10/7のショーイング&ワークショップ、これをへて10月からは全クラスでの新規受け入れと初歩/基礎の見直しが始まります。そして11月の初演にむけて自らにハードルを課すような新作「カラビンカ」との格闘・・・。僕にとっては、まさに初心から作品までを再構築するような総合的な稽古の日々が続いています。
僕の思う
「ダンス」は、一言でいえば気配のキャッチボール。
「何かとひとつになる」そのような運動を通して、森羅万象のイメージを呼吸するのがダンスなのではないでしょうか。
ちいさな子どもたちは常にそれを行っています。
カラダを全部のばしたら、光の輝くように。そっと力をぬけば、なびく風のように。どこまでも関節を折り畳んでゆけば、転がる石や花の種子のように・・・。
いつも何かとひとつになろうとしてカラダを動かし、心の中では本当に一つになっているのかもしれません。
幼ければ幼いほど、いつも動き回りながら、何かを「まねび」「あらはし」、自分の感覚とまわりのバランスを、実に繊細に重ね合わせて生命を呼吸しています。野原でなんか、見回す前にパアッと駆け出して、ああ広いね~、なんて言っていますが、そのような、本能的で瞬間瞬間の感情と直結した動きが、幼い子どもの日々の営みですよね。まわりの世界と素直に
結びつくことの喜び。それが子どもたちの笑顔に出ていると思います。
僕が学んできた「舞踏」と「オイリュトミー」には、そんな「子どものカラダ」を取り戻そうとするような衝動と方法論がある、と感じています。
アタマをからっぽにし、ひたすら開放的な身振りで言葉の響きや音楽の変化に戯れようとするオイリュトミーは、6才前後の頃の、桜色の世界が広がる感じがするし、身体の声に耳を澄ますようにして動きを探り続ける舞踏の踊り方は、母胎の海に誕生を夢見ている胎児と、幽界に旅立つ死者のあいだを去来するような切なさ愛おしさがあります。
そんな踊りを練習しながら、僕がしばしば思うのは、
「つながる」ということに対する喜び哀しみ切実さです。
踊りとは関係ないけれど、少し前に西川美和監督の「ゆれる」という映画を観ました。これまでになかったような、人の関係への切なさが伝わってくる作品でした。兄弟、家族、恋人の離別と再生へのランドスケープが、ひとつの壊れかかった吊り橋をステージとして、繰り広げられます。人が人として生をもがくからこそ、引き裂かれてしまう何か、生まれてしまう距離、それを、つなぎとめようとするなかで生まれてくる罪・裁き・真実・嘘が、どこかダンスに重なりました。他にもゴダール、河瀬直美、ベルトルッチ・・・。日々の重なりを影と光りに凝縮する映画は、しばしばダンスに重なります。
人、自然、宇宙。わたし、あなた、彼、彼女。こころ、アタマ、からだ。
いろんなところに、ため息が出そうな距離があるけれど、それを埋めるようにして、
踊ってみる。もういちど、一つになろうとしてみる。
そんなとき思います。自由でなければ・・・。
いえ、そんな簡単に自由になれるものでない。としても、そう思うのです。
関わり、つながるためには、ひとつひとつ「縛り」をほどいてゆかねばと。
ジユウに表現スル、なんて感じじゃなくて、瞬間に感じた何かに
スッと力をぬいてカラダを差し出す感じなのですが。ああ、なんだかイケてる。そう思ったとき、カラダは、ふと何かの気配を
受け止めているんです、キャッチボールみたいに。そのとき、眼に見えぬ縛りがひとつ、
はらりとほどけるのを感じます。待ったにめったにない瞬間だけれど、これがほしい。
今日も踊ってきました。
明日もおそらく踊ってみるのでしょう、きっと・・・。
まもなくの、オープンワークショプでは、僕も初心にかえって、つながりへの一歩を、いっしょに踊りたいです。
オープンワークショップ10/7=受付中