イギリスの詩人、T.S.エリオットの「うつろな人々」という作品をしっていますか? ぼくには最近これがなにやら予言のようにおもえてならないのです。
We are the hollow men わたしたちはうつろな人々
We are the stuffed men わたしたちは詰め物のひとびと
Leaning together もたれあい
Headpiece filled with straw. Alas! 頭の中には藁束が詰まっている。ああ!
Our dried voices, when わたしたちがお互いに呟く
We whisper together 乾いた言葉
Are quiet and meaningless それは静かでそして意味をなさない
As wind in dry grass まるで、乾いた草をとおる風のように
Or rats' feet over broken glass あるいは乾いた蔵のなかで
In our dry cellar 割れたガラスの上をあるくネズミの足音のように
なんとも虚無的な出だしですが、まさにマスメディアのプロパガンダに乗せられて原発を安全だと思い込み、事故が起きてみれば、現実にはちっとも収束しないどころか半年にわたって放射能をシューシュー出し続けているのに、何事もなかったかのように日常生活を続けるわれわれ現代人の姿そのものではないでしょうか。頭の中には神様のくれた貴重な脳みそではなくて、藁束がつまっているのです。そして集まってはカサカサに乾いた言葉を交わしあう。原発がなければ経済がダメになる、なんてね。
さて、この詩は結構長いのですが、最後こういう風に締めくくります。
This is the way the world ends これが世界の終わり方
This is the way the world ends これが世界の終わり方
This is the way the world ends これが世界の終わり方
Not with a bang but a whimper. バンッと爆ぜずにすすり泣く
福島の原発は水蒸気爆発という最悪の事態は免れたものの、放射能はいまだ垂れ流し。
国や悪魔のような学者どもが安全だというものだから、避難するにも出来ない高校生が親に言ったそうです。「いっそのこともう一度大爆発してくれれば逃げられるのに。」と。
でもね、現実はアメリカ映画のようにはいかないのです。僕にはそれが恐ろしい。現実は驚くほど地味で、そして厳しく残酷です。
「日常性」にしばりつけられたまま、日本中の人間が、愛する家族が体の外から中から、毎日毎日放射能に蝕まれていくのを傍観しています。
これがこの世の終わり方。
この世界は立ったまま、腐っていきます。
We are the hollow men わたしたちはうつろな人々
We are the stuffed men わたしたちは詰め物のひとびと
Leaning together もたれあい
Headpiece filled with straw. Alas! 頭の中には藁束が詰まっている。ああ!
Our dried voices, when わたしたちがお互いに呟く
We whisper together 乾いた言葉
Are quiet and meaningless それは静かでそして意味をなさない
As wind in dry grass まるで、乾いた草をとおる風のように
Or rats' feet over broken glass あるいは乾いた蔵のなかで
In our dry cellar 割れたガラスの上をあるくネズミの足音のように
なんとも虚無的な出だしですが、まさにマスメディアのプロパガンダに乗せられて原発を安全だと思い込み、事故が起きてみれば、現実にはちっとも収束しないどころか半年にわたって放射能をシューシュー出し続けているのに、何事もなかったかのように日常生活を続けるわれわれ現代人の姿そのものではないでしょうか。頭の中には神様のくれた貴重な脳みそではなくて、藁束がつまっているのです。そして集まってはカサカサに乾いた言葉を交わしあう。原発がなければ経済がダメになる、なんてね。
さて、この詩は結構長いのですが、最後こういう風に締めくくります。
This is the way the world ends これが世界の終わり方
This is the way the world ends これが世界の終わり方
This is the way the world ends これが世界の終わり方
Not with a bang but a whimper. バンッと爆ぜずにすすり泣く
福島の原発は水蒸気爆発という最悪の事態は免れたものの、放射能はいまだ垂れ流し。
国や悪魔のような学者どもが安全だというものだから、避難するにも出来ない高校生が親に言ったそうです。「いっそのこともう一度大爆発してくれれば逃げられるのに。」と。
でもね、現実はアメリカ映画のようにはいかないのです。僕にはそれが恐ろしい。現実は驚くほど地味で、そして厳しく残酷です。
「日常性」にしばりつけられたまま、日本中の人間が、愛する家族が体の外から中から、毎日毎日放射能に蝕まれていくのを傍観しています。
これがこの世の終わり方。
この世界は立ったまま、腐っていきます。