キリストのあかしびと 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。

シュステル枢機卿の思い出 4 イタリアに帰る

2018-03-12 03:07:37 | シュステル枢機卿

『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆4、イタリアに帰る

 1960年5月12日、いよいよわたしは、羽田空港を飛びたって、イタリアに向かったのです。そして、5月31日に、ミラノ市に行ったのは、東京碑文谷のサレジオ教会に三つの鐘を寄贈するミラノ市のある家族が、当時のミラノ大司教モンティー二師(のちに教皇パウロ6世になった方)に鐘の祝福をちょうどこの日にしてもらうはずだと聞かされ、祝別式にあずかるチャンスをうまく利用したからでした。式には、ミラノ管区長グジャッティ神父さまも、あずかっていたので、2~3日後のわたしの入院を知らせました。

 次は、トラブッキ先生の訪問です。わたしは、このとき、自分のカルテを先生に渡しました。このカルテこそ、わざほつたわざ別府駅まで、別府温研病院の院長だった八田秋先生が持ってきてくださったものです。そこには、わたしのすべての病気と、行なった治療、手術が記録されていました。わたしは見てはいけないことになっていましたが、とうとうトラブッキ先生の書斎で見てしまうことになったのです。

 先生は、すぐ、カピタニオ病院に電話を入れ、わたしは、6月のはじめ頃、ミラノの病院に入院しました。

 その一か月あとのことでした。当時ミラノの聖アンブロジオ学院の院長だったバッシ神父さまが、見舞ってくださいました。かれは、気の毒そうにいいました。

「今、先生たちと話して来ました。あなたは日本で抗生物質を取りすぎた.そうです。これからは、もうこの薬をとってはなりません。わたしは退院したほうがよいと思っています。きっとグジャッティ管区長さまが、あなたのために適当な任地をきめてくださるでしょう」と。

 その後わたしは、管区長に会って、イタリア滞在中、生まれ故郷のカネグラテ町の父と弟の住む家にとどまる許可をうけました。それにしても、わたしは、じっとしていません。サレジオ会のいろんな支部に顔を出しに行きました。でも9月になると、急に状態が悪化してきました。

(写真は碑文谷教会)


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