忘却の彼方へ

ウエブ上のメモ

見直したい しつけと体罰

2005年10月17日 | こども/家庭・こころ
「こども←→おとな」【森田ゆりさん寄稿】私たちにできること[虐待防止](2)見直したい しつけと体罰

ニュース:育児ネット:教育 子育て : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


 「どこまでがしつけで、どこからが虐待なのですか?」とよく尋ねられる。確かに虐待をした大人の多くが「しつけのためだった」と弁解する。「しつけのためには体罰もやむを得ない」とする考え方を見直すために、そもそもしつけとは何なのか、考えたい。

 しつけを漢字で書くと「躾」で、身を美しくするという意味になる。きちんとした礼儀作法、ていねいな言葉使い、みだしなみ。いずれも身を美しくすることだ。こうした立ち居振る舞いをきちんとできる子がよくしつけられた子どもと思われてきた。

 身を美しく保つしつけは大切だ。身ごなしの基本を示すことは、社会性を型で伝えることだから。しかし行儀作法がしつけの第一目的となってしまったら、大きな間違いを犯すことになる。「躾」への親のこだわりと焦りから体罰が始まり、それが虐待へとエスカレートしてしまうことがよくあるからだ。

 着物を縫う時に「仕付け糸」というものがある。縫い目が曲がらないように大まかな形を定めるための仮縫いをする。しつけの第一目的は「仕付け糸」のように、大まかな枠組みの提供、すなわち子どもを大まかにガイドすることにほかならない。

 仕付け縫いは、大まかでなければならないのだ。細かく縫ったら、子ども本人がするはずの本縫いを親がしてしまうことになる。立ち居振る舞いなど、身を美しくする躾はどうしても細かい。はしの持ち方、歯磨きの仕方、大人へのあいさつや言葉使いなど。細かく指示しなければ型は伝えられない。

 では、大まかなガイドの目的は? しつけとはそもそも何のためにするのだろう。

 子どもの自立のため。子どもが自分で生きる力を養うことと言えるだろうか。

 3年前に中央教育審議会は「生きる力の教育」を提言。「生きる力」とは「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、問題を解決する能力」とした。

 しかし、ここには重要な事柄が抜けている。それは自ら感じる力だ。うれしい、悲しい、怖い、怒りなどの感じる心は、考える力に大きな影響を与えている。感じる心抜きに人は自分の考えを持ち、その考えのもとに行動選択することは出来ない。生きる力とは「自分で感じ、自分で考え、自分で選択する」の3ステップの力である。

 砂場でaちゃんとbちゃんが遊んでいる。そばでそれぞれの親AさんとBさんが立ち話をしている。二人の未就学児の間で一つしかないシャベルの取りあいが始まった。シャベルを取られたaちゃんが怒ってbちゃんをぶったので、bちゃんが泣き出した。Aさんはaちゃんに「だめでしょ。ぶったりしたら!

 ごめんなさいしなさい」と怒り、Bさんはbちゃんに「だめでしょ。シャベルを取ったら! すぐに返しなさい」と怒る。

 この二人の親の反応は実によく見られる光景だが、どちらの親も相手の親の手前上、自分の子どもを叱(しか)らなきゃ、という世間体で行動したために、生きる力の三つのステップを経験する絶好の機会を、逸してしまった。

 「aちゃんはbちゃんにどんな気持ちを持ったの? 腹が立ったの?」「aちゃんはbちゃんにシャベルをかしたくないの?」「aちゃんはbちゃんと遊びたいのかな?」「一緒に遊びたいんだったら、シャベル一つしかないよ。どうやって遊ぶの?」

 たとえばこんな質問を子どもにすることは、子どもが自分の気持ちに気づき、その上で自分はどうしたいのかを考え、そして自分で問題を解決することを勧めている。

 子どもを大まかにガイドするしつけとは、日ごろから子どもにかかわる大人が、子どもとの間でこのような言葉と気持ちのキャッチボールを楽しむことでもある。

 「いちばん悲しいときは  気持ちがわかってもらえないとき いちばんうれしいときは 気持ちが通じ合えたとき いろんな気持ちがある あなた そのままのあなたでいいんだよ いろんな気持ちを大切にして ぐんぐん大きくなる」(「気持ちの本」森田ゆり著 童話館出版)

心の傷手当迅速に「聴く」がもっとも効果的

2005年10月16日 | 気になるニュースなど
読売新聞より
1997年から「エンパワメント・センター」を設立し、子どもの虐待やDVなどをテーマにした研修活動をしている森田ゆりさんの4回の寄稿で、「できること」を伝える。
1回目
ニュース:育児ネット:教育 子育て : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

「こども←→おとな」【森田ゆりさん寄稿】私たちにできること[虐待防止](1)心の傷手当て迅速に 「聴く」が最も効果的

  「10歳の娘が同居している舅(しゅうと)から性虐待を受けていると訴えてきたとき、娘をしかりとばさないでほんとうによかった」と母親のAさんは言った。

「最初は『まさか!』『なんでそんな嘘(うそ)をつくの』と思って頭が真っ白になったけれど、それを言ってはいけない、まずは子どもの訴えにしっかり耳を傾けるように、と、前に講演会で聞いていたことが役に立ちました。でも、その後どうしていいかわからず、娘と2人で泣きました」

 虐待を受けている子どもの多くは、そのことを誰にも言えずにいる。特に加害者が身内の者である場合、子どもの訴えは『そんなこと信じられない』と無視されるか、しかられるかで、子どもは傷を一層深める。被害体験が子どものその後の人格形成にしばしば深刻な影響を及ぼすのは、この『誰にも言えない』現実に由来している。

 今から70年以上も前に、子ども虐待の心的外傷に正面から取り組んだ稀有(けう)な精神分析家、シャンドール・フェレンツィは、こう主張している。

 「一人でいること」がトラウマを形成する。「喜びと悲しみをわかちあい、伝えあうことのできるだれかが〈そこにいる〉ことが、心的外傷を癒す」(Sフェレンツィ著 森茂起訳「臨床日記」 みすず書房)

 道端で子どもが大けがをしていたら、たまたま通りかかった人でも、血を止める、傷口を水で洗うなどの手当てをし、必要があれば救急車を呼ぶ。なるべく早くに施されたちょっとしたこの応急手当てが、その後の回復を左右するほど重要であることはいうまでもない。

 虐待やいじめやその他の被害を受けた子どもは、身体の外傷の大小にかかわらず、大きな心の傷を負っている。身体の傷と同じように、心の傷もなるべく早くに手当てが施されなければならないのだが、心の傷は目に見えないために、気がついてもらえずに放置されていることが大半だ。

 「手当て」という日本語には深い叡智(えいち)がこめられている。たとえ消毒液がなくとも、最新の特効薬がなくとも、手を当ててもらうことで、傷ついた子どもの身体の回復は大きく促進される。「おなか痛い、手あてて。もっと下、そこ、そこ」と当ててもらった手のぬくもりを感じているうちに、痛みが消えてしまった記憶をわたしたちの多くが持っている。

 小さな子どもが転んだとき、わたしたちは「ちちんぷいぷいぷい」「いたいの いたいの お山のむこうに とんでいけー」といった言葉をかけながら手当てをする。このおまじないは実は大切な役割を果たしている。子どもの恐怖や不安や痛みに「こわいね」「いたいね」と共感し、「もうだいじょうぶだよ。こわいのはお山の向こうにとんでいっちゃうから」と安心と希望を持たせてあげることで、子どもの自己治癒力を活性化しているのだ。

 応急手当ての具体的な方法は「聴く」ことである。「どうした」「何があったの」と事実関係を「尋ねる」ではなく、うわのそらで「聞く」ではなく、あなたの耳と心を持って、相手の十四の気持ちを聴く。これは本来のこの漢字の由来ではないが、「聴く」という漢字はそう書いてあるように見える。相手のさまざまに乱れ、相反する、人に語ってもわかってはもらえないと思っている「十四」もの異なった気持ちを、分析するのではなく、同情するのでもなく、ただ「そうなんだ」「それはこわかったね」と共感して聴く。応急手当ての第一歩である。

 心の応急手当てのできる大人が500万人、1000万人と日本中に増えたなら、「誰にも言えない」子どもたちの生きる環境が変わる。わたしたち大人の一人一人が、子どもが「言える誰か」という環境になること、それが虐待防止の最も効果的な方法だと確信している。「聴く」ことは大人が子どもにあげることのできる最大の贈り物。