櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

ジャン・リュック・ゴダールが、、、

2022-09-14 | 日々のこと(daily)

ゴダール氏が亡くなった。あらためて敬意を表したい。

かき乱され、振り回され、勇気を与えられていたのだと思う。

映画というより行動そのものであるようにも感じていた。

『さらば愛の言葉』冒頭の「想像力を欠く すべての人は 現実へと逃避する」という一言は見事と思った。

さらばゴダール、と思うのは、さすがにつらい。

 

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ただいまHPでは7月末に行った新作公演の記録を公開しております。作品制作中に記されたテキストや過去の公演写真なども掲載しておりますので、ぜひ、ご覧ください。

 

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断想:8月の終わりに

2022-08-31 | 日々のこと(daily)

ゴダールの映画『気狂いピエロ』に空爆を表す劇中劇がある、

ちょっとダンスみたいに見える時もある、ふと、あれを思い出した。

きょう、8月が終わる。

一年にはいくつかの節目があるけれど、8月というのは特別な気がする。

死者について考えさせられる。

そして、生かされている、ということについて考えさせられる。

先祖を招魂するお盆の前後に原爆忌があり終戦の日がある。

この連続自体、何かしら意味が感じられてならない。

7月末の公演でもそうだったが、僕の場合、ダンスの稽古を重ねたり作品をつくったりすることが、

自分の死生観とどこかで深く結びついているように思えてならない。

ダンスを通じて、おのれが命のことを巡り巡って経験したことや思念したことが、

肉体に凝縮されてゆくとか、肉体を削ってゆくとか、

そんな事が起きている気がしてならない。

 

 

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断片9/07(ジャン・ポール・ベルモンドさんの訃報に)

2021-09-08 | 日々のこと(daily)

映画が好きな割に、あまり台詞が入ってこないのはアタマの癖なのか、人の表情や仕草や景色や音は鮮明に覚えているのだけど、、、。

もちろん耳には聞こえているし、それなりに色々思いながら言葉を追ってはいるのに、どうも次から次へと頭をすり抜けて消えていってしまう。ああ、なんでかな、と思うことが、よくありました。

そんな僕でさえ一発で覚えてしまった台詞が、「海が嫌なら、山が嫌なら、勝手にしやがれ、、、」という一言でした。ジャン・ポール・ベルモンドがパリの街を車でぶっ飛ばしながら呟くのです。

ゴダールの『勝手にしやがれ』という映画、脚本を書いたのはトリュフォーでした。

学生の頃に勧められて見たのですが、一瞬で興奮してしまいました。

この映画には特別な力があるのですが、その冒頭で、さっきの、「勝手にしやがれ」という台詞とともに走り去るジャン・ポール・ベルモンドを見て、いきなり脳味噌の中心に雷が落ちたのだと思います。

そして、あの興奮は『気狂いピエロ』のダイナマイトを巻き付けたベルモンドを見た時、より強烈なパンチを伴って蘇ってきた記憶があります。あのラストシーンで彼は、この映画の異様なエネルギーを完全に爆発させたのではないかと僕は思っています。

あの目つきと、あの唇は、あの腕やあの着こなしやあの声や呼吸は、巻き付けられたダイナマイトよりも、原色と鋭角が乱れ打つ画像のモンタージュよりも、遥かに猛スピードで危うい存在に思えたのでした。

ジャン・ポール・ベルモンドが亡くなったニュースを見て、さすがにガクッと来ましたが、同時に、少しでも同じ時代を歩くことができたことへの感謝の思いも、やはりグッと湧いてきます。

悲しみと敬意を、心から、、、。

 

 

 

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さらば愛の言葉よ:ゴダール再見

2020-04-05 | アート・音楽・その他

 

 

 

どこへ、、、。

  行くべき所へ、、、。

 

 

「もうすぐ誰もが通訳を必要とする。自分の言葉を理解するために。

 

「人は生まれてすぐに他者になる。

 

「私は、ノン、というために居る。

 

「私たちは互いが夢見る人だ。

 

いづれも、『さらば愛の言葉よ』という映画の台詞。ゴダールの映画のなかで、僕が好きになれた一本。勝手にしやがれ。パッション。ドイツ零年。そしてこれ。

 

空の雲の陰影、川の流れ、男と女の居場所、それらに言葉が重なってゆく。これは言葉についての映画。つまり関係についての、愛についての映画だ。

 

ウイルスによって切断の危機にあるものについてのさまざまを、この映画から感じてならない。おもえば映画とは切断されたものの再構築でもある。

 

結末から逆算したような映画が多くていやになるが、この映画には結末がない。あらゆる会話にも結末がない。

 

会話は会話を生みつづけ、イメージはイメージを生みつづける。

それが僕らのいまの日々にダブる。

 

僕らにとって、すべては始まりの連続なのだということを、この作品から確かめる。

これはダンス的な映画だと思う。冒頭5分そこそこで、そう感じる。

 

愛の問題と政治の問題、政治の問題と現在の問題が、混在する。

僕らの現在に関係している。

 

多くの映画が世界を解釈しようとするのに対して、この映画は解釈を捨てる。

 

これは、ひたすら世界を見て聴いている映画だと、僕は思う。

 

画面のどれもが、これみよがしでない。

すべては通過点、流れのなかにある。

そう感じ、そこに共感する。

 

ゴダールは、クリエイターではなく「引用者」であろうとする。

これが、すこぶる重要だと思う、連帯する。

世界を聴きたい、世界を見たい。

 

「おお言語よ」という台詞もあった。

心に焼き付く。

言葉について考える、ということは、革命者であろうとすることに近しいと僕は思う。

 

ふと思う。現代史は革命史なのかもしれない。

停滞や絶望もふくめて、どこかでなにかに抵抗するかぎり、革命は現在進行中なのではないか、、、。

そんな声が、画面から聴こえてくる。

 

ゴダールの映画の奥には、反抗がある。

尊敬する。

 

 

【追記】

トップダウンによる東京自粛に震えつつ、いくつもの映画やダンス映像を見まくり本を読みあさる、そのなかの一本が上記の映画だった。

ときめいたものについて順次書きたい。

 

 

 

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断片12/18:アンナ・カリーナの眼差し(追悼)

2019-12-18 | アート・音楽・その他

 

 

アンナ・カリーナ。

『気狂いピエロ』を何回も観たのは彼女の眼差しのせいだった。

質問者の眼差しだった。言葉をしっかりたずさえた眼差しだった。あんたは誰?あんたは何者?と問う眼差しだった。ぼさっと映画を観ていたのに、どきっとした。

あの眼差しが映し出される一瞬をもう一度だけ見たくて、有楽町に何回も行った。覚えている。美しい瞳、というよりも、美しい眼差し、と言いたい。

瞳の美しい人はたくさんいるけれど、眼差しが美しい人は、そんなにいない。眼差しが美しい人というのは、その眼の瞳の奥に、何かとてもしっかりした芯があるのだと思う。

ゴダールの映画を好きになる理由はいくらでもあるが、その最大の魅力の一つが出演者。そして彼女や彼のまとう雰囲気だった。モンタージュのことについて語られることが多いが、うつされている人物がいつも特徴的で、僕にはいつもいつも魅力的に思えた。

存在の仕方が、魅力につながる。ゴダールの映画に出てくる人物は、存在の仕方がクッキリとした主体があって、悩んでいる様子にさえどこか明るさがあった。その代表とも言える人がアンナ・カリーナだった。彼女の連れがゴダールになったのも、えらく似合っていて格好が良かった。

ゴダールの初期作品の中心には、いつも彼女がいた。彼女はゴダールのスクリーンの向こうから、こちらをちらちらと見ていた。あんたは誰?あんたは何者?、、、。

見つめられる瞳と見つめてくる瞳がある、とすれば、彼女の瞳は後者だったと思う。見つめられる身体と見つめてくる身体がある、とすれば、彼女の身体もまた後者だったと思う。

存在の仕方が、魅力につながる。さっきもそう書いたけれど、そう思わせてくれた一人が、アンナ・カリーナだった。

亡くなったことを知った。

永遠、という、あまりにも平凡な言葉を、なぜか思っている。たまに太陽を見て思う言葉だ。

 

 


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ゴダールと青い空

2019-11-20 | アート・音楽・その他



真っ青な空に、

ゆっくりと一本の白線が描かれてゆく。

飛行機雲だとわかっているのだが、

空が裂けてゆくように、思える。

まぶしい。


ある映画の始まりを思い出した。画面いっぱいの青空に飛行機雲がずっとのびてゆく。流れる音楽は左手のためのコンチェルトだ。低い持続音の高まりをピアニストが左手でキャッチすることから壮大なリズムが沸き起こる。ゴダールの『パッション』という映画の最初だ。

ゴダール作品のなかでも特に鮮明におぼえている一本で、目を奪われたシーンが多い。10回以上は観たと思う。観るたび、映画の内容とはまるで無関係に、そしてランダムに、僕は、さまざまなことを思い考える楽しみを感じた。好きなダンサーのダンスを見つめる時と、どこか似た時間の感覚なのだ。物語よりも映像を、映像そのものよりも映し出されたコップや人の肌や髪が、台詞の意味よりもそれを発音しようとする人の息音が、つよく感覚に働きかけてくるように、僕には思えた。

ゴダールの作品は、わかるようでわからない。わからないがなにかを感じる。つまり生身の人間にちょっと近いのかしら。だから何回も観たくなるのかもしれない。

海が嫌なら、

山が嫌なら、

勝手にしやがれ。

だっけ、、、。初めて見たのはそんな台詞に始まる白黒映画だった。物語というよりは、出来事のリズムを視ているようだった。

すこし前に観た最近作『イメージの本』はすべてが始まりのような映画だった。断片がおびただしく繰り出され続けた。見終わってもまだ自分が何を見ているのか、見ていたのか、釈然としなかった。これは何だろう。そう問いつづける。想像しつづける。見終わっても想起し続けようとしている。何を見ているのか。何がそこに起こりつつあるのか。つまり見終わってなお映画は始まり続けているのだった。

ゴダールの映画群は一種のルネッサンスだったのでは、とこのごろ思う。沢山の感動を僕は映画からもらったが、ゴダールの映画には感動というようなものが沸き起こった記憶はない。光の波が、影の呼吸が、網膜を激しく叩いた。そして、ある種の思考が、映画の中で、あるいは明滅するスクリーンの光と影のリズムとともに、ドキドキと脈を打ち始めるのだった。視ることから始まる思考がある。その味を知った。他の映画に、その経験はなかった。

ゴダールの映画はいつも断片で出来ている。スクリーンに時間の破片が散りばめられている。あらゆるストーリーは夢のようにバラバラになって並行している。辻褄合わせは困難で馬鹿馬鹿しいことにさえ思えてくる。何も分からなくたって、沢山のことを感じているからだ。つまりすべては「今」ということなのだと思う。

じっさい、僕らの現在には連続と非連続が混在していて、さまざまな出来事が繋がらない断片のまま並行している。僕たちも、僕たちの周囲の出来事も、バラバラだから繋がりたがっているのだろう。世界はひとつではない。とても沢山の世界が、生まれては消えている。この世界の隣には、別の世界が、きっとある。そんなことを想像しながら、僕は生きているし、そんなことを想像しながら、僕は踊ったり書いたりしている。

 
 

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アンジェイ・ズラウスキー監督、逝く

2016-02-18 | アート・音楽・その他
ゴダールのマリアで主役を張ったミリアム・ルーセルの美貌をこれでもかと晒け出しながら川端世界を視界に開いた『美しさと哀しみと』に溜息が絶えず、『私生活のない女』のダンスシーンほどカッコイイと感じたのは他に思い当たらない。

アンジェイ・ズラウスキー監督が17日に亡くなったそうだ。
愛と殺気と哲学とヒステリーと陶酔が破片のようになって胸かき乱すそのフィルム群はパゾリーニや衣笠とさえ並ぶと思う。

好きで殆どを見たが、退屈は一景もなし、そして全てが官能的に混乱していた。混乱というのは新しい秩序ではないかとさえ思えた。

激しい美の向こうから、簡単に解ってたまるか、という感じの怒りのような何かが押し寄せてくる。それが肌に合った。ズラウスキーの作品には目に見えない魂の敵が透明なまま映り混んでいるのかとも思っていた。

ポルトガル・シントラの廃墟で撮影されたという『コスモス』は未だ観ていない。15年ぶりのメガホンが遺言となった。



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始まりに終わりはない

2015-12-19 | ダンスノート(からだ、くらし)
「想像力を欠く すべての人は 現実へと逃避する」

こんな言葉が、一瞬に過ぎ去る。

ゴダール2014年の映画『さらば愛の言葉』、その最初、スクリーンはまだ闇のまま。

強烈だった。

ただ一筆の円を描くことによって空白よりも白い空白を存在させる禅画のように、あるいは、何も表さないためにこそ立っていることが出来たかつての暗黒舞踏手、すなわち闇そのものとして立っていた身体のように、あまりにもキッパリとした言葉はナイフの役割りを果たしていた。

様々な憶測や期待をプツリと切って何かの始まりが始まるのだった。

「想像力を欠く
「すべての人は
「現実へと
「逃避する

この言葉が通り過ぎ、平手打ちのように映像が始まる。
そしてまた次の瞬間が始まる。
始まり続ける。
やがて映画は終わり、
終わることによって何かが始まるのだった。
この映画をみることによって初めて始まる何かが。

何と美しい始まりかと思った。



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ダンスと歴史

2015-04-14 | ダンスノート(からだ、くらし)
雑文。

ソロ公演がはねて、すぐ4月。次の公演を目指して新しい作品づくりも始まり、クラスも新年度に入りました。
舞台活動とクラス活動に加え、僕はダンス学校でも教えていて、そちらは職業舞踊家の養成ということになっているから、かなり沢山の事を教える、これまで実技ばかりだったのが、ひょんなことから今年から「舞踊史」の講義も入れてくれということになって、受けました。大変なのは分かっているのだが、これまで興味の赴くままに調べていた様々なことを、ひとつの系譜図のように紡ぎなおす機会と思うし、踊りを言葉に置き換えてゆく作業も面白いかなと、挑戦することにしました。
明日、初講。

自分自身ではその日その日の気持をカラダに落とし込んでいるつもりでも、僕のダンスは、いつのまにかコンテンポラリーダンスという言葉に区別されていて、でも、踊り始めた頃、そんな言葉はなかった。舞踏、と言う人もいる。そう呼ばれる根拠はなにか、自分ではどう思っているのか、カラダから現れてくるコレは何と呼ぶべきか、など、考えているまに、どんどん名前がついてゆく。名づけようのない何かでありたいと願いつつも、それはそれで面白く、また淡々と踊る。作品が舞台が生まれ、消えて、また生まれゆく。自分も、カラダも、変わってゆく。

舞踊史を勉強していると、舞踊とは何か、と自らに問わざるを得ない気持に、あらためて、なります。いや、舞踊、という言葉そのもの小山内薫や福地櫻癡による造語となれば、おどり、というべきか。

動作は暮らしにいつも伴っているが、踊る、というとき、日常の動作とは一線を画した意識が生まれ、日常の動作とは何かがちがう身体の感覚が生まれている、それは確かなことで、これこそ踊り、これこそダンス、そのように感じる動作や姿態や佇まいが、時代時代にどのように自覚されてきたのか、そんなことが歴史の中には秘められているようにも思います。受け継いだり、変化させたり、あるいは喪失や欠落を想像しながら復古したり再生したりしながら、人は、存在の、時の流れの、源流へ源流へと、旅しているのかもしれないです。

歴史に、思い馳せる、調べる、纏める、それはどういうことかな、と思います。それを人に語ることは、もっと、どういうことなのか、も含めて。

僕は僕の先生(笠井叡)に出会わないと今のように踊っていないかもしれない、今のような生き方自体、していないかもしれないです。僕の先生は、その先生(土方巽、大野一雄)に出会わなかったらどうだったか、大野一雄さんがマリ・ヴィグマンに出会わなかったら、ヴィグマンがニジンスキーやクロイツベルグやダルクローズと同じ時代を過ごしていなかったら、、、。

師弟関係だけではない、色々な影響や共振や反発が、時間の流れと人の広がりから、一つの身体を変容させてゆく。

僕の場合、例えばパクストンがいなかったら、カニンガムがいなかったら、シュタイナーがいなかったら、ボイスがいなかったら、どうだったか。バリ島での、ドイツでの、稽古体験がなかったらどうだったか。ダンスでないが打楽器奏者を目指すトレーニングがなくてストラビンスキーにクセナキスに興味が出たか、映画作家を目指さなかったらゴダールの光やパゾリーニの原罪に触れたかどうか。

凄いなあ素敵だなあと思って、真似ようとしたり、大事にしたいからこそ真似ないように気をつけたり。
借り物ばかりでは困りますが、やはり、自分一人で何かが出来るとは、やはり思いません。

さまざまな偶然を孕みながら、異なる文化や異なる時代を呼吸し、まねび、あるいは変化させて、僕らの身体は成立して、また新しい身体へと脱皮してゆく。
そんな様子を想像する楽しみが、歴史にはあるように思います。

箸が転んでもおかしい年頃の少女たちが、やすやすと聴いてくれるかどうか、戦々恐々ですが、自分のためにもなると思い、ここらでちょっと少し、勉強し直してみようかしらと思っています。

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ソロ公演12/10、もうすぐ!

2010-12-02 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
12月ですね。いよいよソロ公演が迫りました。
ひとり舞台で踊るようになってから15年になるけれど、やはり舞台というのはすごい場所ですね、何度立っても初めてのような気の張り、いえ、張りつめるものがどんどん大きくなる。舞い手にとっては、真空地帯です。
とてつもない緊張感の中で、肉体に見知らぬ気配が落下してくることがある。
そして今回は、本公演だけどあえて一回限りのステージに絞った。再現性のあるコレオグラフの面白さとは別の、精神的肉体的な追いつめ方で、観客の方々と向き合いたい、一期一会の「澄み切り」に挑戦したいという気持ちがあります。
また、他者の言葉をタイトルに置いたのも久々です。
公演告知の直前まで置いていた自分の言葉を捨てて、向き合ってみたい、息を共にしてみたい他者の言葉を置きなおして、一年近く稽古して来た流れを解体に向け、カラダを開き直してみた。
その他者とは、アントナン・アルトー(写真)。僕をこの道に歩ませる刺激をくれた伝説的俳優。

アルトーとの出会いは、高校生の時でした。クラシックバレエが身の丈に合わず、長らく続けていた体操競技をやめ、打楽器のトレーニングを受けたり、モダンダンスというものを初体験したりしていた頃。さらにワイダやゴダールの映画に出会い、社会と芸術の対峙に、いいしれぬドキドキを感じ始めていた頃のこと。
フランス革命とナポレオンの生涯を描いたアベル・ガンスの大作『ナポレオン』のスクリーンで。

アベル・ガンスの作品は3つのスクリーンとオーケストラによるサイレント映画末期の名作ですが、そのなかで、革命家のポール・マラーを演じていたのが、アルトーだったのです。
恐ろしいほどの霊気と陶酔するような色気を放つその姿から、とりわけ暗殺される場での姿から、身体というものへの誘惑が経ち難くなってしまった。そんな人が遺した、謎めいたキーワードが今回のタイトル「le corps sans organes=器官なき身体』。
踊りのカラダをたちあげてゆく、通奏低音のように響いてくることばひびき。さて、のこりわずか1週間あまり、いかに連れ添ってゆくのか。

美術の詰め、そして音の最終段階へ進みながら、カラダは急速な熱をたたえ始めています。

【information】
●櫻井郁也ソロ公演『器官なき身体~phase1』=12月10日(金)

全編80分あまりのノンストップダンスに発展しました。ただひとつのカラダ、されどイノチ響く器。いよいよ本番へ。ぜひご視線をお願いいたします。 関係者一同
公演サイト

予約受付中、よろしくお願い致します!!

【チケット予約/お問い合わせ】 
080-3507-3860  
j-ss★rj8.so-net.ne.jp
(★を@に置き換え) 






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「ダンス、つながりへの予感」

2007-09-29 | ダンスノート(からだ、くらし)
10/7のショーイング&ワークショップ、これをへて10月からは全クラスでの新規受け入れと初歩/基礎の見直しが始まります。そして11月の初演にむけて自らにハードルを課すような新作「カラビンカ」との格闘・・・。僕にとっては、まさに初心から作品までを再構築するような総合的な稽古の日々が続いています。

僕の思う「ダンス」は、一言でいえば気配のキャッチボール。「何かとひとつになる」そのような運動を通して、森羅万象のイメージを呼吸するのがダンスなのではないでしょうか。

ちいさな子どもたちは常にそれを行っています。
カラダを全部のばしたら、光の輝くように。そっと力をぬけば、なびく風のように。どこまでも関節を折り畳んでゆけば、転がる石や花の種子のように・・・。
いつも何かとひとつになろうとしてカラダを動かし、心の中では本当に一つになっているのかもしれません。

幼ければ幼いほど、いつも動き回りながら、何かを「まねび」「あらはし」、自分の感覚とまわりのバランスを、実に繊細に重ね合わせて生命を呼吸しています。野原でなんか、見回す前にパアッと駆け出して、ああ広いね~、なんて言っていますが、そのような、本能的で瞬間瞬間の感情と直結した動きが、幼い子どもの日々の営みですよね。まわりの世界と素直に結びつくことの喜び。それが子どもたちの笑顔に出ていると思います。

僕が学んできた「舞踏」と「オイリュトミー」には、そんな「子どものカラダ」を取り戻そうとするような衝動と方法論がある、と感じています。
アタマをからっぽにし、ひたすら開放的な身振りで言葉の響きや音楽の変化に戯れようとするオイリュトミーは、6才前後の頃の、桜色の世界が広がる感じがするし、身体の声に耳を澄ますようにして動きを探り続ける舞踏の踊り方は、母胎の海に誕生を夢見ている胎児と、幽界に旅立つ死者のあいだを去来するような切なさ愛おしさがあります。

そんな踊りを練習しながら、僕がしばしば思うのは、「つながる」ということに対する喜び哀しみ切実さです。

踊りとは関係ないけれど、少し前に西川美和監督の「ゆれる」という映画を観ました。これまでになかったような、人の関係への切なさが伝わってくる作品でした。兄弟、家族、恋人の離別と再生へのランドスケープが、ひとつの壊れかかった吊り橋をステージとして、繰り広げられます。人が人として生をもがくからこそ、引き裂かれてしまう何か、生まれてしまう距離、それを、つなぎとめようとするなかで生まれてくる罪・裁き・真実・嘘が、どこかダンスに重なりました。他にもゴダール、河瀬直美、ベルトルッチ・・・。日々の重なりを影と光りに凝縮する映画は、しばしばダンスに重なります。

人、自然、宇宙。わたし、あなた、彼、彼女。こころ、アタマ、からだ。
いろんなところに、ため息が出そうな距離があるけれど、それを埋めるようにして、踊ってみる。もういちど、一つになろうとしてみる
そんなとき思います。自由でなければ・・・。
いえ、そんな簡単に自由になれるものでない。としても、そう思うのです。
関わり、つながるためには、ひとつひとつ「縛り」をほどいてゆかねばと。
ジユウに表現スル、なんて感じじゃなくて、瞬間に感じた何かにスッと力をぬいてカラダを差し出す感じなのですが。ああ、なんだかイケてる。そう思ったとき、カラダは、ふと何かの気配を受け止めているんです、キャッチボールみたいに。そのとき、眼に見えぬ縛りがひとつ、はらりとほどけるのを感じます。待ったにめったにない瞬間だけれど、これがほしい。
今日も踊ってきました。明日もおそらく踊ってみるのでしょう、きっと・・・。

まもなくの、オープンワークショプでは、僕も初心にかえって、つながりへの一歩を、いっしょに踊りたいです。
オープンワークショップ10/7=受付中


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