聖書。「伝道者の書」より。(1956発行)
←私が持っている もっとも古い聖書。
1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
2生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
4泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
5石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
7裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
8愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
9働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
10わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
11神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
12わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
13またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
14わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
15今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。
16わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
17わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
18わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
19人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。
20みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
21だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
22それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
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今日は… 心のつかえが 二つも取れた日である。
職場で残業している時、8月から降りることになる外来の
主任さんが 最後に業務を終え 一人でいらしたので
今まで何となく顔を合わせても 8月以降の事を
挨拶できないでいたのを 思い切って声をかけた。
普段は 名前で呼んでいたが
「主任さん」と呼びかけた。
「フツツカモノですが(嫁に行く訳じゃないんだが)
8月から よろしくお願いします」
きちんとご挨拶できて ほっとした。。。。
(たぶん挨拶できないでいたのは 私は歓迎されて
いないのではないかと 偏見を抱いていたからだ)
帰宅して、いつもはただ今を言うのがやっとの母に向かい
裏の桜の花について 疑問に思っていたことを尋ねた。
そこから 近所の人のある話になり、、、、
自分の身に 遠い昔起きたことが
幸せいっぱいに思えた方たちの上にも起こったと知り
私の人生に起こった 様々な事を思いだしていた……。
すべて起こるべくして起こった
そして 起こるべき「時」に起こった 出来事だったのだと思う。
良かったことも良くなかったことも。
うまく言えないけれど。
すべての事を 素直にそのまま受け止めていけば
もっと この世は生きやすいのだろうと思えた。
←私が持っている もっとも古い聖書。
1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
2生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
4泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
5石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
7裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
8愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
9働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
10わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
11神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
12わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
13またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
14わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
15今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。
16わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
17わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
18わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
19人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。
20みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
21だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
22それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
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今日は… 心のつかえが 二つも取れた日である。
職場で残業している時、8月から降りることになる外来の
主任さんが 最後に業務を終え 一人でいらしたので
今まで何となく顔を合わせても 8月以降の事を
挨拶できないでいたのを 思い切って声をかけた。
普段は 名前で呼んでいたが
「主任さん」と呼びかけた。
「フツツカモノですが(嫁に行く訳じゃないんだが)
8月から よろしくお願いします」
きちんとご挨拶できて ほっとした。。。。
(たぶん挨拶できないでいたのは 私は歓迎されて
いないのではないかと 偏見を抱いていたからだ)
帰宅して、いつもはただ今を言うのがやっとの母に向かい
裏の桜の花について 疑問に思っていたことを尋ねた。
そこから 近所の人のある話になり、、、、
自分の身に 遠い昔起きたことが
幸せいっぱいに思えた方たちの上にも起こったと知り
私の人生に起こった 様々な事を思いだしていた……。
すべて起こるべくして起こった
そして 起こるべき「時」に起こった 出来事だったのだと思う。
良かったことも良くなかったことも。
うまく言えないけれど。
すべての事を 素直にそのまま受け止めていけば
もっと この世は生きやすいのだろうと思えた。
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