司馬遼太郎さんの名作「坂の上の雲」を現在翻訳中の、ジュリエット・W・カーペンターさんの講演会に行ってきた。この名作を翻訳する上での苦労や、翻訳に関するあれこれを面白く語って下さって、大変勉強になった。
私は文芸翻訳はしたことがなく、もちろんカーペンターさんのような大翻訳者と自分の仕事を同レベルで考えることはおこがましいとは思う。だがそれでも、同じ翻訳者として(レベルの違いはあれども)同じ種類の悩みを持ち、同じ種類の喜びを感じながら仕事をしているということに、少し感動してしまった。
タイトルの言葉は、カーペンターさんが講演の冒頭でおっしゃったことである。「私は、上手に訳せると思うから訳しているのではありません。間違いは翻訳につきものだし、私の訳したものにも間違いはあるかもしれません。でも、『死んだ獅子より生きている犬の方がいい』とかつて言った翻訳者がいたように、まったくやらないよりは誰かがやった方がいい、と思っています。」
私が日々翻訳しているものは後世に残るようなものではもちろんないし、私の訳を必要とする人が一度読み終わったらそのまま廃棄されてしまうようなものも多いと思う。「生きている犬」、いや「生きている虫けら」、そんな程度のものであるかもしれないが、それでも誰かがやらねばならない仕事だ。自分が書く訳文が上手だとも思わないし、私でなければできないということもない。
翻訳は、やればやるほど「自分がいかに知らないか」を突きつけられる仕事だ。英語もわかってない、文化も知らない、コンピュータのこともわかってない、基本的な教養もない、それどころか日本語さえ心もとない。
それでも私はこの仕事が好きだし、楽しんでもいる。自分に足りない「知」は、どこかから借用してくる。カーペンターさんに「インターネットがなかった時代と、インターネット後の時代の翻訳の違い」について質問してみた。カーペンターさんは、「私も、インターネットなしで翻訳はしたくないですね」と笑っておっしゃった。さらに、「インターネットがなかった時代、さらには満足な辞書すらなかった時代の翻訳者を尊敬します」とも。
全く同感である。
私は文芸翻訳はしたことがなく、もちろんカーペンターさんのような大翻訳者と自分の仕事を同レベルで考えることはおこがましいとは思う。だがそれでも、同じ翻訳者として(レベルの違いはあれども)同じ種類の悩みを持ち、同じ種類の喜びを感じながら仕事をしているということに、少し感動してしまった。
タイトルの言葉は、カーペンターさんが講演の冒頭でおっしゃったことである。「私は、上手に訳せると思うから訳しているのではありません。間違いは翻訳につきものだし、私の訳したものにも間違いはあるかもしれません。でも、『死んだ獅子より生きている犬の方がいい』とかつて言った翻訳者がいたように、まったくやらないよりは誰かがやった方がいい、と思っています。」
私が日々翻訳しているものは後世に残るようなものではもちろんないし、私の訳を必要とする人が一度読み終わったらそのまま廃棄されてしまうようなものも多いと思う。「生きている犬」、いや「生きている虫けら」、そんな程度のものであるかもしれないが、それでも誰かがやらねばならない仕事だ。自分が書く訳文が上手だとも思わないし、私でなければできないということもない。
翻訳は、やればやるほど「自分がいかに知らないか」を突きつけられる仕事だ。英語もわかってない、文化も知らない、コンピュータのこともわかってない、基本的な教養もない、それどころか日本語さえ心もとない。
それでも私はこの仕事が好きだし、楽しんでもいる。自分に足りない「知」は、どこかから借用してくる。カーペンターさんに「インターネットがなかった時代と、インターネット後の時代の翻訳の違い」について質問してみた。カーペンターさんは、「私も、インターネットなしで翻訳はしたくないですね」と笑っておっしゃった。さらに、「インターネットがなかった時代、さらには満足な辞書すらなかった時代の翻訳者を尊敬します」とも。
全く同感である。