前回の投稿から一年半が過ぎてしまった。時間は止まることなく動き、年月を繰り返している。1日の24時間は無限に繰り返し,1年の365日も無限に繰り返している。永劫回帰の世界である。
時間や空間はとどまることなく流れを繰り返しているが、人間はその一時期、その一瞬を生きている旅人に過ぎない。時間は人間に平等に与えられているが、その時間の受け止め方や使い方は時期によってそれぞれ異なっている。
時に、より時間を短く感じるときもあるし、とてつも長く感じることもある。私の場合、どちらかというと、若いときは時間が長く感じられていた。その時間は、とても倦怠感を感じる時間が多かったように思える。しかし、人生のゴールが見えてきた今になっては、初めて時間の経過を速く、短く、それ故に、大切に思えて感じられるようになった。若いときに、サボっていた分を何か今頃になって取り戻したいのか、毎日がとても忙しく、ゆっくりくつろぐ時間がない生活を送っている。私が時間の大切さを本心から感じられるようになったのは、自分の人生を最後から、即ち死から意識するようになって来たからである。いつしか人生の終わりから今の自分を見るようになった。健康なら、あと何年生きられるだろうかと考えると、残りの人生があまりないことが切実に理解できるようになった。今、まだ生きている内に色々やりたいという意欲がムラムラと湧いて来たのである。
振り返ると若いときは、毎日退屈な時間を送っていたように思う。人生に意味を見いだせず、何のために生きているのかも分からず、生きていることに意味を見いだせず、何故か空しく生きていたのを思い起こす。学校に行き勉強するのが苦痛で、いやな数学の教師がいて、夢の中で数学の問題を解けなくてうなされていることがよくあった。卒業してからもそのトラウマはかなり尾を引いていた。そうでなくても、朝目が覚めても何もすることがなく、ただ天井の木目を空しく眺めていた自分を思い起こす。何をする意欲も起きず、何もしようとしなかった、朝早く起きたときは又布団を頭からかぶって狸寝入りをして時間を潰していたように思える。
その反動か何か分からないが、古希を過ぎて死線が見えだした頃から、生きている内に色々とやってみたいと思うようになった。死んだら何も出来ない。生きているからこそ、何かが出来るのである。人生が,時間がとても大切に貴重に思えて来たのである。
しかし、そうはいっても若いときのように無理は利かない。身体的にも若い頃の弾力性はない。筋肉もだんだん衰え、細くなっている。しかし、一方で、人間は身体は衰えても、精神は何故か衰えないどころか強くなっているように感じられる。だから心と体のギャップが現れるのかも知れない。身体はだんだんさび付き、油が必要になる。何もないのに、身体の節々が痛み出したりする。何かの調子に関節が痛み出し、肩が上がらなくなったり、膝が痛くてうまく歩けなくなったり、腰が痛くて立てなくなったり、多くの人が程度の差があるけれど平等に苦しんでいる。
痛みにも激痛がある。前回のブログで予告した帯状疱疹に今時発病するとは一体何を意味しているのか。少し考えてみようと思う。そして、先日又新たな激痛に襲われた。病名は尿管結石である。耐えられない痛みがあるとすれば、この二つの激痛は記録に残して置く価値があると思っている。人間が持つ耐えられない痛みを背負ってこの人生を送り続けるのは何か意味があるのか。平和な日本においても個々の人間は老苦や病苦などの苦しみに四苦八苦しているのが現実である。(次回へ)