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「新日本憲法(構想案)」

2025-05-20 02:24:00 | 呟き

 参政党が公表した、「新日本憲法(構想案)」と題する文書は、おそらく日本国憲法の全部改正案だろう。

 同文書を十分に検討する暇はないが、同党とその支持者の関心事を知るには良い資料と思う。

 同文書について、こんなものは憲法ではない、整合性を欠く、等の反応が見受けられるのは、興味深い。批判はもちろん自由だが、小馬鹿にするような態度は取るべきでないと思う。

 ドイツのための選択肢(AfD)が党勢を拡大した理由は、何だろうか。本邦において、"日本のための選択肢"が国政選挙で躍進する未来があり得るだろうか。

 もう少し詳しく論じたいが、また別の機会に。今日はもう疲れた。


印パ

2025-05-08 01:42:52 | 呟き

 印パ戦争がまた始まったのかしら。自分の知識ではわからない。

 日本政府の立場はどうなるのだろう。石破首相が早々にテロとの戦いを支持したこととの整合性は?

 おおごとにならなければいいが。


杞憂

2025-05-04 01:54:37 | 呟き

 憲法記念日である5月3日付の琉球新報の社説が興味深い。

 同社説には、
沖縄は「憲法の理念である基本的人権の尊重と法の下の平等を要求した。」
「基本的人権の尊重、法の下の平等、平和主義という憲法の理念が揺らいではならない。」
とある。

 先の戦争とその後の経緯を考えるならば、沖縄の代表的メディアである同紙の論調は、理解できる。そして、日本国憲法について思うところを公言するのは、まさに日本国憲法が明文で保障する自由の範疇だ。

 オーソドックスな法学教育を受けた方なら、上記引用部分に違和感を抱かれると思う。標準的な憲法論は、日本国憲法の基本原理として、国民主権(第1条)、基本的人権の尊重(第3章)と平和主義(第9条)を挙げると自分は理解している。法の下の平等(第14条)は、厳密には人権ではなく原則であるが、一般的には基本的人権に含めて論じられている。

 同社説が、「法の下の平等」を「基本的人権の尊重」と区別して「憲法の理念」に数えるのは、ユニークな例だと思う。少なくとも自分は初めて見た。それ以上に、「憲法の理念」から国民主権が抜け落ちている点が興味深い。

 日本国憲法が「主権の存する日本国民」(第1条)と明示するのは、主権(日本国の意思決定を正当化する根拠)が総体としての日本国民にあると宣言するだけではない。大日本帝国憲法における天皇主権を明確に否定する点に意味がある。天皇主権の否定は、沖縄の反戦平和思想とは、少なくとも矛盾するとは思えない。

 同社説が「法の下の平等」を強調するのは、理解できる。しかし、国民主権への言及を欠くのは、不思議でならない。同社説の執筆者は、人民主権論を採るゆえに、国民主権という言葉を忌避したのだろうか?

 同社説が公開された日に、沖縄県石垣市の尖閣諸島周辺で新たな事案が発生した。

 繰り返すが、過去を鑑みれば、同紙の論調は理解できる。しかし、同紙の反戦平和の論理が、過去はともかく、現在の状況と、将来の想定される事態にも通用するかは、わからない。

 想定される事態が杞憂であったなら、どんなにか良いだろう。

 本土で生まれ育った自分には、沖縄の論理も感情も理解できないのかもしれない。そうであるならば、仕方ない。ネトウヨ認定はどうぞご自由に。


権利の濫用

2025-04-30 02:45:49 | 呟き

 いわゆる宇奈月温泉事件の大審院判決は、結論を導くための論理が雑だと思う。

 同判決は、権利の濫用(民法第1条第3項)の先例とされているらしい。しかし、そもそもの話、権利の濫用を根拠とした点が間違いだったと自分は考える。

 同事件をざっくり言うと、
  ・A社が設置した引湯管(温泉水を輸送するパイプ)(A社はこの温泉水を使って宇奈月温泉を経営していた)は、Bが所有する甲土地の一部を通っていた。
  ・A社は、甲土地の利用権を持っていなかった。つまり、A社は、Bに無断で甲土地に引湯管を通していた状態だった。
  ・BがAに対して、甲土地から引湯管を撤去せよ、と訴えた。なお、甲土地から引湯管を撤去する(甲土地を迂回して引湯管を新たに設置する)には、多額の費用が必要だった。

 大審院は、権利の濫用を根拠として、Bの敗訴とした。その結論自体は、妥当だったと思う。しかし、権利の濫用を根拠としてBの請求を排斥したのは、まずかったと思う。

 権利の濫用は、民間人同士の(私法上の)紛争を解決するルールとしては、最後の切り札の一つ。奥の手と言うよりも、禁じ手に近いと自分は考える。創作に例えるなら、時間を巻き戻して全てをなかったことにするレベルの荒技だ。

 土地の所有権は、重要な財産。土地の所有権(に基づく妨害排除請求権)の行使を裁判所が認めないというのは、本当に最後の手段にするべき。

 同事件については、A社が設置した引湯管が甲土地の一部を通ってはいるけど、Bの甲土地所有権を侵害するほどではない(妨害排除請求の要件である妨害がない)という論理で、Bの請求を排斥するべきだったと考える。権利の濫用を持ち出すまでもなかった。

 同事件は、抽象的なルール(権利の濫用)ではなくて、もっと具体的なルール(所有権に基づく妨害排除請求権)で解決されるべきだった。同判決が権利の濫用の先例とされているの、自分的には不思議でならない。

 まあでも、適用されるべきルールが違っていた、は後からいくらでも言える。人の世を映す事例としては、同判決は、確かに先例と言えるのだろう。


除斥期間

2025-04-20 00:46:32 | 呟き

 NHKニュースのウェブサイトに掲載の記事
「“実父から性的虐待” 最高裁が女性の上告退ける決定」
について、予想通りの反応をXにおいて見かけた。

 言論は自由。裁判について意見を表明するのも自由。

 しかし、この裁判(最高裁判所決定)にお怒りの皆さんには、法的な問題について誤解があるように思う。

 何が誤解なのかを説明するには、同記事の全文を引用する必要がある。よって、同記事の全文を以下に引用することをお許し願いたい。

    子どものころに実の父親から繰り返し性的虐待を受け、後遺症に苦しんでいるとして広島市の40代の女性が父親に賠償を求めた裁判で、最高裁判所は18日までに女性の上告を退ける決定をし、裁判を起こすのが遅かったことを理由に訴えを退けた判決が確定しました。
    広島市の40代の女性は、保育園のころから中学2年になるまで実の父親から性的虐待を繰り返し受け、当時の記憶を思い出す「フラッシュバック」などの後遺症に苦しんでいるとして、賠償を求める訴えを起こしました。
    裁判では、不法行為を受けてから20年が過ぎると賠償を求める権利がなくなるという「除斥期間」がどの時期から適用されるかなどが争点となっていました。
    2審の広島高等裁判所は「極めて悪質、卑劣な行為で、女性の精神的苦痛は察するにあまりある」とした一方、「遅くとも20歳になって以降、訴えを起こすことは可能で、そこから20年が経過した時点で、賠償を求める権利は消滅したと言わざるをえない」として、1審に続いて訴えを退けました。
    女性側が上告していましたが、最高裁判所第3小法廷の平木正洋 裁判長は18日までに退ける決定をし、裁判を起こすのが遅かったことを理由に女性の敗訴とした判決が確定しました。

 この女性Aが実父Bに対して「賠償を求める訴え」を起こした法的な根拠は、民法第709条と考えられる。条文は次の通り。

(不法行為による損害賠償)
第七百九条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

 Bは、Aに対して、性的虐待によってAに生じた損害を賠償する責任を負う。言い換えると、Aは、Bに対して、「賠償を求める権利」がある。

 しかし、裁判所の結論は、Aの「賠償を求める権利」は消滅した、だった。理由は、除斥期間。

 除斥期間とは何か。本件においては、平成29年法律第44号による改正前の民法第724条の後半部分(後段)を指す。条文は次の通り。

(不法行為による損害賠償請求権の期間の制限)
第七百二十四条 不法行為による損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から三年間行使しないときは、時効によって消滅する。不法行為の時から二十年を経過したときも、同様とする。

 法律が難しいのは、条文を文字通りに読むだけでは意味がわからない点だ。「不法行為による損害賠償の請求権は、…時効によって消滅する。不法行為の時から二十年を経過したときも、同様とする。」と書いてあるのだから、「同様とする」は「時効によって消滅する」という意味だと考えるのが普通だろう。

 しかし、一般的な解釈は、そうではない。「不法行為の時から二十年を経過したとき」は、「不法行為による損害賠償の請求権」は、言わば自動的に消滅する。これが除斥期間。

 さて、同記事の全文をお読みいただいた方は、疑問を抱かれるかもしれない。同記事には、
    広島市の40代の女性は、保育園のころから中学2年になるまで実の父親から性的虐待を繰り返し受け、…賠償を求める訴えを起こしました。
    裁判では、不法行為を受けてから20年が過ぎると賠償を求める権利がなくなるという「除斥期間」がどの時期から適用されるかなどが争点となっていました。
    2審の広島高等裁判所は…「遅くとも20歳になって以降、訴えを起こすことは可能で、そこから20年が経過した時点で、賠償を求める権利は消滅したと言わざるをえない」として、1審に続いて訴えを退けました。
とある。

 Bの不法行為があったのは、Aが「保育園のころから中学2年になるまで」だった。不法行為による損害賠償請求権の除斥期間は、「不法行為の時から二十年」。ということは、Aが34歳か35歳になった時点で、Aの損害賠償請求権は消滅することになる。

 では、なぜ、広島高裁は「遅くとも20歳になって以降、訴えを起こすことは可能で、そこから20年が経過した時点で、賠償を求める権利は消滅した」としたのか? Aが40歳になるまでは、Aの損害賠償請求権は消滅しなかったのか?

 法律だけでなく判例も知る必要があるのも、法律が難しい点だ。平成29年改正前の民法第724条後段は、「不法行為の時から二十年」という明確な基準が書かれているにもかかわらず、判例で例外が認められてきた。それが、「遅くとも20歳になって以降、訴えを起こすことは可能で」の意味だ。

 裁判所は、民法の「不法行為の時から二十年」というルールを少し曲げて、不法行為の被害者を救済する特別ルールを作った。しかし、Aについては、特別ルールでも救済することはできなかった。

 では、もっと特別なルールを作ったら? それは駄目だ。裁判所がこれ以上法律を曲げたら、裁判所が憲法を壊すことになるからだ。

 法律は、国民が選挙で選んだ国会議員が、国会で決めたルールだ。裁判所は、憲法に違反しない限り、国会が決めたルールに従わなければならない。それが、憲法が定める日本国のルールだ。

 Aの損害賠償請求が認められなかったのは、国会の判断(立法)であって、裁判所の判断ではない。むしろ、裁判所は、不法行為の被害者を救済するために、国会の判断に少し逆らってきた。

 この裁判にお怒りの皆さんは、怒る相手を間違えていると思う。怒る気持ちは自分も十分に理解しているつもりだが。