『地獄について この無視された真理』アロイジオ・デルコル神父、21
◆12、聖トマス・アクイナス(1225-1274年)「神学大全」から。
トレント公会議のときには、この神学大全は聖書といウしょに祭壇の上におかれていたが、これは当時の教会がどんなにこの神学大全を大事にしていたかを示すものである。最近では、多くの超進歩的な神学者がこの神学大全を無視して、多くの異端説にながれてしまった。しかし、教皇レオ13世、ピオ11世、ピオ12世、ヨハネ・パウロ2世は、聖トマスの思想を大事にしなければならないことを再三忠告されている。
第2次ヴァティカン公会議は、聖トマスの神学大全とその他の著書を合わせて23回引用し、キリスト教的教育に閲する宣言(10条)の中で、神学の研究において、「特に聖トマス・アクイナスの手本にならう」ことを命じ、司祭の養成に関する教令(16条)の中で、教義神学を教えるにあたって、「聖トマスを師」としなければならないと定めている。
神学大全の補足巻の中に出る目立った断言は、次の通り。
==
亡びた人々は、決定的自由意志をもっていて、それはかれらにおいていつも悪に向かっている。
亡びた人々は、悪意にみちた自由意志をもって罪に愛着しているから、ほんとうをいえば罪をくやむことは考えられない。しかし、罪の罰に苦しめられているから、罪をおかしたことで喜ばない。
存在しないなら、永遠の不幸の生活から解放されることになるから、亡びた人々にとっては、存在しつづけるよりも存在しないほうがましだといえよう。この理由で亡びた人々は、存在しないことを好むだろうが、それは不可能である。
亡びた人々は、すべての善人が亡びることを望む。
亡びた人々のうちには、完全な憎みが支配している。
亡びた人々の天罰においても神のあわれみがあらわれる。それはどういう意味かというと、かれらが本当にうけなければならない天罰よりも、かるい天罰をうけているからである。亡びた人が生存中他人に対して何かあわれみ深いことを示したことがあったら、神はこの行為に対して特別にあわれみを示して、もっとかるい天罰を与えておられる。
亡びた人の数がふえればふえるほど、亡びた人々の苦しみもふえる。しかし、亡びた人は、自分ひとりで少なく苦しむよりも、たくさんの人というしょに苦しむことを好むほど憎みとねたみにかられている。
亡びた人々は、神がかれらを罰し、そしてかれらが出来たら悪意によって悪を行おうと望んでいることを禁じておられるから神を憎んでいる。つまり、かれらは、神のことを罰するもの、禁じるものとしてしか考えないのである。かれらは、神の正義の結果、つまり自分たちの天罰によって神を知っているから、自分たちがうけている天罰を憎むと同じように神を憎んでいる。
亡びた人々は、生きている人を亡びにさそうことができない。それは、悪魔がすることである。
地獄の火は、そこにおちたものに自由勝手にさせないことをもって、大きな苦しみを与える。このものたちは望むところにも望む方法をもっても自由に行うことができない。
地獄の罰は永遠につづく。地獄がいつか終わるだろうというオリゲネスの説は、根本的にまちがっている。
◆12、聖トマス・アクイナス(1225-1274年)「神学大全」から。
トレント公会議のときには、この神学大全は聖書といウしょに祭壇の上におかれていたが、これは当時の教会がどんなにこの神学大全を大事にしていたかを示すものである。最近では、多くの超進歩的な神学者がこの神学大全を無視して、多くの異端説にながれてしまった。しかし、教皇レオ13世、ピオ11世、ピオ12世、ヨハネ・パウロ2世は、聖トマスの思想を大事にしなければならないことを再三忠告されている。
第2次ヴァティカン公会議は、聖トマスの神学大全とその他の著書を合わせて23回引用し、キリスト教的教育に閲する宣言(10条)の中で、神学の研究において、「特に聖トマス・アクイナスの手本にならう」ことを命じ、司祭の養成に関する教令(16条)の中で、教義神学を教えるにあたって、「聖トマスを師」としなければならないと定めている。
神学大全の補足巻の中に出る目立った断言は、次の通り。
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亡びた人々は、決定的自由意志をもっていて、それはかれらにおいていつも悪に向かっている。
亡びた人々は、悪意にみちた自由意志をもって罪に愛着しているから、ほんとうをいえば罪をくやむことは考えられない。しかし、罪の罰に苦しめられているから、罪をおかしたことで喜ばない。
存在しないなら、永遠の不幸の生活から解放されることになるから、亡びた人々にとっては、存在しつづけるよりも存在しないほうがましだといえよう。この理由で亡びた人々は、存在しないことを好むだろうが、それは不可能である。
亡びた人々は、すべての善人が亡びることを望む。
亡びた人々のうちには、完全な憎みが支配している。
亡びた人々の天罰においても神のあわれみがあらわれる。それはどういう意味かというと、かれらが本当にうけなければならない天罰よりも、かるい天罰をうけているからである。亡びた人が生存中他人に対して何かあわれみ深いことを示したことがあったら、神はこの行為に対して特別にあわれみを示して、もっとかるい天罰を与えておられる。
亡びた人の数がふえればふえるほど、亡びた人々の苦しみもふえる。しかし、亡びた人は、自分ひとりで少なく苦しむよりも、たくさんの人というしょに苦しむことを好むほど憎みとねたみにかられている。
亡びた人々は、神がかれらを罰し、そしてかれらが出来たら悪意によって悪を行おうと望んでいることを禁じておられるから神を憎んでいる。つまり、かれらは、神のことを罰するもの、禁じるものとしてしか考えないのである。かれらは、神の正義の結果、つまり自分たちの天罰によって神を知っているから、自分たちがうけている天罰を憎むと同じように神を憎んでいる。
亡びた人々は、生きている人を亡びにさそうことができない。それは、悪魔がすることである。
地獄の火は、そこにおちたものに自由勝手にさせないことをもって、大きな苦しみを与える。このものたちは望むところにも望む方法をもっても自由に行うことができない。
地獄の罰は永遠につづく。地獄がいつか終わるだろうというオリゲネスの説は、根本的にまちがっている。