
【鳥取県のアラカルト】
本州の全県マラソン大会走破を目指して残るは、中国地方の鳥取・広島・山口3県となった。今月は鳥取市の「鳥取砂丘らっきよう花マラソン大会」である。鳥取といえば「鳥取砂丘」、この広大な鳥取砂丘に作付けされた「らっきよう」の赤紫の花が、10月下旬には絨毯のように咲き乱れるという。花の時季に合わせて開催される本大会に参加して、広大な砂丘と赤紫の絨毯そして日本海の大海原を望みながらマラソンを大いに楽しんできたい。
東北出身の私には、鳥取県の影は薄かった。隣の島根県とどっちがどっちなのか、失礼ながら未だに間違えてしまう。その鳥取を走るにあたり、どんな見所があるのか調べるうち、自然や歴史などに私の関心事の多くあることに気が付いた。自然では広大な鳥取砂丘の他に世界ジオバーグに認定された景勝の山陰海岸があり、歴史では秀吉の兵糧攻めで落城した鳥取城、そして白壁と赤瓦の美しい町並みの倉吉市、今回も限られた時間だが対象を絞って訪ねてみたいと思っている。
鳥取を代表する観光名所の鳥取砂丘は、鳥取市の日本海海岸に広がる観光可能な日本最大の海岸砂丘で、南北に2.4km東西16km、国の天然記念物に制定されており、中国山地の花崗岩質の岩石が風化して、千代川によって日本海に流され、海岸に打ち寄せる潮流で海岸線に堆積して砂浜となり、内陸に吹き込む日本海の強い海風に巻き上げられ、数万年の年月をかけて起伏に富む広大な大砂丘に形成されたという。最大高低差90mにもなり、すり鉢と呼ばれる地形や風紋と呼ばれる模様が見られて、オアシスと呼ばれる地下水の湧き出る場所もあるという。大会会場近くに「砂の美術館」があり、砂を素材に彫刻した砂像を屋外に展示する世界で初めての美術館だという。マラソンを走り終えたあとの散策も楽しみである。
そして鳥取砂丘の東側に続くリアス式海岸線は、断崖絶壁や奇岩の荒々しい景観を成して、砂丘群を含めて世界ジオバーグに認定されているという。ジオパークとは、ジオ(地球)に関わるさまざまな自然遺産、例えば地層・岩石・地形・火山・断層などを含む自然豊かな公園のこと、日本ジオパークに39地域、世界ジオパークには8地域が認定されており、その一つの山陰海岸は、京都府の丹後半島教ケ岬から鳥取県の白兎海岸まで東西110kmの海岸線に広がっているという。できればレンタサイクルで浦富海岸付近を走り回りたいと思っている。
鳥取の地名の由来は、古代に湿地へ飛来する鳥を捕えて天皇に献上する職業集団「鳥取部」が住んでいたこととのこと。日本書記の説話に<垂仁天皇の皇子誉津別命は30歳になっても赤子のように泣いて言葉を話せなかったが、臣下が捕えた白鳥と遊ぶうちに話せるようになった。喜んだ天皇はこの臣下に鳥取の氏を与え各地に鳥取部を置いた>とある。鳥取の名が広く知られるようになったのは戦国時代、戦国大名の山名氏が久松山に築いた山城が、周辺の大名から鳥取城とよばれるようになったという。
鳥取県の古い国名は、中央集権的な統治制度が確立した大宝律令(701年)で、鳥取県の東部が因幡国(国府:鳥取市)、西部が伯耆国(国府:倉吉市)と定められ、東隣りに但馬国(国府:豊岡市)、西隣りに出雲国(国府:松江市)、室町時代から戦国時代にかけて但馬・因幡・伯耆を中心に山陰地方を支配してきた豪族が、応仁の乱の西軍総大将になった山名氏である。
【山陰の山名王国盛衰記ー山名宗全と応仁の乱】
今年2月に島根県の出雲マラソンを走り、古代の出雲神話と戦国時代の出雲守護職尼子氏を訪ねてきたが、その東側に位置する鳥取県の伯耆・因幡の守護職が山名氏で、戦国時代の切っ掛けになった応仁の乱の西軍総大将がその山名宗全だったとは知らなかった。今でこそ僻地の代表のような鳥取県だが、かつて天下を揺るがす大大名がここにあったとは驚きである。山名氏とはどんな豪族なのだろうか、応仁の乱はなぜ起こったのだろうか、そして応仁の乱の主役となった山名氏はその後どうなったのだろうか。
山名氏は、清和源氏の源義家の三男義国の長男新田義重(新田氏の祖、弟義康が足利氏の祖)の子義範(兄弟に新田義兼、里見義俊)が上野国多胡郡山名郷(群馬県高崎市)を与えられ山名氏を称したという。六代後の政氏・時氏親子は鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇の建武の新政に叛旗を翻した足利尊氏に従って楠木正成や新田義貞と戦い、北朝を立てて足利幕府の開いた尊氏は、山名時氏をその軍功により伯耆守護に任じたことで、山名氏は中国地方に勢力を広げていく。その後の足利幕府の内部抗争や南北朝の対立を巧みに乗り切り、因幡・伯耆など五国の守護となり、時氏の嫡男師義の代には、兄弟一族で全国66箇国中11箇国(師義が丹後・伯耆、次男義理が紀伊、三男氏冬が因幡、四男氏清が丹波・山城・和泉、五男時義が美作・但馬・備後、師義の子満幸が播磨)の守護職を占め、山名氏は「六分の一殿」と称される権勢を誇ったという。
山名氏の強大化を危惧する室町幕府三代将軍義満は、師義の後を継いだ末弟時義が死去すると、山名氏内部の惣領と庶子家の対立に介入、山名一族間の離反を策謀して、山名氏の勢力は大きく衰退する。50年後に時義の孫持豊(後に山名宗全)が一族の反乱を平定、将軍足利義教を暗殺した播磨守護赤松満祐を討伐し、山名一族で10ヶ国の守護職を回復して再び山名氏の全盛期を築き上げ、幕府内の権力を掌握して侍所頭人となる。そして将軍足利義政の後嗣問題や管領畠山氏の家督騒動など幕府の主導権を巡って室町幕府の管領細川勝元と対立していく。
8代将軍足利義政は男子に恵まれず弟義視を還俗させて後見役に細川勝元を、ところがその3日後に正室日野富子が男子義尚を出産して世継ぎだと山名宗全を味方につけ、対立する両雄はやがて幕府の重臣斯波氏と畠山氏の後嗣争いを巻き込み、無能な将軍義政は遊興に明け暮れ徳政令を乱発して将軍の権威は地に落ちるばかり、京の東西に宗全と勝元の大軍が対峙する中、宗全の推す畠山義就が家督に復帰すると、これに反発する畠山政長が合戦に及び、ついに西軍山名宗全が御所占拠の軍を動かし、やがて京での市街戦が地方にまで広がり、日本を二分する大乱<応仁の乱>となる。
山名宗全は、激情・横暴・傲慢とされ悪名高いが、病気の家臣を労わったり死去した家臣を悼んだりする心優しい面もあり、将軍義政との対立を決意して挙兵した際、重臣たちが上意に背くことの非を説いて諫め、それでも戦うなら皆で出家すると言い出し、宗全は切腹を図って家臣たちの出家を思い留まらせようとして、逆に家臣たちは主君宗全と行動を共にすることを決意したという。日本中を巻き込んだ応仁の乱は11年も続いて世は荒れ果て、宗全も途中で無常を感じ、出家した人までいたという。応仁の乱の年(1467年)を「人の世は虚し(ひとのよはむなし)」と語呂合わせで覚えたものだが、実に的を得た語呂に今更ながら感心する。
応仁の乱を描いた物語「応仁記」に、戦乱で荒廃した都を嘆いた歌がある。「不計万歳期セシ花ノ都、今何ンゾ孤狼ノ伏土トナラントハ。適残ル東寺・北野サヘ灰土トナルヲ。古ニモ治乱興亡ノナラヒアリトイヘドモ、応仁ノ一変ハ仏法王法トモニ破滅シ、諸宗皆悉ク絶ハテヌルヲ不堪感歎、飯尾彦六左衛門尉、一首ノ歌ヲ詠ジケル。汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アカルヲ見テモ落ルナミタハ」飯尾六左衛門尉は、阿波守護細川氏家臣で書や歌に精通する文化人で、将軍職を放棄して隠居した芸術を愛するだけの足利義政の右筆に登用され、戦乱の炎に焼け野原となった都を見て嘆き悲しみ詠んだといわれる。西軍山名11万と東軍細川16万の兵が京都市中で激しい攻防戦を繰り広げ、多くの寺院が建物が焼失し、無頼者の乱暴狼藉火付け盗賊が横行、かつて栄華を極めた公卿や僧侶たちは京から疎開離散を図り、焼け出された無辜の一般民衆も京を逃げ出すしかない、変わり果てた京の姿が浮かんでくる。
なぜ大乱にまで発展したのかよく分からぬまま、将軍後嗣争いから全国の守護大名を二分した応仁の乱も、やがて対決する両雄の宗全と勝元が相次いで死去すると、11年も続いた戦乱に疲弊して、どちらが勝ったか負けたかも分からないまま終息する(1477年)。しかし全国に拡散した争乱により、足利幕府は中央統制力を失い権威失墜、守護大名は内部抗争が激化、農村が荒廃して土一揆が頻発、地侍が力を付けて戦国大名が台頭、やがて個人の実力で覇者となる下剋上の戦国時代(100年間)に突入していく。
宗全死後の山名氏も一族内部の抗争と有力家臣の独立により衰退が加速、伯耆の山名氏は出雲の尼子経久に攻略され、山名氏宗家の但馬守護山名祐豊は因幡守護の山名誠通を倒して山名氏の統一を図るが、新興の毛利氏の攻勢に和睦すると、毛利氏と対決する織田氏の猛攻を受けるようになり、天正8年(1580年)秀吉率いる織田軍に但馬山名氏の本拠地此隅城(兵庫県豊岡市)次いで有子山城(兵庫県出石)が落城、因幡の山名豊国も秀吉軍に鳥取城が包囲されて降伏、山陰の雄:山名氏は、自ら起こした戦国の乱世の中で自壊していったのである。
【因幡国(鳥取県東部)の鳥取城(鳥取市)】
山名宗全の三男勝豊が因幡山名氏当主となり「天神山城」を居城にするが、子豊時が死去すると嫡男豊重を殺害した弟豊頼が因幡山名氏を継ぎ、その子誠通は山名氏宗家である但馬山名氏の祐豊と対立、出雲の尼子晴久に従属して1545年に「鳥取城」を築城する。但馬山名氏の祐豊軍の奇襲で誠通が討ち死に、祐豊の弟豊定が因幡守護となるが、誠通の遺児豊通が安芸の毛利氏と結んだ客将で鳥取城番の武田高信に毒殺され、因幡は高信の実質支配となる。豊定の子豊数を継いだ弟豊国が、因幡の国人衆と尼子党の支援で鳥取城を武田高信から奪還、因幡山名氏の本拠は鳥取城に移されるが、毛利の吉川元春に攻められて降伏、毛利方に附いた山名豊国は、1580年に織田氏の羽柴秀吉の侵攻に鳥取城に籠城するが、家臣団が徹底抗戦を主張するなか単身で城を抜け出して秀吉に助命嘆願したのである。
鳥取城内に残る家臣団の要請を受けた毛利の吉川元春が、一族の吉川経家を鳥取城城主に送り、経家は自らの首桶を用意して入城したという。ここで有名な秀吉の第二次鳥取城攻撃が始まる。秀吉は播磨三木城で成功した兵糧攻めを鳥取城攻めでも行なった。播磨の三木城に籠城する別所長治7500を包囲すること1年10ケ月、城内の食糧は底をつき<三木の干殺し>といわれ、長治一族の切腹で開城となったが、鳥取城兵糧攻めでは更に念を入れた作戦を立てた。若狭から商船を因幡に送り込み密かに高値で米を買い占めさせ、城兵もその高値に釣られて備蓄米を一部売り払い、さらに周辺の家々を焼き払い行き場を失った2000以上の農民を城内に逃げ込ませて城内の人口を膨れ上がらせ、更に2万の大軍で海路も陸路も完全に封鎖して毛利勢の兵糧搬入を阻止する徹底した包囲作戦に、城兵1400人20日分の兵糧しか用意されなかった城内は瞬く間に飢餓状態に陥り、城内の家畜や植物までも喰い尽され、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れて、凄惨な城内に守将吉川経家は、兵士の助命と引き換えに切腹して開城する。世にいう<鳥取の渇殺し>である。
(掲示の写真は鳥取城、山麓に近世の城址、山頂に中世の城址)
【吉川氏の血脈:経家・元春・広家】
鳥取城の籠城戦で自害した吉川経家の系図を調べるうち、秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いで造反した吉川広家の名が浮かんできた。中国地方の覇者毛利元就の次男吉川元春の後継者で、関ヶ原で西軍に組みして家康の本陣を背後から窺う南宮山の山麓に布陣していながら、密かに東軍に内応して家康の本陣を襲おうとする西軍の毛利秀元や長曾我部盛親ら3万3千の進軍を阻んで参戦させず、東軍の勝利に間接的に大きく貢献したのである。関ヶ原での東郡への裏切りは、小早川秀秋が有名だが、もし広家が造反していなければ、毛利の大軍が家康の背後を襲って形勢は逆転していたにちがいない。広家は毛利家安泰の密約で家康側に寝返ったが、戦後に宗家毛利輝元が大阪城にあって西軍総大将になった理由で密約は反故にされ、毛利家は長門周防2国に減封されてしまう。広家はまんまと家康にしてやられたのである。
吉川広家の父元春は、毛利元就の<三本の矢>毛利隆元・吉川元春・小早川隆景三兄弟の次男で、父元就の死後、宗家を継いだ毛利輝元(隆元の嫡男)を後見して毛利家発展の基礎固めに貢献、秀吉の鳥取城攻めには一族の吉川経家を鳥取城の守将に派遣するが、残虐な秀吉の長期包囲戦に経家を自害させてしまう。本能寺の変事では、信長の横死を隠して備中高松城主清水宗治の自害で毛利氏と和睦して明智光秀討伐に引き返す秀吉軍を追撃すべしと元春は強く主張したという。秀吉が光秀を討つと、元春は隠居するが、天下を取る秀吉に仕えることを嫌ってのことだろう。そして元春は足利義昭を奉じて秀吉に対抗する柴田勝家と密かに接触したともいわれている。どうも藤原南家の血を引く名門吉川氏の当主元春は、成り上がり者で惨忍で狡猾な秀吉とはそりが合わなかったのだろう。そんな気骨ある父元春の傍で育った広家は、秀吉の鳥取の渇殺しで吉川経家が自害した時、20歳の血気盛んな青年であった。秀吉の惨忍で狡猾な手口に終生忘れ得ぬ憎悪を抱いていたにちがいない。その思いが後に関ヶ原で豊臣家に造反する決断に繋がったのではないだろうか。
【鳥取城のその後:宮部継潤と池田光政】
鳥取の渇殺しで落城させた秀吉は、宮部継潤を鳥取城の城代に織田勢の山陰攻略の拠点とした。宮部継潤は秀吉の九州征伐で功を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となり、後に秀吉政権の五奉行(石田三成・前田玄以・富田知信・増下長盛)となる。宮部継潤は、近江国浅井郡宮部村(滋賀県長浜市)の豪族で、戦国大名浅井長政の家臣として信長との戦いに活躍していたが、横山城の城将だった秀吉が宮部継潤を調略して味方に寝返らせ与力にしたのである。居城の宮部城は、浅井長政の居城小谷城に対峙する最前線の虎御前山城と浅井攻略拠点の横山城の丁度中間に位置する小谷城攻略に欠かせない重要拠点であり、勇猛な宮部を調略するのに秀吉は甥の秀次を養子、事実上の人質に出した。秀吉の姉ともの長男で後に秀吉の後継者候補として関白にした秀次を、である。秀吉は小谷城攻略の功で信長の家臣団の中で一躍脚光を浴びるのだから、秀吉がいかにこの一戦に賭けていたか、小谷城攻略の鍵を握る宮部継潤の調略に賭けていたかが知れる。
武田信玄が家康を三方ケ原で破り京へ上洛する報に呼応して、浅井長政が朝倉の援軍を得て小谷城を出て、南近江から美濃に進出すべく宮部城の攻防戦が始まった。信長秀吉最大の危機である。宮部はこれをよく防ぎ、秀吉は横山城から援軍を送り浅井・朝倉軍をついに退けて危機は去った。そして信玄は上洛途上で病死、一気に信長の時代が開けたのである。百姓上がりの秀吉の配下に、子飼いの武将は殆どなく、主君信長から与力として付けられた武将ばかり、わずかに秀吉が一本釣りした竹中半兵衛・蜂須賀小六・宮部継潤、そして弟の秀長と妻の縁者の木下家定・浅野長政ぐらい、その中で城持ちだったのは宮部継潤だけである。その宮部が秀吉の中国攻めに従い、山陰方面全体の指揮を担い、山名氏討伐後に但馬豊岡城主となり、鳥取城攻めの功で因幡鳥取城の城代となる。本能寺の変で秀吉が中国地方を離れて以降、和睦した毛利の大軍と対峙する最前線を託されたのだから、いかに秀吉の信頼が厚かったかが知れる。九州平定にも活躍、因幡銀山の経営も任され、8万石の知行を得た。
関ヶ原の戦い直前に宮部継潤は死去、子息が西軍に所属して東軍に攻められて開城、池田氏が鳥取城に入ると近世城郭に改修、1617年に池田輝政の孫光政が姫路42万石から因幡・伯耆32万5千石で入府、家臣を減らすことなく財政難と領地不足を乗り切り、城郭の増築と城下町の拡張に務め、池田氏の治世は明治維新まで続く。
【伯耆国(鳥取県西部)の打吹城(倉吉市)】
伯耆国の打吹城(うつぶきじょう)は、南北朝時代の築城といわれ、足利幕府を開いた尊氏を援けた軍功により伯耆守護に任じられた山名時氏の嫡男師義が伯耆国守護所を移した。山名氏兄弟一族で全国66箇国中11箇国(師義が丹後・伯耆、次男義理が紀伊、三男氏冬が因幡、四男氏清が丹波・山城・和泉、五男時義が美作・但馬・備後、師義の子満幸が播磨)の守護職を占め、山名氏は「六分の一殿」と称される権勢を誇り、伯耆の国はその中心となって栄えたという。
足利幕府の策謀で山名氏は内部抗争が続いて一時衰退するが、山名宗全の時に復活して応仁の乱の西軍大将になるが、長い戦乱の中で山名氏は再び内部抗争を繰り返して衰退、1524年に出雲の尼子経久の攻撃で伯耆山名氏は没落する。毛利氏の援助で山名氏が伯耆を尼子から奪還、鳥取城攻防戦の1580年に毛利の吉川元春が入城するが、本能寺の変事に秀吉が毛利氏と和睦すると南条氏の支配下となり、打吹城の近世城郭化が図られ、本格的な城下町が形成されて倉吉と呼ばれたという。南条氏は関ヶ原の戦いで西軍に所属して改易され、伯耆国は米子城主中村一忠の支配下になる。中村氏が無嗣で除封となると、安芸国の里見忠義が大久保忠隣事件の連座で、伯耆倉吉3万石に転封されてくる。この里見忠義が死去した時、8人に側近が殉死して八賢士と讃えられ「南総里見八犬伝」のモデルになったといわれる。1615年の元和一国一城令で打吹城は廃城となるが、池田光政の鳥取入府に伴い家老荒尾氏が、山麓に陣屋を構えて明治まで統治することになる。
【因幡国守:万葉歌人大伴家持】
鳥取市に因幡万葉歴史館があり、万葉歌人大伴家持をテーマにする歴史博物館で、大伴家持が天平宝字2年(758年)に因幡国府に赴任し、翌年の元旦に万葉集の巻末歌(巻20-4516)<新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事>を国庁で詠んだという。そしてこれ以降、家持は一首も歌わなくなる。新年を迎えてどうか良い年でありますように、と詠ったというが、なぜ宮廷歌人が奈良の都から遠く因幡の国守になったのだろう。左遷ではないか。とすればこの歌は祝い歌ではなく、なにか別の想いが込められているのではないだろうか。好奇心に駆られて大伴家持の時代を調べるうち、面白い出来事が次々に出てきたのである。
大伴家持の家系は、天孫降臨の時に先導を行なった天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、物部氏と並ぶ軍事氏族である。大和朝廷成立の中で確固とした地位を築いたが、やがて物部氏の勢力の前に衰退、その物部氏が蘇我氏と対立して没落、復権した大伴氏は蘇我氏を倒した新興の藤原氏に圧迫されていく。飽くなき権力志向の強い藤原氏の抵抗勢力として、軍事氏族の宿命を担った大伴氏の盛衰の流れに、家持の人生は翻弄されていったようである。
大化の改新の立役者藤原鎌足の子で、後に記紀の編纂者となる藤原不比等は、娘二人を文武天皇夫人とその子聖武天皇皇后に送って朝廷を牛耳り、4人の息子が北家(房前)南家(武智麻呂)式家(宇合)京家(麻呂)を興して、四家が互いに勢力を競い合う藤原時代となる。聖武天皇が天平17年(745年)に奈良に遷都して大仏建立に着手すると、南家の藤原仲麻呂が玄を廃して行基を大僧正に迎えて朝廷の主導権を掌握、聖武天皇が崩御すると従妹の孝謙女帝を即位させる。天平宝字7年(763年)に仲麻呂暗殺計画を式家藤原良継らと立案したとして大伴家持は薩摩守に転任されるが、翌年に仲麻呂が死去すると朝廷に復権して要職に就いて昇叙を重ね、781年には従三位となる。
世が乱れて780年に蝦夷の大乱が起きると、翌年に天智天皇系の桓武天皇が即位して天武天皇系皇族の反乱を制圧、式家の藤原種継と共に平城京から長岡京への遷都を強行すると、これに反発する大伴一族が処断され、中納言の大伴家持は東北蝦夷鎮圧の名目で陸奥按察使持節征東将軍に左遷させられ、翌785年に陸奥国(宮城県)多賀城で没する。その直後に藤原種継暗殺事件の首謀者の疑いで家持は官位を剥奪され、遺骨は埋葬されず連座した子供らと隠岐に流されてしまう。
平安京に遷都した桓武天皇は重病のなか、806年に平安の願いを込めて種継事件の連座者を赦し、既に死んでいた家持は従三位に復する。政争に明け暮れる朝廷から追われながら復権を繰り返してきた大伴家持が、759年に因幡で詠んだ新年の歌を最後に歌わなくなり、中納言となった783年頃に万葉集を編纂したといわれている。鳥取マラソンのあとに、因幡国府跡と因幡万葉歴史館を訪ねて、軍事貴族の名門に生まれ、政争の流れに翻弄されながら、万葉歌人として生きた家持の生き様を、訪ねてみたいと思っている。
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