いわゆる宇奈月温泉事件の大審院判決は、結論を導くための論理が雑だと思う。
同判決は、権利の濫用(民法第1条第3項)の先例とされているらしい。しかし、そもそもの話、権利の濫用を根拠とした点が間違いだったと自分は考える。
同事件をざっくり言うと、
・A社が設置した引湯管(温泉水を輸送するパイプ)(A社はこの温泉水を使って宇奈月温泉を経営していた)は、Bが所有する甲土地の一部を通っていた。
・A社は、甲土地の利用権を持っていなかった。つまり、A社は、Bに無断で甲土地に引湯管を通していた状態だった。
・BがAに対して、甲土地から引湯管を撤去せよ、と訴えた。なお、甲土地から引湯管を撤去する(甲土地を迂回して引湯管を新たに設置する)には、多額の費用が必要だった。
大審院は、権利の濫用を根拠として、Bの敗訴とした。その結論自体は、妥当だったと思う。しかし、権利の濫用を根拠としてBの請求を排斥したのは、まずかったと思う。
権利の濫用は、民間人同士の(私法上の)紛争を解決するルールとしては、最後の切り札の一つ。奥の手と言うよりも、禁じ手に近いと自分は考える。創作に例えるなら、時間を巻き戻して全てをなかったことにするレベルの荒技だ。
土地の所有権は、重要な財産。土地の所有権(に基づく妨害排除請求権)の行使を裁判所が認めないというのは、本当に最後の手段にするべき。
同事件については、A社が設置した引湯管が甲土地の一部を通ってはいるけど、Bの甲土地所有権を侵害するほどではない(妨害排除請求の要件である妨害がない)という論理で、Bの請求を排斥するべきだったと考える。権利の濫用を持ち出すまでもなかった。
同事件は、抽象的なルール(権利の濫用)ではなくて、もっと具体的なルール(所有権に基づく妨害排除請求権)で解決されるべきだった。同判決が権利の濫用の先例とされているの、自分的には不思議でならない。
まあでも、適用されるべきルールが違っていた、は後からいくらでも言える。人の世を映す事例としては、同判決は、確かに先例と言えるのだろう。
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