秋公演の稽古中もそうだった。公演のたび何度も「avec ici」という言葉を思ってしまう。「ここで」という意味だが「ともにここで」とも言えるのだろうか。avec ici、誰の文章だったか、ただこのひとことが、ずっとどこかに引っかかって響くのだ。僕のダンスの根に、ずっとかかわっている言葉かもしれない。
avec ici
ここで ともに
僕は「ダンスソロ」と称して独舞公演を続けている。独舞はソロダンスと言うのが本当なのだろうが、僕の場合は、ある時期からわざと逆転させてダンスソロと表記している。独舞は文字通り単身で踊ることだけど、僕の場合は個が屹立するのではなく、意識のなかで様々な「もの」や「こと」と一緒に踊っている。身体は一つだけれど、なにかと「ともに」あろうとしている状態をこそダンスと僕は思っていて、そんな気持ちを少し反映できればというのが、ダンスソロ、という言葉なのだが、、、。
2001年からソロに専念しているが、その前はモダンやオイリュトミーの舞台で群舞の1人として踊ったりアンサンブルの一員として、けっこう踊った、また、デュエットもやった。自作も習作や初期の公演はアンサンブルやデュエットが主だった。それらの体験なしに僕の現在の独舞は存在していたかどうか、と思う。(ソロを始めたキッカケのひとつに9.11事件があるが、そのことはまた書きたい)
ソロと言っても、ひとりで踊るというのは表面的なとらえ方に過ぎない。舞台にいるダンサーは一人だが、空間は美術と音と光が存在として在り、それらは生きた肉体と対等にダンスを紡ぎ出す。そして、それらすべては目の前の観客の方々とコンタクトし続けている。そして踊りの場それ自体が、スタッフワークなしには何一つ動かない。言い方を変えれば、すべてが関連し合って踊っている。肉体は自らの心から飛び出して、空間と、音と、視線と、現場にある行為すべてと、そして、もっと潜在的な何かと、「ここで」「ともに」踊っているのだ。オドル、というのはそういう事と思う。
誰かと、何かと、「ともに」ある感覚からこそ、踊るという行為がうまれてくるのではないか。いっしょにいるから、うれしい、かなしい。そういうところからダンスは揺れ起こるのでは、と思う。
ともにある感覚。それは生きている人とばかりでなく、死者や不在や非在をもふくめてかもしれない。いまここだけでなく、過去にも未来にも想像の中にも存在は存在していて、「ともにある」のではないか。
個体というのは実は他者につながっているからこそ存在できるのかもしれないと、僕はいつからか強く思うようになっている。
奇妙な言い方かもしれないが、実存は「ともに」あることだ、と言ってもいいかもしれない。ある存在がワタクシなるものとして存在するリアリティは、他者なしには、あり得ないのではないかと思う。孤独というものでさえ、他者との関係のひとつなのではと思う。
他者、とは、アナタ、でもある。アナタには死者も、天使も、つまり喪失や不在さえもがふくまれている。アナタ、という言葉は、かなた、にも通じているのかもしれない。ワタクシ、という言葉がどこまでも深い淵を思わせるのに対して、アナタ、という言葉には、とても広い広がりを感じる。
無数の、異なる、存在。知り得ないかもしれない、アナタ、なるもの。たとえばそういうことがしっかり響いているような踊りができればいいな、という思いが、最近ふつふつとしている。
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