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日々の暮らし、仕事、英語、音楽、子育て

「効率」によって犠牲にされるもの

2011年06月11日 | 生活
昨夜、村上春樹さんが何かの授賞式で演説されているのをTVで見ました。スピーチの中で彼は、「効率」のために我々の日々の安全が犠牲にされている、という趣旨のことを言っていました。もちろん、原発事故のことを指してです。

電力の使用量がここまで増えてしまった背景には、「効率」だとか「便利さ」を求める我々の貪欲な欲求がありました。

一体、便座のフタが自動で上がらなければならない理由って何なのでしょう?車の外には快適な5月の青空が広がっているのに、窓をしめてエアコンを効かせる理由は何なのでしょう?センサーが反応して水が出てくるのと、蛇口を手でひねることの違いは?雨戸が電動で上がったり下がったりするのって、もはや「効率」というより「怠惰」?

そうはいっても、私だってマキを焚いてお風呂を沸かすのは面倒だし、洗濯機も冷蔵庫もなければやっていけません。夏にエアコンがないのも辛いです。決して偉そうなことは言えないのです。けれども、村上さん言うところの、“非現実的な夢想家”という謗りを受けながらでも、生活の安全について声をあげていかなければいけないと思っています。

何もかもがものすごい勢いで進化していく現代。私なんかはそういう方面に全く興味がないもので、「地デジ」って何?今のテレビでテレビが見られなくなるなら、見なくてもいいや、と思ってしまいます(見るに値する番組もそれほどないですし)。

昔、カセットテープを使っていたころは、カセットデッキが壊れることなどめったにありませんでした。ラジオやテレビだって、何十年も使えたでしょう?息子のipodは半年で壊れ、メーカーに問い合わせたら「修理」ではなく、別のipodと「交換」されました。音楽が何万曲も入るというその機械は小さくてスタイリッシュですが、一体、何万曲もの音楽を携帯する必然性がどこに?

人間の本質的な幸せというのは、便座の自動のフタでも、何万曲もの音楽でもなく、もっと原始的なところにあると思います。

突き詰めていくとそれは、自分以外の人間とどういう関係を築いていけるか、という点にかかっているように思います。私でいうなら、自分のもっとも身近にいる家族と幸せに過ごすことが幸福感の根本にあります。

今、原発事故によって、その根本を犠牲にされている人々がいます。圧倒的多数である、「原発事故には関係ない人たち」である我々が、少しの「効率」を犠牲にしてもいいのではないでしょうか。

明るい世界に生きる者として

2011年05月29日 | 生活
山本作兵衛さんの炭鉱画が、ユネスコの「記憶遺産」に日本で初めて登録されたというニュースを知った。山本さんの炭鉱画は、社会の教科書で見た記憶がある。

暗い地底を這い回って石炭を掘る炭鉱労働は、どの国でも社会の底辺に生きる者たちが担ってきた過酷な仕事である。

ちょうど息子は、社会で「産業革命の頃のイギリスの児童労働」について学習してきたところだ。「お母さん、サムが可哀想。」というので、「サムって誰?」と息子が読んでいたプリントを読んだ。産業革命によって、女や子供でも出来る仕事が増え、それに従って一家の大黒柱である成人男性の失業率が増えていく。労働組合を作って団結しようとする労働者と、それを抑圧したい資本家。まだ9才のサムは工場で明け方から晩まで低賃金で働くが、ある日、高熱を出してそのまま死んでしまう。

(サムの話ではないけれど、こんなeducationalなサイトがありました。↓↓↓)

http://www.bbc.co.uk/schools/primaryhistory/victorian_britain/children_in_coal_mines/

山本さんの炭鉱画も、サムの悲しい物語も、過去のことだと思えればどんなに気が楽になることか。

ところが私がつい先日読んだLos Angeles Timesの記事に、インドの炭鉱で働く少年少女たちの過酷な労働に関するレポートがあった。14歳の少年は、日給5ドルで朝から晩まで働き、「僕には夢なんてない。ただ石炭を掘るだけ」と。

少年たちの労働現場は常に危険が隣り合わせ。落盤や爆発で命を落とす子供たちも多いが、雇い主はそれに対して何の補償もしない。インドは、国連の「こどもの権利条約」を批准しているが、資本家と政治家は結びついており、法の抜け穴を使って児童労働は継続される。

そんな記事をバスの中で読みながら、ふと目をあげると、華やかな日本の地方都市の姿が映る。通り沿いの店には贅沢品が山のように溢れかえり、学生たちが何万円もするブランドのバッグを持ち歩き、中高年は流行の小型犬に洋服を着せて散歩する。

東北の津波の映像がYouTubeにたくさんアップされていたが、そのコメント欄には「日本は金持ちの国だ。援助は必要ない」という、発展途上国からのコメントがあった。個人的には、それとこれとは同じ次元で語れる話ではないとは思うが、彼らがそういいたくなる気持ちもわからなくはない。

モノが溢れかえり、最低限の衣食住が保障されることが当然となってしまっている国で暮らす我々は、生きるために働くという基本に立ち返ることすらできなくなってしまっているように思う。何万人もいるといわれるニート。彼らを食わせているのは誰なのか。生活保護受給世帯が過去最高を記録したとか。不況なのは確かだろうが、本当に仕事がないのか?仕事を得るための正当な努力をして、それでも仕事がないならやむを得ないと思うが、仕事を選ぶという贅沢を享受しながら生活保護に頼っているとしたら、それは違う。

日本は金持ちの国だ。

地上の明るい世界で生きる私が、インドの暗い地底で働く子供たちのために何ができるだろう
か。サムやイクバル・マーシュ君のような思いをする子供たちが地球上からいなくなるのは一体、いつの日か。

「若者のすべて」ヴィスコンティ/アランドロン

2011年01月22日 | 生活
正月以来、ドロン氏の映画を5本観た。その中で最も良かったこの作品について。

「ロッコとその兄弟」というのが原作のタイトルで、イタリアの貧しい一家が崩壊していく物語である。

簡単に説明すると、家族の5人の息子のうち、次男シモーネというやつが悪いんである。ボクシングをやって才能を認められるが、ナディアという娼婦と懇ろになり、ずるずると堕落していってしまう。そんなどうしようもない兄をなんとかかばい、家族の絆を保とうとするケナゲな三男がドロン氏演じるロッコである。

ロッコはクリーニング店で真面目に働いていたが、シモーネのせいでクビになる。でもシモーネを責めない。その後徴兵され、そこでナディアと再会する。ロッコの優しさに惹かれたナディアとロッコは深く愛し合うようになるが、それを妬んだシモーネは、ロッコの目の前でナディアを強姦する。それでもロッコはシモーネを許す。

放蕩して借金がかさんだシモーネのために、ロッコは自分がボクシングをやり始める。これが、かなり才能があってチャンピオンになったりするのだが、ロッコ自身は拳闘が好きではない。が、兄の借金を返すために、10年契約を結んでしまう。

チャンピオン戦を闘うロッコと、嫉妬からついにはナディアを殺してしまうシモーネの映像が交錯する。ナディアの死を知っても、それでもロッコはシモーネをかばおうとする・・・

という、まぁ観終わった後にどよ~~~んと重い気分になってしまう映画なのだった。監督のヴィスコンティは、イタリアの名門貴族の出らしい。一家の貧しさ、シモーネという男の哀れさ、
二人の男の犠牲になるナディア、そしてロッコが持つ限りない「優しさ」が時には残酷にもなりうること、あるいは「家族」というものへの執着が生み出す不幸をこれでもかと描いてみせる。

ナディアがレイプされるシーン。50年前の映画なので、赤裸々な描写はないので安心して(?)俳優さんたちの名演技をご覧ください。ナディアはアニー・ジラルドという女優さんで、この人がまた素晴らしいのだが、なんとこの映画をきっかけにシモーネ役の俳優さんと結婚・・・。そ、それでいいのかナディア!!その男でいいのか!!と言いたくなってしまう(汗)

http://www.youtube.com/watch?v=d5ygUstcQbg

家族というものは、難しい。

私は、家族というものは崩壊していくために作り出されるものだと思っている。「崩壊」というのがあまりにもネガティブであるならば、「離散」あるいは「変容」と言ってもいいだろうか。「家族」という目に見えない絆を永遠に保とうとするのは、はなから無理なことなのだ。

夫婦別姓問題において、「夫婦が別姓になると、家族の絆が薄れる」という理由で反対する保守系議員たち。家族の最小単位である夫婦をつなぎとめているものは、「名前」にすぎないのか。夫婦の名前が別になると薄れる絆とは、一体どれほどの絆なのかと問いたい。

家族の絆、一体感とは、どこから発生するものだろうか。一緒に暮らすこと、お互いの愛情、「私達は家族ですよ」という幼い頃からの刷り込み、ある特定の土地に土着する、一族の「運命共同体」的観念?

ロッコという若者の中には、故郷への執着、家族という幻想を守ることへの執着、そして自分を犠牲にしてもそれらを守りたいという、危険な寛容さが同居している。アランドロン氏は、自身の生い立ちが不幸なためか、影のある「ちょっとワルい」男を演ずることが多い役者さんだが、彼の容貌の美しさは、このロッコという青年の、無知で純粋なゆえの哀しさを表すのにドンピシャリ、という気がする。

なお・・・ヴィスコンティ監督はバイセクシュアルを公言していたそうだ。で、ドロン氏との噂も(当然というか・・・)あったという。

というわけで、いろいろな意味で大変に見ごたえのある「Rocco and his brothers」なのでした。

イクバルの闘い

2011年01月13日 | 生活
実在の人物、Iqbal Masihの生涯にもとづいて書かれた児童書です。

イクバルは4歳の時に、じゅうたん工場に売られました。親が借りた12ドルのカタとして。

一日14時間の労働。劣悪な労働環境。不十分な食事。一日働いて、賃金は3セント。イクバルは12歳の頃、6歳くらいの体格でしかなかったそうです。実際に残っている写真を見ても、本当に小さく、とても12歳には見えません。

彼は10歳の時にじゅうたん工場から逃げ出し、パキスタン国内で児童労働に反対する団体に加わって活動するようになります。時には「おとり」となって、児童を不当労働させている工場に潜入したりもします。彼の活動は国際的に注目を浴びるようになり、リーボック社のHuman Rights Awardを受賞し、ノルウェーで講演をしたり、アメリカの学校を訪問したりするのですが、12歳の時に暗殺されます。「カーペットマフィア」による暗殺という説が濃厚だそうです。

フォト

この豊かな日本に生きていて、ふと「自分は何のために生きているのだろう」と考えることってありませんか?私は時々、どうしようもなく虚しい気持ちになることがあります。日々の仕事、家族、趣味、そういう個々のものについては満足しているのですが、「それで結局、私の人生って何?」という気持ちになってしまう。

私は、いわば苦労らしい苦労を何も経験していない人間なんだなぁとつくづく思います。生まれた時から何でもあるのが当たり前、そしてその状態を「幸せ」と認識しているのかどうかすら、時にあやしくなります。

イクバルという勇気ある少年が存在したことを知って、ふやけた私の人生が少しだけ、ひきしまるような気がします。児童労働をなくすために、自分ができることは何か?

私達が何かを「安く」買うことによって、地球のどこかで子供が泣いているのかもしれません。普通に考えたらあり得ないような値段のモノに対して、なぜその価格がつくのかを考えてみる必要があると思います。

貧困との闘いは、今までは発展途上国で起こっている「対岸の火事」でしたが、日本国内での経済格差は、この先すごい勢いで進むのではないかという気がします。「モノ」だけではなく、「人間の労働力」も安く買いたたかれる時代ですから。労働市場で武器となる技術を持っていない人間は、貧困のサイクルから抜け出せなくなり、その貧困はその次世代にも引き継がれていくでしょう。まさに、イクバルが親の借金のカタに売られたのと同じ構図が、すでに日本でも起こり始めています。

会社の経営者はもちろんですが、私達消費者も、「安い=おトク!」という思考回路を修正していく必要があるのでは。結局、そのわずかな「おトク!」によって、自分達の首をじわじわと絞めていっているというのは、少し考えてみれば自明なことです。

Lucky MAN

2010年12月25日 | 生活
Michael J. Foxは、80年代に青春を過ごしたすべての人にとって懐かしい俳優だと思う。Family TiesにBack to the Future。彼の軽妙な演技にどれだけ笑ったことか。

彼は30代前半でパーキンソン病を発病した。俳優という仕事は、彼の天職だった。彼のコメディで笑った人なら誰でもそう思うだろう。あの頃はただ笑うだけだったが、今YouTubeで彼の演技を見ると、まぎれもない天才の仕事を見ていると確信できる。

そんな彼が、幸福な子供時代、Family Tiesでの抜擢や、Back to the Futureで一躍世界中にその名を知られるようになるまでを含め、発病からMichael J. Fox Foundationを設立し、パーキンソン病と闘うようになるまでを綴った自伝がこの本だ。彼は作品の中で茶目っ気のある好青年を演じてきたが、実際の彼もおそらくユーモアセンス抜群の人なのだろうと思わせてくれる、実に軽妙洒脱な文体。ところどころに自身のパーキンソン病をネタにしたジョークも交えて、笑わせてくれる。

とはいえ、30代の絶頂期、結婚して子供が生まれたばかりという、一人の家庭人としてもまだまだこれからの時期に不治の病を宣告された人間の苦悩は、私のような凡人の想像を超える。その苦悩も赤裸々に語られており、読んでいると本当に苦しい。なぜよりによってこの人が・・・。なぜこの若さで・・・。と、他人の私が思うのだから、本人や家族の苦しみはいかばかりであったことだろう。

この本は職場の昼休みに細切れに読んだのだけれども、読んでいる期間、自分がいかに恵まれた環境にあるか、自分がいかにその恵まれた環境に無自覚だったか、それを「当然のもの」として粗末に扱ってきたかを考えていた。

もちろん日本語訳も出ている。自分の人生とは、仕事とは、家庭とは、病気とは・・・を考えさせてくれる本。単なる「元スター」の自伝とは一線を画している。

格差社会

2008年02月27日 | 生活
先日、私がOLだった頃の課長さんと、約20年ぶりに会った。そこで聞いた話。

元課長(現在は転職して別の会社の役員になっている)さんの息子さん、海外の大学を中退して日本にもどってきたものの、就職口がない。何十社も面接を受けて、たった一社だけ採用してくれた会社の倉庫番となる。単調な仕事でつまらない。嫌気がさす。元課長さんが「職場で何か不都合を感じるところはないか?」と息子さんに聞いてみると、「3ヶ月くらいしないと全体の流れが把握できない。」と。「よし、じゃマニュアルを作れ」という課長さんの提案にしたがい、倉庫の業務をマニュアル化した息子さん。それが上司の目にとまり、そこからとんとん拍子に出世して、今では世界を駆け巡る商社マン。

某SNSでたまたま目にした日記。
20歳くらいのヤンママが言うことには、「私もそろそろ働こうかなー。またキャバやろうっかな~。」
キャバクラ嬢になることが悪いとは一概に言えない。そもそも私はキャバクラ嬢の職場がどういうものか、よく知らない。ただ強烈に感じたのは、人間というのは「馴染みのあるもの」にひかれていく傾向があるんだろうな、ということだ。
映画「ショーシャンクの空」にも描かれていたが、刑務所で何十年も過ごした囚人が外の世界に適応できず、また罪を犯しさえすれば「自分が慣れ親しんだ」あの場所に戻れる、と考えてしまう。
20歳くらいで再就職を考えるなら、水商売の世界でなくても、たとえばコンビニでバイトするなどの選択肢もあると思うが、そういう方向へ行くことなく、自分がよく知っている同じ流れの中をぐるぐる回っていたい、という感じだ。

社会の中で階層が固定されてしまうというのは、むしろ歴史の流れの中ではずっとそうだった訳で、戦後「学問を身につければいい暮らしができる」という考え方が一般的になったことの方がむしろ、珍しいこととも言える。高度経済成長、中流意識、学歴社会。頑張れば頑張っただけ報われた幸運な時代は過ぎた。今の時代には「どのような方向で、どのように頑張るか」を分析する能力が必要なのではないかと思う。「ワーキングプア」を読んだ時に思ったのは、それだった。あの本に登場した、貧困に喘ぐ真面目で善良な人たち。みんな、地道に仕事を頑張ってきた人たちだ。ただ、その頑張りの方向が、時代の流れにのっていなかった。

時代は急スピードで流れる。
とどまっていては、じぶんはいつか流れの後方に淀んでいく。
If you’re not moving ahead you’re slipping behind……you can’t stand still.

元課長の息子さんと元キャバクラ嬢。
2人の違いは、「そこにとどまりたいか」「とどまりたくないか」だと思う。
「ショーシャンクの空」で主人公のアンディが言う。「希望というものは、いいものだ」
一方、アンディの友人のレッドは「希望?それは危険なものだ。」と反論する。

とどまるか、とどまらないか。

どちらがいいのか判断する自由は、誰にでもある。

雅子さまの憂鬱

2008年02月18日 | 生活
エリザベート「私だけに」

私の大好きなミュージカル「エリザベート」の中の、「私だけに」という歌。
オーストリアの皇室に嫁ぎ、皇后となったエリザベートが、旧弊で堅苦しい皇室のしきたりに馴染めず、精神的にダメージを受けて自殺寸前の状況になった時に歌い上げられる。
ドイツ語原題の「ich gehör nur mir」は、英語だと「I belong to me」だ。

私は雅子様の記事を読むたび、エリザベートを連想してしまう。
東大、ハーバードで学び、外交官として活躍したキャリアを持つ人でありながら、皇室に入ってからは妊娠がどうのこうの、着ている服がどうのこうの、靴のヒールの高さがどうのこうのといちいち取りざたされる世界。

にっこり笑って手をふり、あくまでも「控えめに」夫に寄り添うことが最大の仕事。

自分が「添え物」になってしまうことの悲しさ。
「添え物」は美しければ美しいほど良い。でも、それだけ。

日本で一番伝統ある家柄に嫁いだ現代女性の悲劇は、100年前のエリザベートの時代とあまりにも共通点が多い。

雅子さまに限らず、私たち庶民の女にとっての「結婚制度」や「社会的倫理」といったものも、女を「添え物」にするという点で基本的には同じだ。

決して男より先になってはならず、上になることもない。
対外的には「主人」と「家内」なのであって、「夫」と「妻」という対等な立場ですらあり得ない。

結婚している女なら、毎日嫌というほど味わう屈辱。
これを「屈辱」と捉えないタイプの人も多数いることは承知だが、少なくても私にとっては、生まれたときの性別によって上下関係が決定するような社会は、屈辱以外の何物でもない。

先日の新聞に「皇太子一家の、天皇皇后への謁見が少ないことに宮内庁が苦言を呈した」という内容の記事がのっていた。

雅子さま、嫌なんじゃないかなぁ。
私だって嫌だもの、夫の実家に行くの。
夫の両親はとてもいい人たちだ。
でも、その場所(夫の実家)に行くと、私が一番身分の低い「召し使い」になる。
それが嫌なだけ。
一番身分の低い召し使いになることに耐えるには、「寛容さ、社会通念を尊重する心、世間体を考えること」などが必要条件かと思うが、あいにく私はどれも持ち合わせていない。

自分を貶める嫌な場所には行きたくない。
I belong to me.

雅子様はそう叫んでいるような気がする。

Book Darts

2008年02月12日 | 生活
とても便利な小道具発見!
常に複数の本を並行して読む癖のある私。
いつもポストイットを使用していましたが、日本の本のつるつるしたページならともかく、ペーパーバックだと紙のけばがついてしまって、すぐに粘着力がなくなってしまうのが困りものでした。
発明してくれた人、ありがとうって感じです。

私は近所の店で購入しましたが、「ブックダーツ」で検索かけるといろいろ出てきます。

美しい人

2008年02月11日 | 生活
Beautiful young people are accidents of nature, but beautiful old people are works of art.

「若くて美しい人というのは、偶然の産物にすぎない。しかし、年を経て美しい人というのは、芸術作品である。」

若い頃、化粧をするとそれなりになった顔。
40代を過ぎた今、化粧をしても「それなり」にすらならない。
ただ、それを悲しいとは思わないし、若い頃のようなルックスになりたいとも思わない。
偶然の産物である若い美しさに、年をとってからも憧れ続けるというのは滑稽ではないだろうか。

昨日、四国最西端の岬へ行ってきた。
景色が美しくて素晴らしかったが、そこで一本釣りの鯵の一夜干しを売っていたおばさんの顔が、とても美しくて驚いた。
海風に長年さらされてきただろう日焼けした肌に、深く刻まれた皺。
それこそ、美白もアンチエイジングも全く無関係なおばさんの顔。
でも、目がすごく美しくて、私は会話している間中、なんてきれいな人だろうと思っていた。

若い美しさは、単なるaccidentの結果である。
年齢を経た美しさは、worksの結果なのだから。

WWJD

2008年02月04日 | 生活
私は政治については無知ですが、それでもジョージ・ブッシュって人はなんか嫌だよなぁ、ついでにローラ・ブッシュと双子の娘も、な~んか神経逆撫でする人たちだよなぁ、と思っていました。

そもそもなんで911の攻撃が発生したのか、ということをアメリカ国民は真剣に考えているんだろうか?と疑問に思ってもきました。

でもこういうジョークがたくさん生まれているということは、原因と結果を結び付け、客観的に物事を捉えられる人たちもいるんだということの証明みたいで、嬉しくなります。(いや、いなかったらすんごく怖いけど・・・)

WWJDは、What would Jesus do? (キリストならどうするだろう?)の略だそうです。