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東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

真の祈り

2019-06-25 12:18:45 | 御言葉讃美歌

御言葉讃美歌
真の祈り

真の祈りは、
心の言葉を神に話すこと
それは神の意志と
言葉に基づくもの
そして神を目前に感じ
語るべき多くのことがあること
あなたの心は太陽のように輝き
神の麗しさに心動かされ
聞くものは喜びに満たされる
真の祈りには平安と喜びがある
そして神を
愛する力が湧きあがり
神への愛の価値を感じる
これらはみな、
あなたの祈りが真である証し

真の祈りは
形式的なものではない
また手順が
決まっているわけでもなく
暗唱するものでもない
そして他人を
まねることではない
あなたの心の中にある本音を
神に語りかけよ
そうして神が
あなたに触れるようにせよ
あなたの祈りを
効果的にするために
神の言葉
読まなくてはならない
神自身の言葉の中での
祈りだけが
啓示をもたらすのだ(Oh…)

真の祈りは
神が要求するものを
切望する心と、
またそれを果たし
神が嫌うものをみな
自分も嫌う意志に
よって示される
神の言葉を
基礎として知識を積めば
神が語る真理は
みな明らかになり
強い信仰と実践の道を持つ
これこそが真の祈り
そう、これこそが真の祈り
真の祈りには
平安と喜びがある
そして神を愛する力が
湧きあがり
神への愛の価値を感じる
これらはみな、
あなたの祈りが真である証し
真の祈り
これこそ真の祈り
『言葉は肉において現れる』より

その他の内容

人はどうやって真の祈りに入るのか


道……(7)

2019-06-24 07:04:40 | 書籍

道……(7)
わたしたちのために神が自ら新しい道を拓いたことが何度もあり、そのためわたしたちは一層堅く現実的な道を歩み続けている。このことは、わたしたち全員が自分の実践的経験から理解できる。それは、この道はこの世の初めから神がわたしたちのために拓き、何万年もの時を経て現在の世代に継承されたものだからである。したがって、わたしたちはその道を最後まで踏破しなかった先人から受け継ぎ、その最後の部分を歩むために神に選ばれた者である。ゆえに、その最後の部分は特にわたしたちのために用意されたものであり、わたしたちが恵みを受けるか、災いを受けるかにかかわらず他にその道を歩むことが出来る者はいない。これにわたしが自分の識見を付け加えるならば、他の場所へ逃げ出したり、他の道を探す計画を立てたり、地位を求めたり、自分の王国を建てたりしてはならない。そうした物事は、全て幻である。これらの言葉に何らかの偏見を抱いているならば、困惑しないようにしなさい。再検討する方が良く、利口になろうとしすぎたり、善悪を区別し損ねてはならない。神の計画が実現するとき、後悔することになるであろう。つまり、神の国が来ると、神は地上の国家を打ち砕くが、その時あなたは自分の計画も消え去っていること、罰せられたのが打ち砕かれた者であることを知るであろう。その時、神は自らの性質を完全に明らかにする。わたしはこの問題について熟知しているので、将来あなたがわたしのことで苦情を言わないように、あなたにこのことを伝える必要があると考えている。現在までわたしたちがこの道を歩むことが出来たことは神が定めたので、自分が特別だとか不幸だとか考えてはならない。打ち砕かれないように、神の現在の働きに関しては誰も断定してはならない。神の働きを通してわたしに光が来ており、何があろうと神はこの集団の人間を完全にするのであり、また神の働きは変えられることは出来ない。神はこの人たちをその道の最後まで連れて行き、地上における神の働きを完了する。これはわたしたちが皆理解すべきことである。大部分の人々は常に進取的であり、飽くことがない。彼らは皆、神が現在切望している意向に関する認識が欠如しているので、逃避願望を抱いている。彼らは手綱から解き放たれた野生の馬のように大自然の中を走り回ることを常に望んでいる。しかし、良きカナンの地に定住して人間的生活を求める者は希にしかいない。そうした人々が乳と蜜の流れる地に入ったならば、それを享受することしか考えないのではないであろうか。率直に言って、良きカナンの地の外はどこも荒野である。人々は安息の地に入った時でさえ、自らの本分を維持することが出来ない。そうした人々は単なる淫らな者ではないであろうか。その環境において神により完全にされる機会を失ったならば、それは余生を通して悔いる事となり、計り知れず遺憾に思うであろう。結局あなたは、カナンの地を見つめるだけでカナンでの生活を享受することができず、拳を堅く握って後悔で満ちたまま死んでいったモーセのようになるであろう。それを恥ずかしいことだとは思わないのだろうか。他人に嘲笑われるのを恥辱だと思わないのだろうか。他人に辱められることをいとわないのであろうか。立派になろうと努める気持ちがないのであろうか。神により完全にされる誉れある正直な人間になる覚悟がないのであろうか。本当に決断力に欠けている者なのであろうか。他の道へと進む覚悟はないが、神が定めた道を歩む覚悟もないのだろうか。敢えて天の旨にはむかうのであろうか。あなたの技能が如何に優れていたとしても、本当に天に逆らうことが出来るのだろうか。わたしはまず自分を知るのがわたしたちにとって最善であると思う。神の一言で天と地は変化するのであるから、貧相で小さな人は神の目にどのように映るであろうか。

わたし自身の経験から見ると、神に対して対抗的であればあるほど、神はその威厳ある性質をますます示し、神が「与える」罰も一層重くなる。神に従えば従うほど、神はあなたを一層愛し、守る。神の性質は拷問器具のようなものであり、従えば無事だが、従わず常に目立ちたがって悪さをするならば、神の性質は急変する。曇りの日の太陽のように、神は人から隠れて怒りを示すであろう。またそれは六月の天気のように、晴天が何里となく続き青い小波が水面に広がっているところへ突如として大きな威力で高波が立つ様子にも似ている。このような神の性質を知っていても、敢えて野放図に行動するのであろうか。聖霊が働くとき、兄弟姉妹は自信に満ちているが、神の霊は知らぬ間に兄弟姉妹を突然見捨て、不安で夜眠れずに神の霊が消えた方向を探し回るような状態へと陥れることは、殆どの兄弟姉妹が自らの経験で理解している。しかし、神の霊が何処へ行ったかはどうしても突き止められない。そして神の霊は知らぬ間に再び兄弟姉妹の前に現れるが、それはちょうどペテロが突然主イエスに再会した時に有頂天となって大いなる歓喜の叫び声を上げたときのようである。何度もそうした経験をした後も、忘れることが有り得るのだろうか。受肉して十字架に架けられた後に復活されて天に上った主イエス・キリストは、常にあなたから少しの間だけ隠れ、そしてまた少しの間だけ現れる。主はあなたの義ゆえにあなたの前に現れ、あなたの罪ゆえに怒り、あなたから去るのだから、主にもっと嘆願するべきである。ペンテコステの日以降、主イエス・キリストには地上における新たに託した働きがあることを知らないのであろうか。あなたは主イエス・キリストが受肉し、地上に来て磔刑となったことが事実であることしか知らないが、あなたがこれまで信じていたイエスはずっと以前にその働きを誰かに託したことにあなたは気付いていない。主の働きは遠い昔に完了したので、働きの別の部分を行うために主イエス・キリストの霊は肉の姿で再び地上に来たのである。ここで、ある話を差し挟む。あなたがたが現在この流れに参加している事実にもかかわらず、敢えて述べるが、あなたがたの中でこの人が主イエス・キリストによってあなたがたに授けられた人であると信じる者はほとんどいない。あなたがたは主を享受することしか知らず、神の霊が再び地上に来たことを認めず、現在の神は数千年前のイエス・キリストであることを認めない。あなたがたは全員目を閉じて歩いているとわたしが述べるのはこのためである。あなたがたはどのような状況になってもそれを受け容れるだけであり、真剣さが全くない。そのため、あなたがたは言葉でイエスを信じるが、現在神により証しをされた者をあからさまに拒否する。愚かではなかろうか。現在の神はあなたの過ちを気にかけず、あなたを咎めない。あなたがイエスを信じると言うならば、主イエス・キリストがあなたを見放しておくことが出来るだろうか。あなた、神のことをはけ口か嘘をつくための場であると考えているのではなかろうか。主イエス・キリストが再び現れる時、主はあなたの現在の行いに基づいて、あなたが義であるか邪悪であるかを判断するであろう。殆どの者がわたしの言う「わたしの兄弟姉妹」という言葉に関して結局は観念を抱いてしまうであろう。そうした者は、神が働く方法が変わるであろうと考えている。彼らはただ死を招いているのではなかろうか。神はサタンが神であると証をするであろうか。あなたは神を咎めているのではなかろうか。あなたは誰もが何気なく神として振る舞うことが出来ると考えているであろうか。本当に認識があるならば、観念を抱かないであろう。聖書にはこのような聖句がある。「万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、そのかたは、わたしたちの長である。…それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」おそらくあなたは、この聖句はわたしよりもよく知っていて容易に暗唱することさえ出来るであろうが、その実際の意味を理解していない。目を閉じたまま神を信じているのではなかろうか。

わたしたちの世代は、従前の世代の人々が踏破しなかった道を受け継ぎ、数千年前からの神の再現、わたしたちとともにここにいて、またあらゆる物事を満たす神を目の当たりにすることが出来て、恵まれているとわたしは考える。あなたはこの道を歩むことが出来るなどとは決して考えなかったであろう。できるであろうか。この道は聖霊により直接導かれ、七倍に強められた主イエス・キリストの霊により導かれ、また現在の神によりあなたのために拓かれた道である。あなたは最も突飛な夢の中でさえも、数千年前のイエスが自分の前に再度現れるとは想像し得なかったであろう。嬉しいと感じないであろうか。神と直面出来る者は誰であろうか。わたしは、わたしたちの集団が一層大いなる恵みを神から得られるように、神に好まれ、神に得られるようにと頻繁に祈っているが、同時にわたしたちの集団のために悲しみの涙に暮れ、神がわたしたちを啓いて一層大いなる啓示を目の当たりにすることが出来るようにと願うことも無数にあった。人々が常に神を欺こうとし、決意せず、肉のことを考え、富や名声を得て注目の的となるために奮闘努力しているのを目の当たりにする時、どうしてわたしが心を深く痛めずにいられようか。人々はなぜこんなに愚かになれるのだろうか。わたしの働きは全く結実しないということなのだろうか。あなたの子が全員反抗的で不孝行で、良心のかけらもなく自分の事だけを考え、あなたの気持ちに全く共感せず、成長したあかつきにはあなたを家から追い出したとしたら、その時どう感じるであろうか。涙に暮れ、子育てのために払った大きな代償を惜しむのではなかろうか。それゆえ、わたしは神に幾度となく「神よ、あなたのお働きの中でわたしに負担があるかどうかをご存知なのはあなただけです。あなたの御旨に則していないわたしの行いがある部分の全てにおいて、あなたはわたしを鍛え、完全にし、わたしに気付かせます。あなたに対するわたしの願いは、間もなくあなたが栄光を得て、人々があなたにより得られるよう、あなたが人々をさらにお動かしになること、そしてあなたのお働きが御旨を満たし、ご計画を間もなく完了されることだけです」と祈りを捧げてきた。神は罰により人間を征服することを望まない。神は常に人間を強制することを望まない。神は、人間が神の言葉に従い、鍛錬された要領で働きを行い、これにより神の旨を満たすことを望んでいる。しかし、人間は恥知らずで、常に神に反逆する。それよりは神を満足させる最も簡明な方法を見出すこと、すなわち神の采配の全てに従うことが最善であるとわたしは考える。そして、真にこれを実現できるならば、あなたは完全にされるであろう。これは平易で楽しい事ではなかろうか。他人の言葉を気にせず、考えすぎずに、自分の歩むべき道を進みなさい。自分の将来や運命を自ら掌握しているのであろうか。常に逃げ出して世俗的な道を進みたがるのに、そこから抜け出せないのは何故だろうか。分かれ道で何年も躊躇し、結局またしてもこの道を選ぶことになるのは何故だろうか。長年彷徨い続けた後に、思わずこの家に戻っているのは何故だろうか。これは単にあなたの個人的問題だろうか。この流れにいる人々にとって、このことを信じないならば、わたしの言葉を聞くように。すなわち、離脱するつもりならば、そうすることを神が許すか否かをしばらく待って見極めよ。そして聖霊がどのようにあなたを動かすかを自分で経験するように。はっきり言えば、不幸に見舞われたとしても、この流れの中では苦難しなければならないのであり、そして苦難があるならば、その苦難を今ここで受けなければならず、他のどこへも行くことは出来ない。これが明瞭に理解できるだろうか。何処へ行くと言うのだろうか。これが神の行政命令である。神がこの人間の集団を選ぶことは無意味だと考えているのであろうか。現在の神の働きにおいて、神は容易に怒ることがないが、人々が神の計画を阻害しようとするならば、神は表情を即座に晴天を曇天へと変えることもある。ゆえに、腰を据えて神の計画に従うこと、そして神があなたを完全にすることができるようにすることを進言する。これが唯一の賢者となる方法である。

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道……(8)


「夢からの目覚め」抜粋シーン(4)終わりの日のキリストを受け入れ、神の御国に招き入れられる事

2019-06-23 11:50:46 | 聖書に関する映画

 

聖書映画「夢からの目覚め」抜粋シーン(4)終わりの日のキリストを受け入れ、神の御国に招き入れられる事
もし私達が信じさえすれば、主イエスの道を踏み外さず、終わりの日の全能神の裁きの御働きを受け入れなければ、果たして清められ神の御国に入ることはできるのでしょうか。あなたは神の御国の祝福を受けるために、神の歩みにしたがう賢い乙女になりたいですか。どうぞこの動画をご覧ください。

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「夢からの目覚め」抜粋シーン(2)神聖でない者は神の御国に入ることができない


「救い」真の救いとは何か

2019-06-22 19:23:57 | クリスチャン映画

 

クリスチャン映画「救い」真の救いとは何か 
救いとは何でしょうか?主イエスを信じる者は、誠実に主に祈って罪を告白し悔い改めれば、罪は赦され、救われ、主が再臨するとすぐに天国へ引き上げられると信じています。 しかし、救いとは本当にそんな簡単なものなのでしょうか?
この映画の主人公であるシュウ ジチァンは、長年神を信じ、熱心に神のために努力し、本分を尽くすために、あらゆることを犠牲にしてきました。そのため中国共産党に逮捕され、拷問されます。刑務所から釈放された後は、本分を尽くすことを続け、実践的な経験を積み、その説教や働きは兄弟姉妹の実際の問題を解決します。その後、妻も逮捕されますが、不平を言ったり諦めたりくじけることはありません。このことで兄弟姉妹から賛辞を受け賞賛されます。シュウ ジチァンは真理の現実を知っているので間違いなく神の国に入れると信じています。しかしすぐに予期せぬ試練が起こります。中国共産党の警察による拷問を受け、妻が亡くなるのです。シュウジチァンはひどく取り乱し、神についての観念や誤解、不満をもつようになり、神への反抗や裏切りさえ考えるようになります…。しかし後になって、神を裏切っていることに気付くと、反省し、自分のように試練を受け、不平を言ったり神を誤解したり裏切ったりする人々が、真に救われるのだろうかと考えるようになります。このような者は本当に神の国に入る資格があるのでしょうか?

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主イエス・キリストの再臨の御言葉 「神の性質と神の業の結果を知る方法 」 その4

2019-06-22 12:12:58 | 朗読

 

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「神の性質と神の業の結果を知る方法 」 その4
神の姿勢を理解し、神に関する誤解を全て解消すること
人間の結末を決定するのは誰か
人間には経験に基づいて神を定義する傾向がある
神の業の最中に逃げ出す者に対する神の姿勢
神の業の最中に立ち去る者は、真の道を捨てる者である
『言葉は肉において現れる』より

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