踊りは人を変えてゆく。それを見てきた。
レッスンや稽古の繰り返しのなかで、気付かないくらいスローな速度で、肉体とともに心や人となりも変わってゆく。若い人はしっかりしてゆくし、中高年の人はたいてい明るく朗らかになる。
テレプシコラ(ダンスの喜び)が宿ってゆくのだろうか。
舞台活動やクラスのほかに、ダンスと音楽の専門学校で教えていて、その卒業公演があった。沢山の作品が上演される、その振付や踊り方を指導しながらダンスパート全体の監修・演出を行なう係をつとめた。
正直大変だったけれど、長い期間つづく稽古に寄り添いながら、実は、ずっと心動かされていた。作品の生成とともに、一人一人の学生さんが日々変わってゆくのがとても感じられたのだ。
舞台はプリミティブなドラムと群舞のセッションから始まり、クラシックバレエの名作をへて、モダンダンス、ジャズダンス、ストリートダンス、そして現在進行形のコンテンポラリーダンスを片っ端から踊ってゆく。クラシック(今年はジゼルのペザントだった)をのぞいて大部分はオリジナルの振付作品による。舞踊のたどった時間軸を自らの身体で捉え直し、そして自分たちの現在やるべきことを見つめ直してゆこうという課題だった。
そのなかで、3.11とその復興経過に関わる大きな作品がひとつあった。あの直後に音楽科の学生が作曲した曲を被災地に送り何度もラジオから流されたその楽曲を30人以上が踊り歌い演奏する作品だった。もとより、この公演が始まったキッカケが3.11だった。好きなことをすることに罪悪感を感じてしまう学生が沢山出たのだった。こんなときに歌い踊っていいのか、と、、、。
9年経ったいま、心の状況をダンスで表現しようということになった。震災後という時間のなかで思春期をすごし成長してきた彼らが、復興や放射能の問題をふくめた様々な思いを、いや、そのような直裁的なことでなくとも、なにかを、過ごしてきた夜や朝の底に感じていたなにかを、いかに踊りに託すことができるだろうかということもあった。
皆で揃って踊るというよりも、一人一人が自分の想像力で何かを表そうとする力が一つの波を生み出すようなことができないだろうかと考えたが、その稽古で、個としての立ち居振る舞いに、なかなか力が出てこなくて、苦しくなっていった。いろんなステップを覚えこなすことができる人が素敵な踊りを踊るとは限らないことに気付き、ぐらつき始めたのかもしれない。
一人一人が自分自身に対する向き合い方に、あるいは自らの心に対する向き合い方に、どこか歯がゆさを感じ始め、不安定になっていたが、いらだちや迷いをかかえつつも踏んだその本番が、とても良いものになった。人が本気で考えて何かひとつひとつの行動を起こしてゆく場を共有した感があったのだ。これは僕自身にとっても貴重な体験になった。
震災直後に行なったレッスンやワークショップを思い出した。あの張りつめたような空気の、とても不安な状態のなかで、体をいっしょに動かすことから、いい大人が何か落ちつきを取り戻したり、言いようの無い感情が共有されてゆくのを感じた。昔の人が、なぜ踊りを大切にしたかということを垣間みたような気持ちもあった。
3.11をめぐるダンス作品の上演は僕自身のソロ公演でも何度かこころみた。『TABULA RASA 2011』『かつてなき結晶/3.11サイレント』『HAKOBUNE(方舟)』の3作を震災直後に立て続けに上演したが、そこから始まった思考や試行錯誤が、いま進行中の作品でもまだ続いている。そのことを、近いうちに、このブログでもしっかり言葉にしておきたいと思っている。
※写真=『TABULA RASA 2011』より(ホームページ表紙に使用している写真です)
櫻井郁也ダンスクラス Lesson and workshop
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ダンス公演情報 Stage info.=Sakurai Ikuya dance solo
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