goo blog サービス終了のお知らせ 

アジア映画巡礼

アジア映画にのめり込んでン十年、まだまだ熱くアジア映画を語ります

<マレーシア映画ウィーク>オーキッドとジェイソンの舞台挨拶@『細い目』&『グブラ』

2015-04-18 | 東南アジア映画

明日、4月19日(日)まで上映の続く<マレーシア映画ウィーク>。先日写真でのご紹介だけ先行させたオーキッドことシャリファ・アマニと、ジェイソンことン・チューセンの2回にわたる登壇の模様を、簡単にご報告しておきましょう。

4月15日(水)「多色字幕版『細い目』

「多色字幕版」というのは、文字通り字幕の文字がいろんな色で出てくる、というものです。『細い目』では、ジェイソンは華語(標準中国語)、広東語、英語、マレー語を話し、オーキッドは英語、マレー語、広東語を話します。そのほか、ジェイソンの親友キオン(「強」か?)は英語と福建語をしゃべりますし、他にもタイ語の歌が流れるなど、たくさんの言語が登場します。これらを、英語は白色の字、マレー語は緑色の字、華語、広東語、福建語など中華系の言葉は橙色の字幕文字で表したのが、この日上映された「多色字幕版」でした。これらのセリフ訳の字幕は下に横で出るのですが、そのほか右肩に、歌やコーランの文句などを全訳した字幕も縦に出てきました。中華系の言葉が細分化されていればさらに興味深かったのでは、とか、右肩の縦字幕で歌が斜字体になっていない、等の不満はありましたが、意欲的な試みでとても面白く見ることができました。なお、この日は超満員の盛況で、立ち見の方が10人ほどいました。

 

上映後トークショーがあり、司会の石坂健治さん(東京国際映画祭プログラム・ディレクター&日本映画大学教授)、主演のシャリファ・アマニとン・チューセン、そして通訳の方が登場。ン・チューセンの挨拶では、「僕はヤスミン・アフマド監督と同じ広告会社で働いていて、ヤスミンは僕の上司でした。そんな関係でこの作品に出ることになったのですが、正式な映画出演はこれ1本です」とのこと。それに対してシャリファ・アマニが、「彼はこの作品が日本でたくさんの観客に愛されている、というのを全然信じなかったんですよ。今日来てみて、よくわかったと思います」と言って笑いを誘います。以下、ちょっとトークをアレンジしながら、内容をお伝えしていきましょう。

ン・チューセン「この10年間で僕も確実に変わりました。年を取りましたね(笑)。仕事は前と同じで、広告代理店勤務です。でも、映画を見ていると10年経ったとは信じられず、まだ1年ぐらいしか経っていないのでは、と思ってしまいます」(ちょっとナイショの情報をお伝えすると、彼はすでに結婚し、男の子が1人いるそうです)

シャリファ・アマニ「『細い目』は私の最初の出演作で、これ以降私は映画の世界に入っていくことになりました。17歳でこの作品を撮った時には、まだまだ何も自覚していなかったんですが、自由に演技をさせてくれるヤスミン監督が撮ってくれて、本当によかったと思っています。その後自分でも監督するようになり、演技に関しても深く注意を払うようになりました」


ン・チューセン「僕がジェイソン役をすることになったのは、ヤスミン監督が上司だったのでオーディションを受けてみるよう勧められたからです。当初は尻込みしていましたし、また別の人が決まったりもしたのですが、最後に何人か残ったジェイソン役、オーキッド役の候補者がそれぞれに好きな人を選ぶ時、シャリファ・アマニが僕を選んでくれ、僕もまた彼女を選んだことで決まりました」

シャリファ・アマニ「ヤスミン監督からオーディションを受けないかと誘われ、脚本を読んだらとても出たくなって、何の役でもいいから出たいとオーディションの時ヤスミン監督にしっかりとアピールしたんです。友人と受けに行ったのですが、彼女より後の順番にしてもらって、”私、かわいいでしょ?”とバッチリ印象づけるようにしました(笑)。そして、ジェイソン候補が何人かに絞られた時、どの人がいい?と聞かれたから、”この人!”と彼を選んだんです。彼も私を選んでくれて、その後家族役の出演者全員で写真を撮りました」


続く質問では、いろんな言語が出てくるけれど、こういう1人の人がいろんな場面で違う言語を使ってしゃべるというのは本当にあることなのでしょうか、マレー人と中国系の人が初めて会ったらどういう風に話をするのですか、という疑問が。なるほど、日本語だけで生活している人にとっては、やっぱり不思議なのね、と思ったりしたのですが、お二人にとっても少しとまどう質問だったようです。

ン・チューセン「マレーシアではみんな自然にやっていますよ。中国語で話しかけられて英語で答えることもあるし、広東語もまじえたりすることもあるし、という感じですね」

シャリファ・アマニ「マレー語はみんな学校で習っていますから、まずマレー語を使って話を始め、それからそこにいる人の様子を見て、いろんな言語で話をしていきますね」


これに関連して、脚本は何語で書かれているのですか、という質問も出ました。

ン・チューセン「脚本は全部英語で書かれています。それを現場でいろんな言語に変えていくのです。セリフをそのまま正確にしゃべらなくても、言おうとすることの本質が表現されればいい、ということで、シーンに合わせて自然なセリフを作っていきました」

こんな感じで、現役の俳優かと思うぐらいン・チューセンがしっかりと答えてくれ、シャリファ・アマニが「いつもなら一人で登壇していろいろ答えないといけないんだけど、今日は彼がいてくれるので、”賛成です”とかだけ言っておけばいいから嬉しいわ」という場面も。トークは当初予定が約20分だったのですが、シネマート六本木のご好意で大幅に延長、約1時間続きました。終わってからも立ち去りがたいファンが2人を取り囲み、サインをもらったり、一緒に写真を撮ったり。上の写真は、山形ドキュメンタリー映画祭などで活躍する映画研究者阿部マーク・ノーネスさんが2人と話し込んでいるところです。ヤスミン・アフマド作品のファンにとっては、興奮の一夜となりました。

4月16日(木)『グブラ』

前夜の興奮冷めやらぬ中、再びヤスミン・アフマド作品『グブラ』のトークショーに、ン・チューセンとシャリファ・アマニが登場。映画が始まる前に、シネマート六本木のロビーでお二人を見かけたのでパチリ。


そのトークの時にも質問で出たのですが、このタイトル『グブラ(Gubra)』の意味は、会場で配られていたマレーシア映画研究会&混成アジア映画研究会の研究資料「月と鳥かご~ヤスミン・アフマド監督オーキッド三部作研究基礎資料」(2015.4)によると、「おもにペナンやクダに住むインド系ムスリムのマレー語でよく使われる表現で、『大慌て、惑乱』の状態を意味する」とありました。それで気がついたのですが、語源はヒンディー語の「ガブラーナー(ghabrana)」(心配する、動揺する、あわてる)ではないかと思います。というのも、質問に答える時、ン・チューセンが「『ガブラ』の意味は...」と発音したのです。帯気音の「gh」と無気音の「g」という違いはありますが(マレー語には帯気音がないので、ヒンディー語というかサンスクリット語の「Bhasha(言語)」はマレー語&インドネシア語では「Bahasa」と転じている)、おそらくそうではないかと推測できます。

東京国際映画祭で初めて上映された時は、『ガブラ』というタイトルが付いていたのですが、あれは英語発音にしてしまったから、ということだったと思います。でも、案外怪我の功名(?)だったかも知れません。マレーシアをよくご存じの前述の研究会の山本博之先生は『グブラ』という発音が正しいと書いてらっしゃるので、マレーシアでも両方の発音が使われているのかも知れませんね。


さて、その『グブラ』のトークショー、司会は前日と同じく石坂健治さんでしたが、通訳が上原亜季さんに代わっていて助かりました。昨日の方はマイクのせいもあってか言葉が聞き取りにくく、ちょっと困ったのです。『グブラ』『細い目』の後日譚となる作品で、オーキッドは結婚しており、その結婚が破綻するまでが描かれます。そこにからんでくるのが亡きジェイソンのお兄さん、というわけで、『細い目』でおなじみとなったオーキッドの家族、ジェイソンの家族も登場します。それと共に、モスク近くに暮らす聖職者一家と隣家の娼婦2人の話も描かれます。

『グブラ』ではジェイソンは「亡き人」なのですが、ラストシーンに一瞬出てくるのです。それも、オーキッドと仲良くベッドに眠っている相手として。さあ、このシーンはどう解釈したらいいのか、という質問が、石坂さんから出されました。


シャリファ・アマニ「今回この映画を見て、昔とは違うものが見えてきた気がします。あのラストシーンは、2つ解釈できるのでは、と思います。一つは、それまでのお話が全部夢の中の出来事だった、というもの。もう一つは、ラストシーンはオーキッドがその時に想像していた2人の様子だ、というもの。ラストシーンのオーキッドは、目を開きませんよね? これはもしかして、オーキッドがそれまでのことをいろいろ後悔している、ということなのかも」

ン・チューセン「この作品全体を通してですが、ジェイソンの魂がオーキッドの中で残っていたのでは、と思います。オーキッドの夫は茶髪ですが、そういった所にもジェイソンを感じます。ラストシーンも、その思いが出ているのではないでしょうか。実は、『細い目』のあと、ヤスミン監督からは何度か、映画に出てほしい、と言われました。でも、自分がまた俳優に戻ると考えると緊張して演技なんかできないと思ったので、ほんのちょっとした登場なら、ということにしてもらったのです。ヤスミン監督は実によく人々のことを見ていて、彼らのエピソードを作品の中に入れ込んでいくのです。僕の場合も、僕の性格をよく観察して脚本を書いてくれたのだと思います。ヤスミン監督の考えは、作品は監督がというより、神が作り上げるものだ、というものでした」

シャリファ・アマニ「大人になっていくオーキッドにはいろんなことが起きます。ジェイソンを失い、留学し、結婚し....その過程で、オーキッドも強くなっているし、『細い目』の時からずいぶん変化しています。彼女はこの作品では、自分自身で選び取っていく人になっています。私の友だちの中には、この映画でオーキッドが嫌いになった、という人もいます。夫の浮気相手に、夫からひどいことを言わせて満足する、という意地悪な面があったり、ちょっとイヤな感じですよね。ラストシーンは、オーキッド自身が後悔しているということを、ジェイソンの胸に顔を埋めるという姿で表現しているのではないかと思います」

石坂「ジェイソンが天国から見ていたら、どう思うでしょう?」

ン・チューセン「傷ついたのではないかと思いますね。浮気するような夫と結婚したりして、と、ホントに傷ついたと思いますよ」


シャリファ・アマニ「この作品には、2つの世界が描かれています。一つはオーキッドの家庭。アッパーミドルで、裕福です。もう一つは、モスクの聖職者ら貧しい人々の世界です。裕福な家の方は、オーキッドの父親が倒れるという、何か起きるともう大パニック。貧しい人々は、難しい状況に陥ってもどうにか乗り越えていく。実は、聖職者の妻と隣家の娼婦2人を演じた人たちは、撮影中涙をこらえることができず、「私は貧しい人々の涙は見たくないのよ」というヤスミン監督の指示で、何度かシーンを撮り直しました。貧しい人たちは乗り越える力を持っている。一方金持ちは今の状況が当たり前と思っていて、それが崩れるとパニックになる。そういう2つの世界が描かれています」

ここで、ヤスミン監督の演出方法についての質問が。

ン・チューセン「『細い目』で初めて演技をした時、ヤスミン監督のアドバイスは、相手が言うことにどう反応するか、その反応が自然にできればいい、というものでした。撮影に入る前に約2ヶ月間リハーサルをやったので、それが終わった頃には自然に相手に反応できるようになっていました。ヤスミン監督は僕のことをよく知っていたので、僕なら何ができるのかちゃんと見抜いていたのでしょう。僕は人前に出ると緊張しますが、ジェイソンにもそういう性格を持たせています。僕がロマンチックな詩や音楽が好き、ということろも反映されていました」

そして、誰もが疑問に思ったに違いない、『細い目』のラストシーンで、オーキッドのかけた電話に、死んでいるはずのジェイソンが出る場面に関する質問が。

シャリファ・アマニ「これは、トークをやると必ず聞かれる質問ですね(笑)。ヤスミン監督はいつも、反対にその人に、あなたはどう思う?と尋ね返していました。ヤスミン監督は、それでその人を判断したようです。というわけで、あなたはどう思いますか?」

質問者「誰かが死にそうなジェイソンに携帯電話を渡して、それでジェイソンが受け答えしたのでは?」

シャリファ・アマニ「私はロマンチストなので、ジェイソンはすでに亡くなっているけど、彼の魂が答えたのだ、と思っています。でも、それぞれ人によって解釈は違いますよね。監督のやり方としては、観客の皆さんに考えてもらう、ということだと思います。話はヤスミン監督が進めていくけれども、ラストは観客それぞれが自分で考える、という形ですね」

ン・チューセン「僕も、オープンエンディング(万人に開かれた、ゆだねられたラスト)だと思います。皆さんの想像に託すことによって、お話が皆さんの中で強い印象を残す、ということでしょうね」


こうして、たくさんのゲストを迎えたマレーシア映画ウィーク。関係者の皆様はさぞ大変でいらしたことと思います。そのおかげでいろいろ楽しませていただき、観客としては大感謝!です。

あと希望は、せめてヤスミン・アフマドの全作品、いやオーキッド三部作『細い目』『ムクシン』『グブラ』だけでも、ソフト化されてほしい、ということです。もちろん、『タレンタイム』『ムアラフ』が加わればもっとよし。どちらかの配給会社様、お考えいただけませんでしょうか?



コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『細い目』のジェイソンとオ... | トップ | タミル語映画上映会@関東&... »
最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとうございます! (morie)
2015-04-24 21:49:47
cinetama様

はじめまして。

オーキッドとジェイソンの舞台挨拶の様子を
アップしてくださりありがとうございます。

どうしても都合がつかず観に行けなくて意気消沈していたので、
記事を見つけて飛び上がるくらいうれしかったです。

二人の誠実な人柄はもちろんのこと、シャリファ・アマ二のキュートさと
ン・チューセンの実直な人柄が伝わってきて感激しました。

また、他の日に登壇された方々も非常に魅力的で、
ユーモアがあって温かく素晴らしい会の様子を知ることができ、
心より感謝いたします。

ヤスミン監督作品のソフト化、私も切に希望します!

紹介されていた本「Yasmin How You Know ?」買いました。
じっくり読みたいと思います。

これからも楽しみに読ませていただきます。
ありがとうございました。
返信する
morie様 (cinetama)
2015-04-25 00:54:27
長文のコメント、ありがとうございました。

情けない写真ですが、少しでもお役に立ててよかったです。
「Yasmin How You Know」は記念館への寄付にもなるので、お買い上げありがとうございました。
いつか、イポーのヤスミン記念館にいらっしゃいませんか?
私は今夏行こうかと、今お財布と相談中です(なかなかウンと言わない、口の堅い財布です...)。
返信する
cinetama様 (morie)
2015-04-26 15:36:58
私のお財布もなかなかウンと言ってくれません。ウフフ

夏にヤスミン記念館に行かれるかもしれないのですね。素敵です!
私もいつか是非行きたいと思ってます!
返信する
morie様 (cinetama)
2015-04-26 22:11:31
再度のコメント、ありがとうございました。

ヤスミン記念館、今はまだ週末のみの開館とのことですが、morieさんがいらっしゃる時には、morieさん始め皆さんのご寄付が実って、常時開館になっているといいですね。
私の方は財布に「ウン」と言わせるべく、今、必死でいろいろ仕事中です...。
返信する
多色字幕とは (JiNGGA)
2015-04-29 12:55:45
マレーシア映画は複数言語が飛び交うので
字幕を付ける時ってどうするのだろう?
そんなコトを考えていましたが
『元の言語ごとに色が違う字幕を出す』
ことで対応するんですね。

気が付きませんでした。
返信する
JiNGGA様 (cinetama)
2015-04-29 17:35:28
コメント、ありがとうございました。

せっかくのご発見に水を差すようですが、この「多色字幕」はおそらく世界初の試みで、極言すれば字幕のやり方としては邪道です。

映画の中で多言語が使われる、という状況は、今やどこの国でもごく当たり前になっています。
その映画を見ている製作国の観客は、それが日常的な状況なので、「あ、今は○○語をしゃべってる。今度は××語だ」などと意識せず、意味をピックアップして映画を楽しみます。
時には字幕で意味を確認したりしながら見ることもあると思いますが、その字幕も言語によって色分けされたり、何かの記号で区別されたりしていることはありません。
たとえば香港映画では最近、広東語のセリフが主でそれに普通話(標準中国語/北京語)が混じる、という作品が多くなっています。
時には広東語話者のAと普通話話者のBとが、それぞれ母語を使って自然な会話を成立させていく、という状況が描かれることもあります。
ちょうど日本語で、標準語の人と関西弁の人が会話している感じですね。当人同士は通じ合っているし、映画を見ている観客も両方とも理解できるわけです。

こういった状況の時、日本語の字幕は特に言語を区別しません。
日本語の字幕では、言語が違う時に< >に入れたりして区別するやり方があるのですが、それはあくまでその言語が通じていない場合の表現となります。
[例:英語映画の字幕とします]
主人公:あの人 困ってるみたい
タイ人:<トイレはどこですか?>
    (ホンナーム・ユーティナイ・カップ?)
主人公:何て言ってるの?
友人:わかんない
言語が通じている場合で、どうしても外国語として示したい場合は、カタカナで書いたりもします。
[例:英語映画]
主人公:あの人 困ってるみたい
観光客:トイレ ドコデスカ?
    (ウ・ソン・レ・トワレット?)
主人公:あそこにありますよ
友人:フランス人だったか

でも普通は、アメリカでフランス人が時折フランス語を交えながら話していても、それが周囲の人にわかっているならまったく区別せず字幕に訳出します。そういう状況なのね、と観客にわかってもらうためですね。

長々と書いてしまいましたが、マレーシア映画をはじめとする多言語の映画は、言語の違いが強調されるシーンでない限り、どの言語の字幕も区別せずに出すべきだ、というのが私の意見です。
映画の中の主人公たちは意識せずに多言語を使用しているわけですから、そちらの状況を尊重した字幕にするべきだと思います。
言語別に色分けした字幕にしてみる、というのは、言語状況を知る上では興味深い試みではありますが、映画を理解し、尊重する観点からすると、「ちょっと違うんじゃない?」と思うわけなのでした。

というわけで、この試みはあくまでも研究のため、とお考えいただければ幸いです。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

東南アジア映画」カテゴリの最新記事