ソロ公演が1ヶ月後に迫りました。
今回のダンスは、冬の空気を感じながら舞うことになります。
東京の冬に本格的な公演を行うのは久しぶりです。2001年、あの9.11のあとに戦争が始まり、いたたまれなくなって猛スピードで作ったソロ『ガラスの背後からの叫びと共に』以来のこと。
あの頃から、この世界はとても厳しくなっていった。ほんとうはもっと前から、何かがおかしい、そう、漠然と感じていた世の狂いが、すこしづつ、はっきりとした出来事になってきた気がします。世の中がどうあったって、心や体を明るく照らし出してゆけるような暮らし方を見つけなきゃいけない時代が、現実になったんだって思います。今回上演に際して、ダンスに付けたタイトル「器官なき身体」は、アントナン・アルトーが最晩年に世に問うたラジオパフォーマンスに含まれる言葉です。アルトーは僕らが感じている狂いや脅威を、20世紀のはじめに作品化、いえ、肉体化していた人です。そのあたりのことも、公演までにここに、書いてみようと思っています。
その前に、今回の公演の経緯はもっと僕自身の体験というか、踊りのプロセスの自然な流れの中から、カラダの経験のなかから始まっていますので、きょうはそのことを少し。
作品は題名も何もないところで生まれました。毎日繰り返すカラダの営み、心のうつろい。それらを感じ、味わいながら淡々と踊りのベクトルをさがし、試行錯誤する中でカタチや流れがでてきて、ひとつながりの時がつながっていった。名前の無い運動と呼吸の時の流れ。この身から出てきたそこに、もうひとつ対話してゆくものが欲しくて、タイトルを重ね込んでみたわけです。たいてい、タイトルは自分の言葉なのですが、今回はもっと距離感のある、他者の言葉を踊りに向けてみたかった。それで選んだのがアルトーだったわけですが・・・。
今回発表する踊りの作業は、今年2月、白州の「森の舞台」で踊った野外ソロの上演体験から始まりました。
氷点下の気温に風がさまようような日でした。そして山の中の野外ステージでしたから、床や土やさまざま、まわりでは、色んなものが凍っていました。白い息を吐きながら、カラダは内側の熱を頼りにするしかなかった。着込めるだけ着込んで席に着いた観客の方たちは、じっと視線をくださって、50分そこそこのダンスでしたが、観る方もかなり大変だったと思います。しかし、突き刺すような寒さであっても、いいえ、だからよけいになんでしょうが、空はなんと青いんだろうと思えるような遠さでしたし、土の表面など凍結したところがキラッと時々ひかるのでした。
そのようななかで、肉に宿ったものが、ずっとうずうずしていて・・・。
これから来る新しい冬の初めに、ダンスを、と思って稽古を始めました。
そして、あの長く暑かった夏が過ぎて、ようやく踊りの骨が出来、いま方々でご案内しているような題名やらイメージやらが見えました。いまは、踊りたおしています。考えをつめる、というより、捨ててゆく勝負になりそう。
作品そのものも、やはり生きものみたいで、どんどん変化を欲望しているようです。
ガラガラと壊れ、また再生し・・・。つくってきたもののなかに僕自身とは別の何かが棲まい始めたのでしょうか。今回の作品は、作品の側から何だか僕自身に突きつけてくるようなものがある。まだ言葉にならないし、本番その瞬間まで、絶対に結果は見えないんですが、緊迫感があります。
透き通った空気を貫いて一点を射す冬の光のように凛として、のこり一ヶ月の追い込みを駆けてゆきたいと思います。
冬は一つの年の時の流れがグッと凝縮されてゆく季節です、それは同時に、来るべき春の花々が準備されてゆく「孕みの季節」でもあると思います。摂理とも予感とも、ともに、ありたいです。
このブログでも、経過・経験など綴りながらの作業になるかと思いますが、みなさま、ぜひお見守りいただけますよう、お願いします!
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●櫻井郁也ソロ公演「器官なき身体~phase1」=12月10日(金)
予約受付中、ぜひご来場ください!公演サイト
今回のダンスは、冬の空気を感じながら舞うことになります。
東京の冬に本格的な公演を行うのは久しぶりです。2001年、あの9.11のあとに戦争が始まり、いたたまれなくなって猛スピードで作ったソロ『ガラスの背後からの叫びと共に』以来のこと。
あの頃から、この世界はとても厳しくなっていった。ほんとうはもっと前から、何かがおかしい、そう、漠然と感じていた世の狂いが、すこしづつ、はっきりとした出来事になってきた気がします。世の中がどうあったって、心や体を明るく照らし出してゆけるような暮らし方を見つけなきゃいけない時代が、現実になったんだって思います。今回上演に際して、ダンスに付けたタイトル「器官なき身体」は、アントナン・アルトーが最晩年に世に問うたラジオパフォーマンスに含まれる言葉です。アルトーは僕らが感じている狂いや脅威を、20世紀のはじめに作品化、いえ、肉体化していた人です。そのあたりのことも、公演までにここに、書いてみようと思っています。
その前に、今回の公演の経緯はもっと僕自身の体験というか、踊りのプロセスの自然な流れの中から、カラダの経験のなかから始まっていますので、きょうはそのことを少し。
作品は題名も何もないところで生まれました。毎日繰り返すカラダの営み、心のうつろい。それらを感じ、味わいながら淡々と踊りのベクトルをさがし、試行錯誤する中でカタチや流れがでてきて、ひとつながりの時がつながっていった。名前の無い運動と呼吸の時の流れ。この身から出てきたそこに、もうひとつ対話してゆくものが欲しくて、タイトルを重ね込んでみたわけです。たいてい、タイトルは自分の言葉なのですが、今回はもっと距離感のある、他者の言葉を踊りに向けてみたかった。それで選んだのがアルトーだったわけですが・・・。
今回発表する踊りの作業は、今年2月、白州の「森の舞台」で踊った野外ソロの上演体験から始まりました。
氷点下の気温に風がさまようような日でした。そして山の中の野外ステージでしたから、床や土やさまざま、まわりでは、色んなものが凍っていました。白い息を吐きながら、カラダは内側の熱を頼りにするしかなかった。着込めるだけ着込んで席に着いた観客の方たちは、じっと視線をくださって、50分そこそこのダンスでしたが、観る方もかなり大変だったと思います。しかし、突き刺すような寒さであっても、いいえ、だからよけいになんでしょうが、空はなんと青いんだろうと思えるような遠さでしたし、土の表面など凍結したところがキラッと時々ひかるのでした。
そのようななかで、肉に宿ったものが、ずっとうずうずしていて・・・。
これから来る新しい冬の初めに、ダンスを、と思って稽古を始めました。
そして、あの長く暑かった夏が過ぎて、ようやく踊りの骨が出来、いま方々でご案内しているような題名やらイメージやらが見えました。いまは、踊りたおしています。考えをつめる、というより、捨ててゆく勝負になりそう。
作品そのものも、やはり生きものみたいで、どんどん変化を欲望しているようです。
ガラガラと壊れ、また再生し・・・。つくってきたもののなかに僕自身とは別の何かが棲まい始めたのでしょうか。今回の作品は、作品の側から何だか僕自身に突きつけてくるようなものがある。まだ言葉にならないし、本番その瞬間まで、絶対に結果は見えないんですが、緊迫感があります。
透き通った空気を貫いて一点を射す冬の光のように凛として、のこり一ヶ月の追い込みを駆けてゆきたいと思います。
冬は一つの年の時の流れがグッと凝縮されてゆく季節です、それは同時に、来るべき春の花々が準備されてゆく「孕みの季節」でもあると思います。摂理とも予感とも、ともに、ありたいです。
このブログでも、経過・経験など綴りながらの作業になるかと思いますが、みなさま、ぜひお見守りいただけますよう、お願いします!
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●櫻井郁也ソロ公演「器官なき身体~phase1」=12月10日(金)
予約受付中、ぜひご来場ください!公演サイト