父と母の歩みとその和やかな生活を懐かしく思い起こします。父は、東京の尾久で下駄屋を営んで人も使っていたそうです。戦争で前橋に移り、軍需工場で班長を務めていた後、部下の失敗の責任をとって辞めた後、職人用の草履を作り始めたようですが、詳細はわかりません。草履の裏は自転車のタイヤを使います。古タイヤの耳を切り、洗って干し、それを逆に巻いて長時間蒸して平らにします。草履の形に切ってから、草履表に縫い付け、最後にきれいに切り揃えます。鼻緒もぼろ切れを芯に詰めて仕上げます。それを朝から夜遅くまで続けます。近所の人は母の人柄を慕い、父とも話をするのを求めて縁側に立ち寄ります。父は人の話を黙って聞き、母は相槌を打ちながら、お茶と茶菓子或いは漬物を出します。私はそれらの話を聞きながら、漫画の本を読むという毎日でした。多くの人が父を恩人とか世話になったとか言って挨拶に来るのですが、平凡な草履職人の父のもとに人が集まるのが不思議でした。
職人というのは、自分の仕事や芸で人を喜ばせ満足させるのが生きがいでしょう。彼らは権力に屈せず、顧客にも媚びず、自分の仕事のできの良さを磨くことを信念とします。人を喜ばせ満足させるためには、良い物を安く売ることを信条とし、清貧に甘んじる他はありません。そして、それが誇りなのです。理不尽なことに頭を下げることを拒み、父が職人として人生を貫き、働き続けたことを思い起こします。
就職の面接の時に、キャリアアップのためにと書く人がいて驚きます。会社は、その人のキャリアアップに利用されるということですから、それで採用するところがあるのでしょうか。確かに、思い通りにならないと直ぐに辞める人が多くなっていますが、採用する側としては、3年以内に転職を重ねている人は、採用する気にはなれません。仕事が身に付き、しっかりと顧客の為に働くことができるには2年は掛かるので、それ以前で辞める人は形だけの技術しか身についていないと思われます。つまり、仕事に感動のない人は、仕事を続けることもできず、仕事も身に付かず、生きがいも人生も確立しないと思われます。
天職というのは、神が人を喜ばせ仕えるためにその人に与えた使命であり、その仕事を通して、地上の人生が問われるのです。そういう意味でも、クリスチャンは自分の仕事に神の召しを確認することが必要で、そのことによって地の塩としての使命を果たすのです。
いやいやながら働く人や、愚痴を言う人に神は知恵を授けられません。給料が良い仕事、楽しい仕事、目立つ仕事、いろいろと願いはあるかもしれませんが、職人の気持ちとは遠いように思われます。何よりも、欲望を満たす仕事によって、「神の霊に満たされた。」ということはないでしょう。
自分に与えられた天職に献身して人生を過ごすならば、なんと充実した生き方ができることでしょうか。天職に引退はありません。自分の技を磨き、人と助け合って、仕事をしていくのです。他人の作った物にいくら手を掛けても、素材と基礎が悪ければ良くはならないものですが、私たちは大きな物、目立った物にケチをつけ、関わりたがるものです。また、他の物を利用したがるものです。自分でコツコツと作り上げなければなりません。そして、毎日毎日、少しずつ出来上がることを喜びとするのです。