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東北の切支丹殉教の地を訪ねて(一関国際ハーフマラソン大会≪その1≫)

2015年09月29日 | 観光&歴史

【東北のキリシタン殉教地】

5月の仙台国際ハーフマラソンに出走して戦国武将伊達政宗のルーツと生き様を訪ね、7月の被災地1000キロ縦断リレーに参加して政宗の海外に馳せた夢と遣欧使節支倉常長の現を訪ねながら、やがて仙台藩にも吹き荒ぶであろうキリシタン弾圧の嵐を予見していた。政宗が支倉常長の慶長遣欧使節を送り出した1613年は、家康のキリシタン禁制令もまだ東北には及ばず、仙台藩内での布教も自由に行われて、有能な家臣や領民がこぞってキリシタンになっていたが、徳川三代に亘るキリシタン弾圧が厳しくなると、さすがの政宗も将軍家の権勢に抗しきれず、やむなく領内へのキリシタン禁制令を布告、やがて東北各地にキリシタン迫害の嵐が吹き荒れてゆく。そして遣欧使節支倉常長の嫡男常頼が、仙台城下を流れる広瀬川岸で斬首の刑となり、遣欧使節の派遣に関わった後藤寿庵は、主君政宗の棄教の勧めを断わり逃亡、寿庵の治政下にあった岩手県水沢地区は東北最大のキリシタン殉教地になっていく。遣欧使節以降に襲ったキリシタン弾圧の爪痕を訪ねなければ、政宗と常長の夢と現を訪ねる旅は終わらない、東北の迫害と殉教の地を訪ねなければ、という思いが日毎に募ってきた。
9月に予定している岩手県一関国際ハーフマラソン参加を機に、一関市に隣接する水沢の殉教地に、後藤寿庵の生き様を訪ねてみよう、そして他の殉教地にも足を伸ばしてみたいと、東北の殉教地について調べてみると、岩手県には水沢の他に大籠地区、宮城県には仙台の他に東和地区、山形県には米沢、そして福島県に会津若松が殉教の舞台になっているではないか。殉教地というと九州長崎を思い浮かべるが、東北にこれほどあったとは予想外である。今回は一関マラソンのついでなので全ては無理として、時間の許す限り訪ねてみたいと思っている。
東北にキリスト教が初めて入ったのは、秀吉の奥州仕置によりキリシタン大名レオ蒲生氏郷が伊勢松阪から会津若松に入った1590年といわれている。当時はまだ宣教師が東北に来ておらず、フランシスコ会の宣教師が江戸に入ったのが1601年、宣教師ルイス・ソテロが1610年から江戸で活躍して政宗と親交を結び、仙台に呼ばれて東北の布教の道が開かれ、多くの宣教師が東北で布教を始めたという。1613年に支倉常長の慶長遣欧使節がキリスト教の布教と引き換えにメキシコとの直接貿易を求めて出帆する。やがて幕府のキリシタン禁制が厳しくなると、九州や京都のキリシタンが信仰の自由を求めて東北に逃れてくる。1619年に京都大殉教(52名)1622年に長崎大殉教(55名)1623年に江戸大殉教(55名)そして殉教の嵐は東北にも襲いかかってきた。

【岩手水沢の後藤寿庵】

東北の殉教地のひとつ岩手県奥州市水沢は、伊達政宗の家臣で熱心なキリシタンの後藤寿庵の知行地である。東隣りの一関市藤沢には、その50年ほど前に大籠地区の鉱山に製鉄技術を買われて備中からやって来た千松兄弟がキリスト教を初めて伝えたといわれており、岩手県南部の水沢・藤沢一帯はまさに東北の聖地だったという。水沢の領主後藤寿庵は、政宗がキリシタン禁止令を布告した翌1621年に、奥州のキリシタン代表者17名がローマ教皇宛に送った連署状の筆頭に署名する東北キリシタンの中心人物であり、政宗は有能な家臣の寿庵を惜しんで棄教を勧めたが、信仰を捨てるわけにはいかないと知行地も家臣も捨てて地下に潜ってしまう。後藤寿庵とはどんな人物だったのだろうか。
寿庵は岩手県一関市の藤沢城主岩淵秀信の次男に生まれ幼名を又五郎といった。岩淵氏は源頼朝の奥州征伐の軍功で奥州総奉行として陸奥国を拝領した葛西氏の一門で、秀吉の小田原攻めに遅参した葛西氏が秀吉に滅ぼされると、落城した藤沢城から又五郎は西国の長崎に落ちる。なぜ長崎だったのか。藤沢城の大籠地区の鉱山に静かに広まっていたキリシタン千松兄弟の影響を受けていたのだろうか。長崎でキリシタンになるが秀吉の長崎26聖人処刑の迫害に五島列島へ逃れた又五郎は、宇久島で洗礼を受けて霊名ヨハネ(スペイン読みでジョアン)をもらい五島寿庵と名乗り、南蛮文化から様々な西洋学問を学んでいく。
寿庵は、家康の命で日本人初の太平洋横断をしてメキシコから帰国した京都商人田中勝介を長崎に訪ねて親交を深め、乞われて京都に上り勝介宅に滞在、そこで政宗の命で西洋の国情を聞きに来ていた常長と会う。田中勝介は寿庵を政宗の家臣に推挙、1612年に1200石で召し上げられて見分村(水沢市福原)の領主となり、政宗の家臣後藤信康の義弟として後藤寿庵を名乗る。荒野を灌漑事業で開墾する水路「寿庵堰」を造り、大坂の陣では政宗の鉄砲隊長を務め、熱心なキリシタン領主として天主堂を建て家臣や領民の殆どが信徒となり、全国から宣教師や信徒が訪れて、水沢は東北の聖地となる。
寿庵は支倉常長の慶長遣欧使節の派遣に大きく関わる。仙台藩内で布教活動をする宣教師アンジェリスがローマイエズス会本部に宛てた書簡に<ルイス・ソテロは、後藤寿庵の仲立ちで、政宗と親交を結ぶとメキシコに行く船の建造を勧めて、交易の利益に期待を政宗に抱かせ、船の準備が整うとスペイン国王とローマ教皇に使節を派遣すべきと進言、もし受け入れなければ自分は乗船しないと寿庵を困惑させ、やむなくソテロの言い分を政宗に伝えた。(中略)政宗が大使に任命したのは一人のあまり重要でない家来(支倉常長)であった。>とある。ソテロは敬虔なキリシタンの重臣後藤寿庵を遣欧大使に適任と考えていたかもしれない。政宗はそして寿庵もキリシタン禁制下で遣欧させるリスクを回避するため、あえて中級家臣の支倉常長を大使に選出したのかもしれない。
支倉常長が遣欧から帰国した1620年に政宗はキリシタン弾圧を始めるが、その翌年に後藤寿庵を筆頭にした奥州のキリシタン代表者たちがローマ教皇に宛てた連署状で<去歳上旬の此、伊達政宗、天下を恐れ、私の領内において迫害をおこし、数多くの殉教者御座候。>と政宗の弾圧を伝えている。主君政宗に裏切られた寿庵の思いが込められている。家光が3代将軍となりキリシタン禁制は更に厳しくなった1623年、政宗は有能な寿庵を惜しみ棄教を勧めるが、寿庵は信仰に生きるとして知行地を去る。逃亡先は南部藩とも秋田藩ともいわれるが、寿庵の去った水沢に、やがて殉教の嵐が吹きすさぶ。2008年にローマ教皇に列福された「ペトロ岐部と187殉教者」のペトロ岐部が潜伏して捕えられたのもここ水沢である。 

【ローマまで歩いたペトロ岐部】

岩手の水沢に潜伏して捕らわれたペトロ岐部は、「日本のマルコポーロ」「世界を歩いたキリシタン」といわれ、遠藤周作著「銃と十字架」の主人公である。遠藤周作氏は、あとがきに<10数年前にふと読んだチースリック教授の論文が私にペテロ岐部という、人々には知られていないが、あまりに劇的な生活を送った17世紀の一日本人の存在を教えた。(中略)彼は今日まで私が書き続けた多くの弱い者ではなく、強き人に属する人間である。そのような彼と自分との距離感を埋めるためやはり長い歳月がかかった。>と書いている。10数年前とは、禁教下で捕らわれた外人神父が残酷な拷問に<神はなぜ黙っているのか、神はいないのか>と絶叫して転んでしまう代表作「沈黙」を書かれた時期である。神の存在を疑い拷問に屈し棄教してしまう人間の弱さを描きながら、ようやく神を信じキリストに殉じる強き者に辿り着く、ご自身の信仰の軌跡を語っておられるように思える。
禁教下の日本を追放され単身ローマに渡って神父となり、キリシタン迫害の日本に戻って拷問に耐えて刑死したペトロ岐部の数奇な生き様を、遠藤周作著「銃と十字架」から見てみたい。父ロマノ岐部は、キリシタン大名大友宗麟の支配する豊後国東半島の岐部を本拠にする地侍で、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についた宗麟の子義統が東軍の黒田如水に敗れて岐部一族は崩壊、ロマノ岐部は二人の子供を長崎の有馬神学校に預けた。神学校は1580年に巡察師ヴァリニャーノが日本人の神父叙任の門を開くために開校、2年後に4人の生徒が天正少年使節団としてローマに派遣されたが、1596年に秀吉がキリシタン禁止令を布告すると、翌年には長崎で二十六聖人が磔の刑に処されて、二人の入学した神学校はバラ色の学園ではなかった。13歳で時の権力者の禁じる学問を学ぶ将来のない暗黒の神学校で、兄弟はキリスト教にどう向き合おうとしたのだろうか。
六年の勉学を終えて有間神学校を卒業するが、日本人を蔑視する外人宣教師が多いなか、神父になる夢を抱いてひたすら教会の雑用に甘んじていたが、1610年の岡村大八事件を契機に家康が禁教令を布告すると、新藩主有馬直純は改宗して有馬神学校を壊しキリシタン迫害に転じ、岐部たちは有馬から長崎に逃れる。1614年の家康の再度の禁教令で、外人宣教師と主だった信徒がマカオとマニラに国外追放となり、岐部は日本に潜伏せずマカオに追放されるグーループに加わり、マカオの神学校で神父になる道を選択した。
日本に残って迫害される仲間を見捨てた自責の念に駆られながら、マカオに渡った岐部は、聖ポーロ学院と呼ばれる美しい建物で、いつか日本に戻って彼らを救える神父になれるという希望に燃えていたにちがいない。1615年の大阪夏の陣で、キリシタンが期待した豊臣方が敗れて徳川政権が確立すると、キリシタン弾圧が更に強化され、日本信徒が続々マカオに避難して、ついにマカオの教会は日本への積極的な布教支援を断念、日本人神学校が閉鎖されて再び放り出された岐部は、日本に戻り同胞信徒と迫害の苦しみを分かち合う生き方ではなく、マカオで会ったローマ帰りの荒木トマスに感化されたこともあり、ローマに渡って神父になる道を選んだ。岐部は再び日本での迫害と殉教から逃げた、のである。
岐部は数人の同胞とマカオを出発、まずインドのゴアへ船で渡り、そこから一人でペルシャのバグダードを経て、シリア砂漠を横切り、日本人で初めてエルサレムに入り、3年の旅路を経て1620年にローマに辿り着いた。苛酷な大自然と異教徒の国々を無一文で単独踏破する想像を絶する苦難の旅路で、闇の砂漠の中で信仰の疑惑に襲われ、迫害下の故国で日本信徒たちの苦しみに何の意味があるのか、神はいないのではないか、自問自答したに違いない。そしてエルサレムの処刑場ゴルゴダに立って、イエスが彼の愛した者たちに命を捧げて死んだことを自分の心に噛みしめ、ローマで神父になりイエスの後を追うことを自分の使命と決めたにちがいない。
ローマは彼を迎え入れた。迫害の日本から単独で海を渡り砂漠を横切りローマへやってきた岐部の熱意にローマ教会は圧倒された。わずか1年で待望の神父に叙階され、イエズス会に入会、そして1623年、神父となった岐部は、リスボンからインド洋艦隊に乗り、迫害の日本への死出の旅に出た。ローマの神父に宛てた手紙は<私は神のお助けと殉教者の功徳とを信頼している。そしてかつてローマの初代教会でも証明されたことが殉教者の血によって日本でも起こることを望み、キリストを知る人がふえることを願っている>キリストの死を体現する覚悟の遺書であろう。アフリカの喜望峰を回ったあと座礁や暴風に襲われ、1年かけてようやくインドのゴアに到着する。
岐部は西欧を往復する長い旅の間に、スペインやポルトガルがキリスト教布教の名目で宣教師を送り込み領土的侵略の橋頭保を作るという現実を見てしまった。そして岐部は、イエスの愛の思想は西欧諸国の領土的野心とは全く別次元のものであり、日本の為政者の誤解を解くには外人宣教師ではなく日本人神父が日本で布教することが必要だ、だからどうしても日本に戻らねば、と強く決意したにちがいない。しかしマカオに着いた1625年、日本での迫害と残忍な拷問の情報に、日本に戻り捕らわれて受ける拷問の苦痛に耐えかねて転んでしまう恐怖に囚われたのか、岐部はマカオから日本ではなくシャムに赴く。アユタヤに追放された日本のキリシタンを救うためという理由で。三度、日本での殉教から岐部は逃げたのである。
岐部はついに迫害の日本に戻る決意をする。1630年にアユタヤからマニラに入り、再会した長崎の先輩ミゲル松田と日本行きの船を調達、16年ぶりに日本の地を踏んだ。長崎に潜伏するが1633年の大検挙で長崎の秘密組織は崩壊、イエズス会管区長のフェレイラ神父が穴吊るしの拷問に耐え切れずに棄教、マニラから共に日本に潜入したミゲル松田は疲労と空腹で行き倒れて死んでしまう。残された岐部はもう長崎に残ることは出来なかった。岐部は東北の仙台藩に逃亡した。
東北にはまだまだ未開の土地が多く追手の目から逃れやすい、定住のない者でも働ける東北の鉱山はキリシタンの格好の逃げ場であった。仙台藩主伊達政宗はキリシタンに寛大といわれ、主君政宗の棄教の勧めを拒絶して追放されたキリシタン後藤寿庵の旧領地で、旧臣たちが密かに信仰を守り続けている水沢に直行した岐部は、そこで潜伏する二人の宣教師に再会する。1614年の国外追放令に逆らい日本に潜伏していた有馬神学校の恩師ポルロ神父と、岐部ら共にマカオに追放されたマルチノ式見神父である。彼らは、生き延びるために逃げていたのではなく、いずれ捕縛され拷問され処刑されるまでの間、一人の信徒でも力付け慰め勇気を与え、苦しみを分かち合うのが潜伏司祭の使命であると、密かに水沢で布教活動を続けていたのである。
1636年にキリシタンに寛容だった仙台藩主伊達政宗が亡くなる。翌年に島原の乱が勃発すると、十字架の旗を掲げる反乱軍を鎮圧した幕府は、日本全土に徹底的なキリシタン弾圧を命じた。新しい仙台藩主となった忠宗は幕府の強い意向に屈し、五人組連座制度を強化して藩内の徹底的捜査を決意、1639年ついにペトロ岐部とマルチノ式見神父は密告されて捕縛、病気で衰弱していたポルロ神父も自首した。3人は仙台から江戸に送られた。評定所で老中松平信綱・堀田正盛ら重臣による直々の詮議が始まり、そこに拷問に耐えかねて棄教した元イエズス会管区長フェレイラ神父が現れて3人に改心を迫るが、逆に岐部に罵倒されてしまう。棄教してキリシタンを転ばせる側に回ったフェレイラは、日本を沼地、と形容したという。元弟子にイエスを裏切ったユダの姿を見せるフェレイラの屈辱は如何ばかりだったろう。将軍家光が直々に<宗門の教え>を尋ねる異例な取り調べが行われ、訊問の鬼と言われた井上筑後守の棄教勧告を拒絶した3人に、ついに恐れていた「穴吊り」の刑が宣告された。
逆さに吊られ穴の中の汚物の臭いと逆流する血のため、激しい頭痛と意識の混濁のなかで、棄教への甘い誘いに少しでも肯けば苦痛から解放される、非情で残虐な拷問である。ひとたび肯けば、神父になるための辛苦の努力、信徒に敬愛される誇り、長い布教の功績、これまで迫害に耐えてきた自負、全てが失われる、そして転び者の汚名を生涯受ける屈辱だけでなく、迫害に耐えている多くの信徒を裏切り、棄てることになる。3人は祈りを唱えて互いに励まし合い、苦痛と苦悩と闘い続けた。混濁する意識のなか苦痛から解放される死を望むが、安易な死を決して許さない苛酷な拷問に、マルチノ式見神父とポルロ神父はついに転んでしまう。60歳を越した二人にはもう耐えられなかったのだろう。もしかしたら失神してうな垂れただけだったのかもしれない。
二人の転びは岐部には衝撃だった。師と先輩に裏切られた、見棄てられた、烈しい肉体的苦痛に加えて絶望の感覚が襲う。頭上から役人が、仲間も転んだ以上、無意味な苦しみを味わい続けるなとやさしく語りかける。岐部はその誘惑に闘い続けた。岐部は死に赴いたイエスの苦しみを共に味わっていた。一緒に吊るされる同宿を励ます岐部に怒った役人は、穴から吊り上げて裸の上に置かれた小さな乾いた薪にゆっくり火がつけられ、やがてその腸が露出して・・、火あぶりの拷問の間も棄教を勧め続ける役人に<あなたに私のキリスト教は理解できぬ。だから何を言っても無駄なのだ>と答え、岐部はついに死んだ。イエスがゴルゴタの丘で十字架にかけられ<わが事、なり終れり>と叫び息を引き取ったように。
棄教を口にした二神父は、穴吊りから下ろされるが、屋敷牢の中で更に訊問を受け続ける。棄教した絶望感に打ちのめされて、問われるまま自分たちの教え子や匿ってくれた信徒たちの名を白状してしまう。ポルロ神父の教えた信者に、遣欧使節支倉常長の息子常頼の名も含まれていた。ために常頼は斬首となり、支倉家は改易となる。その後二神父はキリシタン牢に放置され心身共に衰弱して数年後に死んだという。著者遠藤周作氏は<二神父の惨めな末路を考えると、私の眼に泪がにじむ。彼らの苦闘と受けた凄まじい拷問を考える時、非難や批評の言葉を言える筈はない。この二人の神父もまた岐部と同じように、神の御手に招かれたと私は信じたいのだ>そして<有馬神学校で触れた基督教はこの男の魂をひきつけたが、その西洋の欠陥(波乱と冒険にみちた旅で見た基督教国の侵略的植民地主義)が同時に彼を苦しめつづけた。彼は誰にもたよらず、ほとんど独りでこの矛盾を解こうとして半生を費した。その殉教は彼の結論でもあった。彼は西欧の基督教のために血を流したのではなかった。イエスの教えと日本人とのために死んだのだ・・・。>と結んでいる。 

【山形米沢のルイス甘糟右衛門】

山形県の米沢が殉教地であることは、7年前に新潟県上越市の教会でいただいた小冊子「米沢の殉教者」(著者:日本二十六聖人記念館・結城了悟)で初めて知った。2008年に上越市で開催された高田城ロードレースに参加して、家康の六男忠輝に嫁いだ政宗の長女五郎八姫を描いたステンドグラスのあるカトリック高田教会を訪ねた折、応対に出られたイタリア人神父さんが、政宗がキリスト教の良き理解者であったこと、ご自身が支倉常長の持参したという書簡を求めてローマまで行かれたことなど、流暢な日本語で親しくお話しいただいたが、その時に受付に置いてあった小冊子をめくると、裏表紙に私の高校がある白石城址の写真があったので持ち帰ったのだった。
小冊子の巻頭言に<ローマ教皇が2007年6月に「ペトロ岐部と187殉教者」の列福を宣言され、翌年11月に長崎で列福式が執り行われることになり、その188人の中に新潟教区の信仰の先達である米沢の殉教者53名が含まれている>とあった。米沢は上杉藩30万石の城下町であり、殉教者のほとんどが上杉家の家臣で、家老の志駄修理は主君定勝に全ての信者を殺すなら3000人以上の家来を殺さなければならないと言ったという。この小冊子を参考に米沢の殉教をみてみたい。
米沢は山形県南東部に位置する最上川流域の盆地で、室町時代初期に伊達氏の支配下となり、政宗の祖父晴宗が福島桑折から米沢に本拠地を移して政宗生誕地となる。秀吉の命で政宗が宮城岩出山に移ると、米沢は会津のキリシタン大名蒲生氏郷の支配地となり、沢城主になった蒲生郷安白石城主になった蒲生郷成は共にキリシタンといわれ、会津若松だけでなく米沢や白石にも教会が建てられ、キリスト教の信者も増えていったに違いない。蒲生氏郷の死で1597年に越後から上杉景勝が会津に入封すると、米沢城主は直江兼続、白石城主は甘糟景継に代わる。この甘糟景継が後に米沢殉教者の指導者になるルイス甘糟右衛門の父である。
1600年の関ヶ原の戦いで西軍に組みして敗れた上杉景勝は、会津藩120万石から米沢30万石に減移封されると、白石城も伊達政宗の支配下となり、甘糟親子は白石から米沢に移る。キリシタン蒲生氏が会津若松と米沢と白石で育んだキリスト教の萌芽が、上杉氏の米沢減移封により米沢の地で大きく花開いたのではないだろうか。白石城主だった甘糟景継の子右衛門信綱は、白石で蒲生キリスト教に触れたのであろうか、政宗が江戸から迎えた宣教師ルイス・ソテロに洗礼を受けて、ルイス甘糟右衛門を名乗る。
家康のキリシタン禁教令が布告され全国に迫害の波が押し寄せても、米沢は平和な別天地だった。藩主上杉景勝は幕府の取り調べにいつも<当領内には一人のキリシタンも御座無く候>と答えていたという。景勝には、豊臣政権時代に五大老の一人だった誇り、家康の横暴に石田三成と共謀して決起した気概、義の武将上杉謙信の後継者たる自負、家康に安易には隷属しないという強い思いがあったのだろう。景勝の側室で定勝の実母四辻氏(桂岩院)の甥・猪熊光則は、日本唯一のキリシタン公家の殉教者といわれ、米沢に逃れて名門山浦上杉家の養子になっている。1626年の米沢の殉教者53名は、上杉定勝に直接仕えた家臣とその家族であり、上杉家がキリシタンに寛容だった背景が見えてくる。
1623年に景勝が死去して上杉藩内の勢力バランスが崩れた。景勝と共にキリシタンの良き理解者だった総家老志駄修理に対立する家老広居出雲が、若き当主定勝にキリシタン弾圧を働きかけたのである。幕府のキリシタン弾圧が激化し、島原雲仙地獄での残虐な拷問で26人が殉教した1927年の翌年、江戸に居た上杉定勝から信者調査の指示が米沢に届くと、志駄修理は米沢に信者は残っていないと報告するが、広居出雲は信者たちの行動を詳細に江戸へ訴えたのである。信教の現実を突き付けられた定勝は、信者である家来たちに間接的に棄教を働きかけたが、信仰のために生命を捧げる覚悟ができていて益々自由に振る舞って、志駄と広居が彼らの運命を議論している間、米沢のキリシタンたちは、祈ったり励まし合うため互いに訪問したり、信仰を強めてその喜びに浸っていたという。
1929年1月11日、上杉定勝はついに最後の決定を下した。会津若松にいたポルロ神父が米沢殉教前夜のことを<誰も牢屋に入れられなかった。死刑検者たちが殉教者たちの家に行き、彼らを殉教地に率いた>と伝えている。後にペトロ岐部と水沢に潜伏して捕縛され江戸に送られて拷問を受けたポルロである。当時の米沢ではキリシタンに対する偏見がなかった。迫害は藩主定勝の望むものではなかった。将軍家光と老中の決めたことである。彼らは信仰のため、そのただ一つの理由だけで死刑に定められたのだった。
米沢教会の指導者であるルイス甘糟右衛門は、志駄修理の二人の家来が宣告を伝えると、喜びをもって彼らを迎え、二人の前で新たにその信仰を宣言し、自分の助命に努力された家老に感謝の念を伝えることを頼んだ。知らせを聞いて息子たちがやってきて<お父さん、よかった、我らの望みが全うされた>と喜びを分かち合い、共に殉教するため妻と子を迎えに戻ったという。翌12日の早朝、準備していた白装束に着替えて、小姓が聖母マリアの旗を先頭に、家来たち、子供を抱く婦人たち、寄寓していた浪人たちと二人の息子、最後にルイス甘糟が続いて、雪道を殉教地の北山原に向かった。処刑場を取り仕切る奉行は見物人に向かって<ここで死ぬのは信仰のために生命を捨てる身分の高い人であるからみんな土下座するように>頼んだという。
この日、北山原刑場で43名、糠山花沢で10名が斬首されたという。処刑が終わると信者たちはすべての殉教者をそこに葬った。殉教者たちの首は纏められて新しい着物で覆われていた。後に米沢に入る道端に一緒に晒首にされたという。小冊子は50ページばかりだが、カンディドという14歳の少年の話でポルロ神父の殉教記録は終わっている。前年に洗礼を受けたばかりだという少年の生命を助けようと、処刑検者が<まだ少年で教えのことが何も分かっていないだろうになぜそのように死にたいのか>と何度も尋ねるので<私が死にたいかどうかは私の問題です。生きるために信仰をやめなければならないならこの命は欲しくない>と力強く言った。斬られた首は雪の上に落ちたが、その顔はまだ天を仰いで微笑んでいた、という。(掲示の写真は9月26日に訪ねた北山原殉教地)

【北原白秋の邪宗門】

殉教のキリシタンで思い浮かぶのが北原白秋の「邪宗門」である。邪宗門とは日本古来の正統な宗教に反する邪悪な宗教のこと、江戸時代にキリスト教が邪宗門として弾圧されてきたが、昨年8月のリサイタルで我がコーラス部を指導されている吉川真澄先生が北原白秋の詩<邪宗門>を歌われたことを思い出した。現代音楽の作曲家平野一郎氏が、北原白秋の詩集「邪宗門」を女声と映像と十五楽器によるモノオペラに作曲したもので、平野氏は公演チラシに<白秋の邪宗門は、南蛮趣味と西方憧憬に彩られた処女詩集で、そこには童謡風・小唄風から浪漫派風・象徴派風に及ぶ多彩極まる詩が共存し、舶来の文物への憧れが謳い上げられる一方で、失われゆく日本の風土への郷愁と哀惜が滲み出してもいます>と書かれていた。モノオペラとはただ一人の歌手によるオペラのこと、吉川先生が持ち前の澄み切った美しいソプラノで、白秋の難解な文語体の詩を朗読したり朗唱したり、時に童謡風な音色を散りばめて熱唱され、会場内は現代音楽の不思議な魅力に圧倒されていた。
№1 邪宗門扉銘:<ここ過ぎて曲節の悩みのむれに、ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、ここ過ぎて神経のにがき魔睡に>
№2 邪宗門秘曲:<われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。・・・いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、百年を刹那に縮め、血の磔背にし死すとも>
作曲された平野一郎氏は、京都宮津市の出身で<現実と幻想、現代と太古を融け合わせ、忘れられた伝説や異界の音風景を今に蘇らせつつ、多彩な音楽世界を拓いている>と紹介されている。吉川先生のリサイタルに来られていた平野氏に「私の尺八師匠が宮津市出身で、一昨年のお墓参りの際に宮津のカトリック教会で細川ガラシャ像に会ってきました」と挨拶したが、細川ガラシャの夫が丹後国宮津城主細川忠興で、ガラシャの父明智光秀が豊臣秀吉に敗れた際、反逆者光秀の娘として宮津の山奥に幽閉され、そこでキリスト教に触れたといわれる。平野氏が「邪宗門」の作曲を思い立ったのは、生まれ故郷の宮津にキリシタン文化が流れていたからかもしれない。
作詞の北原白秋は、「からたちの花」「この道」「ペチカ」など童謡の詩人として有名だが、まさか「邪宗門」のような耽美的な作品を書いていたとは知らなかった。白秋は、有明海に面する柳川沖端の海産物問屋に生まれ、交易する異国文化や掘割の日本的風土に多感な少年時代を過ごしたという。父親に無断で中学を中退して上京、早稲田大学に入学して新進詩人として活躍、白秋22才の時に、与謝野鉄幹・木下杢太郎・平野万里・吉井勇と5人で九州を旅し、その旅行記「五足の靴」を東京の新聞に投稿したが、その時の長崎・島原・天草のキリシタン遺跡を探訪して得た着想を発展させて、明治42年に処女詩集「邪宗門」を上梓したという。
今回の一関国際ハーフマラソンに参加しながら、東北のキリシタン殉教地を訪ね歩きたいと思っているが、16・7世紀の日本人がなぜこうも易々とキリシタンに染まっていったのか、なぜ残虐な拷問に耐えてなお棄教せず死を迎えることができたのか、そんなことを考えながら歩き回っていれば、もしかしたら北原白秋の描いた官能的で耽美的な象徴詩「邪宗門」の世界に、自分も近づけるのではないか、そんな期待が芽生えてきたのである。


2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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カトリック (ぴあの)
2015-10-24 07:14:19
なかなかコメントがつけられず、失礼いたしました。

実は少女の頃、カトリック教会と縁があったことから
いずれは入信するのではないかと考えていたことがありました。
でも、毎週のミサへの出席やらモロモロのつとめやらを果たす自信がなかったことと、
神の存在を本当に肯定できるのかという、まさに遠藤周作が
生涯にわたって問い続けた問題でした。
(今はすっかり生臭くなってしまい、そんなことすら考えなくなりましたけれど)

ああ、「五足の靴」!
私は文字通り入り口を見ただけなので、ゆっくり歩きたい場所の一つです。

先日、テレビで、メキシコの支倉常長時代に住みついた日本人の子孫を探そうと言う企画を観ました。
結果はみつからず・・・
ええ?そうなの?なんで?と、がっかりでした。
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ぴあのさん、遅くなりました。 (カーテンコール)
2015-10-27 00:22:56
ご丁寧なコメントをいただきながら御礼が遅くなりました。
週末に二泊三日の鳥取マラソンに行ってましたので、大変失礼申し上げました。
私も幼い頃に病弱で同居していた叔父に「神は愛だ」と洗脳教育を受けていました。確かに神の存在の問いかけは、遠藤周作氏でさえ苦しみ続けたわけですから、人間の永遠の課題なのでしょうね。
五足の靴は、ぴあのさんに教わったのでしたが、文学青年たちが、一緒に旅行すること自体、あの時代にはハイカラなことだったでしよう。そしてお互いに啓発しあい新鮮な刺激を求めていたのでしようね。
メキシコでの支倉一行の末裔探しは、まさにロマンですね。禁教下の日本に帰れず現地に帰化した望郷の人となればなおさらです。時が経つほど捜索は難しくなります。まさに「今でしよ!」。続編企画を期待したいですね。
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