雑感 ~ 生きることの意味 ~

  ~今ある人生をどう生き、そしてどう終えるのか~

「故郷は遠きにありて思うもの」 パレルガ的思索2

2018-07-18 07:58:33 | 日記

「故郷」(Heimat)の喪失(1)

 
  故郷は遠きにありて思うもの 
  そして悲しくうたうもの 
  よしや
  うらぶれて異土の乞食となるとても
  帰るところにあるまじや
  
   室生犀星 『抒情小曲集』 大正6年(1917年)
 
   この歌はなぜか覚えている。学生の頃上京して、故郷を思うたびに
  このセリフが出てきて、故郷の風景や両親のことが思い出されること
  が度々あった。故郷は自分を支えている心の拠り所であり、支えとい
  という意味をもっていた。今この詩を調べていくうちに、新しい発見
  に出会った。それは、この歌が歌われたのは、あの石川啄木の歌と
  同じ心境で歌われたものであることを知った。
  
    石を持て 追わるるごとく
   ふるさとを 出でしかなしみ   
   消ゆる時なし

 

   石川啄木 『一握の砂』明治41年(1910年)刊
 
  犀星の詩は東京で歌われたものではなく、郷里金沢で歌われたものである
 ということです。東京で故郷を思って歌ったのではなく、郷里に受け入れら
 れず、郷里を離れる心境を歌ったということです。
  伊藤新吉氏は「それは郷里を離れようとする時の別れの心と、もはや再び
 帰らぬという決意を歌ったものである」と述べておられる。ずっと故郷への
 望郷を歌っていると思っていたことが、思い込みや誤解だったということを
 今になって知るということは何か恥ずべきことのように思えるが、一方では
 そういう事実を学んでいなかったということでもある。
  
  今日は「故郷の喪失」についてハイデッガーの思索を見るつもりでしたが
 思わぬ展開になってしまいました。ハイデッガーの思索については、次回に
 回したいと思います。テーマは「故郷への回帰」で、次の歌がヒントです
 
    ふるさとの山に向ひて
    言うことなし
    ふるさとの山はありがたきかな
  
    啄木  『一握の砂』

 

  

  

  

  

  

   

 

  

  

  

  

  

  

  

  

    

  


      

 

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

 

    

    

    

  

            

   

   

 

 

    

  


「 Leben ist Leiden 」 ~パレルガ的思索~

2018-07-16 23:32:57 | 日記
「人生は悩みである」 < 意訳 悩みのない人生はない >
 
 「 Leben ist Leiden 」とはドイツの哲学者ショウペンハウエルが残した言葉です。ニーチェ哲学に大きな影響を与えたショウペンハウエルの哲学は厭世主義(ペシミズム)の思想家として、日本にも明治の頃から紹介されています。『平家物語』や『方丈記』に見られる日本人の持つ限りない無常観が、彼の持つ厭世観に重なって広く普及したものと思われます。
 しかし、この言葉はショウペンハウエルの思想の表面をいった言葉であるにすぎないと思えます。彼の思想の真髄は「人間は本能的に生きようとする意志を持つ」という所にあります。日常的にも、人間が「本能的に生きようとする意志を持つ」ということは想像できます。私たちが危険を避けて生きていることを考えれば普通に理解できます。今回の「西日本豪雨」おいても多くの人々が犠牲になられ、心よりご冥福をお祈りしたいと思います。助かった人たちも「死ぬと思った」、「もう終わりと思った」という証言がいくつも聞かれました。危機一髪で命拾いした人も多く居られました。人間は誰しも危機状態にあって「生きようとする意志」を持ち行動しているのです。ニーチェがショウペンハウエルから受け継いだ真髄はここにあります。ニーチェは「本能的に生きようとする意志」を「力への意志」という形でさらに高め、発展させて行くのです。
 「力への意志」とは、人々が困難に出会ったとき、その現実から逃げず、それを受け止め、勇気を持って前に進むことです。たとえ、人生の意味や目的を失いかけたとしても、絶望の果てに投げ出されたとしても、その現実を誠実に受け止め、希望へと転換して生きて行こうとすることです。ニーチェはこれを「運命愛」とも呼んでいます。それは、現実逃避や現実遊離の立場ではなく、あくまでもこの現実(大地)にしっかり根を下ろして、前進することを意味します。人間一人ひとりが持つ「生命力」はどんなときも「力への意志」を失うことなく持ち続けています。ニーチェのいう「超人思想」とは、「力への意志」によって、力強く生きる人間の姿であると理解しています。
 パスカルは「人間は考える葦である」と述べました。人間は本来、「葦」のように弱くはかない存在です。しかし、パスカルは人間は「考える」ということにおいて、偉大な存在であると述べました。人間が持つ弱さ、はかなさを認め、そこに挫折、苦悩、絶望して潰されてしまいそうになったとしても、それを受け入れて行くことの勇気がニーチェのいう「運命愛」の意味だと思います。ニーチェの思想は、打ち寄せる波(困難)を何度でも受け入れて行こうとする人生肯定の思想であると思います。彼は、虚無状態(ニヒリズム)においても、人生を否定せず、肯定して、強く逞しく生きて行こうとする「生命の躍動」に、人間であることの意味(価値)を見出していると思います。それは、人間の生命の弱さ・衰退・頽廃した状態に留まるのではなく、そこからの「生命の飛躍」を意味しています。生命にはもともとその力があるという強い確信を感じます。
 前回、尾崎について書きました。もうずっと投稿していないのに何故か訪問者が増え続けている。「Why?」という疑問符が頭に浮かんできます。私見によれば、ニーチェの人生肯定の哲学と尾崎豊の生きざまには多くの共通点があることに気づきます。尾崎の曲に「存在」というシングルの作品があります。そのタイトルからして哲学的な雰囲気が漂っているのですが、そこで、尾崎は何度も大声で叫び続けます、「 受け止めよう~ 愛と誠で 目に映るものすべてを! 」と。
 26歳で夭折した尾崎豊の人生は、全身全霊、全力疾走の人生であった。尾崎の詩には、激しいアクションとは裏腹に優しいことばがいくつも散りばめられている。人々はそこに「心の安らぎ」を見出すのである。彼の詩には、人生を愛し、人間を愛し、人生の意味を問いかけ、人生を逞しく力強く生きて行くための生命力肯定のメッセージが多く宿されていると感じます。尾崎の澄み通った歌声は、これからも、時代や年代を超えて人間の内面的で普遍的な魂のもとに届き続けられるだろうと思います。
 私たちは「人生は悩み」であるという共通の土台からスタートすることによって、お互いに他者を真に理解し合える存在になれると思います。人間が本来「弱い存在」であることを共有することから、日常を健康に生きることの大切さや自分の身体を整えることの大切さを知ることができます。これらの身心の安定さを求める力こそが、ニーチェのいう「力への意志」であり、生命の躍動だと思います。「強く逞しい」とは、現実に柔軟に適応するバランス能力の作用であると感じています。どのような困難な状況に遭遇しても、身心ともに社会や自然に対して調和的で柔軟な行動がとれることが大切なのではないかと感じています。
 ニーチェの教えは、「人生の悩み」を「生きる力」に「転換する力」が誰にでも自己のうちに宿っていることを教えています。こうして人間は一歩一歩人間として大きく成長して行くのかも知れません。最後に私の好きなニーチェの言葉を紹介します。

 「 脱皮しない蛇は死んでしまう 」 ニーチェ『曙光』より