櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

9月11日という一日

2023-09-11 | ダンスノート(からだ、くらし)

きょう、つまり「9/11」という日についての過去記事を再掲載する。何度もこの日のことを書いている中の一つ。2001年9月11日。この日は、現在この地点について考える上で深く重要な日の一つと思うが、この日は僕自身の舞踊活動にも大きな転換点をもたらすきっかけにもなった。

あの日、赤ん坊を抱きながら震えていた。気付けば、あのころ生まれた人が世界をつくる時代が始まっているが、まだ同じ思いが続いている。どこまで、、、。

 

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【過去記事】

 

「あのビルが崩れていったように、

僕の中でそびえていた何かが、

どっと崩れたのでした。」

 

この一言は2007年に書いた文章の一部、下の写真は、2001年の暮れに打った公演のチラシとそれに添えた文章。ここから僕のダンス活動は「独舞」に集中してゆくことになった。

個の肉体は今まさに流され続けている血の一滴一滴と決して無関係ではいられないこと、、、

という、この部分は、長年を経て未だ変わらないまま思い巡り続けている。

2001年の9.11、そして10.07。それにつづく数ヶ月に起きたことについて、その当時に「思い」「考え」「動いた」ことすべてが、いまだ毎年ふくらみ続けていることを感じずにいられない。

今日は2020年の9月11日。

あの出来事から、さらに、震災を経て放射能禍を経て、またさらにいま、コロナ禍のただなかで、あの2001年以来どうにも収まらないままの激しい振動と轟きが、身体の底のほうにどよめき続けているのを、えらく感じて、これをどうすればよいのだろうか。

そして、さらに、ここから、、、。

 

(他にも記事アリ ▶︎ 関連LINK )

 

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lesson.レッスン情報  

Stage. 櫻井郁也/十字舎房:公式Webサイト

櫻井郁也によるダンス公演の情報や記録を公開しております。

作品制作中に記されたテキストや写真なども掲載しておりますので、ぜひ、ご覧ください。

▶︎近日中に次回公演の開催日程をお知らせします。

 


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断想9/11(あの日のことから)

2022-09-12 | ダンスノート(からだ、くらし)

ちょうどいまごろの時間、悪寒とも少し違う、異様な予感で落ち着かないまま、テレビを見つめていた。巨大なビルの崩落が、繰り返し、流れ続けていた。20数年経っていると思えない。

あの日、稽古から帰宅するとNYでビルが燃えているというので、テレビに目をとられて身震いした。21時46分アメリカでは朝8時46分、さらに22時03分アメリカ9時03分。2台の旅客機が乗客を乗せたままワールドトレードセンターに突入した。そしてペンタゴンにも。あの瞬間から、突然、怒涛のように現在が始まった気がする。

9.11事件は21世紀の扉を暴力的にこじ開けたのではないかと思うことがある。

暴力の連鎖が始まっていることを生々しく知らされた。これまで感じたことのない種類の、深い暗さが近づいてくるように感じた。あれ以来、関係あることも、まるで別の次元のことも、なぜか雪崩のように物凄いことが次々に起きて、私たちがどこまで行ってしまうのか、わからないまま、いまここにいる。

あの直後に衝動に駆られ、つくり始めた作品群があった。『非暴力と不服従へのダンス・第1番〜第4番』である。

第1番はソロ、第2番がデュオ、第3番はカルテット、第4番で再びソロとなる。個体性と関係性のあいだを、揺らぐように、迷いながら、作品を作っては上演し、3年を過ごした。

その翌年、この4連作を通じて蓄積されたものから生まれたのが『カナリゼーション〈祈りの河〉』という作品だった。

男女のダンサーによってソロとデュエットが交互に踊られ、そこに一人の女優によるアクトが絡み、数え切れない量の身振りや言葉が浮かんでは消え、時間に運ばれて流れ去ってゆく。

これら合わせて5つの作品について、再考することが多い。この作品群を境に、現在までソロ作品が連続している。

(関連記事)

 

 

 

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Stage info. 櫻井郁也/十字舎房:公式Webサイト

ただいまHPでは7月末に行った新作公演の記録を公開しております。作品制作中に記されたテキストや過去の公演写真なども掲載しておりますので、ぜひ、ご覧ください。

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス:ご案内  

 

 

 

 

 


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櫻井郁也ダンスソロ 7月新作公演 2021(7/17~18):公式Webサイトopen・チケット予約start

2021-05-24 | ダンス新作公演 Next performance

NEWS

2021年7月の新作公演につきまして詳細が決定し、
公演webサイトをオープン、チケット予約の受付を開始いたしました。

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櫻井郁也ダンスソロ新作公演 2021
「血ノ言葉」
Sakurai Ikuya Dance solo
“Ur-Speak”

2021

7 17(土)19:00

        18(日)15:00 

ストライプハウスギャラリーB1(東京・六本木)

 

 

火をさがす。
からだの底の、遠くの、、、。

 「個」からはじまるもの、「ひとつのからだ」による表現の可能性を追求して独舞公演をつづけてきたダンサー・櫻井郁也が公演活動を再開。そのメインワークであるソロシリーズ最新作を発表します。この作業は、20019.11同時多発テロに触れて上演された《非暴力と不服従のダンス》四部作を起点に20年のあいだ継続され、一貫した意思で定期的に新作を創作、海外公演や国内主要芸術祭などにも展開され、定評を得ています。

 このたびオープンいたしました公演webサイトでは、基本情報のほか、上演作品「血ノ言葉」をめぐるアーティスト自身の文章、舞台写真、チケット情報など、くわしいご案内を掲載しております。

下記LINKより、ぜひご閲覧ください。(十字舎房制作部)

↓↓↓↓↓


櫻井郁也ダンスソロ2021  公演webサイト

・くわしい公演ご案内
・作品の紹介
・アーティスト自身のメッセージ
・チケット申込フォーム

今回の公演は、感染予防対策のため、非常に少ない席数にて行います。

 

チケット予約はお早めにお願いします。

 


Stage information

Sakurai Ikuya Dance solo "Ur-Speak"

Sat.17th & Sun.18th July 2021

 We will be held the Newest performance by SAKURAI Ikuya on the following schedule.
Now,Official website of our next performance is available.

 

 

 

 

 


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stage photo : Sakurai Ikuya dance solo(櫻井郁也ダンス舞台記録)

2021-05-02 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)

 

 

 

photo=「ガラスの背後からの叫びと共に」 非暴力と不服従へのダンス第一番(2001年)

 

きらきら光るあれは砕けたガラスだ、めちゃめちゃに降り注いでいるのだ、そしてあの音は、ああ、ああああああ、、、、、(日記)

2001年の9.11同時多発テロとそれに対する報復の始まりに激しく揺さぶられた。ちいさな子ども達を抱え右往左往していたさなか、未来なるものへの浅はかな予測が見事に砕かれた。暴力と不寛容の到来を直感し、動物的な嗅覚が目覚めてゆくような感じがした。その感情は自らを問い直すきっかけにもなっていった。写真は、2001年冬の公演。これが転換点になって20年の二転三転。今、コロナのさなかで、どうしようもない痙攣が肉骨臓腑に迷い込んでくる。ここから、どこへ、さて。

 

 

 

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stage 櫻井郁也/十字舎房:公式Webサイト

次回公演(2021年7月)の開催概要を掲載中。

まもなく公演特設ページをオープンいたします。

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス:ご案内 

ただいまの開講状況はコチラです。

 

 

 


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stage photo:Sakurai Ikuya dance solo(櫻井郁也ダンス舞台記録)

2020-12-30 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)

 

photo=Sakurai Ikuya's previous work "Cascade" 2000 

 

踊り、なるものがこの世に生まれたのは何故なのだろう。

そんなことを、これまで以上に、強く強く思った年でした。

上の写真、つまり2000年のころ以来の内的な変化を感じつつです。

(当時はドイツでの客演に続いてアンサンブル作品の振付を行い、その数ヶ月後に上演したのが、写真の『カスケード』という作品で、ソロダンスとピアノとサウンドオブジェのためのものでした。)

この写真の公演のあと、2001年の「9.11事件」の戦慄と脅威をへて、僕は意識的に『独舞』に専念するようになり、「非暴力と不服従のためのダンス」というコンセプトとともに、現在の《櫻井郁也ダンスソロ》というシリーズ公演を開始しました。そして、20年目になるところで、この「コロナ禍」なるものに遭遇し、上演リズムを中断されました。

丸一年ものあいだ舞台に立たない経験。上演の目処が無いリハーサルを続け作品が壊れ別の何かが芽を吹き始めるという経験。オンライン授業なるもので人と出会うという体験。ライブ配信なるものの演出経験。日々のレッスンや教育活動に対する、かつて意識しなかった愛おしさと責任を感じる経験。

今年は、そのような、いままでにない経験が重なりながら、総じてそれらが喜ばしくないという、神経がざわめき続ける、暗い、そして、受け容れがたいものが沸々とたぎる日々のなかで、「踊り」なるものについて、あらためて憧れ惚れ直した一年だったと思います。

どんな踊りを生み出すか、というのは当然の課題だけれど、それにもまして、どうして踊りなるものが生まれてくるのだろうか、ということが、いま、より切実に思えて仕方がありません。

どんな世界が良いのかと思うのとはまた別に、この世界というのはどんなふうにして生じたのだろうかと問うようなことにも似ているでしょうか。

この身から、この一瞬間に、この場所に、こぼれるもの、にじみだすもの、ふんしゅつするもの、、、。

踊りからは、言葉が生まれることもあるし、音楽が生まれることもある。しかし、言葉も音楽もない極度の静寂が踊りから生まれてくることも、また、あると思います。さらに、何一つ生じ得ないような真空と空白と停止もまた、踊りには隠されてあるのではないか、などということも、思います。

爆発し続ける隕石のような轟音と、二度と燃え上がることがないダイヤモンドのような静寂が、ともに抱きかかえられてあるような、超原始的な混沌が、踊りなるものにはあるのにちがいない、ということも、いま、この停滞の中で、思っています。

散らばるもの、吹き出るもの、もうやってられないもの、燃やしてしまいたくなる言葉、とても無意味な反乱、情熱的な絶望、ゆっくりとした落下、、、。

さて、ここから。

 

 

 

 

 

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stage 櫻井郁也/十字舎房:公式Webサイト

舞台活動のご案内です。次回公演の日程も近日発表します。

 

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募集情報 レッスン活動を再開。ぜひ踊りに来てください。

・コンテンポラリー/舞踏(メインクラス)

・基礎(からだづくり〜ダンスの基本)

・創作(初歩からの振付創作)

・オイリュトミー(感覚の拡大)

・フリークラス(踊り入門)

 

 

 

 


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断片12/28(ニンゲンフッカツノ、、、):櫻井郁也ダンスノート

2020-12-28 | ダンス新作公演 Next performance

 

 

 

ときどき、亡くなった折田克子さんのことを、思い出します。

折田さんはまさに稀有なモダンダンサーで振付家で指導者で、僕にとってはずっと励ましていただいてきた精神的な恩人です。

10月5日が命日です。

今年はその前日と前々日に秋公演を設定していたのですが、コロナで中止になりました。

僕はレクイエムが苦手ですが、それでも、大事な人の命日に連なる日に踊りたいという心持ちで、彼女の思い出を思いながら稽古していました。

公演中止は酷でしたが、このときの稽古は、いま制作中の新作にとても力を与えてくれています。

折田克子さんとは、『アリスの長い午后』(1997・埼玉芸術劇場)という彼女のダンス作品に客演させていただいたのが出会いで、僕が公演を開くたびに激励の言葉をいただいていました。

折田さんの作品は、凄い人が沢山関わって立派な賞もいただいた大きな華やかなもので、その作業は大変でしたが、僕にとって楽しみな時間の連続でした。踊らせていただきながら、踊りというものの素敵さを体に染み込ませてゆくような作業で、もちろんそれは「リハーサル」なのですが、僕にとっては折田さんと対話することができるかけがえない時間の連続であり、いつもドキドキしていました。

で、ある日の稽古のあとお茶をいただいていたとき、彼女がこんなことを言い出したのが強く胸に残っています。

「なんとなくなんだけどね、21世紀はね、人間復活の時代になると思うのよね。おかしいかしらね、、、。」

ちょっと笑いながらだったのですが、すっと自然に言われたその一言に僕は強烈に、とても、感慨をいだいたのです。ニンゲンフッカツ。その一言が、ぐっと、胸にこたえたのです。

僕は不安な時期でした。何をしてもうまくなくて少し斜に構えていましたし、ちょっと絶望さえしていたかもしれない。最初の子どもが生まれたばっかりでしたが、自分自身として立っている自信もまだ怪しく、おろおろして、弱さ、というものに初めて本当に直面していました。

そのころから長い時間がたって、いまこの状況のなかで、ふたたび、彼女の言葉がとてもリアルに思えてきたのです。僕自身も、いまこの状況を過ごしながら、この21世紀を、まさにそのように、つまり、人間なるものが復活するプロセスの到来であるように、思えてならないのです。予感、というのでしょうか。

9.11テロ、3.11震災、そして現在のコロナ、、、。それらを始めとして、21世紀の到来とともに、僕らは実際すごくすごく「危機」なるものにさらされ、さまざまな面で「試され」続けています。

どうすれば人は仲良く出来るのか、どうすれば人は災害や病を克服できるのか、どうすれば日々の暮らしを安らかに保つことができるのか、、、。

そんな、「命の根本の問題」に向き合わざるを得ない時代に、僕らはいままさに生きています。

つらいけれど、それゆえにこそ気付くことがあったり、紡ぎ出すべきものが見えてきたりするのでは、というような、非常に大切な時期に、生きているのだと思えてなりません。

ここから、僕らはどのような考えや行為を紡ぎ出してゆくのでしょうか。

ニンゲンフッカツ、、、という、折田さんのぽつりとした声がまだ聴こえてしかたがありません。

 

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・コンテンポラリー/舞踏、基礎(からだづくり〜ダンスの基本)/オイリュトミー

 

https://blog.goo.ne.jp/cross-section/e/7c4d74cbcc8a4bd192a05efb2a5f7e0d

 

 

 

 


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「9.11」そして「10.07」の出来事から、、、(櫻井郁也ダンスノート2020.9-11)

2020-09-11 | ダンス新作公演 Next performance

 

「あのビルが崩れていったように、

 僕の中でそびえていた何かが、

 どっと崩れたのでした。」

 

この一言は2007年に書いた文章の一部、下の写真は、2001年の暮れに打った公演のチラシとそれに添えた文章。ここから僕のダンス活動は「独舞」に集中してゆくことになった。

 

個の肉体は今まさに流され続けている血の一滴一滴と決して無関係ではいられないこと、、、

という、この部分は、長年を経て未だ変わらないまま思い巡り続けている。

2001年の9.11、そして10.07。それにつづく数ヶ月に起きたことについて、その当時に「思い」「考え」「動いた」ことすべてが、いまだ毎年ふくらみ続けていることを感じずにいられない。

今日は2020年の9月11日。

あの出来事から、さらに、震災を経て放射能禍を経て、またさらにいま、コロナ禍のただなかで、あの2001年以来どうにも収まらないままの激しい振動と轟きが、身体の底のほうにどよめき続けているのを、えらく感じて、これをどうすればよいのだろうか。

そして、さらに、ここから、、、。

 

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ここで、、、(櫻井郁也ダンスソロ『沈黙ヨリ轟ク』:上演のあとに)

2019-12-16 | ダンスノート(からだ、くらし)

秋公演の稽古中もそうだった。公演のたび何度も「avec ici」という言葉を思ってしまう。「ここで」という意味だが「ともにここで」とも言えるのだろうか。avec ici、誰の文章だったか、ただこのひとことが、ずっとどこかに引っかかって響くのだ。僕のダンスの根に、ずっとかかわっている言葉かもしれない。

 

avec  ici

ここで ともに

 

僕は「ダンスソロ」と称して独舞公演を続けている。独舞はソロダンスと言うのが本当なのだろうが、僕の場合は、ある時期からわざと逆転させてダンスソロと表記している。独舞は文字通り単身で踊ることだけど、僕の場合は個が屹立するのではなく、意識のなかで様々な「もの」や「こと」と一緒に踊っている。身体は一つだけれど、なにかと「ともに」あろうとしている状態をこそダンスと僕は思っていて、そんな気持ちを少し反映できればというのが、ダンスソロ、という言葉なのだが、、、。

 2001年からソロに専念しているが、その前はモダンやオイリュトミーの舞台で群舞の1人として踊ったりアンサンブルの一員として、けっこう踊った、また、デュエットもやった。自作も習作や初期の公演はアンサンブルやデュエットが主だった。それらの体験なしに僕の現在の独舞は存在していたかどうか、と思う。(ソロを始めたキッカケのひとつに9.11事件があるが、そのことはまた書きたい) 

ソロと言っても、ひとりで踊るというのは表面的なとらえ方に過ぎない。舞台にいるダンサーは一人だが、空間は美術と音と光が存在として在り、それらは生きた肉体と対等にダンスを紡ぎ出す。そして、それらすべては目の前の観客の方々とコンタクトし続けている。そして踊りの場それ自体が、スタッフワークなしには何一つ動かない。言い方を変えれば、すべてが関連し合って踊っている。肉体は自らの心から飛び出して、空間と、音と、視線と、現場にある行為すべてと、そして、もっと潜在的な何かと、「ここで」「ともに」踊っているのだ。オドル、というのはそういう事と思う。

誰かと、何かと、「ともに」ある感覚からこそ、踊るという行為がうまれてくるのではないか。いっしょにいるから、うれしい、かなしい。そういうところからダンスは揺れ起こるのでは、と思う。

 ともにある感覚。それは生きている人とばかりでなく、死者や不在や非在をもふくめてかもしれない。いまここだけでなく、過去にも未来にも想像の中にも存在は存在していて、「ともにある」のではないか。

個体というのは実は他者につながっているからこそ存在できるのかもしれないと、僕はいつからか強く思うようになっている。

奇妙な言い方かもしれないが、実存は「ともに」あることだ、と言ってもいいかもしれない。ある存在がワタクシなるものとして存在するリアリティは、他者なしには、あり得ないのではないかと思う。孤独というものでさえ、他者との関係のひとつなのではと思う。

他者、とは、アナタ、でもある。アナタには死者も、天使も、つまり喪失や不在さえもがふくまれている。アナタ、という言葉は、かなた、にも通じているのかもしれない。ワタクシ、という言葉がどこまでも深い淵を思わせるのに対して、アナタ、という言葉には、とても広い広がりを感じる。

無数の、異なる、存在。知り得ないかもしれない、アナタ、なるもの。たとえばそういうことがしっかり響いているような踊りができればいいな、という思いが、最近ふつふつとしている。

 

 

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櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演サイト Stage info.=Sakurai Ikuya dance solo 

▶櫻井郁也によるステージ、ダンス作品の上演情報

 


櫻井郁也ダンスクラスご案内
 Lesson and workshop 

▶クラスの種類や内容、参加方法など

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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公演一ヶ月前(櫻井郁也ダンスソロ2019『沈黙ヨリ轟ク』11/9〜10)

2019-10-09 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)

 

 

櫻井郁也の最新ソロ公演、

いよいよ1ヶ月前を切りました。

3.11直後の心象を踊った『方舟』(2012:ルクセンブルク)、原爆70年忌に捧げた『弔いの火』(2015:長崎)につづく、生と死と再生をめぐるダンス作品。この作品をつくるなか、櫻井はさまざまな命にかかわる出来事に出会い、かつ、生命をめぐる社会的な問題に思索を拡げながら身体に向き合い続けています。

いま、ダンスは、いかなる交感を生み、いかなる思索を紡ぎ得るのでしょうか。

研ぎ澄まされた感性と肉体による先鋭的な作品、そして、長年の追求ならではの見応えある舞いを、ぜひ、ご堪能ください。(十字舎房 制作部)

 

「沈黙すればするほどに聴こえてくる声が、あると思う。

 遠い声、心の声、死者の声、

    物質の声、時間の声、

    不在の声、、、。

 聴こえない声のなかに、

 ない声のなかに、

 本当の言葉が、

 あるのではないかとも思う。

 死者とともに消えていった言葉、

 語られなかった言葉、

 語り得なかった言葉、

 それら、うしなわれた言葉たちに耳を澄まそうとするとき、

 身体すべてが鼓膜になって、

 ダンスの到来を受動するように思えてならない。

 沈黙のなかに立つ。

 極度に、

 極度に沈黙して、

 遠く透明にとどろくものに、

 身を投げる。(櫻井郁也)

 

【公演詳細 Stage information】

櫻井郁也ダンスソロ「沈黙ヨリ轟ク」2019.11/9-10・公式webサイト

SAKURAI IKUYA DANCE SOLO2019 Nov.

 

・くわしい公演ご案内
・作品の紹介
・アーティスト自身のメッセージ
・チケット申込フォーム(予約受付中)席数に限りがあります。上記LINKより、お早めにお申込ください。

 

 

 

 

 

 


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photo 10/07

2019-10-07 | 日々のこと(daily)

 

 

 

やっと肌寒さをかんじ、

こんな景色にも、、、。

 

 

 

 

 

 

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Stage information

DISTANT CRY

SAKURAI IKUYA DANCE SOLO2019 Nov.

櫻井郁也ダンスソロ「沈黙ヨリ轟ク」

2019.11/9-10・公式webサイト

・くわしい公演ご案内
・作品の紹介
・アーティスト自身のメッセージ
・チケット申込フォーム





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photo 9/11

2019-09-11 | 日々のこと(daily)

 

 

きょう9月11日のことを、きゅういちいち、と呼ぶようになって長い。2001年のこの日を境目に世界が変化したと言われるけれど、それは世界という何かだけではなく、もっと大切な、人と人の関係の仕方だとか、人という存在の立ち方の核のようなものが、変化を始めたのではないかと、僕は思うことがある。同時に、あの日を日々の一つとして居たことによって、僕自身の個の内部も、どこか、それ以前には思いがけもしなかったように変わってしまったのではないかと、なんだか思ってしまうことがある。よのなか、なるものの変化に圧倒され、いつしか馴らされてしまいそうになるうちに、あまりにも色々なことが起き、言葉を失いそうになり続け、言葉というものそれ自体に対する確かささえも、危うく、ぐらついてしまった、そんな気になることもある。2001年のこの日、自分の心の中にいったい何があったのか、理解しようと思い続け、まだ思っている。 

 

 

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Stage information

DISTANT CRY

SAKURAI IKUYA DANCE SOLO2019 Nov.

櫻井郁也ダンスソロ「沈黙ヨリ轟ク」

2019.11/9-10・公式webサイト

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カストロの死

2016-11-27 | ダンスノート(からだ、くらし)
カストロが死んだ。
これぞ革命家と実感していた最後の同時代人だった。

彼が政権を握ったのは1965年だから、僕の人生と同じ長さだけ、カストロのキューバは続いたことになる。

アメリカのすぐ隣りで、全く別なる価値観の小国が生き延びていること自体がすごいことだし、それはちょっとした希望や羨ましささえ感じることがあった。

豊かさや幸福の考え方が違う国。金持ちがいなく、皆が同じくらい貧しいが、不幸でない国。医療も教育も無料。ホームレスはいない。葬儀・お墓代も無料。

ベルリンの壁が崩壊して僕らの「現代」は走り始めた感があるが、世界には僕らの知らない「別の現代」がある、ということを、キューバはカストロの存在感とともに僕らに感じさせ続けたのかもしれない。

比肩できるような人物の政権を経験したこともなく、キューバに暮らしたこともないから、その為政について何かを言うことは出来ない。

しかし、彼が広島を訪れたときに語った
「日本国民は一言も恨みを発しなかった」
という一言には、非常に強く激しい力が潜んでいるように感じた。
政治家である前に、やはりカストロは革命家であったのだろう。

現代、という言葉があり、かつては第二次大戦後を現代と呼んでいたが、それは『ヒロシマ以後』、『アウシュヴィッツ以後』でもあった。

ダンスで『ベルリンの壁の崩壊』以後に発生したものをコンテンポラリーダンスと呼び、そこにあらかじめ表現の壁はないのは、あの日の共有から芽生えた現代意識ゆえかもしれない。

現代の起点をどこに置いているかで、その人の時代感覚や社会認識がわかる。

『9.11』以後、『フクシマ』以後、と、現代という時代は何度も始まり直す。じわじわとパラダイムが移り変わる。

11月25日、カストロが死んだ。
影響力のある人物の死は世界にとって喪失であるけれど、それは同時に新たな「生み」の始まりでもあると思う。

いま、『カストロ以後』という、さらに新しい現代が始まってゆくのかもしれない。まだ予感は余りにも微かだが。

「人間にとって重要な資本は金ではない。人間こそが、最大の資本なのである」

もちろんカストロの言葉だ。




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繰り返し発すること:スティーブ・ライヒを聴きながら

2016-09-05 | アート・音楽・その他
来年3月に来日するスティーブ・ライヒの曲を幾つか聴き返した。

この人の音楽に直接に関わった踊りといえば、ベルギーの振付家アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの「レイン」が僕には特に素敵に思い出すが、同作に重なっていたのは余りにも有名な「18人の音楽家のための音楽」だ。周りにもクラスにも好きな人がすこぶる多い。

木琴の繰り返す粒立ちの良い音に呼吸のようなヴォカリゼーションが重なり幾重にも音の層が重なってゆく有様は、鼓動や疾走を促すように身体に直接響いてくる。

「18人の...」は、ミニマルミュージックの代表とも言われるが、一見単純で淡々としたこの響きの素晴らしさは、生身の演奏家が体をつかって息を合わせて演奏しているところだと思う。フェーズを用いる初期の作品を始め機械的な演奏を伴う曲も多数あるが、ここでは18名もの人間の手と呼吸によるアンサンブルがやはり凄い。この緻密さの中に独特の温かみと求心力と解放感が渾然とした雰囲気は、機械的な作業では出ないと思う。

この音楽を聴いていると、なんだか大きな樹木の下にいるような気分になる。淡々と、軽く穏やかに続いてゆく音は、時に樹の枝や葉から滴り落ちる雨のように、いつしか木漏れ日と影のように、気がつくと微風のざわめきのように、自然な変化を走ってゆく。

この音楽を初めて聴いたのは大学に入ってすぐだったが、それは次々に新しい思潮が紹介され、もしかしたら20世紀がやっと明るみに向かうのではないか、いや、そうありたいという気運が高まってゆく時期でもあった。

しかし、その息の波に立ちはだかる巨大な壁が見えてくるのに時間はかからなかった。

同じ作曲家の足跡を辿りながら、そのことを考えてしまった。

「WTC9/11」という音楽がある。2001年9月11日のニューヨーク、あの日のことを音と体験者の声で綴った作品だ。

9.11。それは「現在」が露わになった日だった。
そして個人的には白紙還元=タブラ・ラサという脳の状態を初めて味わった長い夜だった。

あの日、白くなった脳ミソが何を何故いかに思ったのか、未だ整理などつくはずはないが、急速に
それまでの人生の過ごし方や踊りや人との関わりかたにメスを入れざるを得ない気持ちになったのは確かで、それは僕自身の21世紀の始まりでもあり、結果、しばらくは独舞に専念し、一から立ち方をやり直してみようと心を決めた日になったのだが、そのままの試行錯誤のなかで3.11をも経験し、さらに「今」を迎えている、、、。

「WTC9/11」は先の音楽とは明らかに別の響きに満たされていて、身体はその衝撃的な音の連続を受け止め切れない。胸に手を触れ膝を地に折る。例えばそのような仕方のほかに、どうにも出来ないような内省に向かわざるを得ない響きを、この音楽は響かせる。

ライヒはこの曲に関するコメントのなかで、リサイト、という言葉を投げた。リサイトとは繰り返し唱えること。演奏会を「リサイタル」と言う事もあるが、絶えざる言葉、声を絶やさぬこと、という意味が根にあるのだとライヒはいう。僕にはその言葉は自分自身の踊りにも深く結びついて聞こえて仕方がない。

この曲のほかににも近年の作品を聴くと、言葉の作用が非常に深い。

言葉を絶やさぬように、声を絶やさぬように、という気持ちが沈黙のなかにまで浸透したカタチとして「踊り」が湧いてあるのだとすれば、僕は沈黙に込めざるを得ない声や言葉を孕み得ているのだろうか。
身体が現在この現実に結びつこうとするとき、一体どのような行為が誠実なのだろうか。
と、この音楽の響きのなかで考えさせられる。

ライヒは僕にとって解放を促した作曲家であると同時に、自省を促す作曲家でもある。




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この一日を

2015-12-23 | ダンスノート(からだ、くらし)
この一日を愛することが出来たかなぁ、と、そう思うことそう思える一日を、365日のどれくらい生きたかと、年末だからか、振り返ってしまう。

何に愛おしみを思うか。それが個人個人の文化なのではと思う。

国の文化、民族の文化、文化にも色々あるが、とりわけ、一人一人の個人の文化を大切にしなければと、例えば僕なら僕自身の文化や周りに知り合っている人一人の文化を、大切に出来ているかなぁと、自省することがある。同時に、大切にしたくなる文化を生成しているかなぁ、とも思う。

世界は一つだが、その中には沢山の一人一人が生きていて、その一人の中にもまた一つ一つの世界があるのだから。

舞場で踊る。稽古場で踊りに立ち会う。観客と向き合う。自ら観客になる。踊り手を教え、自らも踊る。そんな状況に懸命になりながら、ハッと気づくのは、身体や存在や場や時に対する処し方として自分の視点がどんな広さに辿りつき得ているか、ということだったりする。これこそが正しい、なんていう視点に立っているとすれば、僕は小さなファシストにすぎない。驚き得る心、気づき得る心、対話し溶け合うことを楽しめる心。そんな心で、様々な、さまざまの豊かさと、触れ合い、振れ合いたい。
そう、つとに思いつつ年が暮れる。

僕は酷い近眼で治らないのだが、魂まで近眼になりたくない。加えて最近は強度の乱視と老眼に悩まされる。もはや肉の眼は残念としか思えない状況だけに、魂の眼に期待が増す。

文化を味わい、文化について真面目に考える
時間を、意識的に作らなければと思う。生活の杖が文明ならば、存在の杖が文化なのではないか。経済の杖が文明なら、幸福の杖が文化なのではないか。とも思う。

バブル、NY9.11、オーム、イラク、チベット、フクシマ、パリ、、、。深刻に捉えざるを得ない、世界と私の距離を左右するような出来事。それらを書き出すと、むしろそれら意識することで欠落してゆく無数の点を同時に想像してしまう。

特別な何か、に属さないけれど大切な出来事は沢山ある。皆には深刻でないかもしれない、しかし忘れたくない何かの連続に、個々それぞれの文化は息づいているように思う。
小さな、書き出すことさえ困難になるほど様々な出来事。僕たち一人一人の文化。政治や経済や生活や、つまりは文明なるものの背後にある、潜在する何か。

統合され実現されゆく夢や期待が文明とすれば、散らばるまま実現されぬままの多様な夢や期待や希望や祈りのさざめきが文化なのかな、とも思う。文明は必ずしも文化を反映しないようにも感じる。
しかし、、、。文化を大切にしなくなると、心が荒れる。そして暮しは荒れる。やがて世の中も荒れる。これは確かだ。文化を大切にしないというのは、一人一人の心を雑に扱うことだと思う。

だから文化を大切にしないと、弾圧や戦争が起きる土壌を作るのではないか。多様さや曖昧さを許さない、一方向への矢印。

毛沢東も、スターリンも、ポル・ポトも、ヒトラーも、文化を潰すことから破局を招いたが、これからは、独裁者がいなくても同じようなことが起きるのではと、漠と思う。

景気が悪くなり、長い。このまま日々に不安が広がると、僕たちはたぶん今日明日の暮しに縛られ始める。働かねば、働かねば、と思い始める。明日は今日より楽になりたい、そういう思いが心をかき乱す。そこに付け入る小さな独裁者があちこちに現れ、迷う心を占領してゆくのではないか。そんな、漠たる予感が湧く最近。

働いては眠る。起きては働く。それが当たり前になった時、遊びや趣味が入り込む時間が無くなってゆく。哲学は高尚なものだと片付けられる。小さな音の響きは大音量の行進曲に掻き消される。

「アルバイト・マハト・フライ」
(働け、そうすれば自由になる)

とは、アウシュビッツ収容所の門に書かれていた言葉。

生と死の境界となった門。
初めて訪れた時に目に飛び込んだあの文字列から訪れた心底震えるような悪寒を、時折思い出す。


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「WTC9/11」:スティーヴ・ライヒの新作

2011-09-15 | アート・音楽・その他
素晴らしい音楽に出会いました。
スティーヴ・ライヒの新作「WTC 9.11」。

まさにあの日、世界初演が放送されたのですが、これを聴けたのはラッキー。

9.11事件の体験を語る人々の言葉、録音された2つの弦楽四重奏、そして生演奏の弦楽四重奏。これらがライブオペレーションによって溶け合い、一つの音楽が成立してゆく、という作品。

悲しみのコトバが、ひとつひとつ噛み締めるように、静かに繰り返されながら、音に昇華され、溶けあい、響きとなってゆく。

recite、詠唱すること。
何度も、何度も、繰り返しつづける響き。

繰り返し響き重なりながら、
悲しみが星の光のように
聴く者ひとりひとりの心に染みて、固い何かをゆっくりと溶かし始める。

WTC world trade centor
WTC world to coming

現在から予感へ、
痛みから希望へ、
ああ音楽とは、歌とは、こんなふうに生まれるんだ。と、感嘆。

インタビューで作曲家のライヒは、ピカソのゲルニカに思いを重ねていました。
芸術が世界を救う、という考えは立派だが完全な間違い。実際、絵が爆撃を止めることは出来なかったが、人々の拠り所となっているのは確かだ、そんな仕事をこそ、私も引き継いでゆきたい。そんな意を語るライヒ氏の声は淡々と静か。

演奏したのは、クロノスカルテット。
精妙そのもの。生身の人の声に限りなく迫り、楽器がそこにあることさえ忘れさせられます。その有機的なボーイングの美しさはダンス。そこから生まれる、息をのむようなピアニシモは衝撃的でした。ひたすら練習しつづける日々の、量と質の織物が、音となって・・・。
心こめたパフォーマンスとはこういうことなんだ、と、襟を正す思い。

聴き終わった瞬間、じっと眼を閉じました。

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