映画女子の徒然日記

3度の飯より映画が大好き!!
映画に魅せられたぐうたら女子の、徒然日記です。

沈まぬ太陽

2011年03月26日 14時33分19秒 | 映画
【あらすじ】
昭和40年代。巨大企業・国民航空社員の恩地元は、労働組合委員長として職場環境の改善に取り組んでいた。だがその結果、恩地は懲罰人事ともいえる海外赴任命令を会社から言い渡される。カラチ、テヘラン、ケニア……。終わりなき僻地への辞令が続く間、会社は帰国をちらつかせ、恩地に組合からの脱退を促すのだった。

友人の裏切りや、妻・りつ子ら家族との長年にわたる離れ離れの生活によって、恩地は焦燥感と孤独感に襲われる日々を送っていた……。

十年に及ぶ僻地での不遇な海外勤務に耐え、恩地は漸く帰国、本社への復帰を果たすが、恩地への待遇が変わることはなかった。

そんな逆境の日々の中、航空史上最大のジャンボ機墜落事故が起こる。

想像を絶する犠牲者の数。現地対策本部に配属された恩地は、救援隊として現場に赴き遺族係を命ぜられるが、そこで様々な悲劇を目の当たりにする。


【感想】
久しぶりに日本映画を鑑賞する機会にここ最近恵まれていて、改めて日本の映画も骨太で素晴らしい映画を作り出すことが出来るのだなと、感心してしまいました。

この映画は、原作の山崎豊子さんの、作り出す物語がやはり主軸になっているだけに、スタッフや、出演者たちの気合いの入り方もまず違うと感じました。

最近の日本の映画やドラマは、お笑い芸人が出てきたり、何か真剣味が足りなくて嫌気が差していたんですけど、この映画に出演する主要な人物だけでない、脇役に至るまでの、演技者たちの素晴らしさがこの映画に深みを与えてたと思います。

御巣鷹山の事件について、日本航空という会社や、日本の官僚の実態について。

私は、この映画を鑑賞して、原作の本を読んでいますが、本当に日本という国に生まれて、自分の国のひとつの歴史や、被害者の人たちについて深く考えるようになりました。

日本の歴史は、戦争で苦しんできた歴史や、加害者であった歴史もあります。御巣鷹山の事件は、歴史の年表には載らない一つの事故ではありましたが、その事故の背景に、腐敗した官僚と会社の癒着であったり、会社に苦しめられた数多くの被害者が存在していたことがあったことなどを、この映画を通して初めて知ることが出来ました。

こうしたメディアを通して、是非日本の国民として知ってほしい、歴史のひとかけらを、一人でも多くの人たちに知って欲しいと、この映画を見て感じました。


ちなみに、映画は良かったと思うのですが、原作がとても長く素晴らしい作品なだけに、連続ドラマでじっくりと映像化して欲しいと感じました!

是非、その時も渡辺謙さんに出演して欲しい!!

嫌な会話のパターン

2011年03月20日 18時19分06秒 | コラム
最近知り合って間もない知人とお茶してたんですけど、何かその時の会話がすげー嫌な感じだなーと感じてしまいました。

私の悩み的な話を真剣に聞いてくれるんですけど、それを真剣に聞いてるのはフリだけで、続けていきなり自分の話を『私は~~』と話し出します。

いやいやいや、私が話してるんだから、何かコメントするなりアドバイスするなりしろよ。
実はあんたが話したいだけジャン。
お前の話は聞いてないんだけど?って喉まで出かかったけど、何か知り合って間もない人だったんで、放置しました。

出会った時から遅刻したり、その時かなり心証悪かったんですよね。しかも最近落ち込んでいたので、余計私も機嫌悪かったんですけど。

その人も、私より2つも年上なのに、人との会話のパターンとか今まで学んでこなかったんでしょうか?ヒューマンスキルのモラルを疑いました。

そうして思ったのは、私は今まで話の出来る友人に恵まれてるのかなって思った。

人の会話に真剣に耳を傾けてくれたり、横槍を入れたりしない、一緒に笑ったり悔しがったり泣いたり出来る友人に。

だって久しぶりに会う大学や高校の友人や先輩は、話しててもそんなにストレスとか感じないし。


けど、私もこうやってたくさん文句言ってるけど、まだまだ子供な所もあるし、向こうからしたら私にも問題があるのかもしれませんけど。


にしても、会話って本当に日常で大切。多分、その人は仕事柄人の話を聞いたりする側な人な訳で、もしてかして色々鬱憤やら何やらが溜まっていたのかもしれないしね。


と、大人ぶった解釈をしてみます。


完璧な人って本当にありえないよな~~、もっと自分は大人にならないといけないよね、と感じました。

近況など

2011年03月20日 17時46分37秒 | 雑記
お久しぶりです。

地震から1週間以上経ちました。

私は、新しい仕事が始まって、少しずつ慣れてきた感じです。派遣ですが、丸の内で、初めての事務の仕事をしてます。

私が働いている会社は2階だったのですが、8階や9階にもテナントを持っていて、総務とかはそこで働いてる人もいるし、大きい会議なんかもそこで行われてるみたいです。

大きい地震では、ビルの上の方はものすごく揺れるみたいで、大変だったみたいです。

電車は完全に止まるし、帰りは帰宅難民になりかけましたが、慣れない人ばかりだし、非常食は不味いし、心細かったので、千葉の行徳の叔母さん宅まで、歩きとタクシーを使って帰宅しました。

1時間位歩いて、木場の辺りで運よくタクシーを拾えました。車は全然進まなくて、叔母さんの家まで日本橋からだと30分位で着く距離なのに、3時間以上かけて帰りました。

クレジットだったけど、お金が心配だったのですが、何とありがたいことに、タクシーの運転手の人が、途中でメーターを止めてくれました。

聞けば、私位の年齢の娘が居るらしく、奥さんや娘さんも栃木に居るので、安否がつかめない状況にいるらしく、ほっとけなかったみたい。


何だかダラダラと私の地震の時の状況をつらつらと書いてしまいました。

でも、こうした災害の時の、人の心の温かさを、今回の震災で改めて知ることが出来ました。

スマートフォン片手に、帰り道をお年寄りと歩く若者の人たち、家族の安否を気遣ってくれる同僚の方、メールをくれた友人や家族や恋人、夜遅くまで私の帰りを待ってくれていた従姉妹や親戚、ラーメンを作ってくれたおばさん、暖かい布団。

もっともっと大変な目にあってしまい、今でも安否の分からない人々も居て、自分の存在の小ささを思い知ります。

携帯電話も普及して、かなり便利になったはずの世の中なのに、携帯は電波も通じないし、全然知りたい情報も見つからず、色々な意味での無力感を味わったけど、人同士のそうした暖かさに触れて、大切なことを改めて体感できた気がする。


元気に出来るうちは、私も精一杯今を生きようと思います。東北の人たちや、まだ日常生活を取り戻せない人たちに出来る限りのことをしよう。