城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

名湯・秘湯 【温泉マニア】第一回≪桜の有馬温泉≫

2015年04月02日 | 旅行

 某旅行会社の温泉巡りツアーに参加しました

人気シリーズの企画で、昨年度に続き

今年度も4月より1年・12ヶ月

12回のシリーズにし、開催されます

全行程日帰りの入湯&ランチツアーです

今回はその第一回と云うことで

《桜咲く有馬温泉》と《大坂城桜鑑賞》へ行って来ました

入湯&ランチは『兵衛向陽閣』です

先ず着いた所は泉源の一つ「元湯古泉閣」

有馬温泉の泉源を最初に発見したのは、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)と伝えられています。この二神が有馬を訪れたとき、3羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴びしているのを見かけました。数日後、水浴びをしていたカラスは傷が治った姿をみて、大已貴命と少彦名命はこの水たまりが効能の優れた温泉であることを発見したと伝えられています

その先の「太閤橋」

日本三古湯の一つであり、林羅山の日本三名泉や、枕草子の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた。名実ともに日本を代表する名泉の一つである泉質は湧出場所により異なり、それぞれ、湧出口では透明だが、空気に触れ着色する含鉄塩化物泉(赤湯)は「金泉(きんせん)」と呼ばれ、 それ以外の透明な温泉は「銀泉(ぎんせん)」と呼ばれています(ウィキペディアより)

橋の東側には「ゆけむり広場」

中央には湯けむりに見立てた滝、右手には有馬温泉を愛した太閤秀吉の像(新谷英子 作)が有馬川をはさんでねね像と向かい合っております

有馬の湯を愛した豊臣秀吉は、豪華な別荘「湯山御殿」を建て、正妻・北政所(通称ねね)や重臣たちを引き連れて再三有馬温泉を訪れました。秀吉は、千利休や津田宗及など名高い茶人とともに有馬の地で大茶会を行ったり、配下におさめた諸大名を招くなど、有馬温泉をもてなしや物見遊山の場としても頻繁に利用していました

 橋の下を流れる「有馬川・親水公園」

六甲川と滝川が合流する、有馬温泉の中心地の河川敷を公園にした親水エリアです。飛び石や人工の滝、ヒョウタンをかたどったせせらぎなどがあり、清流に触れながら散策でき、また、赤い欄干のねね橋などもあり、有馬温泉にゆかりのある太閤秀吉を彷彿とさせ、毎年夏にはイベント「有馬涼風川座敷」が開催されてます

行基は万病に効くと名高い有馬温泉のことを知り、一時期衰退した有馬温泉を建てなおしたことが知られ、「古今箸聞集」に行基菩薩はもろもろの病人を助けようと有馬温泉を病気平癒に利用し庶民に広められたようです

街の中心部でひときわ赤い欄干の「ねね橋」

 橋の袂の「ねね像」

有馬に別邸まで建てたねねは秀吉と金泉につかりしばしの戦乱を忘れるときを過したのでしょう

その橋の北に私たちの昼食と入湯の「兵衛 向陽閣」

700年の歴史と伝統が宿る有馬温泉の老舗旅館。
太閤秀吉公より兵衛の名を授かり、以来守り伝えたおもてなしの心と伝統の味、
そして名湯有馬温泉の湯を湛えた、有馬随一の悠々とした三つの大浴場でおもてなしされています

 それでは早速昼食を頂くことにしましょう

先付(さきづけ)とお凌ぎ?(お寿司)でしょうか

牛肉の時雨煮、蛍烏賊の添え物、菜物に蒟蒻載せ 

向付(むこうづけ)ー刺身/お造り・鱠

鯛、鮪赤身、青海苔、食花(蘭系) 

 焼き物・ー鉢肴

鰤照焼、焼卵、蛸、胡桃の鰹節合え、変わったところで赤色付き若瓢箪

 前菜(お凌ぎの場合も)

豆腐に刻み菜

煮物・ー強肴(しいざかな)

鯛、はまち、豆腐、芹、練物 

 これは何の類でしょうか?世界に誇る「神戸牛」。椀物、揚げ物は昼食のためかありません

 水菓子

苺の葛のジュレ掛け

後はご飯と香の物を頂き満腹しお腹が出ていました。ご馳走さま・・・ 

食事のあと、「金の湯」でご自慢の一の湯二の湯三の湯と3つある湯の内、一の湯に、あの広いお風呂を、本当に初めての経験ですが、独り占めで殿様気分を味わいながら、ゆったりと天国気分を味わってきました

湯上りはお土産探しに売店へ・・ 

 「兵衛向陽閣」オリジナルブランドの品々の数々

黒毛和牛しぐれ煮、黒毛和牛入りオリジナルカレー、米焼酎兵衛、手作りぽん酢等など

流石兵庫県、灘五郷の銘酒がずらり・・ 

 

そのど真ん中に「兵衛」が、今津・西宮・魚崎・御影・西郷の銘酒が並んでいます

 辛丹波・大阪屋長兵衛・山田錦・総花・夢楽

 有名な「有馬人形筆」

日本最古の歴史書「古事記」には、奈良時代、三十六代孝徳天皇がお妃宝皇女に御子がないのを嘆かれ、有馬温泉に逗留されたところ間もなく、めでたくご懐妊され、お生まれになったのが有間皇子であると記されています。
人形筆は、この故事にちなみ、室町時代に神戸の伊助という筆職人が創作したのが始まりとされ、古くから有馬の名物として、子宝授与の縁起物として作られてきました。

『有馬筆ひょいと出たる言のはも 人形よりはめづらしきかな』と、本居宣長が詠んだ歌も残っています。
中から豆人形がひょっこり顔を出す、手作りのかわいらしい人形筆。つややかな絹糸を一本一本手で巻いて、模様を織り成す美しさ!筆を持って書こうとすると、「ひょこっ!」と豆つぶほどの人形が顔を出すという可愛らしくも愛らしい「からくり筆」です。全工程手作業のこの筆は、書道用だけでなく、絵筆にも使えます。飾っても、とても綺麗ですよ。(有馬温泉 灰吹屋 西田筆店HPより)

 お土産も仕入れたので町をチョット近場だけ散策してみましょう

「有馬温泉観光総合案内所」でマップを仕入れて

有馬温泉観光総合案内所には、パンフレットをはじめとして、有馬温泉観光の情報が満載です。また、有馬温泉内のホテル・旅館の予約取次ぎや、JRバスの予約取次ぎもしていますので、有馬温泉にお越しの際は、ぜひ、立ち寄られては如何でしょう 

 

「ねね橋」から南に山に向かって登りになっている通りが「太閤通」と呼ばれていて、お店が並んでいる一番広い通です 

 「御所の坊」手前の物産店「若狭屋」を東に行くのがメインの散策ルートのようです

坂道を登って行きましょう。この両側とも木造ですが、何年続いているのでしょうか、3階建てになっています。びっくり!! 

 

 向こうにもその向こうにも3階建てが見えています。昔は全て旅籠屋さんではなかったでしょうか。趣があって好きな風情です

思わず振り返って見てしまいました 

三軒とも同じ時代に建てられたもののように思います 

 その角にも二階建てではありますが、今は薬屋さんになっていますが恐らく旅籠屋さんだったと思います。今は高層ホテルが林立しすっかり様変わりしているのでしょうね

 その角に有馬の湯「金の湯」がその存感を主張していました

有馬の名物湯、金泉が楽しめる外湯(市営の協同浴場)、古来から由緒ある元湯として歴史を刻んできた名湯です

「日本第一神霊泉」 

また、「銀の湯」もあり、同じく外湯(市営の協同浴場)です。神社やお寺が集まる寺町の界隈の雰囲気に合わせた、和風の佇まいの中に立っていますが、現在臨時休館中で開業日は未定と云うことでした

碑文は 「有馬温泉は優れた温泉で、効能は「温泉論」を読むと分かり、いざりも治って帰ります」と刻まれているそうです

その先、道は3方向に分かれ見所がありますので、是非散策されては如何でしょう。私はここで引き返します

 

「若狭屋」の前に戻ってきましたら、「曹洞宗善福寺」の庭園にしだれ桜が見事に咲いていました 

行基が開基し仁西が再興しました。この寺の聖徳太子像は国の重要文化財で鎌倉時代の作です。樹齢200年を超える一重のしだれ桜はイトザクラと呼ばれ、神戸市民の木に指定されています。伝わる大ぶりの茶釜は、阿弥陀堂の住職の頭の形を面白がった秀吉が、その形に似せて利休に命じて天下一与次郎に作らせたことから阿弥陀堂釜と名づけられました。毎年4月、桜祭りの後桜の茶会が開催されます。11月2日に有馬大茶会の献茶式が行われます。

集合場所に向かい太閤橋袂の建つ「増冨稲荷大明神」

看板には 「御祭神 増冨稲荷大明神  明治四十年十一月三日鎮座」とありました

  

橋の北西側に1本のしだれ桜が満開を迎え咲き誇っておりました 

  

 今年は開花が早くもう関西地方では満開の時期を迎えておりツアータイトルとおり《桜咲く有馬温泉》でした

桜に見送られて観楼の名所《大坂城》に向かいました

 着くなりワアーもう満開ではありませんか!! 

 丁度お城の真南でバスを降り、西側の玉造口より城内に入ります

外堀に映える桜です。もう花びらが水面に浮かんでいます 

 南外堀から桜越しに石垣と「一番櫓」を眺めています

 南外堀から西側に堀が巡っています

 外堀に映った一番櫓

南側の外堀沿いに満開になった桜並木 

 「玉造口」近くの「一番櫓」と南外堀と石垣

「玉造口」を入った所の鉄砲狭間の石垣

 近くで見ると石垣は意外に思えるくらい大きく感じました。また美しい直線で切られていました

おや!? この四角い穴は何でしょうね 

 振り返って見ればここに「多門櫓」があったようです

玉造門の左右に鉄砲狭間があったようです 

その西に「玉造口大坂定番屋敷跡」と「蓮如上人袈裟掛けの松」

大坂定番は玉造口守衛のほか京橋口定番と共に下級役人を統率し、大坂城代を補佐し西日本の支配にもたずさわりました

秀吉の築城以前の戦国時代、浄土真宗本願寺第八世蓮如上人は大坂城地に大坂御坊を作り、松の枝に袈裟を掛け宗門の繁栄を願いました。西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が立てられるなど大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されています

 こちらは内堀ですが東側は水をたたえていますが、南側は空堀となっております。その理由は不明とのことです

内堀の空堀はこの辺り相当水面より高くなっています。この辺りは上町台地と呼ばれる所に辺り、北側の水面より相当高くなっているのが分かります

そこに天守へ続く「桜門」が設けられています。その南側には「豊国神社」と「修道館が」建てられています

今回は天守へは行かず「西の丸広場」へ行きましょう 

西の端に突き当たりました。突当りの北に「六番櫓」が見えます。その前に案内板が見えます 

 この辺りに、先ほど玉造口を入った所に案内板にあった「西本願寺推定地」があったようです

山科本願寺が焼き討ちされ、西山(大坂)本願寺が重要となり、寺内町に発展し大坂の町並みの原型となったようです

 その後、信長によりここを撤退し、跡地は秀吉により、大坂城が建設され大きく地形は変わり、さらに家康による大坂城大規模土木工事により正確な位置は確認されませんが、ここが推定地とされています

 内堀の空堀はこの当たり南から南西側までとなっています 

 この辺りは南西隅となります。堀を掘り下げるとしたら相当深く、また石垣もかなり高く費用がかさむことでしょう、だから空堀だったのでしょうか

それはともかく今回は桜を楽しみましょう 

突き当りを右(北)に「太鼓櫓跡」があった石垣です 

「大手門」近くだということがあるのでしょうか、石が大きく感じられます

振り返ると「南仕切り門跡」で、上の石垣の裏側、北面になります

門も櫓も徳川幕府の大坂城再築工事最終頃の寛永五年に建てられましたが、明治維新の大火により焼失しました

ここが「多門櫓」、「大手門」になります。桜が満開です

その北側に西の丸庭園は広がります

豊臣時代には多くの御殿が建ち並び、秀吉没後は北の政所が住み、慶長五年・関が原の合戦までは家康が住み 

 桜は内堀側に北へと並木となっています

徳川時代となり大坂城代が管理に当り、明治になり西の丸跡地、上代屋敷跡地を合わせ西の丸庭園となりました

 我々が行ったのはもう3時半を過ぎており花見客はほとんどおられませんでした。ただこの日は午前中小雨が降っており花見の宴会をされていた人達も少なかったようです

暫らくは桜の花を暫らく観賞下さい 

 

「京橋口」 

「焔硝蔵」

徳川時代城内に数ヶ所あった焔硝蔵ですが、たびたび建て直しなどありましたが、石造りで、屋根の下が土で塗り固められた蔵は例がなく、焔硝のほかにも武器弾薬が貯蔵されていたと云います

「大坂迎賓館」

太閤秀吉さんは有馬へ花見にも出かけ、京都の醍醐寺煮も花見行列などされ、たいそう花見など煌びやかな派手なお方のようですね。

今日のキーワードは「太閤秀吉」と「桜の花見」でした