藩士が、女性たちに暴行を加えるが、あれと同じだ。
これは上海だけではなく、山東省の青島(チンタオ)(山東省は日本の勢力範囲)の紡績工場でもひんぱんに起こっていた。(いずれ述べるが、国後島の日本領有のきっかけも場所請負人ー飛騨屋ーの用心棒たちがアイヌの妻や娘たちに暴行したことから、アイヌの反乱がはじまった。)
これにイギリス、フランス、アメリカの工場の中国人労働者が同情してストライキに入った。
5月30日、この時は、共同租界の警察はイギリスの当番だった。犬を連れたイギリスの騎馬警官隊が出動し、労働者たちに襲いかかった。
これで1840年のアヘン戦争以来の欧米の横暴への積もりに積もった憤激に火がついた。
英米軍はただちに出動して、ストライキを鎮圧した。
すでに広州を出発した国民政府軍は、長江中流の武漢を占領し、ここに政府を移した。さらに南京、上海に向かって進軍してきたから、英米軍は、戦闘態勢を整えた。
この時、日本は出兵しなかった。この時の若槻憲政会内閣の外相幣原喜重郎の名セリフがある。
「「蒋介石が列国の最後通牒を断乎拒絶したらどうなるのか。あなた方は共同出兵して、砲火によって警罰する他に方法はないであろう。が、これは大いに考えなければならん。
どこの国でも、人間は同じく、心臓は一つです。ところが中国には心臓は無数にあります。一つの心臓だと、その一つを叩き潰せば、それで全国が麻痺状態に陥るものです。たとへば日本では東京を、イギリスでは倫敦(ロンドン)を、アメリカでは紐育(ニューヨーク)を、仮りに外国から砲撃壊滅されると全国は麻痺状態を起こす。取引は中絶される。銀行だの、多くの施設の中心を押へられるから、致命的な打撃を受ける。
しかし支那といふ国は無数の心臓を持ってゐるから、一つの心臓を叩き潰しても他の心臓が動いていて、鼓動が停止しない。すべての心臓を一発で叩き潰すことは、とうてい出来ない。だから冒険政策によって中国を武力で征服するという手段を取るといつになったら、目的を達するか、予測し得られない。
また、そういうことは、あなた方の国はそれでいいかも知らんが、中国に大きな利害関係を持っている日本としては、そんな冒険的な事に私は加はりたくない。だから、日本は、この最後通牒の連名には加はりません。それは、私の最後の決断です。どうかこの趣旨を、あなた方からそれぞれ本国政府へお伝へお願ひたいのであります」
幣原喜重郎『外交五十年』(読売新聞社 一九五〇年、中公文庫 一九八七年)
日本政府がこの態度を保持し、不干渉政策を取っていれば、昭和の戦争は起こらなかったのだ。
しかしここで歴史が大転換する。
1927年に南京、上海を占領した国民政府軍は、裏で英米の利害を保障すると云う協定を結んだらしい。
上海では、外国企業の労働者たちは、ゼネストを行って、国民政府軍を迎えたが、蒋介石は上海に入城するや共産党員約5000名を捕らえて処刑した。いわゆる上海クーデターである。毛沢東は必死に麦畑を抜けて、南へ逃げたと云う。
蒋介石の基盤は浙江財閥である。夫人の宋美齢(姉の宋慶齢は孫文夫人)とその弟の宋子文は、浙江財閥の宋家の出身である。
英米と浙江財閥の提携、その上にある蒋介石の国民政府という構図ができた。
共産党と手を切った国民政府軍は、北上を始めた。目指すは北平(北京)である。
北平(河北省)には満州軍閥の張作霖が出張っていた。関東軍は張作霖を意のままに扱おうとしていたが、張作霖は、イギリスとも手を結ぼうとしていた。満鉄併行線問題である。
河北省の前方に山東省があった。中心都市は済南と海岸の青島。ここは第一次大戦でドイツから奪った利権地域であった。
ここで日本は出兵せず、国民政府の中国統一を支援すべきであった。前内閣の幣原外交を継続すべきだったのだ。
田中政友会内閣は、武力で山東省の利権を守ろうとし、さらにいうことを聞かなくなった張作霖を殺害しようと企て始めた。
今までの憲政会の180度転換するために田中内閣が軍部の幹部と中国各地に駐屯する外交官を召集したのが、東方会議である。当時、奉天総領事だった吉田茂は、この会議に出席している。
東方会議の結論をまとめて天皇に提出したのが、田中上奏文である。
これはいちはやく中国側が入手して『民報』という雑誌に掲載した。
これは日本の中国侵略計画として、各国語に翻訳された。いわゆる「田中メモランダム」である。