産経新聞(電子版)に掲載の記事
警備員死亡の辺野古ダンプ事故、抗議女性の立件検討 重過失致死容疑 沖縄県警
を興味深く読んだ。
同記事の内容を再構成すると、
① 令和6年6月28日に沖縄県名護市で、Aが運転するダンプカーが、警備員Bの誘導に従い徐行運転中、抗議活動をしていたCがダンプカーの前に出た。
② 警備員Dが、Cを制止しようとダンプカーとCの間に割って入った。
③ CとDがダンプカーに巻き込まれて、Cが負傷し、Dが死亡した。
との事実関係であるようだ。
上記事実関係を前提に、Cの過失行為によってDが死亡した、と刑法学的に言えるだろうか?
同記事には、「捜査では、危険性を具体的に予見できたか(予見可能性)、必要な措置を講じれば結果は避けられたか(結果回避可能性)―が焦点になるとみられる。」とある。しかし、自分の見解は異なる。
刑法学的観点では、本件で「焦点になる」のは、予見可能性でも結果回避可能性でもなく、Cの過失行為とDの死亡という結果との因果関係だと考える。さらに言えば、そもそもCの過失行為とは何か?が、本件の出発点であり、終着点であると考える。
法学者たちは、過失犯(重過失犯も基本は同じ)とは何か?について、神学論争を延々と続けている。やれ予見可能性だ、結果回避可能性だ、因果関係の相当性だ、と熱心なことで。そして、判例が出るたびに、我が学説が最高裁判所に採用された!と、法学者の一派が勝利宣言する。何をやってるんですかね。
で、裁判所は裁判所で、法学者たちの神学論争とは無関係に、ケースバイケースで過失犯の成否を判断している。何だこの状況は。
話を戻すと、Dの死亡についてCに過失致死罪(ここでは重過失致死罪を含めて考える)が成立するか否かは、それこそケースバイケースの判断になる。一般論では答えが出ない。捜査に時間がかかるのも理解できる。
個人的には、Cを過失致死罪で有罪とするのは、難しいと思う。仮定の話だが、Aがブレーキを踏めばDは死ななかったとしたら、因果関係は成立しない(Dの死亡はCのせいではない)。逆に言えば、Aがブレーキを踏んでも結果的にDが死亡したか否か、捜査を尽くす必要がある。
Cにおいて過失致死罪が成立するとの結論を導くためには、結局のところ、Cの過失行為とは何か?に行き着くと思う。Cがダンプカーの前に出る行為が、この日のこの場所では、誰かが死亡するという結果を招く危険な行為である(ので、Cはダンプカーの前に出てはならなかった)(にもかかわらず、Cがダンプカーの前に出たせいで、Dが死亡した)と言えるか否かが、本件の「焦点」であると考える。
本件で誰の何の刑事責任が問われるのか、自分にはわからない。沖縄における反基地の抗議活動には、理解できる面もある。
Dがまだ47歳の若さで警備員として勤務中に亡くなられたのは、非常に痛ましい。あってはならない事だ。
本件が政治的に論じられるのは、仕方がないのかもしれない。それでも、本件の真相解明と再発防止が絶対に必要であることについては、異論はないと信じたい。