夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒・・

観念らの規定性らによる、事象らの成り立ちようらへの解枠にも絡めて、 天下経済系の可能的な成長の度合を増すべき事らを述べる

拡散すべき、地下避難施設らの必要性

2016-11-05 20:31:09 | 日記
【 NHK などの、 津波らに対する、
避難に関する番組らにおいても、
車でしか、 避難をできない、 塩釜地区では、
車で、 どう避難しおおせるかに取り組んでいる、
等とは、 報道しているが、
避難路を確保する為にも、 地下を開き、
地下の避難施設らと、地下の道らを成して、
避難施設らも、避難経路らも、 人々が得られる様にすべき事だけは、 伝えないで来ている。

これは、 公共事業らを追加する事に通じ、
デフレ不況性を、 無理に、 日本国民らへ、
押し付けて来ている、 英米の富裕権力層の者らを、最大の大旦那としている、
英米の金融派の者らと、
それに同調して来ている、 日本の、
財務省の役人らや、与野党の政治家らが、
日本国民らへ拡散される事を不都合とする、
情報らに対して、 煙幕を成している、
行為でもある。


避難し得る一帯らが、
地上を移動し得る範囲内に無くなり、
水の中や、 放射性物質らの中にある状況に成った場合には、
空中に留まり続けて、 生活をし続け得る
のでなければ、 地下に、 避難経路らや、
避難施設らを作り広げていって、
そこで、 避難生活を送り得る様にする他にない。


あなたが、 この、地下施設らを、
日本国民らが成すべき必要性がある事を、
拡散すべき側の人である場合に、
拡散するに当たっては、 話題に合うか、
合わないかに寄らず、 発表すべきであり、
唐突な印象を与えた方が、 より、
望ましい。 そうした拡散行為らが、
一定数を超えないと、
日本の報道機関員らによる、
知らない振りを成しての、 煙幕を張り、
地下に、 避難施設らを成してゆく程の、
効果らを成し得ない、 余計な情報らだけを
発信する行為らを、 真に足しになる、
情報らの発信へ切り替えさせる事も、
できないままに、 次々に、 災害らによる、
被害らを、日本国民らは、 余計に押し付けられ、
自らの家族員らの一定数も、 いずれ、
地下施設らを成して置けば、
失わなくてもいい状況で、 呆気なく、
失う事になる。 それに手を貸すのが、
拡散をしない場合の、あなた、だ 。

あらゆる、 blog の発信者らなども、
その日頃の取り扱い分野が、 何であれ、
人間であれば、 この情報らを拡散するべく、
その記事らへ、この情報らを付け加える事を、
度々にし、 習慣付けるべきだ 】 。


【 大船渡市役所の土木課に当たる部所の者らは、 千葉車体の脇の、 広く、 深い溝へ、
覆いもせずに、 放置し、
指摘をしても、 覆いをしていないままだが、
何をやっているのだ 】
大船渡市役所 0192273111 。


【 FM ネマライン 、の、者らも、
毎日、 地下施設らの必要性を訴える位以上の事は、 成すべきだ 】 。
東海新報社 、が、 宛先 。


ネット記事+論弁群+;

匈奴 ( きょうど ) は、
紀元前の、 4世紀頃から、 5世紀にかけて、
ユーラシア
≒ 欧州・ユーロ、と、 アシア・アジア、とを、 繋げた、 地域名 、に存在した、
遊牧民族 、 および、
それが、 中核になって、 興した、
遊牧国家
( 紀元前 209年 - 93年 )。


モンゴル高原を中心とした、
中央ユーラシアの東部に、 一大勢力を築いた。


史書における記述としては、
『 戦国策 』、 『 山海経 』、
周朝の詔勅文書らを集めた、 『 逸周書 』
( いずれも、 戦国時代の末期~
前漢の初期に成立 ) に、

匈奴の名が登場する。


直接的な言及は、 『 戦国策 』 の、
・燕策・燕太子の丹、 質于秦に登場するのが、
最も早期のもので、
仮託した記述としては、
『 逸周書 』 の、
・王会篇・湯四方献令に、
殷や周の時代の初めに、 犬やラクダ、に、
馬、と、 白玉、に、 良弓を貢献する、 民族 、
という記述がある。


@ 実は、 帝国ではなくて、
連合国家だという説があるが、 いかに 。


@ 騎馬民族は、 豪族同士の連合が、
殆どだし、 寧ろ、 成り上がりで、
国を率いるほうが、 少ない、 と思う。


@ アダム・スミス氏の、 国富論、 こと、
『 諸国民の富 』 にある指摘としても、
商業で、興った名門らよりも、
遊牧社会らの名門らの方が、 甚だしく、
永らく、 名門で在り続けられる理由事らが、
述べられてある 。
イソップ物語の様な記述らが、 所々にあるから、
飛ばし読みでいいので、
読んでみたら、善い 。

2015/10/12(月) 00:15:07.77 0
超大国「匈奴帝国」
http://futalog.com/s/340782741.htm

1435506328850


@ 漢も、 出来て、
すぐ、 属国になってたよねw

@ wiki の版図は、
小さすぎなんじゃないか?

@ >>6の図を見れば、
匈奴が、 トルコ系なんじゃなくて、
もともと、 トルコ ( 丁霊 ) が、
匈奴系だったって、
換言したほうが、いい、 気もするw


@ >>9 ・・突厥は、
匈奴の別種で、
姓を、 阿史那氏 、 ・・という記述は、 有名。

支那人も、 最初は、 そんな認識であった。


@ 漢が、 匈奴の属国だったとは、
認められなくとも 、
匈奴に貢ぎ物を出してたのは、
事実らしいな 。

鮮卑 ( 南ツングース ) が、
弱体化していた曹操の時代が良かっただけか


@ 異民族から、 自国への贈り物は、
「 朝 貢 」 、 とし、
自国から異民族への贈り物は、
「 賄 賂 」 、 とする。

この書き分けは、 中国の歴史書の、
業界内部用語みたいなもので 、
歴史事実をぜんぜん反映してなどいない 。


@ 匈 、が、 「 フン 」 の音訳で、
奴が、 卑しみを込めた字という説は、 どうなの?


@ 匈奴の前身とされているのが、
周代の前の記録に出てくる、 異民族の 、

淳維、 ケンイン ( 獣扁に、 厳、
あるいは、 厳、と、 獣扁に、允 )、
薫育 ( 葷粥 ) 、 etc だけど、

それぞれ、 淳、 厳、 薫、 葷の字が、
「 フン 」 の音訳、 ということになる


@ フンに、 ヒャッハーされて困った、
東ローマが、 フンに貢物をだしていた、
のと同様に、
匈奴に、 ヒャッハーされて困った漢も、
匈奴に貢物をだしたのさ 。


@ ほんとに、 頭曼が、
初代の単于だったのけ?

頭曼 単于 ( とうまん ぜんう 
? - 紀元前 209年 ) は、

中国の秦代の匈奴の単于。
史書に初めて、名が出た単于。 冒頓単于の父。

北方では、 東胡,と、 月氏が、 強力であった
時代に、
単于の、 頭曼氏は、
秦に勝てずに、 北方に移動した。

十年余りが過ぎ、 秦の将軍の、 蒙恬氏が死に、 諸侯は、 秦朝に叛 ソム き、
中国は、 動乱の巷 チマタ と化し、
秦が、 遠方の地に出した流刑兵らは、
みなが、 還り去った。

圧迫が取り除かれた匈奴は、
ふたたび、 黄河を渡って、
その南の地域に入りこみ、
古い長城で、 中国と国境を接した。

頭曼氏の太子は、 名を、 冒頓といったが、
のちに、 頭曼の寵愛する閼氏
( えんし: 単于の妻 ) が、
末子を生んだので、
頭曼氏は、
冒頓を廃して、
その末子を、 太子に立てたい、 と考え、

≒ 遊牧員らの一定数は、
末子を、 族長にする、 習慣を成していた様だが、
それは、 先に生まれた子らが、
馬や羊らに、 働く人ら等の財産らを得て、
独立した生活を送る様になる事の、
自然な結果なのかも知れない 。

冒頓を、 月氏へ、 人質として送った。

冒頓が、 人質となった後に、
頭曼氏は、 突然、 月氏を攻撃した。

月氏は、 激怒し、 冒頓を殺そうとしたが、
冒頓は、 馬を盗んで、 なんとか逃げかえった。

頭曼氏は、 彼の勇気に感心し、
一万の騎兵を統率させた。

冒頓は、 その一万の騎兵から、 さらに、
自分の命令に忠実な者らだけを選出し、
頭曼氏と狩猟に出かけた際に、
冒頓の指示で、 一斉に、 頭曼氏を射殺させた。

これにより、 冒頓が、 単于となり、
近隣諸国を併合し、
匈奴の大帝国を築くこととなる。


@ 頭曼氏ノ実績も、 馬鹿に出来ないよな 。

@ 息子の冒頓に惨殺されちゃったけどね 。


@ 頭曼どんは、 蒙恬どんに勝てずに、
漠北へ逃げた 。
李牧氏と戦ったのは、 年代的に、
頭曼どんの祖父か、 父ぐらいだろうか 。


@ 遊牧民らは、 血統を重んじるから、
そのころの匈奴の指導者も、
レンテイ一族だった可能性が 、高い
んじゃないかな。
単于 ( チェングリグトシャンユ ) の
称号だって、 使われていた可能性も高いとみる。


@ 分裂や内紛もあったけど、
匈奴って、 6-700年以上も継続したんだよね 。
頭漫単于の前にだって、
中国に、 名が記録に残ってないだけで、
名称は、 アンノウン だが、
単于 、 という王位は、 存在していた可能性も、
高い 。

前318年、に、 匈奴は、 他の5国とともに、
秦を攻撃したが・・破れ、
単于の軍は、 撃破された  という、
記録もあるようだ 。
この時の単于は、 攣堤家だったかどうかは、
わからないが、
可能性は、 かなり高いんじゃないかな 。


@ ヒャッハーといえば、 wiki によれば、
194年から、 214年の間に、
中央アジアの、 バルフが、
ヒャッハーされたようだ 。
匈奴から、 フン族への過渡期にあたるな 。


@ 烏孫最強 。
450px-Western_Regions_in_The_1st_century_BC_(ja)
紀元前1世紀の西域諸国。


烏孫 ( うそん ) は、
紀元前の、 161年から、 5世紀にかけて、
イシク湖の周辺
( 現在の、 キルギス ) に存在した、
遊牧国家。

国を治める君主は、 昆弥 ( こんび ) 、
といい、
赤谷城 、 を本拠地とした。

官職は、 相 ( 宰相 ),
大禄, 左右大将が、 2人、
侯が、 3人、
大将,都尉が、 各1人、
大監が、 2人、 大吏が、 1人、
舍中大吏が、 2人、 騎君が、 1人いた。

支配民族員は、 烏孫族員らだが、
被支配民族には、 塞族や、 月氏族がいた。

これは、 烏孫族が、
イシク湖の周辺に移住して来る以前に、
匈奴から逃れてきた、 月氏族がおり、
それよりも前に、 塞族が住んでいたためだ。

もとは、 烏孫族は、 月氏族と同様に、
匈奴に攻められる前は、
敦煌・祁連の間に、 住んでいた。


@ 烏孫って、 原住地は、 どこだったんだ?
冒頓単于の即位の時に、 漠南
≒ 砂漠の南の地域らや方面 、 には、
東から、 東胡と匈奴に、 月氏の三国が、
並んでいた 。
漠北には、 丁零がいた 。


@ 烏桓と混同しがちでもある・・
あれは、 冒頓に蹴散らされた東胡の残党か 。


@ 冒頓の即位した時の、 匈奴は、まだ、
漠北におり、 漠南には、 楼煩・白羊、
バイカル湖の南には、 丁零がいた 。

また、 漢書の、 張騫伝によれば、
烏孫は、 もとは、 月氏と共に、
祁連山と敦煌の間に、 住んでいた 。


@ 月氏族員らが、 東胡と同盟して、
匈奴を挟み撃ちにしようとしたり、
漢の劉邦氏と同盟したり、
逆に、 劉邦氏が、 匈奴と戦う隙に、
西から 、 漢に攻め込んだりしなかったのは、
月氏と烏孫が、 抗争に あけくれていたから
なのだろうか?
烏孫は、 後に、 西方で、 月氏を、
南へ追い払ったから、
烏孫と月氏は、 宿敵どうしだったようだ。


@ 遊牧騎馬民同士でも、 隣は、敵、で、
隣の隣は、 味方みたいな感じだったのだろう。
挟撃できるしね。


@ 東胡は、 白登山の前に、 倒されてて、
同盟しようがないし、
匈奴の真ん中を、 月氏の使者が、
通るわけにもいかん 。

月氏も、 白登山の前に、匈奴に敗れたが、
しばらくは、 河西にとどまっていた 。

匈奴も漢も、 強敵だと思って、
おとなしくしていたのだろう 。

前176年頃に、 匈奴が攻めてきて、
月氏と烏孫は、 滅亡し、王は殺された 。

共に滅亡したからには、
烏孫が、 匈奴と結んで、
月氏を倒したわけではない 。

月氏の残党らは、 西方へ逃れて、
大月氏と、小月氏となる 。

匈奴に育てられた、 烏孫の昆莫氏が、
老上単于の死後に、 西方へ遷り、
大月氏を駆逐した 。


@ 冒頓が、人質になっていたのに、
頭曼氏は、 月氏を攻めたりした事から観て、

東胡よりも先に、 月氏と匈奴は、
敵対していたようだ。

漢は、 武帝が、 月氏と同盟しようとしたけど、
遅過ぎだよね。
劉邦どんならば、 月氏と同盟する事が、
可能だったはずだけど、
それが出来なかったのは、おそらく、
月氏は、 烏孫と戦争中で 、
それどころではなかった、
という事だったのかもしれない。

月氏は、 サカを追い出し、
烏孫は、 月氏を追い出したけど、
追い出さずに、 匈奴が、
東胡を征服したように、 戦力化すれば
匈奴に対抗出来ただろうね。


@ 昆莫 コンバク とか、 昆弥 コンヤ ってのは、 烏孫の君主号だったのかな?


@ 昆莫の伝説も面白い 。
砂漠に捨てられちゃったのに、
鷹が、 頭上を回ったので 、
これは、 神の子かも? 、 と思った単于が、
拾って育てたとかw
鷹は、 単に、 赤子の昆莫を獲物だと思って、
死ぬのを待って、 食ってしまおうと 、
頭上を巡回してただけなんじゃないのかな?w


@ 謎の民族、烏孫 。
月氏が、 イラン系なら、
これも、 同様なんじゃないのかなぁ 。


@ 月氏は、 イラン系よりも、
トハラ系の可能性大 。
月氏が、 イラン系ならば、 サカと同盟して 、
匈奴に対抗したと思われる 。


@ 欧洲史にとって、 フンも重要。
WW2時には、ドイツ兵のことを、
「この糞フン野郎」って、 ののしってた 。


@ ロシア人なんて、 遺伝子的には、
モンゴル人の末裔みたいなもんだし 。
そもそもが、 白いモンゴル人だから、
混血に抵抗がないし、 混血をしまくりだ 。
ロシアの純血のツングース民族でも、
混血が進んでるんだよな 。


@ 字面を見て、 わかる通り、
定住していない勢力に、 「 国 」 、
という概念が、 馴染まないんだよな。

歴代の遊牧民による征服王朝が、
「 国 」 たり得たのは、
中原 ( 農耕地帯 ) にあった、
既存の国家の外形を、 そのままに、
中身の支配民族が置換 オッケー された
結果においてであって、
国が、 動いてきたわけではない。

元朝のウルスも然り。
農耕地域を征服支配することで、
「 国家 」 へと変質していった。


@ 遊牧員らの生活仕様らと、
農耕員らの生活仕様らとの違いはあれど、
遊牧員らの生活圏らを、 国、と観ても、
良い訳で、 どちらかの生活圏らだけを、
国の概念の対象から外すべき、
特別な理由事も、 無い 。


@ 契丹だって、 イランまで移動しただろ 。
極寒の満洲から、
灼熱のイランまで、 よく移動したわ 。


@ カラ・ヒタイ朝 ( 後西遼 ) 。
君主名は、 もはや、 耶律阿保機どんとは、
似ても似つかぬ名になってるw

後西遼 ( 克爾曼王朝 )、 または、
カラヒタイ朝 は、
西遼の残党が、 イランに建国した契丹人王朝
1224-1306


カラヒタイ朝の歴代君主 ;

1.バラク・ハージブ氏
( 在位:1223年 - 1234年 、
もしくは、 1235年 ) 。

2.ルクヌッディーン・ホージャ・ムハンマド -
バラク・ハージブ氏の子 。

3.クトブッディーン - ターヤンクー氏の子 。

4.スルターン・ハッジャージュ氏
( 在位:1257年、
もしくは、 1258年 - 1271年 ) -
クトブッディーン氏の子 。

5.クトルグ・テルケン
( 在位:1271年 - 1282年 ) -
クトブッディーン氏の妻 。

6.ジャラールッディーン・ソユルガトミシュ氏
( 在位:1282年 - 1292年 ) -
クトブッディーン氏の次子 。

7.パードシャー・ハトゥン - クトブッディーン氏の子。
ソユルガトミシュ氏の姉。
イルハン朝の、 アバカ氏の元に嫁ぎ、
アバカ氏の死後に、
ゲイハトゥ氏の后とされた 。

8.ムハンマド・シャー - ハッジャージュ氏の子 。

9.シャー・ジハーン氏
( 在位:1303年 - 1306年 ) -
ソユルガトミシュ氏の子 。


契丹のくせに、 完全に、
ムスリム名になってるww


@ 柔然が移動して、 アヴァール、
も、 忘れちゃいかん 。

@ 柔然は、 英語では、
ローラン 、 だけど、
ビザンツ ≒ 東ローマ 、 の資料では、
アヴァールが、 geougen 、 とか、
かれていて 、
こっちのほうが、 柔然に、 何気に近いね 。


@ 凶奴や兇奴って当て字もあるのが、凄い 。


@ 匈奴で初めて、 漢土で王朝を立てた、
劉淵ファミリーの事も、 たまには、
思い出してやって下さい。


@ 真の南単于マニアなら、
劉淵どんより、 おふら氏だぜw

@ 劉豹どん ; 「 オフラの甥っ子です。
妻は、 インテリ漢族の蔡文姫です 」 。


@ 石勒どん、に、 石虎、と、
赫連勃勃どんのことも忘れんよう


@ 劉聡 ; 「 西晋の皇帝を、 二人も、
イビリ殺した俺様の名前が出ていないな 」 。


@ 野蛮だった匈奴も、 西遷して、
悦般になったころは、
キレイな蛮族になってたらしい 。
当時は、 新しく、 モンゴル高原に興った、
柔然のことを、 汚らしい野蛮人などと罵っているw


@ 苻堅氏 ;
「 差別は、 イクナイ! みんな、 仲良くしる! 」。


@ 懐帝@西晋 ;
「 匈奴って、 野蛮だよね。
僕は、 大人しくしてんのに、
傘持ちとか、 皿洗いとかやらせた後に、
毒殺しちゃうんだもん 」 。


@ 愍帝@西晋 ;
「 ホント、 野蛮だよね。
ボクも、 劉聡の奴に、イビリ殺されたし 」 。


@ 素で、 差別をし、 約束事を、
何度でも、 破り続ける、 シナ人らこそが、
真の、 蛮族員らだ 。
やられて、当然な事を、
自らの部族倫理的な義務事項として、も、
繰り返して来ている、 のが、 シナ蛮族員らだ 。


@ 耿夔 コウキ ;
「 お前らの単于は、 俺様が、 ちょっと、
つついたら、 アッサリと、 土下座したな。


@ 史記の、 「 匈奴列伝 」 で、
匈奴人に、 青い目の民もいるって、
くだりあったな 。


@ 匈奴騎馬隊に、
アーリア系の兵士がいたって、 おかしくはない。

@ 支那人から見れば 、
「 俺たちが、 とどめを刺した、 )
北匈奴が、 行方不明になったな・・
長い闘いだった。
残党どもは、 どこ行っちゃったんだろ? 」 、
などという認識だった はず。

近年になって、 欧州から、
「 3百年代の、 4世紀 ~ 5世紀ころに、
フン族なる、 東から来た、
正体不明の蛮族員らに、 荒らされまくった 」
って情報が入って、
「 アーッ 匈奴だわ、 まさにそれ! 」
って、 彼らは、 思ったのかね?


@ 匈奴とフンを繋ぐ、
手掛かりになりそうな民族が、
康居なんだろうが、 康居って 、
ほんとに、 カンクリ族なのか?

@ 康居は、 英語で、 カンジュ 。
 やはり、 カンクリ族と関係ありそうだ 。



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