飛耳長目樹明

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再放送のNHK戦後史ドラマ 吉田茂と白洲次郎(2)

2014-02-28 17:32:44 | 日記
 広東の国民政府の北上が始まると、沿岸各地で大きな騒動が起こった。
 たとえば上海では、1940年のアヘン戦争以来、列強の特殊利害があり、租界という事実上の植民地もあった。上海の共同租界の公園には、犬と中国人は入るべからずと云う標札が立っていたと云う。(中国の犬は、英語が読めたのかなあ。これは冗談)
 1925年5月30日に530事件が起こった。

 これは、日本の工場での労働者のストライキである。日本人の現場監督が中国人の女性労働者にいたずらをするのだ。たんなるいたずらではない。強姦も平気でするのだ。どうも日本人は、若い女性には、平気で乱暴する悪癖がある。
 時代劇ドラマで、浪人、用心棒、時にはれっきとした幕臣、藩士が、女性たちに暴行を加えるが、あれと同じだ。

 これは上海だけではなく、山東省の青島(チンタオ)(山東省は日本の勢力範囲)の紡績工場でもひんぱんに起こっていた。(いずれ述べるが、国後島の日本領有のきっかけも場所請負人ー飛騨屋ーの用心棒たちがアイヌの妻や娘たちに暴行したことから、アイヌの反乱がはじまった。)

 これにイギリス、フランス、アメリカの工場の中国人労働者が同情してストライキに入った。
 5月30日、この時は、共同租界の警察はイギリスの当番だった。犬を連れたイギリスの騎馬警官隊が出動し、労働者たちに襲いかかった。
 これで1840年のアヘン戦争以来の欧米の横暴への積もりに積もった憤激に火がついた。
 英米軍はただちに出動して、ストライキを鎮圧した。

 すでに広州を出発した国民政府軍は、長江中流の武漢を占領し、ここに政府を移した。さらに南京、上海に向かって進軍してきたから、英米軍は、戦闘態勢を整えた。
 この時、日本は出兵しなかった。この時の若槻憲政会内閣の外相幣原喜重郎の名セリフがある。
 
 「「蒋介石が列国の最後通牒を断乎拒絶したらどうなるのか。あなた方は共同出兵して、砲火によって警罰する他に方法はないであろう。が、これは大いに考えなければならん。
 どこの国でも、人間は同じく、心臓は一つです。ところが中国には心臓は無数にあります。一つの心臓だと、その一つを叩き潰せば、それで全国が麻痺状態に陥るものです。たとへば日本では東京を、イギリスでは倫敦(ロンドン)を、アメリカでは紐育(ニューヨーク)を、仮りに外国から砲撃壊滅されると全国は麻痺状態を起こす。取引は中絶される。銀行だの、多くの施設の中心を押へられるから、致命的な打撃を受ける。
 しかし支那といふ国は無数の心臓を持ってゐるから、一つの心臓を叩き潰しても他の心臓が動いていて、鼓動が停止しない。すべての心臓を一発で叩き潰すことは、とうてい出来ない。だから冒険政策によって中国を武力で征服するという手段を取るといつになったら、目的を達するか、予測し得られない。
また、そういうことは、あなた方の国はそれでいいかも知らんが、中国に大きな利害関係を持っている日本としては、そんな冒険的な事に私は加はりたくない。だから、日本は、この最後通牒の連名には加はりません。それは、私の最後の決断です。どうかこの趣旨を、あなた方からそれぞれ本国政府へお伝へお願ひたいのであります」
幣原喜重郎『外交五十年』(読売新聞社 一九五〇年、中公文庫 一九八七年)

 日本政府がこの態度を保持し、不干渉政策を取っていれば、昭和の戦争は起こらなかったのだ。
 しかしここで歴史が大転換する。

 1927年に南京、上海を占領した国民政府軍は、裏で英米の利害を保障すると云う協定を結んだらしい。
 上海では、外国企業の労働者たちは、ゼネストを行って、国民政府軍を迎えたが、蒋介石は上海に入城するや共産党員約5000名を捕らえて処刑した。いわゆる上海クーデターである。毛沢東は必死に麦畑を抜けて、南へ逃げたと云う。
 蒋介石の基盤は浙江財閥である。夫人の宋美齢(姉の宋慶齢は孫文夫人)とその弟の宋子文は、浙江財閥の宋家の出身である。
 英米と浙江財閥の提携、その上にある蒋介石の国民政府という構図ができた。

 共産党と手を切った国民政府軍は、北上を始めた。目指すは北平(北京)である。
 
 北平(河北省)には満州軍閥の張作霖が出張っていた。関東軍は張作霖を意のままに扱おうとしていたが、張作霖は、イギリスとも手を結ぼうとしていた。満鉄併行線問題である。
 河北省の前方に山東省があった。中心都市は済南と海岸の青島。ここは第一次大戦でドイツから奪った利権地域であった。

 ここで日本は出兵せず、国民政府の中国統一を支援すべきであった。前内閣の幣原外交を継続すべきだったのだ。

 田中政友会内閣は、武力で山東省の利権を守ろうとし、さらにいうことを聞かなくなった張作霖を殺害しようと企て始めた。

 今までの憲政会の180度転換するために田中内閣が軍部の幹部と中国各地に駐屯する外交官を召集したのが、東方会議である。当時、奉天総領事だった吉田茂は、この会議に出席している。

 東方会議の結論をまとめて天皇に提出したのが、田中上奏文である。

 これはいちはやく中国側が入手して『民報』という雑誌に掲載した。
 これは日本の中国侵略計画として、各国語に翻訳された。いわゆる「田中メモランダム」である。










 








 

 








 






再放送のNHK戦後史ドラマ 吉田茂と白洲次郎(1)

2014-02-26 07:08:29 | 日記
NHKが何年か前のテレビドラマの再放送をしている。

吉田茂、白洲次郎、松下幸之助の三人の物語である。

 松下についてはナショナル電気の創立者であるが、伝記をちゃんと読んだことがないので、批評は差し控える。

 吉田はGHQの配慮で、戦犯を免れた男である。
 よしだは外務官僚で、1927年の田中義一(政友会)内閣が召集した東方会議に、奉天総領事として出席した人物である。
 高知県の出身で、自由民権運動の指導者である板垣退助の側近であった竹内綱の五男である。吉田家に養子に行き、東京帝大を卒業して外務省に入った。

 問題はこの東方会議である。東方会議は、外務省と陸軍省、海軍省の幹部のほか、中国駐在大使は、各地の総領事を集めた会議である。
 それまでの憲政会内閣の対中国政策を根本的に変更して、中国に積極的に進出することを決定した会議である。
 昭和天皇は、前年末に大正天皇の死去により後継天皇に即位したばかりでまだ27歳であった。
 三月に金融恐慌が勃発し、若槻憲政会内閣はその処理を枢密院で反対され、総辞職した。このころは衆議院の第一党の党首が組閣させるという元老西園寺公望の方針が貫かれた時期であった。西園寺の方針では、第一党の内閣が総辞職した場合、第一党の別の人物ではなく、第二党の党首の組閣させ、1年以内の総選挙をさせる方針であった。
 そこで第二党の政友会内閣が成立したのである。
 
 首相の田中義一は、長州出身のもと陸軍大将である。陸軍の長州閥の最後の人物である。田中により対中国政策の転換は、劇的な変化であった。

 当時の中国は広東に成立した孫文の国民政府、各地の軍閥政権を打倒し、中国を統一しようとしていた時期であった。中国側では国民革命といい、日本では「北伐」と呼んでいる。
 各地の軍閥政権とは、清朝時代の各省の官僚と駐屯軍の幹部が、地元の有力者の支持を得て自立していたものである。
 とくに海岸各省の軍閥は、外国に鉱山採掘権、鉄道敷設権、商業活動権を認める代わりに、大金を提供されていた。かれらを売弁(買弁)という。国民政府は、かれらこそ中国を腐敗させ、外国に売り渡す張本人とみなし、これらを打倒して、中国の再統一を計ろうとしたのである。









  










世界最低の卑怯卑劣な日本人

2014-02-24 06:49:00 | 日記
 東京都内の区立・市立図書館の所蔵する『アンネの日記』など数百冊を切り裂いたものがいる。

 世界史上、秦の始皇帝の焚書坑儒や、中世のローマ法王による魔女狩り、ナチスの大量の図書破棄・焼却事件は有名である。
 しかし個人または少数グループにより、こっそりと切り裂かれた事件は、世界史上、はじめてかもしれない。

 なぜ『アンネの日記』を切り裂くのか、まったく理解できない。彼女はナチスの犠牲になった少女ではないか。

 犯人たちは反ユダヤ主義者なのか、ヒトラー礼賛者なのかは、まだ分からない。

 海外では犯人を捜索し、重罰に処すべきだという新聞論調が現われている。

 日本と日本人への信用は一挙に失われたと言ってよい。


2014年2月23日 東京新聞 朝刊


 東京都内の公立図書館が所蔵する「アンネの日記」や関連書籍が破られているのが相次いで見つかった問題で、新たに武蔵野市でも十七冊の破損が判明し、被害は三百冊を超えることが分かった。自治体や図書館への取材によると、少なくとも五区三市の三十八館で、計三百六冊に上る。

 被害は杉並、中野、練馬、新宿、豊島の五区と、武蔵野、東久留米、西東京の三市で、東京二十三区北西部と隣接する地域に集中している。各図書館は警備員や職員による巡回を強化したり、関連書を書庫から貸し出しカウンター内に移したりして警戒している。

 武蔵野市では利用者の指摘で判明した。「アンネの日記」のほか、ナチスのアウシュビッツ強制収容所を題材にした書籍などが被害に遭い、児童書コーナーの本も標的となった。新宿区でも関連書籍の被害が一冊、新たに確認された。

 最も被害が多かった杉並区では、破損した百十九冊を買い直して閲覧を続ける方針だが、絶版で入手できない本もありそうだ。被害を受けた中には、作家の小川洋子さんが各界の著名人と対談した「小川洋子対話集」など題名だけでは関連の分からない本もあるが、アンネに言及する章が含まれていた。「アンネ・フランク」のキーワードで蔵書検索すると、探し出せる本だという。







ポッダム宣言と「固有の領土」4

2014-02-18 20:26:10 | 日記
 『戦場にかける橋』というアメリカ映画があった。口笛を吹くような主題歌を憶えている。
 あれは泰緬鉄道の建設にイギリス軍捕虜を動員した物語だった。
 泰緬鉄道とは、タイからビルマに至る鉄道である。この建設に捕虜を動員したのだが、もちろんこれは国際法に違反する。

 (のちに日本軍捕虜が、シベリアや中央アジアでさまざまな強制労働に動員されたが、あれも国際法違反である。ただし、これは関東軍側から降伏条件として労務提供を申し出た疑いがあり、真相は闇のなかである。いずれ論じる。)

 この泰緬鉄道建設に、インドネシア人40万人が動員された。この動員の真相がよく分からない。子供を連れた事例もあって、強制連行・強制労働ではないようにも見えるが、基本的には、強制の疑いが強い。

 首都ジャカルタの大統領宮殿の前に、高さ90メートルの展望塔(モナス)が立っている。その地下、ないし半地下はインドネシアの歴史を物語る、円形博物館となっている。約50枚の大きな油絵が掲示されていて、これを見ながら、一周できる。

 最初の絵はピテカントロプスである。そこからインドネシア独立までの歴史をしめすさまざまな絵が、掲げられている。仏教、ヒンズー教、イスラム教の伝来、ポルトガル人ついでオランダ人の来航と植民地への転落、400年間の独立運動の歴史が、総観できる。
 この50枚の絵は、絵葉書となって、売店で売っている。

 独立直前のところに日本軍の軍政の絵がある。題してROUMUSHA、つまり「労務者」である。鉄道工事(または道路工事)の場面で、日本兵がインドネシア人労務者を殴打している絵である。これは泰緬鉄道建設の場面ではあるまいか。

 首都ジャカルタには、ジャカルタ周辺からだけではなく、全国から小中高校の生徒が修学旅行でやってくる。シーズンには長蛇の列ができていて、一般観光客は2時間も3時間も待たされる。

 30年くらい前に行った時には、すぐ見ることができたが、近年2度ばかり行った時には、いずれも2時間待っても入場できず、あきらめた。
 わたしは「ロウムシャ」の絵葉書を買っておいたのだが、何処に行ったのか、出てこない。

 それはともあれ、こうしてインドネシア人の青少年には、「ロウムシャ」の記憶が伝えられていくのだ。

 インドネシアの独立運動は、日本の占領を笑顔で迎えたようにいわれているが、決してそうではないのだ。

 (この稿はもう少し書きたいのだが、少し休みたい。雪掻きで疲れたのだ)

















 







 

ポッダム宣言と「固有の領土」3

2014-02-18 20:25:43 | 日記
 ここで、高橋健夫『油断の幻影 一技術将校の見た日米開戦の内幕』(時事通信社 1985年)を読んで頂きたい
 1941年(昭和16)6月20日、陸軍省燃料課長中村儀十郎(大佐)と課員高橋健夫は、東条英機陸軍大臣に面会し、石油備蓄の確保のため、インドネシアの石油地帯の占領を具申した。人造石油計画に期待していた東条陸相は「人造石油があるだろう」と言ったが、その挫折を聞き、驚いたそうである。東条は、この時は、「泥棒はいけませんよ」と答えたという が、まもなく「泥棒」計画が採用となったという。

 こうして太平洋戦争初期、すでにベトナム南部を占領していた陸海軍は、マレー沖海戦でイギリスの巨大戦艦2隻を空爆して撃沈、陸軍部隊は、タイを迂回してマレー半島を自転車部隊で南下、さらにスマトラ島東部のパレンバンの油田地帯を占領した。
 「タイの迂回」について、昭和天皇は、「国際法上どうかと思うが、まあ良い」を許可を与えている。これは杉山元参謀総長のメモだったかな(『杉山メモ』原書房)。

 あらかじめ三菱石油・日本石油の技術者が、陸軍の将校待遇で現地に入り、パラシュート部隊を待っていた。パラシュートの降下と同時に、油田に入り、火事の発生を防ぎ、機械の保全をした。現地の労働者たちが抵抗し、放火したり、機械を破壊するのを防ぐためである。
 「空飛ぶ神兵」と云ったかなあ。子供のころ「見よ落下傘、空を行く」という歌をよく歌ったものだ。「神兵」が「泥棒」であったことは、上記の高橋氏の本を読んで知った。

 ついでに云っておくと、12月8日の真珠湾攻撃より、タイ、マレーシアへの行動はやや早く、宣戦布告前の戦闘行為だったと云う指摘がある。どうも当時の軍と外務省の連係プレイには、過失があるようだ。
 
 蘭領東印度を支配していたオランダ本国は、ナチスドイツに占領されていた。本国政府はイギリスのロンドンに臨時政府を置いていたが、財政上も軍事上も、現地当局を支援できなかった。これが「泥棒」の狙い目でもあった。日独伊三国同盟の効力である。

 さて同地を占領した陸軍は、ここを「帝国の領土」と宣言した。オランダからの独立を支援するように見え、スカルノ、ハッタらの独立運動指導者は日本軍に協力したが、当時の陸軍の文書には、当分の間、独立を認めないことが明記されレイル。資源獲得が優先されたのだ。スマトラのゴム、錫などの金属生産も確保し、これらを日本に還送をするためであった。
 そして陸軍は軍政を布き、「KANPO」という印刷物を月に数回発行している。『官報』である。
 また従来の「ルピア」を単位とする紙幣・貨幣を廃止し、「ルピア」の軍票を発行した。これらが大きな経済混乱を引き起こした。
 主要都市の小学校では、日本語教育を強制したが、この映画フィルムをNHKテレビの特集で見たことがある。

 (少し長くなるが、このテーマをぜひ読んでもらいたい。外国を占領する時は、その国の「固有の領土」を尊重せず、軍政を布き、負けそうになると、「固有の領土」だけは勘弁してくれというのが、「泥棒」国家の正体であることを指摘したいのだ。土居市郎氏の『日本人の甘えの構造』を併読して頂きたい)