
きょう、郵便小包が届いて、中を開けると、ロイズのクッキーの詰め合わせでした。贈り主が、このブログを見ていてくれているので、たぶんですが、先日のバレンタインデーに、チョコを貰えなかったという記事を見て、贈ってくれたようです。感謝で、涙ちょん切れ物です。
贈ってくれたのは、私の大事な友人の娘さんで、赤ちゃんの時から知っている女の子です。女の子といっても、たぶんもう25歳を過ぎたはずで、昔風に言うと、妙齢の女性ですかね。ですが、小さい時から一緒にスキーに行ったりしているので、どうしてもいつまでも子供として見てしまいます。お母さんが美人なので、当然のように、この子も美しく成長しました。東京で頑張っている弟も美男子で・・・・友人は太っているんですが・・・子供達はお母さん似で良かったような・・・・。
この女の子は今、自分の夢の実現の為に、日々努力しているところです。中々実現するのは難しいような夢です。
私が夢ということを意識するようになったのは、中学1年の時に読んだ、庄司薫さんの「バクの飼い主めざして」というエッセイの中で、「底の抜けたバケツのような夢を持て」というような一文からでした。すぐに実現するような夢は、夢ではなく目標でしかありません。大きな夢を抱いて、その実現に向けて努力する、そのことが大事なんだと教えられました。
とかく今の時代は、結果が全てのような風潮ですが、私的には、それよりもプロセスの方が大事だと思っています。
夢の実現・・ま~他の事でもそうですが・・・実現するにこしたことはありませんが、中々人生、思うようには行かなくて、実現しない事が多いでしょうし、実現しない事の方が多いのではないでしょうか。それは、たとえば、徒競走で全員が一等賞になれないように、一生懸命に、全員が努力しても、結果はそれぞれに違う物です。どんなに努力をしても、人智では結果を覆せない時、私はそこに、神様の差配というものを感じます。
「人事を尽くして天命を待つ」自分で出来る事をやれるだけやったら、後は神様が結果を決めてくれるので、考えてもしょうがないよ。みたいな感じでしょうか、
自分が極限まで頑張ったか、努力したかは、自分自身と、神様以外分かりません。だからこそ、自分自身に甘えることなく、努力し続けられたか、そのプロセスが大事なのだと思います。
どれだけ努力をしても全てが結果には結びつきません。マリナーズのイチロー選手などは、野球の技術的な練習はもちろんですが、コンディションを整えるための、私生活での節制は相当なものだと思います。日々努力を怠ることなくやっていると思いますが、それでも結果として、10割打てるわけではありません。イチロー選手はたぶん、「3割打てればいい」とは思っていないと思います。常にヒットを打とうと努力して、結果として3割越えしている事に、満足というか、納得はしていると思います。それは、自分自身努力してきた事に自信があるからだと思います。
数学の問題などでは、答えよりも大事なのは、どうその問題を解いたかの方がより大事です。テストでは、答えだけが評価されるかもしれませんが、そんなのは適当に書いても当たるかもしれません。ですが、その解き方をきちんと理解していなければ・・・違う問題でも適当では当たらないと思います。
人生に置き換えると、努力しても、間が悪いというか、ついていないと言うか(自分のことを言っているようです)、何事も上手くいかないときも有ります。こういうとき私は、「努力を全力でしたか」を自問自答します。ま~大体は私の努力が足りなかったり、判断ミスが大抵はあるので、ま~それじゃしょうがないわな、と諦めるのですが、どう考えても、自己責任じゃないときもあります。そんなときは、神様の差配だからしょうがない。神様が与えてくれた試練だと、思うことにしています。つまり、努力していれば、自分自身に対しての言い訳がつくわけで、自己納得できるということが、一番大事だと思います。
人生において面白いのは、努力に関係なく、幸運も転がっている事があるということです。先のテストでの適当な答えが、正解なのもそうでしょうが、100円で買った宝くじが何億も当たったり、家の庭に高額のお金が投げ込まれたり(お金の事ばかりだな)、車がペシャンコになるような事故にあっても、どこも怪我してなかったり、世の中で、幸運と言われるようなことって・・・やはり、神様の差配だと思います。
もちろん、幸運に与(あずか)れればいいのかもしれませんが、中々神様も忙しいようで・・・やはり、努力が大切です。
私の大事な女の子には、夢を追える環境にいることに感謝してほしいのと、夢に出会えたことに感謝して、日々努力してほしいなと思います。

送ってもらったロイズの紙袋に入ってご満悦のみかん。