櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

アルトーをめぐるソロ・公演12/10にむけて:1

2010-11-11 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
ソロ公演が1ヶ月後に迫りました。
今回のダンスは、冬の空気を感じながら舞うことになります。

東京の冬に本格的な公演を行うのは久しぶりです。2001年、あの9.11のあとに戦争が始まり、いたたまれなくなって猛スピードで作ったソロ『ガラスの背後からの叫びと共に』以来のこと。
あの頃から、この世界はとても厳しくなっていった。ほんとうはもっと前から、何かがおかしい、そう、漠然と感じていた世の狂いが、すこしづつ、はっきりとした出来事になってきた気がします。世の中がどうあったって、心や体を明るく照らし出してゆけるような暮らし方を見つけなきゃいけない時代が、現実になったんだって思います。今回上演に際して、ダンスに付けたタイトル「器官なき身体」は、アントナン・アルトーが最晩年に世に問うたラジオパフォーマンスに含まれる言葉です。アルトーは僕らが感じている狂いや脅威を、20世紀のはじめに作品化、いえ、肉体化していた人です。そのあたりのことも、公演までにここに、書いてみようと思っています。

その前に、今回の公演の経緯はもっと僕自身の体験というか、踊りのプロセスの自然な流れの中から、カラダの経験のなかから始まっていますので、きょうはそのことを少し。

作品は題名も何もないところで生まれました。毎日繰り返すカラダの営み、心のうつろい。それらを感じ、味わいながら淡々と踊りのベクトルをさがし、試行錯誤する中でカタチや流れがでてきて、ひとつながりの時がつながっていった。名前の無い運動と呼吸の時の流れ。この身から出てきたそこに、もうひとつ対話してゆくものが欲しくて、タイトルを重ね込んでみたわけです。たいてい、タイトルは自分の言葉なのですが、今回はもっと距離感のある、他者の言葉を踊りに向けてみたかった。それで選んだのがアルトーだったわけですが・・・。

今回発表する踊りの作業は、今年2月、白州の「森の舞台」で踊った野外ソロの上演体験から始まりました。
氷点下の気温に風がさまようような日でした。そして山の中の野外ステージでしたから、床や土やさまざま、まわりでは、色んなものが凍っていました。白い息を吐きながら、カラダは内側の熱を頼りにするしかなかった。着込めるだけ着込んで席に着いた観客の方たちは、じっと視線をくださって、50分そこそこのダンスでしたが、観る方もかなり大変だったと思います。しかし、突き刺すような寒さであっても、いいえ、だからよけいになんでしょうが、空はなんと青いんだろうと思えるような遠さでしたし、土の表面など凍結したところがキラッと時々ひかるのでした。

そのようななかで、肉に宿ったものが、ずっとうずうずしていて・・・。

これから来る新しい冬の初めに、ダンスを、と思って稽古を始めました。
そして、あの長く暑かった夏が過ぎて、ようやく踊りの骨が出来、いま方々でご案内しているような題名やらイメージやらが見えました。いまは、踊りたおしています。考えをつめる、というより、捨ててゆく勝負になりそう。

作品そのものも、やはり生きものみたいで、どんどん変化を欲望しているようです。
ガラガラと壊れ、また再生し・・・。つくってきたもののなかに僕自身とは別の何かが棲まい始めたのでしょうか。今回の作品は、作品の側から何だか僕自身に突きつけてくるようなものがある。まだ言葉にならないし、本番その瞬間まで、絶対に結果は見えないんですが、緊迫感があります。

透き通った空気を貫いて一点を射す冬の光のように凛として、のこり一ヶ月の追い込みを駆けてゆきたいと思います。

冬は一つの年の時の流れがグッと凝縮されてゆく季節です、それは同時に、来るべき春の花々が準備されてゆく「孕みの季節」でもあると思います。摂理とも予感とも、ともに、ありたいです。
このブログでも、経過・経験など綴りながらの作業になるかと思いますが、みなさま、ぜひお見守りいただけますよう、お願いします!
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●櫻井郁也ソロ公演「器官なき身体~phase1」=12月10日(金)

予約受付中、ぜひご来場ください!
公演サイト


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9.11ミクロコスモス

2007-09-14 | ダンスノート(からだ、くらし)
(数日前に書いたものですが・・・)

ふと見ると朝顔がたくさん咲いていました。じっと見てしまった。
ああキレイ・・・。この単純な感情が、なんだか崩れそうになる自分を、ハッと支えてくれる。
この感覚はなんだろう。

それで、思い出しました。この感覚を初めて意識した日のこと、「あの日」のことを。あれは、そう・・・、あれから6年目の9月11日を、今過ごしている。

「あの日」も朝顔を見たのでした。

やはり練習をしていて、充実感があり、家に帰ったとき、何かが大きく変わり始めたのでした。あの一瞬一瞬を見つめていたというよりも、とても大きな何者かに見つめられていた感じ。阿修羅のような、あの彼方からの視線。
朝になったのだけれど、朝がちゃんときていることを無性に確かめたくなったのでした。それで、とにかく外に出て空気を吸った。そこに、当たり前のように、朝顔が乱れ咲いていた。

ああ、キレイ。そう感じたとたん、内部で何かが崩れた。あのビルが崩れていったように、僕の中でそびえていた何かが、どっと崩れたのでした。あとに残った、白い空白。心の中にもグラウンドゼロが生まれた。でも、その空白は、なぜか、むなしいものではなかったのです。

朝を歩いて、花を見て、「ああ、キレイ」そんな感覚自体とても久しぶりのようなリアルさだった。とにかく、この一瞬というものが、急速に愛おしいものになってしまった。何だったのだろう、あれは・・・。
世に言う、同時多発テロと同時進行で、まったく別のシフトチェンジを、僕は過ごしていたのかもしれません。
とてつもない不安のなかで、心には、ある種の転換が生まれていった。

それからしばらくして、ダンスを続けようと、あらためて決めたのでした。あるいは、この身体や現在と、与えられる限りのいっぱいまで連れ添ってゆくことを、あらためて思ったのかも。あそこから、少し少し、作品が変わってきた。あたらしい踊りを創るのでなく、あたらしい「始まり」を踊る器として、作品を創っている感じです。いま、また創っています、現在進行形の始まりの器を。創りながら、感じています。何とも愛おしい一瞬を、いま過ごしているのではないか、と・・・。(9.11.2007)

※新しい作品は、11/16~17、ライブスペースplanB(東京・中野)にて公演。さて、どんな始まりを踊ることになるのでしょうか。



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