櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断片:ヴァルター・ベンヤミンの一言を思い出す

2016-03-19 | ダンスノート(からだ、くらし)
スコールが止んで再び陽が射したと思うとすぐに日が暮れてゆく。コウモリの影が飛び交う中、どこかからガムランの金属音が風に彷徨う。遠い音を追うように夜道を懐中電灯を揺らしながら人影がぽつりぽつりとすすんでゆく。吸い込まれるように付いてゆく。時折、足もとに猿が迷いこんでまた消えてゆく。闇の中では鳥が鳴く。やがて薄明かりが見え、裸身に金糸をまとった踊り子がゆれてある。

バリ島のオダランに参加したとき、迷宮に入り込んだかと焦った。現実の中に、さっきは知らなかった別の現実があって、そこに居る感覚だった。祭りの終わりと一緒に、それは一瞬に消えて、ごく当たり前の暑さや埃の匂いが舞い戻って来たが、一夜前とちがって嫌なものではなくなっていた。

踊り場を垣間みたことで現実の感じ方が変化する、そんな体験をもったことは故郷の奈良でも、あった。春日大社の長い参道を通過して、巫女舞の後ろ姿が見えたとき。興福寺の一角で燃える薪の炎が、能役者を闇に浮かび上がらせた瞬間。もちろん、いま暮らす東京でも、その機会に出会えたからこそ、何度も劇場に通う。

踊りを観るとき、人の体や身振りだけではなくて、その場全体に発生している何かに触れていたり、あるいは自分自身もその一要素として溶けていたりするような、全感覚的な揺れを体験することがある。
時間で言えば「イマ」という概念では括れないような速度感だったり、空間性で言えば「ココ」とは全く異質の場だ。
記録映像や写真で見ることができるものとは全く異質な体験でもあるそれは、像でもなく音でもない「何か」として、心の中を響き増幅しつづけていて、踊り手としての希求や挫折も、その「何か」に関係しているのかもしれない。

稽古を繰り返すほどに言葉や想念が解体してゆくのは、本番というナマの一瞬を受け止める過程でもあるし、作品というものが強すぎても弱すぎても面白くないのも、その「何か」が発生する力と関係しているのかもしれない。

その「何か」は、観客と踊り手とスタッフという、人と人が刻一刻に張り巡らせてゆくエネルギーの交差が、ある一瞬に呼び込むものなのだろうか。
とにかく現場以外では味わったことがない。

このような感覚に近いのかな、と思えるような言葉を「アウラ」と名づけて、ヴァルター・ベンヤミンが有名な芸術史観のなかで述べているのを、ご存知だと思う。その言葉にベンヤミンは「時間と空間とが縺れ合ってひとつになる」とか「近くにあってもはるかな、一回限りの現象」と言い添えるが、そのなかで僕は『一回』という一個の訳語に魅せられるし、演者としても観客としても、実感できるのは『一回』という感覚である。

持続されないもの、再生産されないもの、いつ訪れるか知り難いもの、、、。

そのようなものを呼び起こす仕組みが、踊り、という名で祖先から伝わっているのだろうか。

(上述の言葉は『複製技術時代の芸術作品』から。ヴァルター・ベンヤミン著・野村修氏の訳で岩波文庫の『ボードレール』という本に入っています)

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【Stage info.】

4/2〜3:櫻井郁也ダンスソロ新作公演『ホーリーバード』
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