飛耳長目樹明

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西郷隆盛「遣韓論」は終わった

2011-08-28 08:04:42 | 日記
 毛利敏彦氏の西郷隆盛「遣韓論」は、史料根拠の薄い議論だったが、西郷ファンに受けて、持て囃されてきた。

 しかし『鹿児島県史』のなかに、西郷が立案を命じた征韓計画の資料が収録されていた。
 鹿児島県史の編集委員たちは、とっくに知っていたのだ。



林有造の回想。広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」のうち、第六「近衛兵ノ瓦解ト征韓兵ノ部隊竝ニ西郷、板垣二氏ノ戦略」 『土佐群書集成 第二十八巻』(謄写版印刷 高知市立市民図書館 一九七二年)、『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)
「一、桐野少将ハ征韓ノ兵員ハ十大隊ヲ以テセバ充分ナリト云フ、又韓国ノ視察ヲ了ヘ帰朝シタル別府少佐ハ、二三個中隊ノ兵員ニテ足レリト壮語スト云フ、然ルニ西郷氏ハ一切ノ戦略ヲ挙ケテ板垣伊地知二氏ニ委スルノ考ヘナリキ、何トナラハ二氏ハ東奥ノ戦役ニ於テ其将才ノ凡ナラサルヲ顕ハシタルヨリ、深ク之ヲ信スル処アリト云フ、而シテ諸氏等屡々太政官ニ於テ征韓ノ戦略ヲ立テ、互ニ之ヲ論議セルニ方リ、西郷氏ハ先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀ニ出テバ、恰カモ嚢口ヲ括シテ物ヲ探ルカ如ク、韓廷遂ニ北クルニ途ナカラント、副島氏之ニ賛成シタルモ、板垣氏ハ之ヲ否トシ、蒙昧韓国ノ如キヲ対手トスル戦闘ニアリテハ、先ツ其君主ヲ擒ニスルヲ主眼トスルノ必要ナルハ、亦タ貴説ト見ル処ヲ一ニス、然レトモ其戦略トシテハ、北方ヨリ南下シ、之ニ依テ全然敵ヲシテ遁路ナカラシメントスルハ、難事に属ス、故ニ兎ニ角兵ヲ釜山ニ上陸セシムヘシ、然ラハ事ニ迂ナル韓人ハ、必ス全力ヲ釜山ニ尽クシテ、我軍ヲ撃破セン事ヲ努メ可シ、此時ニ当リ我ハ全軍ノ三分ノ一ヲ釜山ニ残シ、三分ノ二ハ海上直チニ之ヲ江華湾方面ニ送リテ、突如京城ニ肉薄シ、其間ニ於テ更ニ釜山軍ヲモ海路平壌ニ送致シ、以テ敵ノ退路ヲ塞カハ其成功スヘキヤ疑フヘカラスト、西郷氏素ヨリ板垣氏ノ将才ヲ推スヲ以テ、敢テ争ハス、伊地知氏ハ又少シク其規模ヲ大ニシ大兵ヲ用ヒシ事ヲ要トシタルト云フニ、西郷氏ノ決心、己レ韓国ノ土ト化シタル暁ハ政府ハ堂々征韓ノ軍ヲ派遣スヘク、其進軍ノ戦略ニ就テハ、一ニ板垣、伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ヘ秘洩シアリト云フ、」


 次は、鹿児島県出身の左院副議長伊地知正治の記録である。
 かれは西郷の委嘱を受けて、朝鮮半島を調査し、また豊臣秀吉の朝鮮侵略、清国の朝鮮征服も研究して、朝鮮国王の拿捕作戦を構想した。

西郷隆盛宛伊地知正治書簡 明治六年十二月一日(吉田常吉編『史談会速記録』第二十五輯附録、市来四郎談話、五~一六ページ)
一八九四年(明治二十七)九月二十二日に市来が述べたもので、次の小節が関係部分である。
○西郷隆盛使節の大任に当らんと請ひ朝鮮の無礼を謝せしめ征韓を唱へざりし事
○朝鮮国我が大使に不敬の挙あれは同氏曲を鳴らし征討の意なりし事
○同氏より久光公に呈せし朝鮮国との交際に係る意見書
○同氏は維新の大業意外に速成し其殺気を外に漏らすの意なりし事
○同氏は朝鮮の無礼を責め国威を海外に輝かし東洋の平和を保つ意なりし事
○同氏掛冠帰県の節発布ありし詔勅
○同氏の陸軍大将故の如く参議及近衛都督を免せられし達
○同氏は秀吉の天下を定め後征韓殺気を外に洩らしたる策を歴史に鑑み東洋平和の論を立てし事
○三条公も同氏は唯大使派遣を請ひしと述べられし事
○西郷は征韓に係る一切の調査を伊地知正治に依嘱せし事
○伊地知より同氏に送りし征韓一切に係る調査書
○調査書の大要は絵図、物産、運輸、弾薬、兵糧等にて兵数は四万なりし事
 次が伊地知の書簡である。(十一ページ以下、復刻版三六一ページ以下)
「其時は早目の御出立にて爾後御安康大慶奉存候、朝鮮歴史は其節直に外務省へ返納致候間、其首尾申上候、今更申上るも無益の様には候へとも彼歴史と畧絵図と征韓偉畧と明清史と比較左の通り御坐候、
 東西百五十里南北四五十里、大凡我奥羽二国を合せし位(略)
 人口五百万位(略)
 兵員乱世の末二十二万八千(略)
 水田陸田五十万結(略)」
 ついで文禄の役の京城、平壌占領日数を挙げている。
 「文禄の役渡(陸軍十三万、海軍九千二百)四月十三日小西行長浦山海に着船し即日浦山城を攻落し十四日取金海府云々
 五月二日行長取京城
 浦山の戦より都合二十日に中る
 是より後ち軍義不一決、且孤なるを以て行長進軍遅々
 六月十二日取平城(平壌)
  浦山の後より六十日に中る」
 ついで一転して清(満洲女真族の後金)の朝鮮占領をあげる。
 「天聴元年(一六二七年・日本兼寛永四・丁卯)正月十四日鴨緑江を越て義州城を攻落し廿二日安州を取る、廿六日平城(平壌)を取る、二月五日黄州を取る
 三月三日朝鮮王降和なり
  義州初戦より五十日に中る
 同再度征初戦より十一日に中る」
 ヌルハチの甥アミンが朝鮮に侵入、明を支援していた朝鮮軍を破り服属させた。丁卯胡乱である。
 一六三六年(崇徳元・寛永十三・丙子)ヌルハチの第八子ホンタイジが即位し、国号を大清を改めた。ところが朝鮮はホンタイジの皇帝即位を認めないことを表明したので、ホンタイジは朝鮮に親征して、再び討ち(丙子胡乱)、朝鮮と明の冊封関係を絶つことに成功し、朝鮮を清の冊封国とした。
「崇徳元年十二月十二日平壌を攻落す
 十四日進て取平壌
 前に当月二日清、章高服に命し三百の兵を授けて偽て商人の姿にて昼夜兼行朝鮮王の京城を囲ましめ、引続て親王壱人、将軍壱人に壱千の兵を授て継進せしめしもの。四日鮮兵六千を攻破て王城に至る、鮮王詐計を出し遅れ、四十里(四里位)の路迫打して遂に朝鮮王を南漢城を云へる所にて攻囲む、廿五日清帝自南漢城の攻手を加ゆる
 二年正月二日朝鮮諸道より来会するの援兵を打破る、同十三日朝鮮王降伏の掛合始る
 同廿九日朝鮮王清帝の陣門に来て降を乞ふ
 初戦より四十八日に中る(あたる)」
 次に伊地知は文禄の役の苦戦と清軍の短期戦での圧倒的勝利とを比較した。
「右に依て比較すれば文録(禄)度の征鮮は清人より一層速なりとす、然れとも征討の功否懸隔するものあるは何そや、我は百戦の練兵と雖も海外の征討は初戦なり、況んや朝鮮を極寒の地と誤視す、故に夏四月に到て討征を始めたり、之朝鮮の寒気北越奥羽に甲乙無きを知らさるにや
 而鮮人諸道にて遁るゝも往々山に入り従て出て我が行軍線を妨く(これは山岳地帯のゲリラ的抵抗を指すらしい)
 清人の征鮮は十二月正月に有る。故に鮮人雪に障られ、山在(岳か)に出入する事を得す、兵は海道の暗きを以て百里外の浦山より入る。彼奔逃するに便なり、清人は元来地勢の便なると雖も、彼偽て商人隊を造り不意にをかし入策を見れは、唯朝鮮王遁れて海外に至る、或は加勢の来んことを慮る、深しと云ふべし
 我当日(明治五六年)の兵鋒を以て二念なく打入らは、明軍実は恐るゝに足らず、而て当時(文録(禄)役を云)の人々は明は大国大軍なりと聞き懼れて退避の勢を免れず、遂に七年の久しきに至る、所謂小西の請和説事を誤るのみに非るや」
「今案彼の国を征するや海陸兵四万を用ゆへし、半は進撃手とし、半は要所の守とす、
  康季漬の征鮮五万を用ゆ、衆寡の用を知ると云へし
  鮮人の武備を探知するに我の征銃は「ミニヘール」にて適当すへし、征兵は新募(戊辰実践兵の外新兵を云)にて宜かるへし、然る後ち魯西亜を戦ふに当て堂々たる常備兵(常備兵は露と戦ふに充るの意)先生方(西郷等を云)に御次渡申歟、又は斜打七連の良銃を申受て我々(伊地知自身を云)兵気を一振して決戦せんか先は、朝鮮征伐の夢咄しかた/\荒々如斯御坐候敬白
  酉十二月 明治六年癸酉
          伊地知正治
   西郷吉之助様
 尚本文は朝鮮一条に取調一小冊(保存す)と成し居候得共先つ大略のみに御坐候 終り」

 後者の文書は諸星氏の発見である。 
 諸星秀俊「明治六年「征韓論」における軍事構想 」(特集 日本陸軍とアジア)(『軍事史学』45巻1号 通号177号 2009年6月 43~62ページ)

 これでもろもろの遣韓論の妄想は、消滅するだろう。




 




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